基本読書

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二つの事件が密接に絡み合う極上のフーダニット──『カササギ殺人事件』

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)

『カササギ殺人事件』はアガサ・クリスティへの愛に満ちた傑作ミステリと話題がやまず、たまらずに読んでみたのだけれども確かにこれは遊び心がありながらもぎゅっとミステリ上の”お楽しみ”が詰まっており、現代で起こる事件と”探偵小説の黄金時代”風の1950年代半ばを舞台にした事件の二本立て、かつ主人公の一人はミステリ大好きな編集者で──と、ミステリ好きの琴線を正確に狙撃してくるような作品だ。

僕個人は正直アガサ・クリスティを含む探偵小説の黄金時代の作品にそこまで思い入れがないので(ただエラリー・クイーンは明確に好きだ。)これは傑作だぜーー!! というほどのテンションにはならなかったけれど、「うーん、よくできているなあ」と思わずうなる出来なのは間違いない。構成的もトリッキィではあるけれども、前代未聞というわけでもなく、いろいろな面が緻密に心地よく練り上げられ、じっくりとフーダニットを楽しみたいと思うならまず満足できる作品(上下巻で二冊)である。

二つの事件

何しろこの一作品の中に、上質なフーダニットが二つ、密接に絡み合った状態で格納されているからだ。一つ目の事件は、先に書いたように1950年代半ばのイングランドを舞台にして、古典的な探偵が──じっくりと人々の話を聞き、矛盾と人々が抱えている秘密をあぶり出し、複雑な因果、動機、関係性を解きほぐし、事件の”真実”を解き明かしていく──現れ、人名や舞台、登場人物の所作などにアガサ・クリスティ作品へのオマージュが大量に含まれている『カササギ殺人事件』だ。これは本書と同名の作品だが、作中作として冒頭で担当編集者によって明確に宣言されている。

いわく、『カササギ殺人事件』は世界各国で愛され、ベストセラーとなった名探偵アティカス・ピュントのシリーズ第9作目であり、『この本は、わたしの人生を変えた。』という。とはいえ、それは決して良い方向だったわけではないようだ。『カササギ殺人事件』のせいで彼女は編集の仕事を離れ、友人を失い、著者である・アラン・コンウェイのことを”ろくでなし”と罵ることになった。果たして、なぜそんな悪態をつくようになってしまったのか──を追う、作中の出版作である『カササギ殺人事件』にまつわる殺人事件”を追う現代パートが、2つ目のフーダニットである。

作中作が現実のミステリィと関わってくる作品はけっこうあるが(ポール・アルテのやつとか)本作で特徴的なのは、作中作の『カササギ殺人事件』がそれ単体で読めるほどきっちり作り込まれて、それなりの分量もある作品になっていることだろう。作中作というのは基本的にその外側の構造に貢献するためのギミックであって、最初は「え〜作中作こんなに読まされんのか〜」という気分で読み始めるものの、途中から「おもしろいやんけ! 誰が犯人なんや……」とついつい読みふけってしまった。

フーダニットにして作品読解・批評

家政婦が転落して死ぬという”一見したところ単なる事故死”から、今度はその雇い主が何者かによって殺され、最初の事件も実は殺人なのではないか……と疑惑が募り始める。家政婦はともかく雇い主には恨みを持つものが数多くおり、事件に関係があるのかないのかはともかく嘘をつくものも出てきて、複雑にもつれあった因縁の中、本当に手を下したのは誰なのか──。そして、現代のミステリ編集者であるスーザンパートではこの作中作である『カササギ殺人事件』で明かされぬ結末や、アラン・コンウェイの全作品を読解・批評しながら、現実で起こった事件を追っていく。

その過程で、一人の作家が自分の作品に仕込み続けた”仕掛け”や”遊び心”を発見し(小さいものだと登場人物の名前の仕掛けや、『カササギ殺人事件』に取り入れられたアガサ・クリスティオマージュの数々。アガサ・クリスティ作品に詳しくなくても作中できっちり解説されるので安心)、ずっとミステリ編集者・ファンだった自分が、今度は現実で”探偵”役を引き受けることになってしまったことへの戸惑いや自己批評といったものが語られていくのがミステリ・ファン的にはおもしろいところだ。

 運転しながら、わたしはずっとそんなことを考えていたけれど、それでもこれが殺人だと思えるまでにはかなりの時間がかかった。これがミステリなら、どこの何某氏が列車内で三十六回刺されたとか、斬首されたと聞いた探偵は、それがまるであたりまえのことのように受け止める。すぐに荷造りをして現場へ向かい、話を聞きまわり、手がかりを集め、ついには犯人をとらえるにいたるのだ。でも、わたしは探偵ではない。

ミステリ小説を分析するようにして、現実の登場人物たち(というか容疑者たち)をリストアップし、一人一人動機やアリバイを羅列していく描写には、期せずしてミステリ・ファンの日記をのぞき見てしまったような背徳感もあった。

おわりに

『カササギ殺人事件』を追う中で、スーザンのミステリ観が時折語られていくのも、それがただ語られるだけではなく、だからこそなぜ彼女が『カササギ事件』に、アラン・コンウェイに苛立ちをつのらせるかの説明にもなっているのがたまらない。

 ミステリとは、真実をめぐる物語である──それ以上のものでもないし、それ以下のものでもない。確実なことなどなにもないこの世界で、きっちりとすべてのiに点が打たれ、すべてのtに横棒の入っている本の最後のページにたどりつくのは、誰にとっても心の満たされる瞬間ではないだろうか。

僕自身はこの意見にはあまり賛同しないけれども(だから傑作というほどにはいかなかったのかもね)、この強烈な”価値観”の提示がこの作品に一本の筋を通し、強固な物としている。『ミステリ以外はどんな小説であれ、わたしたちは主人公のすぐ後ろを追いかけていく──それがスパイでも、兵士でも、恋する若者でも、冒険家でも、いっぽう、探偵とは、わたしたちは肩を並べて立っている。そもそもの最初から、読者と探偵とは同じ目的を追いかけているのだ──それも、ごく単純な目的を。』

とまあそんな感じです。なにはともあれ、いろいろと仕掛けのある作品なので、上下巻セットで買って、とりあえず下巻までは読んでもらいたいところである。