- 作者:ピーター・ポメランツェフ
- 発売日: 2020/03/24
- メディア: 単行本
それは、何も望んでそうしているというわけではなくて、あらゆることに対して大量の情報と偽の情報があるので、もはや何が真実なのかわからない、判断するのが難しくなってしまっている状況がある。本書『嘘と拡散の世紀:「われわれ」と「彼ら」の情報戦争』は、ジャーナリスト兼テレビプロデューサー、プロパガンダとメディアの発展が専門で、アメリカ、イギリス、ロシアと世界を股にかけて活躍する著者による、そうしたソーシャルメディアを中心とした現代の情報戦についての一冊である。
情報戦に使われるソーシャルメディア
フェイスブックやツイッター、ユーチューブのようなソーシャルメディアの仕組みが、現代の嘘の拡散をその仕組からしてサポートしている。たとえば、ユーチューブはひたすら同じコンテンツを配信し続け、次の動画に関連したものを自動で差し込んでくるが、これはひとつの見方を作り出す、強化するように設計されている。当然、その内容が事実に基づいているかなどユーチューブのアルゴリズムは判断しない。
グーグルのエンジニアで人工知能の博士号を持つシャスローはこの問題を解決する方法を提案した(もっと多様なコンテンツを提供するようにすればいい)が、上司からかえってきたのは「それはこちらの狙いではない」という答えだった。画面を見つめている時間が長くなることがサービス提供事業者の目的であって、物事の多様な見方を提供することではないといえばそうなのだろう。だが、事実に基づかないアルゴリズムは、独自のテーマに関する膨大なコンテンツを制作する資金があれば、特定の動画を上位にあげることができる。ロシア連邦政府が大量のユーチューブチャンネルを保有しているのは、わけがあるとシャスローは主張している。
実際に選挙などの情報操作にSNSが用いられているケースも多く出てくる。たとえばフィリピンのマニラのドゥテルテの選挙戦ではフェイスブックのグループを用いたSNS作戦が実行されていたことが明らかになっているし(町ごとのフェイスブックグループを作ってフォロワーを集め、それぞれで地元の犯罪ニュースを載せるようにし、そこに次第に犯罪と薬物を結びつけるコメントを書くようになった。※ドゥテルテは麻薬撲滅のために厳しい態度で望むことを強調する代表的な候補者)。
また、ロシアには反対勢力に対するweb上での荒らしを実行するトロール工場と呼ばれるものがあり、そこでは職員が一丸となって国のために事実を覆い隠し、偽りの情報を生産する。ある部署ではウクライナ軍が「ある地域を制圧した」と主張されているのをみつけたらそれは嘘だと書き、ある部署はロシア政府の政策を支持する風刺漫画やミームを作り出す、といったように何百人もが日夜それだけのために働いている。「ロシアならさもありなん」と思うかもしれないが、アメリカ軍においても、オンラインの偽アカウントを運営するプロジェクトは2011年から存在する。
こうした状況には厄介なジレンマが付き従っている。というのも、たとえ政府による指示であったとしても、それが本当に本心から行われた運動なのか、はたまた個人の自発的な意志による運動なのかの選別は困難だからだ。また、嘘をつくのはそれだけでは犯罪ではなく、表現の自由ともコンフリクトする。『「表現の自由」は濫用され、被害者の人権を抑圧しつづけた。これはトロールによる検閲だった。「情報過小のイデオロギーから情報過多のイデオロギーに至る状態までわれわれは政府の戦術的手段を監視し、言論の自由それ自体が検閲の武器であることが判明した」と法律学のティム・ウー教授は書いている。』
過激化するソーシャルメディア
もう一つ重要な論点が、そもそもソーシャルメディアの構造は人々の憎悪、感情を煽り立てる方向に過激化しやすいというものだ。たとえば、ヴェネツィア大学で行われた「偽情報時代の感情力学」と名付けられた研究では、フェイスブックのさまざまなグループに4年間によせられた5千400万件のコメントを分析したところ、グループ内での議論が長引けば長引くほどコメントが過激になることが判明したという。
我々はいいねやリツイートの数によって高揚を得るけれど、それは容易に過剰さへと偏っていく。過剰な物言い、過剰な発言をしたほうがいいねやリツイートがつくからだ。『ソーシャルメディアはより過激な行動を促す。その結果、人はより煽情的なコンテンツを、あるいは真っ赤な嘘を求めるようになる。「フェイクニュース」は、ソーシャルメディアの設計思想の現れなのだ。』そこに、先のユーチューブにも出てきたような「同質性の高い情報に触れやすい」構造によって、特定の意見にそまりやすい状態も発生し、事実に基づいた意見に触れるのが難しい状況になっている。
なぜ事実は無意味になってしまったのか?
こうした状況に対して、「なぜ事実は無意味になってしまったのか?」と問いかけたくなる。これに際して、まず著者は冷戦を例に出して「なぜ事実には意味があるとされていたのか?」と問いかけてみせる。たとえば、冷戦中はふたつの陣営がお互いのシステムのどちらがより優れた未来を提供できるのかという議論の争いでもあった。
その時に重要だったのは繁栄に直結する証拠の提出だ。冷戦が集結し、自由主義、移動の自由や言論の自由、政治的自由といった「自由」思想が勝利をおさめたわけだが、「自由」はその後の繁栄を約束したわけではなかった。度重なる金融危機、自由の名のもとに行われたイラク侵攻など、「未来の展望」「明るい未来」がどこにもないことが判明し、「事実」を直視しても良いことなど何一つなくなってしまった──というのが著者の描く「事実に意味があり、なくなった」ストーリーである。
事実を派手に否定したり、現実に背を向けたような言葉が(トランプがいうような)支持を得るようになったのは、誰もがありのままの事実など直視したくないからではないか──。正直、冷戦の時にそんなに事実が重視されていたといわれても納得しきれないのだけど、現在の「現実」は多くの人が直視したいものではないという点にはうなずかざるをえない。現在の為政者が懐古主義者であることも現実のつまらなさと関連しているのだろう。プーチンはロシア帝国とソヴィエト連邦復興の夢を語り、トランプはMake America Great Againと高らかにツイートしてみせる。
おわりに
多くの先進国を中心としてこの先人口が増えることはなく減る一方というのも、「現実」を直視したくない理由の一つかもしれない。であるならばフェイクがはびこるのもやむなしなのか? 本書はそこに答えを与えるものではないけれども、こうした現実を知らず、ただただソーシャルメディアに入り浸るのは違うのではないかな。