近年、脳には驚異的に変化していく力があることがわかってきた。たとえば複雑な道を隅々まで覚える必要があるロンドンのタクシー運転手は空間認識に関係する脳の海馬の容量が大きくなることがMRIでわかったが、それと同じことが、脳のあらゆる領域と能力にまたがって起こっているのだ。本書が追求していくのは、そうした脳の可塑性の実態と、脳を超えて実社会に応用する可能性についてである。
デイヴィッド・イーグルマンの筆致はいつも生き生きとしてわかりやすいが、本書は特に魅力的な事例が豊富で、とにかく読んでいてひたすらに楽しいノンフィクションだ。脳の可塑性は脳科学系のノンフィクションでは必ずといっていいほど高頻度で取り上げられる重要トピックだが、それワンテーマで絞ったものは多くはないので、脳科学本を読み漁っている人であってもあらたな発見があるだろう。
脳が半分なくなった人間はどうなるのか?
たとえば本書で最初に語られていく事例は「脳が半分なくなった子供」の驚異の回復力の物語だ。男の子のマシューは3歳の時にてんかんの発作のような症状が起こってしまう。その後症状はどんどんひどくなり、頻繁かつ長期間の入院が余儀なくされる。
その後3年して(6歳)、マシューはラスムッセン脳炎と呼ばれる慢性的な炎症を引き起こす珍しい病気であることが判明する。この炎症では大脳半球の全体が影響を受けるので、治療法は「大脳半球切除」という大掛かりな手術しか知られていない。名前のとおり、右と左でわかれている人間の脳を半分切除する手術である。
二つの脳で我々は日々を必死に生きているわけであって、それが半分になったらとてもじゃないがやっていけないように思える。実際、片方の大脳半球切除後、マシューは排便や排尿を制御できず、歩くことも話すこともできなくなった。だが、その後理学療法と言語療法を続けた結果、少しずつ言葉を学び直し、三ヶ月後には年齢相応の発展段階に達した。それから何年も経ち、マシューは右手を使うのに苦労し、やや足を引きずるものの、それ以外は普通の生活を送り、大学にも通えるレベルである。
普通の人は、彼の脳が半分しかないことなど知りようがないだろう。なぜそんなことが可能なのか?
答えはこれだ──残された脳が自らの配置を変え、失われた機能を別の領域が肩代わりしたからである。マシューの神経系の青写真が本来より狭い土地を占めることに適応し、半分の位置で生活のすべてをまかなえるように変わった。これがスマートフォンなら、電子回路を半分切り取っても電話がかけられるなどとは期待できるはずがない。それはハードウェアが壊れやすいからだ。ライブウェアはもちこたえる。
脳は再配線される。
もちろん大脳半球を切除するなどという大掛かりなことをしなくても、脳の再配線は行われる。代表的なものは視覚や聴覚を失ったときだろう。脳内には視覚を使った時に活性化する場所や、音を聞く時に活性化する場所がある。では、視覚や聴覚が失われたらその領域は使われぬ地になって荒廃していくのかといえば、そうではない。
目の不自由な人が点字で書かれた文章を読む時は、もともとは視覚野だった場所(後頭葉)が活性化するだけでなく、嗅覚や味覚も視覚野を使うようになる。時々、目や耳などある能力を失ったがかわりに別の感覚が飛び抜けている人がいるが、それは脳の再編成によって使われる領域が増えたことに起因する。『このため、盲目の人のほうが絶対音感を持つ割合が大きく、音が微妙に上下にふらつくのを聞き分ける力も最大で10倍高い。聞くという課題に割り当てられた脳領域が単純に広いからである』
脳の領域争いは過酷で、数日目隠しをしただけでも能力の変化が起こる可能性が示唆されている。しかしそうであれば睡眠をしている間は最大で12時間ほど目は不使用の状態にあるわけで別の感覚に領域を奪われてしまうのではないかと疑問に思うが、著者はこれに関して、「夢は夜間も後頭葉を動かして、視覚野が乗っ取られるのを阻むために存在しているのではないか」と仮説を提示している。もしそうであるのなら、いかに脳の領域争いが過酷な状況下で行われているかがわかるだろう。
拡張できる脳。
脳にそこまでの可塑性があるのであれば、失われた領域をカバーするために使うだけなのはもったいないかもさいれない。たとえば、歴史をみれば視覚を別の表現に置き換えた代替装置がいくつも作られてきた。一つが「舌で感じ取る表示器具」である。
これは目の不自由な人の額にカメラを取り付け、小さな器具を舌に乗せる。カメラが画像をとらえると、その画素に対応する位置で電極がわずかな電気ショックを与える。明るい画素は強い刺激、グレーは中くらいの刺激と色合いもなんとなくわかるようになっている。これを用いると、最初は舌の刺激が輪郭線としてのみ知覚される。
だが、慣れてくれば距離、形状、動きの方向、サイズといった多くの性質を判断できるようになる。その能力は視力の0.025相当になるのだという。刺激は額でも、腹でもよい。結局視覚も目から入ってきた情報を脳の中で処理していることにすぎないのだから、その情報がべつの形にかわったとしても、ある程度うまく適応できるのだ。
我々はこれを新たな能力を付け足すために利用することもできる。たとえば周波数を検知して音に変換し、シンプルな色だけでなく可視光ではない赤外線や紫外線までを認知できるようにすることもできる(アイボーグと呼ばれる装置がすでにある)。眼の前だけでなく後ろにカメラをつけて触覚や音で伝えるようにすれば、360度の擬似的な視覚を手に入れることもできる。嗅覚も聴覚も、我々が普段持っている感覚以外の情報も(たとえば北を常に指し示すモーターなど)なんでも拡張できるはずだ。
今度は振動パターンを利用して、インターネットからの情報の流れをじかに脳に供給するところを思い浮かべてほしい。たとえばネオセンサリー・ベストを着て歩き回っているときに、半径三〇〇キロあまりの範囲の気象データが流れ込んでくるとしたら? しばらくすれば、いつのまにか地球の気象パターンをじかに知覚できるようになる。
こうした装置の応用範囲は驚くほど広いはずだ。著者は実際に、非侵襲的なブレイン・マシン・インターフェースを開発するネオセンソリー社のCEOでもある。
おわりに
本書は最終的に、我々の体以外にもこの脳の再配線の力をもたせたらどうなるだろう、と想像してみせる。たとえば建物は一度できたらがんばってリフォームしない限りその形を変えない。しかし、トイレへの人流を感知して手洗い場所などの場所が増えたら便利だろう。それ以外のときは別の用途のためのスペースになっているのだ。
家が自らの構造を把握していて、新たな部屋を増築したらエアダクトや電気配線が自動的に伸びて部屋に入り込んできてくれたらありがたい。そんなこと不可能だ、と言いそうになるが、まさにそれを脳はやっているわけであって、できないと考える道理はない。本書はただ可塑性についての話に終始せず、そうした未来を変えうる可能性についても広く言及してくれている。きっと、誰が読んでも楽しめるだろう。