基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

イーガンの最良の部分が詰まった傑作SF短篇集──『ビット・プレイヤー』

ビット・プレイヤー (ハヤカワ文庫SF)

ビット・プレイヤー (ハヤカワ文庫SF)

イーガンの最新邦訳短篇集である! イーガンは最近は『シルトの梯子』やら〈直交〉三部作やら、長篇の刊行が続いていたので、短篇集の刊行としては複数出版社のものをあわせて六冊目、前短篇集の『プランク・ダイヴ』から数えると、八年ぶりだ。そんだけ期間が空くと、たまにSFマガジンに訳出されたものを読んでいたとはいえ、イーガンの短篇ってどんな感じだったかなあと忘れている面もあったが、いやーあらためてこうして通しで読んでみると、やっぱりめちゃくちゃおもしろいな!

収録作をざっと見渡してみると、『白熱光』ラインの本格宇宙SFである「鰐乗り」「孤児惑星」、イーガンの現実に対する政治的な危機感がよく現れている「失われた大陸」、世界の見え方が一瞬でガラリと切り替わる瞬間を描き、両者の世界の細部を追求していく「ビット・プレイヤー」、『ゼンデギ』ラインの技術を用いたSFミステリィ風味な「不気味の谷」、色覚を拡張することで我々生身の人間とは違った世界を見るようになった人間を描く「七色覚」──と、色んなイーガンの中から最良の部分を集積した傑作短篇集となっている(「失われた大陸」は議論の余地があるが)。

というわけでたいへんおもしろい──それもSFというか、それ以上に小説の醍醐味が大変に詰まっているので、これまでイーガンに触れたことがなかった人にも、それどころかSFに触れたことがなかったとしても、小説の楽しみを知っている人には、これを手渡したいぐらいである。以下、収録作全六篇を簡単に紹介していこう。

六篇をざっと紹介する。

最初の短篇は「七色覚」。山岸真さんの編・訳者あとがきによると、サイボーグをテーマとするアンソロジーに発表された短篇らしく、人工網膜を埋め込んだ男の子のある決断が描かれていく。彼に埋め込まれたインプラント群は人間の三種類の錐体細胞の反応をそっくりトレースするように作られているが、それは性能を「人間と同じ」に抑えているからであって、その気になれば三色に加えて四つの帯域に同調させることができる──、つまり真の意味で七色を知覚することができるようになるのだ。

眼球から入ってくる情報は脳それ自体を大きく変えてしまうから、一度その処理をやってしまってからしばらく経つともう後戻りはできなくなってしまう。後戻りできなくなる危険性を踏み越えて彼はそれを実行し──、「世界の見え方が、ガラッと変わっていく」時の躍動感や、世界の描写は、小説ならではのおもしろみに満ちている。

 空の眺めは損なわれていないようだったが、ゆるやかに変化する色のどの部分を見ても、ぼくは太陽がどこにあるかが正確にわかり、やがては半時間単位でいまの時刻も判断できるようになった。空色は空色に変わりはなかったが、いまのそれは太陽の円盤を中心とする百の繊細な輪として見えていた──そしてそれよりかすかな、天頂を中心部とするもうひとつのパターンもそこに印されていた。いまや午前十一時は、正午や日暮れや夜明けとははっきり違う、それ独自の雰囲気を帯びていた。

続く「不気味の谷」は、長篇『ゼンデギ』に出てきたサイドローディングと呼ばれる、活動中の脳のスキャンデータに基づいてニューラルネットワークに模倣される技術が存在する世界で、亡くなった有名脚本家と「最低でも七〇%は同一な」アンドロイドが描かれていく。一般的な用語としての”不気味の谷”は、主に人間を写実的に模倣したロボットなどがその精度が増していくどこかのタイミングで〈谷〉にハマり、似ていることに対する好感よりも、嫌悪感を覚えさせるようになる現象をさす。

一方、アダムは、その半端に元の人物を思い起こさせる応答で周囲に嫌悪、怒りなど〈不気味の谷〉的な、様々な悪感情を巻き起こしていく。また、〈不気味の谷〉は、まだまだサイドロードたちの権利は認められず、国外への移動も制限がかかる。彼自身も類似性からかつての人格や生活を捨てられず、かといって新しい道を歩みだすのも難しいという「サイドロードたちを取り巻く状況」の〈谷〉でもあり──と、いろいろな意味が込められていそうだ。そんなサイドロードのアダムだが、彼の記憶には「意図的に消されている部分」があることに気づき、その調査を開始する仮定で、彼(の元となった老人)の過去が明らかになっていく──という、ミステリィ的な趣のある一篇である。端正であり、アダムの苦悩は克明で、たいへんにおもしろい。

続いて「ビット・プレイヤー」。わけもわからぬ場所で記憶もなく目を覚ました女性が中心人物となるが、その世界では突如重力が横向きになり、地球の中心向きではなく東に引っ張るようになったという。とはいえそれが正しいのであればそこらに埋まっている岩が東に向かって動いていかないのはおかしいのでは? 助けてくれた相手に彼女が問うと、〈変化〉はずっと中のほうまでは達していないと考えているなどと適当な答えが返ってくる。でもそんなの絶対おかしいじゃんと執拗に世界の矛盾をついていくことで、この世界の真の姿が明らかになっていくわけだが、驚天動地のオチでひっくり返るというわけではまったくなく(ネタとしては普通)、むしろそこはギアの第一段階でそこからさらに細かく世界の探求が始まるのが良い。

「失われた大陸」は、時間旅行者である〈学者たち〉によって家族を殺された男が、時間を移動する時間橋を使って世界を移動したらそこで〈収容所〉にいれられ──と、時間移動ネタこそあるものの、明らかに難民問題についての物語である。

「鰐乗り」は、数百万年後の未来、元人類たちはとっくに自分たちをデータ化し終わりなき生を生きており、銀河にあまねく広がる〈融合世界〉と呼ばれる世界が主な舞台。主人公夫婦は結婚生活一万と三百九年目で、ほぼすべてをきわめ生に飽きかけているが、そんな彼らが冒険の対象として見据えたのが〈孤高世界〉と呼ばれる世界。そこに住む人々は百万年以上に渡って周囲にいる融合世界の面々に対して一切の応答を返さず、何かが送り込まれてきてもすべて断固として拒絶されてきたという。

夫婦は、残された冒険として孤高世界のすぐそばまでいって観察することにするのだが、どのようにすれば中に入れるのか、中でどのような活動が行われているのか、それをどうやって調べるのかを、イーガンらしい執拗さで練り練りと描きあげていく。

ラストの「孤児惑星」は本短篇集においては「七色覚」と並んで好きな作品だ。十億年もの間、なにものにも繋ぎ止められず銀河を放浪してきた孤児惑星タルーラは、必然的に太陽を持たないにもかかわらず、地殻深くから核分裂や核融合のサインとも一致しない謎のエネルギィ活動が継続しており、明らかに文明の存在を感じさせるが発信された信号には一切の返答がない。はたして、中には文明がいるのかいないのか。

冒頭こそは「鰐乗り」っぽいが、こちらは基本的には調査が可能で、実際に「そもそもテクノロジーだけ動き続けてて作った存在はもう死んでるんじゃね?? 降りてもよくね??」など議論をしながら調査を始めると、そこには〈融合世界〉を一変させうる驚愕の事実が──とそこで動き続けているテクノロジーの凄まじさのディティールと、この孤児惑星が辿ってきた数奇な歴史が語られていくことになる。

おわりに

「鰐乗り」も「孤児惑星」も、最初に魅力的な謎と冒険を提示するが、物語はそれをすっかり解決しめでたしめでたし、ではなく、新たに判明した事実によってさらなる探求すべき余白が提示されて終わる。それは現実の科学の探求──あらたな事実の発見・確定が、この世界に対するさらなる謎を呼ぶ──と同様の興奮を覚えさせるものだ。イーガン作品は世界に向かって常に開かれ、未知に満ちている。