メタSFとして展開し、家族小説としてまとめあげてみせ、サイエンス・フィクションでもあり、リチャード・パワーズを思い起こさせる要素もある、その異質な個性がデビュー作から発揮されているのがこの『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』だ。語りはクレバーかつナイーブで構成はシンプル。世界観の把握、構造の面白さと何度読んでも飽きないようなスルメ小説になってくれそうな味わい深さがある。でも最後まで読み終えるとその力強い言葉と、宣言にとてもすっきりとした、いい気持ちになる傑作だぞー。
お話は一言で表すならタイムマシン技術者であるチャールズ・ユウ(著者と同名)がタイムマシン研究者であった父を探すお話。だが自分で自分を撃ってしまって最悪のパラドックスに陥ってしまうわ(バカ)、撃ってしまった自分からは『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』という本を渡され、「全ては本の中にある、本が鍵だ」という思わせぶりなだけでわかりにくいダイイングメッセージを残すミステリの被害者ばりに意味深な言葉をつぶやかれてしまう。
その本は明らかに自分が書いたもので、かといって未来の自分はたった今撃って殺しちゃったし、現在にはこの本は書かれてないし、この本が存在するという事実に反しないためには自分自身とすらうまくコミュニケーションがとれない非コミュっぷりを発揮した自分にしたがって、ある意味では書き上がっている本を書き上げなければならない……といういきなり複雑な事態に巻き込まれることになる。
この本を僕は自分が書いているものとして編集し、読んでいるものとして書いており、自分がつくり出したものとして、自分自身を繰り返している。不完全でおそらくは一貫性さえ欠いているのはわかっているが、僕にできるのは、先へと進んでそこで何が待ち構えているかを知ることで、時間を戻って何が待ち構えているのか知ることで、父に何が起こるのか、彼と僕たちに何が起こったのかを知り、それが本当なのかを確かめ、僕が今こうして考えていることは何なのか、父の人生に何か意味を見出だせたとして、僕は何を思うのかを知ることくらいだ。それが時間旅行者の父に対して息子ができることだ。伝記作家として、SF的な伝記作家として、文学遂行者として、未整備で支離滅裂でナンセンスな彼の人生のあれこれを相続して管理することが。そんな父を持った息子ならだれでも、タイムマシンとその中に詰まった技術を駆使して、その混乱を小説や実人生や人生の物語に落とし込めやしないかと思うものだ。こんなことには意味がないという確信があるという感覚がある。僕はこのお話がどう続くのかわからない。この物語がどう終わるのかわからない。
本作は、タイムトラベル物に分類されるお話だ。ただしタイムトラベル物として往年の名作筆頭としてあげられるであろう『ターミネーター』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように、観ると楽しく、時間旅行は楽しげで、愉快で、ヒーローがいて、なんだかいろいろあったけれど、最後はすべては丸く収まる、といったお決まりのパターンとは随分と隔たった場所にいる作品であることは、引用部を読んだだけでも既に理解してもらっているに違いない。
自分で自分が撃ててしまうぐらいなのでこの「SF的な宇宙」では、パラドックスは充満しており、だいたい「SF的な宇宙」ってなんなんだよと思いながらもよくわからないままにこの世界を彷徨っていると、あれよあれよというまに事態は進行し、よくわからないままに最後まで到達してしまう。認識と困惑、その回転運動の中で翻弄され続けるような一冊で、一読しただけじゃあいったいなんのお話なのかと頭を抱えることになるかもしれない。
僕も読み終えてすぐに二周目にとりかかってしまったが、ひどく難解で、読みこなすのが大変な小説かというと、実はそうでもない。取り巻く状況としてメタフィクショナルな構造と、SF的な宇宙ってそもそも何なのかを理解するところと、あとは細かい説明をかっ飛ばして状況が提示される唐突さが、最初は異質で把握するのが難しいぐらいだ(結構あるな……)。
ただそうした装飾の突飛さに慣れてしまえば、その核にあるのは失踪した父を巡るウェットな感情であり、一人のしょうもない男の人生をめぐっていく語りであり、そもそもSF的な宇宙、タイムトラベルが可能になった世界ってどんなんだ、という世界観をだんだんと学んでいく物語だ。自分の人生を振り返りながら家族のことを思い、父のことを想起すると同時にタイムトラベルへの理解が深まっていく構造になっている。
家族小説であること
最初に引用した部分を読んでもらうだけでも、円城塔作品を読んだことがある人にはすぐピンと来ただろうが、文体というか、循環的な話の構造自体がよく似ている。なので円城塔作品が好きな人は、この作品も楽しめる可能性が高いだろう。もっともその文章であったり、構造への装飾のつけ方はかなり異なっている。
特に強調しておくべきなのはこれが「家族小説」であるということだろう。一人称の語り手である僕は、行方不明になったタイムマシンを開発していた父を探している。母親は60分のタイム・ループを繰り返し、彼自身はタイムマシンの修理とサポートを担当する技術屋だ。
父や母が子を思う何気ない愛情、苦闘、それをタイムトラベルという形で、おとなになってから回想的に見ていくことで、変えることのできない後悔を蓄えていく、そういったウェットな描写が回想や現実の中にはさまってきて、それがまたシンプルで泣けるんだな。タイムトラベルというツールは、かつて過ごした時間を想起し、自分が辿ってきた道、家族が辿ってきた道をあらゆる角度からみなおしていくことができる、家族物にとってはぴったりな形式だと思う。
「ほんとに、過去への移動は可能だって信じてるの?」
今度こそ父は怒る寸前だ。父が怒ることはあまりないが、これは怒る。よろしくない。僕は彼が怒っていると確信する。間違いない。僕は、ここで車のドアを開けて飛び降りたら、どのくらい痛いだろうかと考えている。でも彼は笑っただけで、アクセルから足を離し、一般車線に移った。「今こうしている間も時間移動をしているんだぞ」彼は言う。追い越していく車の警笛にドップラーシフトがかかる。
↑このへんの父と子のやりとりとか、たまらん。でもここ完全にパワーズ文体なんだよなあ。もうなんか、パワーズの『われらが歌う時』からパクってきたんじゃないの?? っていうぐらいパワーズ。
時間が経って見えていることというものは多い。特に子供であったころは、自分が将来父親の立場になるなどとなかなか思いも至らないものだ。同じような年齢、同じような立場になってはじめて、苦悩や不安が見えてくるようになるものだ。過去を想起しあーこんなこともあったな、きっとこの時はこんなことを考えていたんだろうなと家族に対して思いを馳せるのは読んでいてとてもナイーブな感情を起こす。
しかしまあ、主人公のチャールズ・ユウ(NOT著者)自身がもともとナイーブな、言い訳くさいヤツなのでキャラクタ的に納得させられてしまう。なにしろ最初にタイムマシンのOSを男か女かを選ぶところでぐだぐだと言い訳を重ねながら女の子の方を選んだ、とわざわざいってのけて説明をするところなど、「どうでもいいわ、勝手に選べや!!」と思いながら笑ってしまう。
まとめ
チャールズ・ユウはとてもヒーローという柄ではない。世界を救いはしないし、何らかの意味で人を助けたりもしない。けっきょく、自分の落ち度でループに陥って、自分で自分を窮地に追い込んで、なんとかしようともがいているだけだ。でもループに陥り、過去に戻り、ナイーブに父や母との思い出を通過しながらも、タイムパラドックスへの自分なりの回答を提示し、その後に歩んでいく力強い意志をみせてい転換は、構造的、構成的なうまさもあれどとてもクールでカッコ良かった。
最後にネタバレ
ラストの何行かは力強くその後の人生を肯定する文章で、これがあるおかげてぐっと本編が締まっている。実は原書で一度読んでいるから英語版がKindleに入っているのだけど、最後の「この頁は白紙です」っていうのは日本語版オリジナルなのかな、英語Kindle版には入ってないんだよね。解釈は別れるだろうが、結局これは時間についての物語でもあって、時間は個人の主観によって伸び縮みするもので、このいってみれば彼の人生の本は頁数の限界がある以上ここで終わるけれども、最後の頁を開くまでは物語は終わらないのだからそこにできる限りの人生を想像できるんだっていうすごく前向きな意味だと勝手に思っている。
SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
- 作者: チャールズ・ユウ,朝倉めぐみ,円城塔
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2014/06/06
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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