基本読書

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ドイツと日本が世界の覇権を競っている西暦2600年を描き出す、1937年刊行のディストピアSFの古典──『鉤十字の夜』

『鉤十字の夜』は、キャサリン・バーデキンによって書かれたイギリスのディストピアSFである。刊行年は1937年で、ディストピア系の代表作のひとつオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』が1932年刊行だから、相当(ディストピア物としては)早い時期の作品になる。この本、1月に刊行されていて認識はしていたのだけれども、水声社の方針としてAmazonに配本しないので、買い忘れたままになっていた。

キャサリン・バーデキンという名前も『鉤十字の夜』も聞いたことがなかったのだけれども、訳者解説によると、どうも英語圏においてさえ著名な作家というわけではないらしい。というのも、もともと本作もマリー・コンスタンティンという男性名として発表されたもので、長らくそれがキャサリン・バーデキンの変名であると明かされていなかったこと。また、当時の文学サークルなどにほとんど参加しなかったことが理由なのではないかとされている。実際、本作は今読んでも示唆にとんでいて引き込まれるし、忘れられたままでいるにはもったいない作家・作品である。

そんな本作ではあるけれども、構造自体はオーソドックスなディストピアSFといえる。最初に暗い世界観が提示され、次に中心人物がそうした状態をおかしいと感じ、何らかのきっかけで隠されてきた真実を知り、そうした状態を覆す・真実を後世に伝えるために行動を開始する(が、大抵はどうにもならない)といった感じ。ただ、ディストピアSFの見せ場とは構成というよりかはどのような未来像を提示するかだ。

どのような世界なのか

本作の世界観的な特徴は、ナチス・ドイツと日本が支配した世界を描き出している点にある。ドイツはヨーロッパとアフリカを支配していて、日本はアジアやオーストラリアを支配しているらしいなど世界の統治が完全に二分している。

強固な階層性が敷かれ、ドイツ人は他国の人間よりも優越しているとされる。中でも女性の立場は低く置かれ、男性に対して能力的に劣っているとして見向きもされないばかりか、髪を切って坊主にされ、一定の年齢以上に達した場合レイプも咎められず、ほとんど産む機械と化している。『ドイツ人からすれば、女を愛するということは虫けらだのキリスト教徒だのを愛するのと変わりないということになるだろう。』

この世界のもうひとつの特徴は、この未来のドイツではヒトラーが神として崇められている点にあって、これがなかなかおもしろい。キリスト教徒が敵としてみられているのも、ドイツではヒトラー教が中心だからだし、ヨーロッパやアフリカを支配する根拠も「ヒトラーが神だから」と、ドイツの根底が「ヒトラーが神」という前提に支えられているのだ。無論、ヒトラーは神ではなくただの人間なわけだけれども、この世界では徹底的に歴史が破壊され、書物が破壊され、読むべき物といえばいくつかの技術書とヒトラー聖書と呼ばれる様々な伝説が継ぎ接ぎされた聖書しかない。

中心人物となるのはイギリス人のアルフレッドという整備士で、彼がドイツの一区画を統治する騎士であるフォン・ヘス、またその一族がずっと受け継いできた「ヒトラーの真実の姿」、そしてドイツの真の歴史を伝えられることになり──と、この世界の歴史が動き始めていくことになる。この世界のドイツを支えているのは「ヒトラーは神である」という宗教的前提なのだ。それが崩れた時、ドイツを支える基盤そのものがなくなってしまう。アルフレッドはその時、どのような行動に出るのか。

おわりに

もうひとつ興味深いのが、この世界ではドイツにしろ日本にしろ人口が減少しつつあり、特にドイツでは男児しか生まれなくなる危機敵状態で、もはや戦争は行われないだろうということになっている点だ。実際、今日本や韓国、ヨーロッパをはじめとして25カ国で人口が減りつつあり、今後も都市化が進むごとにその傾向は増し、2050年を境に世界人口は減少に向かうとする推計もある。そうした未来を予測した上での描写ではないが、現代と響き合っているという点ではおもしろい。

飛び抜けておもしろいわけではないけれども、ディストピアSFは執筆当時の社会への風刺としての側面が色濃くあり、社会の問題は時代を超えても本質的には変わらないことから、今読んでも十分に楽しめる一冊である。ちなみに訳者解説では日本で少子化が起こる理由について白井聡と内田樹との対談を「半ば冗談として語られたものであり」といいつつも引用しているが、根拠がないどころかあまりにもバカバカしい内容で、冗談ではすまない。先にも書いたように、少子化は日本だけの問題ではないうえに、人口について語られた本ではその理由について根拠が示されている。