- 作者: マイケル・ベンソン,添野知生,中村融,内田昌之,小野田和子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2018/12/27
- メディア: 単行本
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この本、2018年が『2001年宇宙の旅』の公開50周年にあたるということで、米の出版社から出版され、その年のうちに日本でも邦訳が刊行された翻訳者的にも出版社側的にも熱量溢れる本なのだが、豪勢な作りで値段も(5000円超え)高い。なので、けっこうな2001年ファンしか買わないだろうとは思うんだけど、それはそれとして、まだ観ていない人でも思い切って本を買って、Amazonプライムなりなんなりで映画を観るというのでもずいぶん楽しいんじゃないかな。今回映画をみなおして、これはやっぱりそれだけの価値というか、強さのある映画だと再認識した。
正直、もう2018年なわけで今さら観てもな〜という気分で観始めたんだけど、依然としてばっちり決まった左右対称のカットやワンカットごとの情報量は凄まじいし、響き渡るクラシック音楽は底知れない恐怖を呼び起こすし、何より宇宙と宇宙船の表現は現代にしてなお素晴らしい。で、それはもちろん並大抵の思想と労力では実現されているわけではなくて──といったあたりで本書の内容の紹介にうつっていこう。
最初に概要部分を紹介する。
先に『2001年宇宙の旅』について概要だけ説明しておくと、監督がスタンリー・キューブリック、脚本がキューブリックとSF界のトップランナーアーサー・C・クラークのコンビという、SF映画である。公開は1968年であり、本格的なSF映画は少ない時代である。『一九六〇年代初頭、そのジャンルが社会に受け入れられている度合いは、ポルノグラフィーと五十歩百歩だった』そんな時代にきちんとした宇宙、未知なる知性の表現、AIの表現をし、なおかつナレーションなどの明瞭さをなくし抽象的なイメージで魅せ、後続のSF映画への道を切り開いた歴史的作品である。
監修の添野さんが取り上げているように、2001年の映画について語ったドキュメンタリーや本は幾つかあるのだけれども、本書はその最後発ということで、そうした内容をすべて事細かに参照・統合し、さらに関係者らへのインタビュー、キューブリックとクラークの度重なる手紙などのやりとりを収集し、まさに決定版といえる大著に仕立て上げている。たとえば、キューブリックの妻であるクリスティアーヌだけが知っていた、監督が抱えていたプレッシャー、弱音。複雑な関係性をたどった脚本。
クラークとキューブリックの契約面での確執──とそしてそれでもなお偉大な人格者たるクラークの人の良さ。冒頭の「まるで本物の猿と見紛うほどの驚異的なクォリティの被り物」の制作エピソード。ギリギリまで作品を明瞭にするナレーションを削るかどうか悩んだというエピソードや、無数の演出意図、削られたセリフ・シーンの数々など、とにかく本書を読むことで映画の情報量が何倍にも増える内容だ。
もう少し具体的な紹介
読んでいてこれは凄い! と驚いたところはいくつもあるのだが、ひとつにはやはり誰もが取り上げるキューブリックの完璧主義性があるだろう。しかもキューブリックは場当たり的に、作りながら先をどうするかを考えていたので、現場の過酷さは読んでいて震えそうになるほどだ。脚本の決定稿はなく、セリフはその場で幾度も変えられ、とったシーンの多くは捨てられた。有名な黒いモノリスは最初は透明なプレキシグラスのものだったが、莫大な費用をかけた後しっくりこなかったので捨てられた。
もうひとつの軸となっているのは、作品の骨格を作り上げたクラークとキューブリックの対話だ。最初、SFをとりたかったキューブリックは大量のSFを手当たり次第に読んでいたのだが、宣伝マンから「なんでひととおり読むんだ? 最高の作家を雇って、話を進めればいいだけじゃないか」と言われ、そこで出てきたのがクラークだった。その後、無事クラークが参戦することになるのだが、クラークへの報酬がいくらなんでも安すぎたり、本以外の印税が与えられなかったり、その本の出版もなかなかキューブリックの許可がおりなかったりなどの金銭にまつわるトラブルがあった。だが、クラークはそれでも一貫してキューブリックの才能を疑うことはなく、表立って問題にすることもなかったというのがまた格好いいと言うか、人がいいねえ。
即座に感心させられたのは「純粋な知性」だった、とクラークは書いている。「どれほど複雑なものであろうと、キューブリックは新しい考えをたちまち理解する。あらゆるものに興味を持っているようでもある」と。
二人の関係性については、映画のどの部分がクラークのアイディアで、どこがキューブリックなのか。作品として表に出てきた部分だけではなく、あらゆる可能性の検討まで含めて書かれていくのもおもしろい。たとえば、地球外の知的生命は無機物であるべきか有機物であるべきか。それはどのような姿をしているべきなのかという議論。あまりにも印象的な冒頭の骨が放り投げられるシーン、道具の使用が破滅へと至るイメージは誰案なのか。また、印象的なあのセリフを書いたのはどっちなのか、など共同脚本というのは本来そういったことがわかりにくくなるものだが、関係者らの話を統合し、できる限り事実を解き明かそうとする姿勢が好ましくもある。
もちろんクラーク以外の映画に関わった人々も外せない。僕が個人的に好きなのは、ヒトザルの特殊メイクを担当したスチュアート・フリーボーンのエピソードだ。キューブリックと同様のハードワーカーで、キューブリックの数々の無茶振りに、決して「無理だ」と言わずになんとかしてそれを実現しようとし続けた鉄人。どうやったら顎の複雑なヒトザルの唇をリアルに閉じられるか、そのために”歯に磁石を仕込む”など、不可解なことまで試していく(しかも、それはうまくいった)努力が語られる。
結果的に、そうした仕事はオスカー受賞などには結びつかなかったが、彼がたまたま映画を観に入ったタイムズスクエアで、この映画に出てくるサルは特別に訓練されている本物のサルなんだよと話している家族を見つけた時の感情の発露など、ぐっとくるんだよなあ。『わたしにとって、その背後のやりとりを耳にした瞬間は、ほかのどんなものよりも価値があった。まさに救われた気持ちだった。そして思った。「ああ、そうとも! やったぞ。最高だ」それは充分すぎる見返りだった。』
おわりに
なぜ、この映画では全般的にクラシックが採用されているのか? 宇宙船ディスカバリー号の印象的なデザインはどのような試行錯誤を経て今の形になったのか? 宇宙船のシーンはどうやって撮影されているのか? あまりにも印象的な左右対称のカットの演出意図──などなど、映画を観ていれば気になるあれやこれやに対する、製作者側の意図の多くがみえてくる一冊だ。2001年の映画が好きな人はもちろん、ある意味では歴史をスタートさせた映画の裏側を知りたい人にはぜひオススメしたい。