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この10年で最高のロシアSFと言われる傑作終末SF──『サハリン島』

サハリン島

サハリン島

このエドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』は、ロシアのメディアで、この10年で最高のロシアSFと評されているSF長篇である。「この10年で最高」というのは、気軽に使うにはリスキィな褒め言葉だ。何しろ、これでつまらなかったら他のこの期間に発表されたロシアSFはいったいなんなんだ、という話になってしまう。

なので、話半分というか……、勢い余って言い過ぎちゃった人がどっかのメディアにいたのかな? ぐらいの心持ちで読み始めてみたのだけれども、いやはや……。これはたしかに、この10年で最高のロシアSFかどうかはわからないがめちゃくちゃおもしろい! 表面的な題材だけ抜き出してみれば、ゾンビ的な感染症に第三次世界大戦による終末世界化、変容してしまった世界を二人の男女が旅をするという、ありきたりなポストアポカリプス物としか言いようがない。だがしかし、そこで描かれていく世界の緻密さ、そして情景の異常さは並の密度をはるかに超えていて、冒頭の数十ページを読んだだけで凄いものを読んじまった、という感覚が沸き起こってくる。

端的にいって、傑作なのは間違いない。2020年はテッド・チャンの『息吹』や、イスラエルSFの傑作アンソロジー『シオンズ・フィクション』といった記憶に残る海外SFが多数刊行された年だったのだが、この年の瀬に刊行された本作がそうした並み居る強豪たちを一気に抜き去っていった、それぐらいのレベルの作品である。

世界観を紹介する

この作品、何が凄いって、プロットではなくて、その濃密な世界の描きこみが群を抜いているので、ここを中心に紹介してみよう。

主な舞台は書名にもなっている「サハリン島」。これは北海道の少し上に位置する島で、日露戦争後のポーツマス条約によってサハリン島南部はかつて日本の領土とされていて、当時40万人の日本人が暮らしていた。その後第二次世界大戦末期にソ連に実効支配され、その後は領土未帰属として領土問題化している……というのが現実のサハリン島。作中では、北朝鮮発の核戦争が世界で巻き起こり、時を同じくして移動性恐水病(MOB)と呼ばれる致死的な感染症が発生し、世界は破滅へとまっしぐら。

しかし日本だけはMOBが蔓延する前から鎖国政策をとり、周辺にやってきた他国の船(主にロシア)を燃やし、工業国としては唯一生存に成功する。自衛隊幕僚幹部は〈維新〉を宣言し、日本は自らを〈帝国〉と宣言。事実上太平洋の全海域を自国領とし、サハリンとクリル列島に近衛部隊を配置し、中国人とコリアンの狂乱を鎮圧。これは、事実上日本(大日本帝国)が、覇権をとった世界といえる。であれば、なぜ島の名前は樺太ではなくサハリンと呼ばれているのか、他の北方領土もロシア名だし……という疑問が湧いてくるが、この辺の経緯も世界観と密接に絡んでいておもしろい。

なぜサハリン島?

なんでも、世界を一変させた〈戦争〉後、日本人は北方領土に対する優先権の証明をする必要もなくなり、このテーマへの関心が薄れてしまった。そこで、歴史的教訓としてこの存在の儚さを忘れないために旧名称を残す決定が天皇レベルでなされたのだという。だが、他にも説があり、当時の皇太子のロシア人の恋人がなくなってしまったことを記憶するためにすべてのロシア語地名を残すことにした説。また、〈北方領土〉の昔の名前を残すことは、ある種の防衛魔術を使うことだとする仮説もある。

北方の島々の土地は今では固有の領土として大不動産台帳に入っているが、帝国の神学的空間にはまだ入っていない。理由は、樺太県の領土はしかるべき方法で手に入れていないからだ──武力で侵略したわけでもなければ、経済力で併合したわけでもなく、巧みな外交でもぎ取ったわけでもない。努力も目に見える犠牲もなしに、大国の一部が欠け落ちて手に入ったのだ。だから、神学上は完全な天皇領ではあり得ない。

さらに、サハリン島は文明の火を残している日本とMOBが蔓延し放射能に汚染されカオスに沈んだユーラシア大陸との境界線上にあることもあって、神学上でもこの領土に日本名を与えることはしたくないのだ──、といったことを真面目に語っていく。この世界、犬や猫といった動物自体は存在するのだが、なぜか空を飛ぶ鳥はほぼ死んでいる。それでも東京の皇室動物園にはガチョウがいて、ただしこいつも癌で死んでは皇室医学アカデミーの魔法使いによって再生されているなど、ここまで読んだらわかると思うが、実は相当トンチキな話でもある。だが、このレベルの世界設定が津波のように押し寄せてくるので圧倒されるのだ。

サハリンとはどういう場所か。

いったんプロットに話を戻すと、物語は、サハリン島の調査にやってきた一人の女性未来学者のシレーニを中心として展開していく。島に3箇所ある刑務所を回ったり、官僚や軍人、徒刑囚、経済や社会分野を描写することが彼女の役割だ。その過程で未来学とは何なのか、彼女の(未来学の観点からみた)真の目的、さらにはサハリン島で起こるカタストロフに巻き込まれていくわけだが、あくまでも彼女と本書の中心的な目的は、このサハリン島という特異な場所、世界を描き出していく点にある。

サハリン島とはこの世界ではどのような役割を背負わされているのかといえば、先にも書いたように大陸と日本の間の緩衝地帯で、狂った土地だ。『サハリンは緩衝地帯にすぎません。その役割はかなり単純です。帝国社会の望ましからぬ輩の受け皿になっているのです。殺人者、強盗、変態、精神異常者、その他の悪人など少数であっても社会を破壊しうる者たちの。その一方で、サハリンは戦争後大陸から逃げてきた者全員を受け入れ、今も受け入れています。簡単に言えばここは巨大な……』

「サハリンは残りの世界に恩恵をもたらすが、地元住民にとっては地獄だと言えるでしょう。島は迫りくる混沌の力を押しとどめる最終防御線で、我々は悪と戦う真昼の防衛隊のようなものなんです……」

とは知事の弁。実際、この言葉通りにサハリン島及び北方領土周辺ではトンデモなことが起こり、普通ではない価値観がまかり通っている。娯楽は少なく、人々は娯楽を求めて毎月6日と9日には、用意されたニグロを集団で物を投げつけて殺そうとするニグロぶちのめしという遊びにふけっている(ラテンアメリカ人がニグロと呼ばれていたり、もはや元の意味は失われてしまっている)。ニグロは殺されすぎて数が減っており、死ぬのは歓迎されないが、別の場所ではわざわざ繁殖させていたりもする。

中国人とコリアンに対する激しい差別。帝国と化し天皇の意向が絶対視されるあらたな大日本帝国。イカれた登場人物たちによって語られる、未来論、ポストアポカリプス論、空と大地を繋ぐ〈糸〉の話。めちゃくちゃになった初期のサハリン島に秩序をもたらした、自治グループである、〈手押し車族〉と〈銛族〉。さらに、〈銛族〉と対立している、徒刑囚が刑期を終えて自由になった後に徒党を組み始めたことで出来た〈バケツ族〉(囚人は罰として罪に応じた鉛の入ったバケツがつけられているので)など、世界の奔流に身を任せているうちにあっというまに読み終わっていた。

おわりに

シンプルな漫遊録に終始するのではなく、ハリウッド映画もかくや、という(実際に映画化の話もあるという)スペクタクルもあり、描写は重厚でありながらもトンチキで、と、すべてがおもしろいという以外の言葉が出てこない。移動性恐水病(MOB)についても序盤はその説明がないのに終盤で何ページにもわたって詳細な病状が綴られるなど、描写の緩急、全体のバランス感覚がずば抜けて素晴らしい作品だ。

4000円超えで上下二段組400ページ近い作品と値段も厚さも重量級だが、それだけの価値はある。年末年始はこいつと共に過ごすのも悪くないだろう。