読んでいると箔がつく本というやつがあって論理哲学論考はその類の本だろう。生憎と今まで読んだことなかったのだが、光文社古典新訳文庫で今月出ていたので読んでみた。
初読み時の感想は、どうにも言葉の定義が曖昧で話題もばらけており、いわんとしていることがなんとなくはわかるけれども、それが正しいのかどうかよくわからん、といったところ。何しろ断定の繰り返しであり、出てくる単語について言葉を尽くして「これはここではこういう文脈で言っているんだよ」と丁寧に解説してくれるわけでもなく放り投げられるので、新たな単語が出現する度に高度な推理力が必要とされる。たとえばいきなり「論理空間」なんて言葉が出てくるがその言葉が一体何のことなのか説明などされないのである。
始まりからこれだ。『I 世界は、そうであることのすべてである。』『I.I 世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。』まあこのへんはなんとなくわかるだろう。いきなり世界とぶちあげているが、ようはこの「世界」は我々がいるこの現実のことだろうと想像がつく。「そうであることのすべて」とはまた微妙なものいいでどう捉えたらいいのか難しいが、いま現実で進行していることがすなわち世界であるということだろうか。
問題は次のI.Iで、世界は事実の総体であって事物の総体ではないという。これはどういうことだろう。目の前に机があって椅子があってパソコンがあるが、こういう物の集積物が世界なのではないかと思うがそうではないという。事物と事実って何が違うねん。もう少し読もう。次の記述で『I.II 世界は、事実によって規定されている。その事実がすべて事実であることによって、規定されている。』『I.I2 というのも、事実の総体が、なにがそうであるのかを、そしてまた、なにがそうでないのかを、規定するからである。』とくる。
ははあ、既に何を言っているのかよくわからないぞ。まだ1ページも終わってない。少し考えてみると、「事物」といっているのは「机」であり「椅子」であり「パソコン」だが実際問題それらは「机の上にパソコンがあり、その前に椅子がある」といった関係性の中にあるのであって、そういった事物とは別個に存在する関係性といったものを「事実」といっているような気がしないでもない。読み進めていくうちにそういうことはなんとなく了解されてくる。
さて、こんなかんじで一文一文「これはどうなんだ」と書いていったら元のページ数の何倍も文章を書かなければいけなくなるのでこんなところでやめておく。それをやると『『論理哲学論考』を読む』になる。単なる解説書という枠を超えて怪しい、曖昧な解釈にガンガン私見をぶつけてくるまた別種の創作物である一冊なので、論理哲学論考を読んだ後に読むとなかなか面白い。
話を戻して『論理哲学論考』に戻そう。これ、全体を通して読んでみれば、面白くて刺激的な本だった(すごい上から目線だな)。ウィトゲンシュタインというおっさんは、この論理哲学論考の冒頭で「私は、哲学の問題を本質的な点において最終的に解決したと考えています。」とぶちあげてみせる。なかなかクレイジーなおっさんだ。しかも「終わらせたぜ」というだけではなく、彼はこの論理哲学論考をきっかけに本当に哲学をやめて教師になってしまうのだから大したものだ。
もっともその後論理哲学論考の誤りを認めて哲学に舞い戻ってくるのだが。だからこの本は誤っている本なのだ。そんなものを読む意味があるのかといえば、ウィトゲンシュタインの言葉はきれっきれで面白いし、言っていることが厳密にいえば誤っていたとしても読んで発想を得る分にはなんの問題もない。おおまかにいえば論理哲学論考は「哲学の問題が問題になるのは言語が誤解されているからであって、だから誤解されないような形を考えようよ⇒どこまでならちゃんと考えられるのか定義してみよう」という筋に出来ると思う。
ようは世界を「絶対に正しい語り方」において語っていけば、世界を正しく語れるわけであり、正しく語れないことについて語ろうとするからうまくいかないんだよ、っていう話だ。専門家でもなければ精読したわけでもないので信用しないほうがいいだろうが。論理学が起こったばかりの頃によくそんなことを言ったもんだなあと思う。今ではそんな考え方も記号言語を使いこなすプログラマーがそこら中に溢れているからもっと理解されやすいだろう。沈黙しなくてはいけないかどうかは別として。
さて、そんな前提にたって先ほど書いたような『I 世界は、そうであることのすべてである。』などという、世界を定義する一言から始まるのだから、その後の雰囲気はなんとなく察せられるのではなかろうか。こんな風にずっとよくわからん単語を繰り出しながら世界とはこうなのであるといった絶対に正しそうな要素を積み上げていくのがこの論理哲学論考だ。世界をざくざくと言葉によって切り分けていくのは大変に爽快である。たとえ間違っている部分があったとしても、一人の人間が世界解釈を一つ構築して見せたわけで、その思考の広がりからは得るものが大きい。
ちなみに元の野矢さん訳版では、最初の記述は『世界は成立していることがらの総体である。』であり次のは『世界は事実の総体であり、ものの総体ではない』となっていて、結構違う。あの有名な『語りえぬものについては、沈黙せねばならない。』は、光文社古典新訳文庫版では『語ることができないことについては、沈黙するしかない。』と随分普通の表現になっている。
原文が読めないのでどっちがより適切なのかはさっぱり判断がつかないが、「そうであることのすべてである」などと言われるよりかは「成立していることがらの総体である」の方が幾分かわかりやすい。もちろんどちらが優れているかなどという話をしたいわけでもなく、ただそうしたわりと一新された違いがあることを情報として一応書いておきたかっただけだ。
訳者の方のあとがきを読むと、結構噛み付いている。たとえば『語りえぬものについては〜』の訳について『ん? その気になれば語ることができるのだろうか。「せねばならない」には、お説教のにおいがする。』と書いて原文との突き合わせまで解説してくれている。他にもいくつか例をあげているが、「ではないでしょうか/ということだろう」といった推測混じりの接続法や助動詞が「である」と強調されているところがあるといった程度。
これに対して「臆病でフラットな翻訳」があってもいいのではないだろうか、ということで光文社古典新訳文庫版はきっとそんな訳になっているのだろう。
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