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抽出された記憶データに潜り込み、他者に理解可能な形に翻訳する記憶翻訳者たちの物語──『風牙』

風牙 (創元日本SF叢書)

風牙 (創元日本SF叢書)

「風牙」とは門田充宏(かどた、じゃなくもんでん)さんの創元SF短篇受賞作だが、本作はそれと同世界・同一人物を中心とした連作短篇集になる。「風牙」は、抽出された記憶データに潜り込み、他者に理解可能な形に翻訳する記憶翻訳者(インタープリタ)たちの物語で、年刊日本SF傑作選『さよならの儀式』に収録された時に読んだ感想としては、骨子がしっかりとして、単なるギミック頼りで終わらずにしっかりと感情を揺さぶってくる良作ではあるものの、いかんせん地味だなあというもの。

それが連作短篇になった時、どう変化するのかはたまたしないのか──とおそるおそる読み始めたのだが、これが記憶翻訳者というギミックを用いて他者の物語を語りながら、主人公である関西弁の女の子珊瑚自身の過去をだんだんと掘り進めていく、ウェットでありながら同時に文体、キャラクタとしては硬質な、なんとも”しっくりくる”物語に仕上がっていた。記憶翻訳者の方をSF的に広げていくのかと思いきや、他者を自分の中に取り込んでしまうほどに強力な、”過剰共感能力”という設定が、風牙以降の三篇では深く掘り下げられていくのも、実はSF的におもしろいところ。

なにしろ僕がこれを読んでいて思い出したのは飛浩隆の「ラギッド・ガール」だしなあ。では、以下ではざっと各篇(全部で4篇)について紹介してみよう。

風牙

受賞作にして表題作。共感ジャマーをつけなければ他者の意識と自我を分けることさえできない強力な過剰共感能力者である珊瑚は、その能力を活かして他者の記憶データを解釈できるように再構築する記憶翻訳者の仕事を日々こなしている。本作でもその仕事に邁進しているわけだが、毛色が違うのは彼女が今回潜るのが、自分の勤め先の社長の不二であること。不二は完治不能な悪性腫瘍のため、自分の記憶データをレコーディングするよう依頼したのだが、なぜかそのレコーディングが終わらない。

その調査のため、記憶翻訳者が記憶データへの潜行を試みたのだが、何者かによって攻撃を受け、疑験空間から強制的にはじき出されてしまった──。そこで凄腕である珊瑚の出番になるわけだが、不二というそれまで自分にたいした興味を持とうとせずに過ごしてきた男の人生を追いつつ、その始原には幻のように美しい飼い犬である「風牙」と、慕っていた祖父との生活があって──一大企業の社長となり、巨大な目標に向かって突き進んでいるはずの男に刻み込まれているのが愛しい犬との日々であったというのは、犬好きとしては反則だろと思いつつもぐっときてしまう短篇だ。

閉鎖回廊

続く「閉鎖回廊」は「風牙」で書かれたギミックの拡張版として、〈九龍〉が出てくる。これは記憶データの保存と翻訳、そして追体験を実現する「個」のサーヴィスとは別で、クリエイタが一から作り上げた疑験都市の中で、そこで発生する様々なイベントを「まったく別の誰かとして」体験することができるらしい。若干わかりづらいが、まあ子供の頃の世界のワクワクとした見え方、感じ方と大人の感じ方はまったく別のものであるとして、子供の感じ方を疑似体験できるようなものだ。

その〈九龍〉で提供されているコンテンツの名前が題名でもある〈閉鎖回廊〉であり、なぜかその開発者にして責任者である由鶴という、珊瑚の旧友から、〈閉鎖回廊〉を止めてくれというメッセージが届く。はたして、なぜ自分で止めずに、珊瑚にそんなメッセージを送ってきたのか──を、これまた由鶴の記憶にもぐって解き明かしていくことになる。過剰共感能力という設定が深掘りされ、発展したSFギミックとうまいこと混ざりあっている点で、本作の中でも、SF的にも要となる一篇だ。

残り二篇

残る二篇はどちらも珊瑚の両親の物語。「みなもとに還る」は母親と父親の記憶を持たない珊瑚のもとへ、過剰共感能力者たちが相互扶助を目的とした元宗教団体〈みなもと〉のトップにして母であると名乗る女性から会いたいとコンタクトがやってくる話で、共感能力を技術的に活用し世間に役立てる〈九龍〉の記憶翻訳者と、共感能力を持つもの達で集まり、それをお互い理解しあいながら生きていくことをめざす〈みなもと〉の間、何より母の愛を知らぬで揺り動いていくことになる。

この話の中で印象的なのが、目の前に存在している困難、提示された大きな二つの選択を前にして、あくまでも珊瑚はどちらにしようかなとくよくよ悩み続けるのではなく、知識と技術を使って情報を増やし、状況を前に推し進めていこうとする姿勢それ自体だ。『だってあたしには、知識と技術があるんですもん。』本作全体を通して、非常に前向きというか、現実的かつロジカルに物事を考え、推し進めていく人間が多いわりにそこで描かれていく家庭環境だったり過去だったりはけっこうドロドロしているので”ウェットでありながら硬質な”独特な印象を受けるのだろうな、と思う。

最後の「虚ろの座」は珊瑚の父親を中心として、”決して取り戻せない、あの愛しい日々”、破滅が決定づけられた瞬間へと向かうまでを描き出していく。本作全体の中でもっともダークで、過剰共感能力がもたらす悲劇的な側面を取り上げてみせる。だけど同時に、親が子供を思う気持ち、子供が生まれた時の歓喜など、あたたかな部分もきっちりと描いていくだけに、その落差がうまいこと演出されている。

おわりに

短篇それ自体の構成として、読者にたいして先に「うん?」と思わせる疑問点をいくつも開示しておきながら、後の展開でそれを回収していくスタイルだが、それはこの短篇の並び順の構造でもある。「風牙」で元気に活躍する珊瑚の日々が語られ、次第に彼女の人生に関わってきた人々、母親、最後には父親と自身の過去が明かされる構成になっているのだ。時系列はともかくとして、珊瑚という一人の人間を、現在から過去に向かって少しずつ読み解いていくおもしろさがある。表紙イラストも最高だ