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週刊文春はなぜスクープを連発することができるのか──『2016年の週刊文春』

2016年の週刊文春

2016年の週刊文春

  • 作者:柳澤 健
  • 発売日: 2020/12/15
  • メディア: Kindle版
スクープを連発する日本一の週刊誌「週刊文春」と、その中でも二大編集長である花田紀凱と新谷学を中心に取り上げた文藝春秋闘争記である。僕は特集が気になった月刊文藝春秋を読むぐらいで、週刊文春は手にとった記憶がない。僕が普段読むような本ではないが、年末年始で僕の好きな翻訳系科学ノンフィクションの刊行も少なく、評判もいいので読んでみたら、これが世評通りに大変おもしろい。

なぜ2016年なのか。

本書が刊行されたのは昨年の12月のことである。であればなぜ、2020年ではなく2016年の週刊文春なのか、というのが最初に気になったところだが、読んでいて思い出したが、2016年は紙の週刊文春が光り輝いていた最後の時代なのであった。2016年早々に甘利明経済再生相の金の疑惑を報じ、ベッキー&川谷の不倫を報じ、清原和博の覚醒剤使用懺悔告白、「元少年A」の直撃取材──とテレビやネットを騒がせた大スクープを次々とあげ、〝文春砲〟という言葉が使われだしたのがこの頃だった。ほんの数年の間に、すっかりこの言葉も使われなくなっている気もするが。

もちろん、コロナの状況を除いても雑誌にかつてのような盛況が戻ってくることはありえず、雑誌としての週刊文春はその後部数や影響力を大きく落としていく。その代わりに文藝春秋は文春オンラインを立ち上げ、スクープをとることからスクープで稼ぐこと、雑誌だけでなく多様な形で収益を上げることにシフトしていくわけだけれども、そのあたりの描写は控えめで、やはり盛り上がりのピークは2016年にある。

僕は正直、芸能人の不倫なんかスクープして下世話な好奇心を満たすことに何の意味があるんだよ、と否定的にみていることの方が多いけれど、文春がスクープを連発し人の興味関心を引き続けてきたのは間違いがない。であれば、なぜ文春だけがそこまでスクープを連発できたのか。本書は、文藝春秋に勤務し週刊文春の記者だったこともある著者が、週刊文春の歴史と共にその実態を解き明かしていく。

週刊文春は1959年創刊の、60年以上の歴史を持つ雑誌であり、そんだけ長けりゃとんでもない事件が多数存在している。宮内庁批判の記事を連発し右翼から社長の家が銃撃されるとか。JR東日本労働組合の松崎委員長が革マル派だというスクープをあげたらJR東日本管内のキヨスクが週刊文春を販売停止し、約90万部の部数のうち11万部もそこで売っていたので大変な騒動に発展したとか。立花隆はもう間に合わないというところまで書かず、いつもギリギリまでゲームをやって遊んでいたとか笑

そうした週刊文春、文藝春秋でのゴタゴタや揉め事をどう乗り越えていったのかという数多のエピソードもおもしろいが、創刊当時週刊誌としては週刊新潮の力(部数や取材力)が強く、文春がその部数をどうやって超えるのかという少年漫画的展開。それを打ち破るきっかけとなった、誰にでも好かれ、コピーライティングの才能がずば抜けていて、底しれぬ情熱を持って雑誌構築にあたる花田紀凱と、花田とはまた別方向の能力──人付き合いの広さとマメさを武器に立ち回る新谷学という二人の魅力。

週刊誌編集者とはどのようなこと技術が必要なのかという編集論、雑誌とは何なのかという雑誌論としてもおもしろく、とにかく多角的に楽しませてもらった。

雑誌論、編集者論

たとえば編集者論としては、週刊文春編集長の田中健五のエピソードで、『健五さんは、編集部で新聞を読んでると怒るんだよね。新聞くらい家で読んでこい。昼飯も食堂で食うな。外で食ってこい。そのくらいのカネは出してやるって。お前のアタマなんかたいしたことない。貧弱な頭蓋骨が一個しか入ってない。外に出て一〇人優秀な人、新しい人に会えば、素晴らしい頭蓋骨が一〇個増えることになる。これをやらないと編集者は生きられないよ。』と語っていたのが文春の中心になっている話とか。

雑誌のプランとは疑問であり、疑問を解き明かすのが記事である。編集者が答えを出す必要はない。答えは取材者、執筆者が出す。優れた疑問を常に持ち続けることこそが編集者の仕事なのだ。「読者の半歩先を歩け」とは池島信平の言葉だが、田中健五は読者から遊離せず、それでいて読者よりわずかに早く「なぜだろう?」という疑問を抱き続けた。

上記の雑誌のプランについての話もおもしろい。田中は1977年に週刊文春編集長に就くのだが、その時にこの雑誌を「タイム」や「ニューズウィーク」といったような、読者からのクレディビリティ(信頼性、客観性、正確性)の高いものにしたいという基本方針を打ち出し、それが今に至るまで週刊文春の中心となっている。

訴訟との戦い

スクープにつきものなのが名誉毀損やプライバシー侵害による訴訟だ。実際週刊文春はこれまで幾度も負けて慰謝料を毎回数千万払い、謝罪文を掲載してきた。週刊ポストや週刊現代はそうしたのだが、裁判沙汰になりそうな記事を避ければ当然スクープは出せなくなる。文春がスクープを連発できる理由の一つは訴訟を恐れないことだ。

恐れないといってもただ負けて終わるのではなく、何十件も負けていく中でどう書けば負けないのか、というノウハウがたまり、訴えられても勝てる記事を書けばいい、という方向にシフトしていったのがおもしろいところだ。それが無事に身を結んだのか、2016年は民事訴訟を1件も受けていないという意味でも記念碑的な年だったという。反論を許さないように物証を押さえ、取材対象の言い分もきちっと載せておくといった形で、訴訟をある程度コントロールできるようになっている。

もうひとりの主人公である新谷学は「週刊文春だけがスクープを打てるのはなぜですか」と聞かれて、『新谷 今年になってから何度も聞かれた質問ですね。答えは至って単純。それはスクープを狙っているからです。「スクープをとるのが俺たちの仕事だ」と現場の記者はみんな思っている。そう思って取材しているし、現場に行っている。』と答えているが、この「スクープをとるのが仕事だ」と思え、訴訟との戦いまで含めて全てのノウハウをため、環境を整えるのが難しい時代なのだろうな。

おわりに

めちゃくちゃ褒めてきたけれども、結局は営利追求が重要なわけで、いろいろと言い訳し、大層な建前を用意してるけど実際それってどーなのよ、と思う発言も多く(少年法を平然と破ったり、芸能人の不倫報道に関してだったり)、スクープ主義ってやっぱクソだわ、とウンザリするところもある。ただ、そうしたギリギリを攻めることこそが週刊誌の本質であり魅力ともいえるのだろう。『読者が求める刺激を提供しつつ、訴訟や社会的非難を浴びるリスクをギリギリのところで避ける。雑誌、特に一般週刊誌や写真週刊誌は、宿命的に危ない綱渡りを続けていくことになる。』

500ページ超えの本で読み切るのは大変だったが、それだけの価値はある一冊だ。文春オンラインについても(メインではないけれども)後半はけっこう触れているので、そちらに興味がある人も安心して手にとってもらいたい。