基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

新しいテクノロジーを前に、我々はどのように「会話」すべきか?『あなたが消された未来――テクノロジーと優生思想の売り込みについて』

生物は遺伝子によってある程度その姿かたちや能力が決定付けられているが、近年のバイオテクノロジーの進歩によって我々はその「生まれ持ったもの」への介入が可能になりつつある。また、遺伝子改変といった大掛かりなものでなくとも、解析が進み、出生前であってもいくつかの病気はかなりの精度で判別できるようになった。

子供の障害の有無を判別することができれば、産む前に中絶するかどうかを選択することができる。たとえば、新型出生前診断(NIPT)は、採血でダウン症などの先天性疾患を判別できるとして広まっている。日本でも2013年の導入以降、NIPTを利用する人は増え、陽性が確定したうちの9割が中絶に踏み切っているという(中絶率は国ごとに異なり、アメリカでは陽性者にカウンセリングや染色体異常のある赤ちゃんを出産した場合のサポートの紹介をし、ダウン症の中絶率は6割程度であるという)。

我々はこの問題についてどう考えていけばいいのか。社会には商業的な利益のために欠点をできるだけ控えめに語り、莫大な恩恵を約束するバイオテクノロジーについての〈説得〉が満ちている。一方、カウンター……つまり、そうしたテクノロジーを用いた結果消えていくことになるかもしれない、障害を持つ側の声は足りていない。

本書が問いかけていくのは、そうした「会話」の重要性だ。我々はヒトの在り方を変えてしまう変化を目の前にしているのに、それが何をもたらすのかについて会話が足りないのではないか、というのが中心的なテーマであり、バイオテクノロジー批判一辺倒の本ではない。著者はダウン症(体細胞の21番染色体が通常より21本多く存在することで起こる先天性疾患群。軽度の知的障害や特徴的な顔つき、心疾患などが起こりやすい)の娘をもつ作家であり、当事者に近い立場からこの問題に向かっていく。

私は科学を徹底的に支持するし、今、この言葉を打ち込んでいるコンピューターから、心臓を治しているあいだローラの命を保ってくれたECMO(体外式膜型人工肺)まで、先進テクノロジーを好ましく思う。だが、新しいバイオテクノロジーの助けを借りようというのなら、そうしたテクノロジーの正体をはっきり見極めなくてはならない。そして、有り体に言えば、そのバイオテクノロジーが障害についての私たちの誤解や、「正常」という、有害なことが多い考え方への傾倒を反映し、増幅していることにも気づかなくてはならない。

危機感

著者がこの問題に取り組んでいるのは、ひとつにダウン症の娘を持つ親として危機感を抱いているからだ、誰もがダウン症は社会から消し去るべき障害と判断し、産まず、遠ざける未来に向かうのであれば、ダウン症や障害への理解は後退し、現在社会に人間として受け入れられている著者の娘は、居場所を奪われているかもしれない。

現在、出生前診断はポジティブなメッセージとセットになっている。出生前診断の宣伝では、ダウン症などの先天的な疾患や障害は家族にとって危険で避けられる悲劇であり、検査の結果それがなかったとしたら喜ばしいことだ、というメッセージを発する。WEBではマイナスの言葉は出てこず、安全と安心、精度の高さを誇る言葉と、画像がある場合は、幸せそうな母親や夫婦、健康そうな赤ちゃんが載せられている。

科学とテクノロジーは良い未来を導き、障害はコストであるとそうした宣伝は訴えかけてくる。だが、そうした「語り」に説得される前に、一度立ち止まって考える必要もあるだろう。たとえば、何をもって障害と正常を分けるのか。かつては、同性愛は疾患とされてきた。「障害者」というカテゴリーは「身体的、あるいは精神的健常者」との関係においてのみ理解されるものであり、単体で存在しうるものではない。

さまざまな特性を持った人が社会に溢れていることがもたらしている効果もあるのではないか。遺伝子と障害の繋がりが明らかになり、潰されていったら、いずれ知能が低いことも障害とされるのではないか──などなど。

テクノロジーと語りについて

本書がおもしろいのはダウン症と出生前診断の話に終始するのではなく、そこから「テクノロジーが何物であるか以上に、それがどのように記述されるかが重要だ」という、科学と語りについての大きなテーマに繋がっていくところにある。

たとえば、ゲノム編集技術クリスパー・キャス9とその共同開発者であるジェニファー・ダウドナと彼女が共著者である本を例にあげながら、バイオテクノロジーを支持するときに使われがちな怪しげな戦術──、敵対者を「感情的」とか「技術革新反対者」とか決めつけて資格を奪うやり方であったり、人間の遺伝子編集は「避けられない」と主張し、技術をどう応用するかだけに会話を制限する手法を説明してみせる。

『暴力の人類史』のスティーブン・ピンカーは、クリスパー・キャス9を絶賛しながら、私たちが癌や心疾患、統合失調症やハンチントン病やアルツハイマー病、身体疾患や精神疾患で身近な人を亡くさなかったとしたら、いったいどれだけ幸せか想像してみてほしいと情に訴えかけたが、これも説得の一手法だ。ピンカーのこの発言は生命倫理を一まとめにして退けたために批判を受けたが、『生は死に優る、健康は疾患に優る、強壮は障害に優るというのは明白な倫理原則だ、と人は思うかもしれない。だが、驚いたことに、いわゆる生命倫理学者たちは、こうした自明の理を繰り返し否定してきた』とインタビューで生命倫理学者らに対する反論を述べている。

ピンカーの語りもまた、現代でよく見られる新しいストーリーの一形態だ。

新しい物語も世の中の全体像を提供するが、キャラクターは「科学者」と「技術革新反対者」と「デザイナーベビー」だ。「疾患」や「障害」や「死」も含まれているが、一部の新しいストーリーでは、それらは人生に関する所与の条件というよりも改訂の対象となる条件の方が多く、疾患は克服可能で、死は未然に防いだり完全に征服したりできる。

生命倫理学者がアルツハイマー病や膵臓癌の治療に反対しているわけではなく、複雑な陰影を持つ疾患をひとまとめにし、情に訴えかける手法で一線を超えることに対して警告をしているのである。『遺伝子の発現の一形態を沈黙させる前に、私たちはそれについて理解したのかどうかを問うべきだ。疾患を治療する前、消し去る前に、それをはっきりと見て取ったのかどうかを問うべきだ。』というのは間違いない。

おわりに

本書は決して出生前診断を行い、中絶を選択した人たちを責める本ではない。親の立場からしてみればたとえダウン症の可能性があっても産んであげたいという思いと、自分が財力的な意味でも年齢的な意味でも責任を持って育てられるのかという葛藤もあるだろう。そこには家族ごとの複雑な思いがあるはずであり、本書は著者自身の子供との関係を踏まえながら、その複雑さを複雑なままとらえようとしてみせる。

親としての立場であり、当事者本人からの視点がほとんどないのは片手落ち感もあるが(たとえばなぜ産んだのかという恨みも出てくるだろう)、一つの視点の表明としておもしろかった。僕もサイエンス・ノンフィクションについての記事をよく書くから、正直ここで著者が批判してきた単調な語り口の片棒を担いできた自覚がある。個人的にも反省があぶり出される一冊であった。