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「衝動」に支配される世界---我慢しない消費者が社会を食いつくす by ポール・ロバーツ

「衝動」に支配される世界---我慢しない消費者が社会を食いつくす

「衝動」に支配される世界---我慢しない消費者が社会を食いつくす

TwitterやFacebookは常に何らかの更新が発生し続けている。その為ちょっとでも時間が空くと、ついつい「何か新しい更新はないか」と気になって必要以上に何度も確認を行い、そのままだらだらと時間を使ってしまう。そんな情報中毒ともいえる行動を日常的に経験している人も多いのではないだろうか。それはこらえ性がないから──などではなく、そもそも人間の脳は断続的な新しい情報に触れることで、ドーパミン系が活性化していく仕組みを持っている。

ついつい見てしまうのは我々が自堕落だからというよりも、ただ「そうなるようになっているから」である側面が強いのだ。最近だとソーシャルゲームのガチャだってそうだよね。「もっともっと」と金を使わせるギャンブル性が大きく問題になっている。もちろんある程度は規制によって対応されるべきだろうが、全てを規制できる・するべきでもなく、我々は自分の脳の仕組みとそこにハッキングをかけてくるやつらの手練手管を知らなければ対向することが出来ない。TwitterやFacebookにかぎらず、医療で、政治で、金融で資本主義の「衝動的な人々の欲望を満足させる社会」が生み出す歪みはずっと存在していた。本書はそんな衝動に支配される世界がどのように成立してきて、また現在いかにして社会システムを破綻させているのかを問う問題提起の一冊だ。

医療、政治分野での衝動に支配される世界

破綻しかけている分野の一つは最初に挙げたように、医療だ。陽子線治療のような高額な治療を、ただ「新しいから」「目立つから」という理由で本来必要とされているケース(正確な照射が必要とされる目や脊椎などの場合)以外でも必要としてしまう。何しろ代替のない命のことだから、少しでも改善された、新しいものをとすがってしまう気持ちは誰しも理解できることだろう。

実際、アメリカの医療制度は加速するインパルス・ソサエティの一例であると考えられる。つまり、医療制度は自己中心的な経済の縮図であり、足踏み水車によって動かされ、短期的な自己本位の行動を生み出す。これは結局のところ、五〇〇〇万人が基本的な医療保険にすら入っていないのに、不必要な治療に何億ドルをも無邪気に使う「医療文化」である。この文化は、いますぐの満足感をすぐに手に入れたがる。したがって、私たちの世代による積み重なった医療費の負債を払うため、孫の世代は三倍の税金を負担することになるかもしれない。

たとえば抗がん剤の新薬は日々新しいものが開発されているが、新薬の値段は上がり続けていく傾向にある。末期の結腸直腸癌の為の新薬であるザルトラップは最初一ヶ月当たりの費用が1万1000ドルもする高額の薬だった(その後がん治療専門の医療機関であるメモリアル・スローン・ケタリングがんセンターが、「 ザル トラップ」の投与を拒否したことを受けて、製薬会社が半額にする処置をとった。)。高額の理由として、もちろん開発費がかかっていることもあるが、延命を望む人間から「回収できるだろう」という見込みがあるからこそ成立している。

もちろん、一時にせよ寿命を延ばす選択肢があることは喜ばしいことだ。しかし払えるほどの余裕が無いにも関わらず、選択肢として存在してしまうことはジレンマにもなり得る。自宅を担保に入れ、出来る限りの借金をして、薬の為に破産してしまう──。問題は「長生きを否定すること」ではなく、かかる総合的なコストと現実を見据えて個人個人にとって正しい落とし所を見つけることだ。しかし目の前の衝動に抗うのはそう簡単ではない。

現代では技術もこうした傾向をサポートする。たとえばビッグデータの活用で、特にアメリカでの選挙運動は大きく変わりつつある。所有する車、購読雑誌、ニュースの入手先、飲酒頻度と様々な頻度から政治問題、投票行動についての市民の反応を予測する。その結果何が起こるのかといえば、政治家はまだ投票先を決めかねているその人の心を最も投票へ促すとデータで示されたことを言うようになる。政策の実質的な意味とは無関係にだ。

じゃあどうしたらいいのか

衝動を支配する仕組みによって社会の歪みは日に日に大きくなっている。もちろん、こうした事態に対してなんの対策も打たれてこなかったわけではない。効率だけでなく、社会的なコストまでを指標に取り組んで、総体的に持続可能な社会をつくるというコンセプトは何十年も前から繰り返し論じられてきた。二酸化炭素排出に税金を結びつける=二酸化炭素の排出をより高価なものにするなど、温暖化対策をはじめとする環境問題についてはそれが進んでいる分野の一つだろう。

制度的には一時的な効率から距離をとって、長期的な持続可能性と利益に目を向けさせることが重要だ。たとえばアメリカの組織レベルの話では、雇用コストの安い外国へ仕事を発注し、移民の受け入れを邁進する典型的な「短期的なコスト面での効率」を求めることが多い。一方インドなどの開発途上国では社内大学を設置してトレーニングされた人材を業界内で増やす社内大学方式が一般的になっているという。長期的には業界内で豊かなスキルを持った人材が増え、自社の利益になると企業が認識しているのだ。

一方、個人できることで最も簡単なのは単純に「距離を取る」ということだろう。TwitterやFacebookが断続的に情報を更新して集中力をそぐのであれば、スマートフォンの電源を切る、アプリを削除してしまえばいい。ただアルコール中毒の人間に「お酒から距離をとりましょう」と言っているようなもので、大して効果がないような気もする。 これについても新しい動きは、常にある。各種SNSのチェックはAppleWatchの登場などによって今度は集中力をあまり使わない形で確認が容易になっていくかもしれない。一時的な衝動に行動をコントロールされないような技術に対向する技術が今後は発展していく可能性は充分にある。

著者が「終焉」シリーズのようなものを連続して書いていることもあってか、本書は随分と悲観的な傾向が強い。というより「このままだと世界は終わりだぞー」的に社会システムの欠陥を指摘してみせるが、だからどうしようということは殆ど語られない。結論が投げっぱなしなのは解説でもフォローされているけれど、まあ言い訳以上のものではないかなと思った。僕個人の考えとしては、基本的には「行き過ぎた衝動へのハックは法律などで規制する」というよりかは、個人個人が別のテクノロジーを使って対抗する、別のシステムで対抗する、という形の方が現実的なんじゃないかとも思う。

たとえばオートメーションが蔓延することで人間側の技術が育たず、もしもの時に対処できないということが現実に起こっている。飛行機の操縦はもはやその域に達しているし、もし車の自動運転が当たり前になったら「もしもの時に人間が(技術的に足りなくて)運転できないのはどうなの?」という疑問もあるけど、これには「技術力を保てるぐらいの頻度で、人間に運転を戻す」とか、「人間の作業が忙しくなってきたらその部分をシステムが担当し、忙しくない時は人間が全部対処する」という技術力をつけさせるための分配システムが考案されていたりする。

原理的に人間がある程度のロジックに則って衝動を支配されてしまうのはどうしようもないが、同時にそれを常に別の形でコントロールするのもまた人間は可能にしている状況だと思う。個人的には、そんなに心配していない。