基本読書

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ささやかな英雄の物語──『ストーナー』 by ジョン・ウィリアムズ

生きるとはいろいろな側面を持つもので「最高に幸せな人生だ!」とか「不幸せなクソみたいな人生だ!」とか簡単には総括できるものではないんじゃないかとよく思う。もちろん、そう言えるにも様々な幸運にみまわれなければいけないことはさておいて……。自分がどういう人間であるかとは全く別の話として、現実は現実としてそこにある。誰に観測されることのない川底に潜んでいる石も長い間ころころと転がされ削り取られその形を変えていて、それに対してどうこう言っても仕方がないように、現実はただ現実として存在している。

我々は何もかもが思い通りになるわけではない現実の中で生きている。そうである以上、多かれ少なかれその変えることの出来ない現実というものと、折り合いをつけていかなければならない。うまくいかなかったからといって嘆いてばかりいるわけにもいかないし、どう考えても失敗だったと思う出来事が起こったとしてちょっと巻き戻してやり直そうというわけにもいかない。現実と自分があって、その周囲に様々な要素があり、そこで摩擦が起こる。誰しも足のサイズが微妙に違って自分にとってピッタリな靴が違うように、みな現実に対して自分なりの向き合い方を見つけ、うまいこと付き合っていくしかない。それが僕にとっての漠然とした人生というものへの感想である。

本作『ストーナー』は、一八九一年に生まれ、農家の息子だったウィリアム・ストーナーが大学へ進み、文学に出会い、一生を終えるまでの物語だ。あらすじはすなわち彼の人生となるが、人生を追っても、別に何か大きな達成をする人物ではない。何しろ本書のはじまりからして、その凡庸さについての記述からはじまる。『ウィリアム・ストーナーは、一九一〇年、十九歳でミズーリ大学に入学した。その八年後、第一次世界大戦の末期に博士号を授かり、母校の専任講師の職に就いて、一九五六年に死ぬまで教壇に立ち続けた。終生、助教授より上の地位に昇ることはなく、授業を受けた学生たちの中にも、彼を鮮明に覚えている者はほとんどいなかった。』

第一次世界大戦が起こり、第二次世界大戦が起こったが彼は参加もしない。ただ大学に在籍し、文学に出会い、文学講座を受け持つようになり、結婚し、終身在職権を得て、そしてそこそこの成果を得て死んでいく。その人生の記録である本書は、まるで死ぬ間際に一生を振り返るかの如く、良いことも悪いこともあっという間に過ぎ去っていく。良いことは、彼が大学へ行けることになったこと。農作業しかしらない少年ストーナーは、大学へ行くことの意味など微塵も理解していなかった。しかし実直な彼の父と母は教養が、自分たちもその価値がわからないなりに息子の幸せの為には必要なのだと考え、苦しいながらも息子を大学に送り出した。

そこで農学を学び、家に帰るはずだったストーナーはしかし誤算としてシェイクスピアに出会ってしまう。一瞬でそのシェイクスピアの詩性に囚われ、文学の領域に没頭していく彼の集中力は恐らく人生を通しても最も光り輝いている期間であったことだろう。恋だよ、ストーナー君と彼の教官はいう。「きみは恋をしているのだよ。単純な話だ」、その一言で彼は農業以外の生きる道を悟り、自分自身の人生を歩み始める。「自分自身の生きる意味」を、確信を持って宣言できる人はあまり多くはない。殆どの人は迷いながら、自分の人生についての懐疑を抱えたまま生きていく。その後その確信が揺らぐことがあったとしても、自分の人生に確固たる方針と確信を持てたストーナーは、やはり幸せだったのだろう。

家には戻らず、大学で勉学を続けるという選択を、父と母はまた息子の選択ならと受け入れてみせる。その後彼は一目惚れした女性をなんとかして口説き落とし、大学に職を得ることもでき、表向き順風満帆な生活を始めることになる。望んだ職、望んだ妻、家族。まるで文学に対して圧倒的な才能のある男のサクセス・ストーリーのように思えるかもしれない。だが実際には──結婚生活はうまくいかない。ボタンを掛け違えたかのように一目惚れした妻は気むずかしく懐柔を一切受け付け内頑固さを発揮して敵対関係ともいえる家庭環境になってしまう。職は、概ねうまくいっていたものの、最初期の頃の情熱はどこか陰りをみせ学内の人間関係にもつまずき、攻撃を受け始める。愛くるしく利発な娘が生まれるが、妻との確執と諍いによって娘との交流はほぼ途絶されてしまう。

文字を追いながら彼の人生を追体験していくと、一言「不器用な男だな」という感想が浮かんでくる。『ストーナー』はわかりやすい、客観的に誰にも褒め称えられる英雄の話ではない。少なくともハリウッド映画的に、困難と問題があればそれと逐一大げさに相対し、適切な解決にしろ強引な解決にしろ──をはかって突破していくような人物とはかけ離れている。納得のいきかねることがあっても、彼は大げさに抵抗するのではなくぐっと震える手でこぶしを握り、力を入れて自分の中におさえて堪える。何事にも一生懸命で、粘り強いが決してすべての面に対しその能力が発揮されるわけではない。妻には頭が上がらずその為娘の人生が今まさに捻じ曲げられつつあるときでも娘を守ることもできない。意固地になっている時もあるし、身近な人間と気持ちを通じ合わせる対話も十分には足りていないように思える。

彼は摩擦の発生する現実世界において、彼なりの均衡をとろうとしてみせるバランサーだ。何を言っても反発を起こす妻とだって、家の中で距離をとってたまに会話を交わすぐらいであれば生活も、ささやかな幸せすらも成立する。多少大げさな解決や大げさな突破をはかるのは彼が極端に若い時だけで、歳を経るごとに彼はその保守性を露わにしていく。後々の結果から振り返ってみれば、彼の受動性は、数々の「失敗」を犯しているように見える。娘を健全に育て、職場の関係性の悪化を防ぎ、妻との関係性を変化させることさえ出来たであろういくつかの修正可能なキイポイントを、みすみす見過ごしてきた、失敗多き人間。

だが──ならばなぜ読んでいてこんなに涙が止まらないんだろう? 言葉にできる感情ではなく、奥深く流れる自分のどこかに触れてくるようなこの刺激はなんだ? 僕は、ストーナーが現実に屈し、改善をあきらめ、ただやり過ごしているように見える時、それは彼の敗北を意味しないのではないか? と思う。彼は懸命に戦っている。具体的な行動、それがただ「やりすごす」というだけのことであったとしても。そしてこの深い部分から沸き起こってくる感情は、ストーナーと同種の戦闘・それはやりすごすという形ではないかもしれないが──を我々(あえて我々と書くが)もまた日常的に行なっているからこそのものではないのか。

それは派手さのない静かな戦いで、ヒーローの派手な活躍のように褒められる類のものではない。妥協、雑事に振り回されどうでもいいことに時間を使う。大きな達成は何もない、ただ日常を必死に生きているのが精一杯。ただ「やりすごす」のも、後からみれば「失敗」でしかないことも、その時その時の自分からしてみれば精一杯の抵抗の形だ。それは「成功」ではないのかもしれないが、しかしだからといって戦っていないことにはならない。ストーナーはおそらくはその不器用さによって、さまざまな現実的な摩擦を経験していく。大それた夢を抱き時に現実に引きずり降ろされる。彼がその摩擦の中でバランスをとり、ささやかな幸せを成立させる「偉大な戦い」を行っている。その中に我々は自分自身の中に存在している誰に評価されることもない「偉大な戦い」を重ね合わせるのではないか。ここにも一人、我々と同じように孤独な戦いを続けている人間がいるのだと。

ストーナーは別に、「生きねば」というように我々に語りかけてくるわけではない。彼はただ一生懸命に、自分なりに、自分自身の生きづらさと向き合って、自分の生活を成立させようとしているだけだ。ストーナーが死んでもせいぜい周りの人間数人が深く悲しみ、少しばかりの苦さと共にその思い出を抱えて生きていくだけだろう。しかし──彼は彼の人生を生きて、ささやかながらも著作を一つ残しもした。娘は数々の不幸に見まわれながらも生きており、彼にも幾人かの親密な友人と、敵だったかもしれないがそれでも長い時間を共に過ごした同僚もいる。妻とは確執があったが、それでも本当に共に過ごしてきたうちに生まれてくるものもある。

彼の人生は総括して「幸福なものだった」とは言いづらいかもしれない。安楽な人生ではなかった。高潔でくもりのない純粋な人生を夢見ていたが、その人生のほとんどは妥協と雑多な些事に追われる日常だけだった。しかし彼はその人生を彼なりに歩み、幾ばくかの達成を得た。その達成に価値があるかどうか、広がるのか広がらないのかはこと最後に至っては大きな問題ではない。ただそこには確かに彼の一部が存在しているのであり、これからも存在し続けることを否定することはできない。

それでいい、ささやかだけれども、幸せな人生じゃないか──とまとめられればいいが、そうもいかない。これはストーナーの人生であって、僕の人生ではない。当然、悪いとも言えない。それは「ただそうであった人生」なのだろう。誰もが認めるような「ヒーロー」のような男では、ストーナーはない。だが彼は自分の死に望んで、自分がどのような人間であるかを確かに感じながら死んでいく。その毅然とした振る舞いに、ささやかながらも英雄の姿を見た。

ストーナー

ストーナー