基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

罪を犯した人間をただ投獄するのは、正しいか──『囚われし者たちの国──世界の刑務所に正義を訪ねて』

囚われし者たちの国──世界の刑務所に正義を訪ねて

囚われし者たちの国──世界の刑務所に正義を訪ねて

この『囚われし者たちの国』は、刑事司法教育を教える大学ジョン・ジェイ・カレッジ・オブ・クリミナル・ジャスティスの女性教授であるバズ・ドライシンガーが9カ国の刑務所をまわって、今あるべき刑務所、許し、罪と罰の関係性について思考をめぐらせるルポタージュである。日本にいると法律に違反したら(執行猶予はあるけど)投獄されて自由を制限されるのは当たり前でしょ、と思うが、世界を見渡してみると刑務所も罪の償い方も千差万別であり、何が正しいのかわからなくなってしまう。

本書の著者は、出発点はアメリカの刑務所の実態のひどさから、刑務所についての疑問がスタートしている。アメリカが世界人口で占める割合は5%弱なのに、囚人が収容されている人数は230万人、世界の25%に達する。囚人のかなりの割合は薬物関連で投獄されていて、暴力犯罪を犯したわけでもないのに25年以上の刑期や終身刑を言い渡される。アメリカでは仮釈放が存在せず、終身刑は本当の終身だが(追記:すいません、ここ間違えました。アメリカには仮釈放ありの終身刑と仮釈放なしの終身刑があります)、こうした仮釈放なしの終身刑を採用している国は全体の2割ほどしかない。

日本もかなりアメリカと近い制度なので大きな違和感は感じないが、投獄して何年も期間社会から隔絶するのは、社会自体にとって良いことなのだろうか。アメリカでは、投獄される人の数が減るにつれて犯罪率も低下するというデータも、投獄したところで再犯率は下がらないというデータもある。たとえば、2007年から12年にかけて投獄率が大きく低下した州では、犯罪件数が平均12%低下しているのだ。

人を投獄すると、その間社会とのやりとりが途絶える。配偶者や子供らがいた場合、家庭は破壊され、戻る場所は失われ、仕事につくことも難しくなり、さらに社会に反感を抱かせる。こうした社会との繋がりをなくした人間が生み出されるのだから、投獄することで地域社会が安全になるというのは確かに考えづらいものがある。

導入が長くなったが、そうした疑問──「アメリカ発の刑務所への大量投獄制度は、失敗ではないのか?」を抱えながら、ルワンダからはじまってノルウェーに至る刑務所調査がはじまるのである。こうしてみていくと、良いにしろ悪いにしろ本当に様々なタイプの刑務所があり、罪にたいして我々はどのように相対すべきなのか、許しとは何なのか、刑務所とは更生施設であるべきなのか、それとも苦しみを与える懲罰施設であるべきなのか、と数々の問いかけをするとっかかりを与えてくれる。

ルワンダ

著者が最初に訪れるのは東アフリカの小国ルワンダだ。なんで? と思ったが、理由がおもしろい。ルワンダでは1994年に100万人近いツチ族をフツ族が殺す虐殺が起こっている。つまり、ルワンダは一つの場所で、何十万人もの加害者と被害者が隣り合って暮らしている特異な国なのだ。もちろん、彼らの間の対立は消えていない。そうであるからこそ、ここではその対立と許しについて考え直す必要に迫られている。

司法に対する国家の姿勢も、原点に立ち戻ろうとしているという話を耳にする。つまり、罰を求めるのではなく、許しと償いを説くのだ。ジェノサイドによって、ルワンダは国家を支える根本的な柱を見直さざるを得なくなった。その柱のひとつが刑務所制度であり、司法そのものだったのである。

虐殺後のルワンダでは、犯罪者には投獄ではなく、公益労働キャンプのどれかで、学校や道路を建設するといった一定期間の労働を行わせる判決が最も多いという。その判決を受け、週に3日働き、自宅から通うものもいる。建設に必要な技能、公民教育や読み書き、ルワンダの歴史についての教育も受ける。

もちろん刑務所も存在し、著者は、できるだけ単なる見学者にならないように、刑務所では必ずワークショップなどの対話の場を通してボランティア労働を数回に渡って行っていくが、訪れたルワンダの刑務所はアメリカの物とは大きく異なっている。矯正官は銃を持たず、刑務所内は自治によって保たれている。囚人の大半は外に仕事を持っていて、外に出ていって給料の一割を自分のものにできる。矯正官と囚人でサッカーもできるし、囚人服をきている以外は、見た目上は大きな違いはない。

商品も売られていて、クリーニングサービスも内部にある。犯罪や万引などの軽犯罪者ではなく、虐殺者たちが入っているにもかかわらずである。『ルワンダはひとつの壮大な法廷としての司法のあり方を試し、私たちが刑務所と呼ぶ概念の土台そのものを打ち砕いている』

タイ、オーストラリア

そのあと南アフリカ、ウガンダ、ジャマイカといろんな国を回っていくのだけれども、記憶に残ったのはタイとオーストラリアの二国。タイでは王女が率先して刑務所内の女性の権利についての活動を行っている。バズは許可を得て、演劇プログラムなどが特別に導入された女性だけの刑務所を3箇所まわる。

3箇所の刑務所の特別性もおもしろいのだけれども、これが国家によって管理され、見せたいものを見せられた「ショー」「演劇」としての訪問である、と最後に著者が語るところがおもしろいのだ。彼女の訪問はタイのメディアで取り上げられたが、それは宣伝なのである。とはいえ、それで刑務所自体の価値が下がるというものでもなく、演技には力があり、芝居を通すことで世論を変える力がある、と結論づける。

タイで彼女は広報としての役割を担わせられたわけだが、そうでなくても彼女は刑務所に数日滞在するだけのお客さんに過ぎず、そうした非日常・欺瞞としての刑務所訪問をどう自分の中で捉えていくべきなのか、といった自己批判・皮肉屋的な観点がどの刑務所に対しても持ち込まれていて、バランス感覚として優れていると感じる。

一方でオーストラリアは、悲惨なことになっているアメリカの民間経営の刑務所とはうってかわって、人道的な物が多い。たとえば、18〜24歳までが収監される民間刑務所の姿が描かれていく。囚人は入居者と呼ばれ、囚人服も着ていないので、誰が囚人で職員かすらわからない。仕事中のものは普通に出ていき、夜になったら帰ってくる。服役中は、生活するための技能、教育訓練、就職の機会が与えられる。また別の、民間経営の女性の出所準備センターでは大学と境目がわからないほどに隣接していて、数週間おきに子供が泊まりに来られる、洗濯をして食事も自分で作らないといけないなど、外の暮らしを再現するような、人道的な取り組みが行われている。

オーストラリアのすべての刑務所がこうであるはずはないし、著者も「民間刑務所が良い存在であるはずがない」*1と民間刑務所の悪い点を色々と調べたり、司法の問題点を列挙していくが、「良心ある民間刑務所」もあるのかもしれない──と次第に意見が傾いていく。

おわりに

ノルウェーも人道的な刑務所で知られ、与えられる刑期は短く(平均8ヶ月)、刑期は基本的に短縮され、刑期の半分ほどは刑務所外で生活できたりする。著者が訪れる開放型刑務所では、軽犯罪者だけでなく暴力犯罪に手を染めたものや問題児とされていたものもいるが、適切に運営され手間もほとんどかからないという。

何より凄いのは、こうした人道的な刑務所制度を持ちながら、再犯率が20%ととても低いことだ。アメリカは3年以内に再逮捕される確率は60%超え、日本でも再犯者率は48%と非常に高い。再犯率を抑えること、それ自体が刑務所の目的とはいえない。再犯したとしても罪に対しては罰を与えるのだ、という考え方もあるだろう。

そうした考えで運営されている、明確に苦痛を与えるための刑務所も、ブラジルなどで紹介されていく。ただ、どこへ向かうにしろ、今のままでいい、という国はどこにもない。ノルウェーも、再犯率が低いのは微罪でも拘禁されるからでもあるし、開放型の刑務所にも独房監禁区域は存在する。刑務所が今のままの形で運営されていくべきなのか? と少しでも疑問をいだいた人には、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。そうした理念的な話を抜きにしても、他国の刑務所の話って純粋におもしろいしね。

*1:アメリカでは民間刑務所が、利益追求の結果囚人一人あたりにかけるコストを大幅に削減したことでひどい環境になっている