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地球を離れ、新たな文明を構築しようとした人類が遭遇する”植物の知性”──『セミオーシス』

セミオーシス (ハヤカワ文庫SF)

セミオーシス (ハヤカワ文庫SF)

著者であるスー・バークの第一長篇ということで一切の事前知識なしで読み始めたのだけれども、未知の惑星での植物知性(+いくつかの異種知性)との遭遇を描き出す宇宙植民ファーストコンタクトSFでめっぽうおもしろかった。ファーストコンタクト物って、もっと広い定義でいえば「コミュニケーション」テーマの作品であるわけだけれども、本書もそこを全面に押し出しており、異種間のコミュニケーションだけではなく終わりなき内輪もめ、世代間の対立を描き出すために、惑星パックスに降り立った後の人類7世代、約100年間に渡る物語を一冊に凝縮していくことになる。

舞台は先に書いたように、惑星パッカス。地球は環境悪化により住みづらくなっており、一部の人々は旅(冬眠しながら158年間)を経て、酸素と水が豊富にあり、新たな生命体に満ち溢れた新天地へやってきたのだ。目的はもちろん、地球の二の舞とならぬよう、惑星パッカスに地球の最良の部分を集めた新たな文明──自然と完全に調和した新しい社会を創ること。『わたしたちは自分たちが到着した星を、計画どおり平和(パックス)と名付けた。わたしたちは、平和に暮らすためにここに来たのだ。』とはいえ、新たな惑星で生活をスタートさせようとしても当然そうそううまくいくはずがない。事故死、栄養の不足、環境への不適応などなど困難が次々降りかかる。

7世代に渡る物語

物語は、そうした惑星パックスに植民を開始してからの約100年、7世代で重要な役割を果たす人物をおう連作短篇集のような構成になっている。たとえば、植民を開始した第1世代は地球のことを知っており、新しい文明を創ると意気込んでいる夢見る世代である。この世代は植民を開始した後に、まったく同じ遺伝子を持つにも関わらずある地点の実は毒を持ち、ある地点の実は毒を持たぬ謎に苦しめられ、それを調査していくうちに実はこの惑星の植物は知性を持っており、自分たちを害する人間に対して攻撃を仕掛けてきたのではないか──? と仮説を立て調査することになる。

第2世代の物語はそれから約30年の月日が経過しており、世代間の対立が語られてゆく。第1世代の親たちは強烈なリーダシップをとるために、子供世代は自主的に考えず、ただ親の言うなりになるだけの日々が続いている。しかしそんなある日、明らかに人類が作ったものではない”ガラス球”と”都市”が発見され、親世代が子供世代についてきた嘘が暴かれてゆくことに。また、植物知性らとの関係もこのときにはいい形で進行していて、たとえば、ハンモックを結びつけた木に新芽が出る、泊まった家の近くに実がなる、といった感じで植物の側から歓迎の合図が送られ、一種の共生のような形が一部ではみられるようになっている。このように、世代を経るごとにだんだんと植物知性と人類の関係性が発展・変化していくのもひとつの読みどころだ。

第3世代は植民からは約60年の月日が経過している。「竹」と呼ばれる植物知性との関係性はさらに進展し、人類は竹に水と肥料を与えることで育て、実の提供を受けている。竹は明らかに意思を持っており、人間の気を惹く行動や報酬の応酬の概念が理解出来ているので、人間はコミュニケーションの代表者を一人立てることで、さらにその関係性を強固なものにしようと画策するが──と、ここからけっこう珍しいのが、竹の視点でも物語が語られるようになっていくことだ。その考え方は人類とは大きく異なるし、そうであるがゆえに人類の側の行動を解釈しようとしても誤っているケースもある。そうしたズレが双方の立場から語られていくのがおもしろい。

 わたしたちは言いたいことがたくさんある。彼らを訓練した植物は、どんなコミュニケーションの方法を使ったのだろう? なぜ彼らは植物を連れてこなかったのだろう? おそらく彼らの球の植物は、戦争をしているのだろう。あるいは、逃げてしまったのか。未来は新しいサイクル以上のものであること、未来は新しい生きかた──かつてなされたことのない達成のための機会──になりえることが、彼らに理解できるだろうか?

続く第4、5、6、7世代の話は植民開始から106〜107年の間の物語で、植物知性と人類のあらたな形の共生関係、さらには人類が発見したガラス球の生成者〈ガラスメーカー〉とのファースト・コンタクト、最後に各種族の思惑がみられる混沌とした戦争状況がそれぞれ語られることになる。第4世代のタチアナは、殺人事件を調査するために植物知性のスティーブランドと頻繁にコミュニケーションを取るうちに(ついに植物は人間とやりとりできるようになっている)、スティーブランドが人間の食料となる実の組成を制御することで真実を言わせたりと行動を制御できることに気がつき、人間と植物知性の関係性は”共生”ではないのではないかと疑惑を抱いていく。

言葉の通じぬ相手の行動を解釈する

簡単に意思疎通を行ってしまうスティーブランドと違って、人類と〈ガラスメーカー〉のコミュニケーションはなかなかうまくいかない。お互いの言葉もわからず、最初の遭遇でガラスメーカーから人類は槍を向けられる。それでも音楽を演奏することで敵意がないことを示し、贈り物を送り合うことで信頼関係を作り上げてゆく。

しかし、〈ガラスメーカー〉から山から降りるようにと指示され、急かされながら移動している最中に人間側が一人死亡してしまい、〈ガラスメーカー〉の流儀に従って死体を処理していったら、なぜか彼らはその死体を焼いて食べ始めてしまう──といった人間からすると「理解不能な状況」が頻発。言葉が通じないからこそ、相手の行動を敵意からのものなのか、はたまた単純に文化が異なるのかを解釈しなければ親交を深めることも、あるいは敵と見定めて攻撃を開始することもできないのである。

もちろんそうした解釈は人によってわかれるものなので、人類の中でも(世代間でも)〈ガラスメーカー〉を敵だと判断する人もいればしない人もおり、殺さずに攻撃すべきだというひともいれば皆殺しにすべきだとする人もいて、さらにはそこに自分なりの目的を抱えているスティーブランドが介入してきて──と混沌とした状況下で決死の異種間コミュニケーションがクライマックスへと向けて行われていくことになる。

このへん、〈ガラスメーカー〉の行動だけが示されて意図がなかなか解説されないなど、わりと複雑なので初見ではなかなか読みづらいんだけれども、ちゃんと読むとお互いの誤解の方向性がわかってきてたいへんおもしろい。「平和に暮らすためにここにきた」と語り、現地の生態系を破壊することなく共に生きることを目指していた第一世代の理想が、後の世代にはまるで受け継がれていない世代間の断絶など、いろいろな側面からコミュニケーションの難しさを描き出してみせる快作なのだ。

おわりに

最初は世代ごとに数十年単位で時間が過ぎるわりに、最後の4、5、6、7世代はわりとひとまとめにして語られるのが構成上あんまりうまいとは感じなかったり、語り手が錯綜しているのが本当に狙い通りの効果を上げているのか疑問だったり(かなりそれが読みづらくさせているのもある)文句をつけたいところもあるのだけれども、それはそれとして上に書いてきたような魅力のある長篇である。