走る、泳ぐ、ダマす アスリートがハマるドーピングの知られざる科学
- 作者: クリス・クーパー,西勝英
- 出版社/メーカー: 金芳堂
- 発売日: 2018/09/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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どれぐらいの数の人間がやっていて、どのようにして検査しているのか。ドーピングを使用して身体を強化するのと、生まれつき遺伝子が異常に特定の身体機能を強化していた場合、それはズルなのか。なぜ人はドーピング者をズルしたと思うのか。ドーピングをした人間を罰するべきなのか──など、多様な論点を一つ一つ化学的に検証していくすごい本である。原著は2012年、ロンドンオリンピックに合わせ刊行されたが、日本語版に向けたそこそこ長い序文もあり、何より化学の基本的な性質とスポーツの関連性について書かれた本なので、知識としてまったく古びてはいない。
本書の話題は88年のソウルオリンピックからはじまる。30年以上前の話だが、これはなかなか凄い。何がというと、男子100メートル走決勝を走った8人のうち6人がのちに興奮薬やステロイドを使用していた(あるいはその後使用した)と発覚しているのだ。つまり、8人中その後まで含めクリーンといえる選手は2人しかいなかった。
そのソウルオリンピック男子100メートルで一位だったベン・ジョンソンがステロイド使用で失格になってから、検査も厳しくなった。だが、その後もドーピング使用は発覚し続けている。たとえば、2005年ヘルシンキ世界陸上競技選手権大会で行われた女子1500メートル競争では、1位から5位までの選手が後の競技で国際陸上競技連盟から反則判定を受けた。中でも優勝したロシアのタチアナ・トマショウは薬物検査が完璧に「良好」であったが、実際には別人の尿を渡していただけだった。
ここにロバート・ゴールドマン博士の有名な調査報告書がある。その中で、彼は五〇パーセント以上のスポーツ選手達が、たとえ突然死の危険にさらされたとしても、五年以上にも渡って、無制限に、しかも見つからずにスポーツでの勝利を保証する薬物を摂取しているのではないか、と訴えている。このエピソードは、スポーツにおける薬物使用の特殊性、ある者には成功に導いた極端な例、また、スポーツ権威筋がこの問題を如何に回避するのが難しいかという問題について述べている。
バレずに薬物が使用できるのであれば使っといたほうが得だというシンプルな理屈があるので、完璧なドーピング判定システムが現れるか、ドーピングの完全解禁が行われない以上、ズルしてドーピングを使用するアスリートがいなくなることもない。というわけで本書ではここから、ドーピングが人体にどのように作用し、運動パフォーマンスが上がるのか、という化学的な詳細へと分け入っていくことになる。
どのように作用するのか
どのように作用するのか以前の問題として、そもそもドーピングは効くのかが問題だが、これは効くやつはめっぽう効く。たとえば、ステロイドは100メートル走の女子選手のタイムを0.4秒、距離にして4メートル速くするとアメリカの法廷で宣言されている。実際、1980年代になってステロイドが使われるようになった時の記録は、その後任意薬物検査が始まってから破られていない(今確認してもそうだった)。
本書ではもっぱら人間の体内で起こる化学的な反応をみていくわけだが、重要なこととして、アスリートたちの性能を引き上げるにはパワーの増大が不可欠だ。時間でエネルギーを割った値がパワーであり、瞬間的、持続的に通常時よりもエネルギーを必要な場に供給できればそのドーピングは効果を発揮していると考えられる。短距離走の場合、炭水化物由来エネルギィを用いるか、はたまた本来用いられる脂肪の消費を加速させるかのどちらかが可能となればパフォーマンスの向上が見込める。
短期間の競技、例えば、マラソンの様な場合、体を遅い蓄積脂肪の利用ではなく、むしろ速い炭水化物利用の方を最適な状態に調節することが決め手となる。理論的には、インスリン・レベルを調節することで可能となる。
インスリンは血糖を取り込みエネルギーとして利用することでグルコース・レベルを調節してくれるが、レースの前にインスリン・レベルを引き上げることで、脂肪代謝速度は低下し、代謝機構は炭水化物を燃料とするようになる。バランスが必要だが、丁度いいところで調節すれば最適なエネルギィ消費の状態に持っていくことができる。無論インスリン・レベルの調整は食事でも可能(炭水化物をとればいい)だが、それとは別に世界アンチ・ドーピング機構はインスリンを禁止事項に加えている。
とまあ、こんな感じで無数の薬物・手法についてそれがどのような仕組みで人体のパフォーマンスを引き上げるのかを取り上げていくのである。たとえばステロイドはテストステロンを増大させ、テストステロンは筋肉細胞に入って受容体と結合しその後筋肉細胞核内へと入って細胞の機能を調節する仕組みに影響を及ぼす。筋肉への酸素供給量を引き上げるのも効果的で、これは血中ヘモグロビン濃度を増加させる、つまり自己輸血することで簡単に可能となる。しかも、自分の血なのでバレにくい。
何がズルかという問題の難しさ
何が「ズル」なのかを定義する難しさもある。たとえば、血中酸素濃度を上げる自己輸血に関しては、擬似的には高地でトレーニングすることで再現できる。これは一般的に行われているもので、問題だという人は少ないだろうが、低酸素テントを用いることで都会にいながらにして高地環境を再現することもできる。低酸素テントの使用はオリンピック村では禁止されているようだが、その線引はかなり難しい。
他にも、女性と男性では明らかに身体能力に差があるから、女性と男性を一列に並べて走らせることは基本的にはない。しかし、女性の中には遺伝子的にY染色体を持ちながら認知的にも身体的にも女性な人々もおり、こうしたケースで当該女性を失格とした場合──そもそも、男性アスリートがより速く走るような遺伝子を持っていた場合も失格にすべきなのではないかという議論につながってくるのも当然だろう。
『結局のところ、エリート・アスリートは全て遺伝子的には異常なのである。つまりその異常がどの程度極端であるかが問題なのだ。』0か1かで判断できるものではなく、どこかで線を区切らねばならないとしたらそれが恣意的なものになるのは避けられない。本書後半では、こうした「何がズルなのか」、「そもそもドーピングを禁止すべきなのか」、「遺伝子改変の是非」といったところまで議論を進めていくことになる。
おわりに
こうした問題を取り扱っていくのは難しいことだが、闇雲にルールを決定するのではなく、科学的見地に立ち、アスリートの健康を重視するなど、前向きな改善を取り入れる余地は多くある。何より本書は化学的に人体がどのようにパフォーマンスを発揮するかを詳細に解説しているので、ドーピングに興味なくてもおもしろいよ!