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人の意識を機械に移植できるのか──『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』

脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦 (中公新書)

脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦 (中公新書)

人の意識は機械に移植できるのだろうか。

SFなどではおなじみのテーマだけれども、現実的にはまだまだぜんぜん無理だ。でも、その可能性を検討することはできる。果たしてどうやって意識を移植するのか? そもそも移植すべき意識は脳のどこに、どんな過程で宿るものなのか? 仮に意識の領域、発生プロセスが確定したとして、それを移植したとして、どうやったら「機械への意識の移植が成功した」と確認をとることができるのだろうか?

本書『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』はそんな脳の意識をめぐる脳神経科学の歴史と成果、それとちょっとばかりの飛躍として、機械の意識について語られた一冊である。これがまあ、基礎的な脳神経科学の内容としても素晴らしく、最終章に至ってはありありと"人間の意識を機械に移植できる具体的な可能性、その手順"について実感させてくれる。今年読んだ脳科学本の中では間違いなくベストだ。

 もし、人間の意識を機械に移植できるとしたら、あなたはそれを選択するだろうか。死の淵に面していたとしたらどうだろう。たった一度の、儚く美しい命もわからなくはないが、私は期待と好奇心に抗えそうにない。機械に移植された私は、何を呼吸し、何を聴き、何を見るのだろう。肉体をもっていた頃の遠い記憶に思いを馳せることはあるのだろうか。
 未来のどこかの時点において、意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるのはほぼ間違いないと私は考えている。

そもそも意識とは何なのか

本書はまるっと一冊「機械への意識の移植」について語られているわけではない。

移植云々の前に何が意識で、どれがその意識プロセスに当たるのかがわからなければ何もはじまらない。本書の第一の意義は「意識とは何か」について基本的なところを抑えているところにある。たとえば、その「意識」について、何なのかとかどう研究するのかのわかりやすい例をあげると、ルビンの壺という、時間を置くことによって壺に見えたり人の顔に見えたりする視覚事象の体験がある(みたことあるだろう)。

つまるところこれが表していることは、我々は世界の見え方(ルビンの壺の場合は、その絵)をあるがままに受け取っているわけではなくて、その都度その都度目に見えるものを脳内で「解釈」することで個別の視覚体験を作り上げていることになる。であれば、そうした感覚意識体験の「切り替わり」を捉え、切り替わった瞬間と連動する脳活動が見つかれば、それは意識と関係している可能性が高いと考えられる。

そうした実験の数々によって、意識をめぐる脳神経科学の世界では、意識とニューロン発火の関係、イオンチャンネルや神経伝達物質などのナノレベルの生体機構、ニューロンの刺激応答性などの解明などが進んできた。本書の大半の記述はそうした脳神経科学の研究史に当てられている。一方、我々の「感覚意識体験」に応じて、完全な対応関係でニューロン活動が変化しているわけでもないこともわかってきた。つまり、意識にのぼる視覚世界がそのまま表現される脳の部位は存在せず、『脳のどこかに意識の中枢が存在し、それが意識を一手に担っているとの図式は当てはまらない』

 多くの実験結果が指し示すのは、意識と無意識が、脳の広範囲(第一次視覚野はのぞく)にわたって共存しているということだ。意識と無意識の境界は、脳の低次側と高次側を分割するような形で存在するのではなく、それぞれの部位の中に複雑なインターフェース(界面)を織り成しながら存在している可能性が高い。

人の意識を機械に移植する。

意識発生時の脳の電気活動については多くのことがわかってきた。それは観測すればわかることだからだ。しかしニューロンの発火が、どうやって視覚体験を生むのかについてはわかっていない。じゃあ何? 結局脳を完全再現しないと意識も再現しないってこと? じゃあ移植なんて無理じゃね? と思うかもしれないが本書ではここでいくつかの思考実験を導入することで話を進めていく。たとえば、あなたのニューロンを一つだけ人工のものに置き換えてしまった時、そこに意識は宿るだろうか。

人工ニューロンが生体ニューロンと同じ機能を持ち、元の神経配線を完全に再現できるならば以前と全く同じように意識が浮かぶはずだ。これを一歩一歩進めた時、どこかのタイミングで意識体験は消失するのだろうか。あるいは薄れていくのだろうか。チャーマーズの論考では、脳が完全に人工のものに置き換わった後にも、視覚体験は残る。それは脳の完全再現とまったく同じじゃんと思うかもしれないが、この場合は「他のニューロンにバレなければ」つまり最終的な出力さえ変わりのないものが出てくるのであれば別に間をいくら誤魔化し/簡略化してもよいということになる。

さて、この人工ニューロンをコンピュータシュミレーションによるニューロンに置き換える事で同様の状況が導き出せる。『たとえ、脳に残るニューロンが最後の一つになっても、その最後の一つは、生体脳の中の一員であったときとまったく同じように振る舞う。さらに、その最後の一個を含め、すべてのニューロンがコンピュータの中に取り込まれても、その動作は必要なレベルで元の脳を再現していることになる。』

現在の技術力ではヒトの脳の規模に匹敵するシュミレーションは不可能だが、仮にそうやってシミュレートした時に機械に意識が宿ったかどうかはどう確認したらいいのだろうか──というあたりから、本書のもっともおもしろい部分(個人的な感覚体験)に踏み込んでいくので、ここいらで紹介を切り上げておこう。

おわりに

特に、ニューロンの発火が意識体験に繋がるプロセスとして重要なのは、情報としてのニューロンの発火そのものではなく、その情報を処理・解釈する「神経アルゴリズム」なのではないか──というあたりの議論にはめちゃくちゃ燃えた。この説の方向性が正しければ、まず視覚から記号的な情報を受け取り、三次元的な仮想世界を脳内でシミュレートし、我々の視覚体験・三次元仮想視覚世界として収束していくことになる。この説ならば、実際に我々が行動を起こしてから僅かに遅れて意識がそれを知覚する時間遅れについても説明がつく(三次元仮想視覚世界の形成を待つからだ)。

著者らは現在、マウスの脳半球を分離し、左右の脳をマシンによって再配線する実験を進めているところだ。そうすることで脳を行き来する情報をすべて記録することができるし、情報の操作による検証も可能になる。その次には、片方を機械半球に置き換えて、多層型の生成モデルを介したやりとりを発生させることで、神経アルゴリズムの傍証となりえる実証実験を行おうとしている。本書で述べられていること(特に後半)は仮説の域を出ないものだし、意識をめぐる問題はわからないことだらけだ。

それでもここには説得力と、何よりもワンダーがある。新書でお求めやすいこともあるので、オススメの一冊だ。