基本読書

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《三体》三部作の前日譚にして科学と兵器開発の関係をテーマに据え壮大なスケール性を持ったSF長篇──『三体0 球状閃電』

『三体0』は、《三体》三部作の連載前年に出た、劉慈欣本人による前日譚的長篇SFになる。空中を発光体が浮遊する「球電」と呼ばれる事象の探求が、世界を一変させる兵器に繋がっていく過程を描き出した、科学✗兵器開発をテーマに据えた作品だ。

原書の書名には三体の名は冠されてはおらず、話的に直接繋がっているわけでもない。だが、一部登場人物や科学技術は共通しており(たとえば天才物理学者の丁儀など)、劉慈欣的にも緩やかなシリーズものという認識はあったらしい。そのため、邦訳版では編集部が著者サイドに問い合わせて三体とつける許可をもらった──という経緯がある。そのため、本作から最初に三体世界に入っても良く、《三体》三部作を先に読んでも良い──そうした位置づけの作品になっている。

問題は本作がおもしろいか否かだが、これが非常におもしろい。球電という現実に存在する不可思議な事象。その解明のプロセスは、仮説を立て検証していく科学の王道そのもので、それにより判明した事実はこの宇宙の物理法則の新たな理解へと繋がって──と、最初は「球電とかあんま興味ないなー」ぐらいのテンションで読み始めたのだけど、次第に劉慈欣らしい、壮大なスケールへと発展しのめり込んでいく。《三体》三部作や劉慈欣の短篇が好きな人ならば、必ず気にいるであろう長篇だ。

あらすじ、世界観など

物語の時代はおそらく《三体》の開始時点から少し前。中心となっていくぼくこと陳は14歳の誕生日の時に「球電(ポール・ライトニング)」と呼ばれる事象によって両親を失い、球雷の研究者となった人物だ。球雷はふわ〜っと移動し壁などにあたってもすり抜けたが、人体(両親)に接触した瞬間、それを灰に変えてしまったのだ。

先にも書いたが球電は現実に多数目撃が報告されている事象で、地面近くの低空に現れ、大きさなども知られているものの、その科学的な理屈には未だ決着がついていない(と思う)。はたして、これはどのような事象なのか──? を陳が解明していく過程が、物語の前半パートにあたる。《三体》三部作ではいかに基礎科学が重要かが三体星人側からも人間側からも語られていたが、本作でもそのテーマは健在で、球電の探求の過程は、科学の探求の苦しさとおもしろさに満ち溢れている。

一生かけて研究したいと言ってた、山頂で滾地雷を見て、とり憑かれたんだろ。人間ってのはそういうもんだよ。どういうわけか知らないが、なにかひとつのものにとり憑かれて夢中になったら、一生それを捨てられなくなる。(p47)

そうして研究に邁進している陳はある時、軍の高官を父に持ち、新概念兵器開発センターで兵器研究に没頭している林雲という女性と出会い、球電を兵器として運用する可能性を共に模索していくことになる。この林雲がまた、「兵器に、現実を超越する美を感じない?」と語りかけてくる根っからの兵器開発・研究者で、目的のためなら法を犯すこともいとわない、魅力的なキャラクターだ。

相変わらず冴え渡る演出。

球電を兵器転用するために研究するとしても、そもそもどうやったら球電が生成されるのかすらよくわからないままである。ロシアの球電研究者からその研究成果も伝授してもらうが、生成された状況をいくら見比べてみても同一のパラメータ、環境があるようには思えない。であれば、球電生成には環境は関係ないのか──などと様々な仮説を立てては潰していった先に、まるで別の角度から真実へと至ることになる。

その真実に至り、理解するためにはこの宇宙の物理法則自体の理解を一歩前進させる必要があり、このあたりから物語は加速がついてスケールしていく。そして、そうした既存の枠を超えた発想をする時に必要なのは、基礎理論の枠の中で推論を重ねていく「凡人」ではなく、枠の外で思考ができる「超人」なのだ──という理屈で、《三体》本篇にも登場する天才物理学者・丁儀が召喚されるのだ。

丁儀関連は劉慈欣の演出が冴え渡ってるな、と感動させてくれるシーンが多い。たとえば下記は「超人」の一人として丁儀の名前が上がる場面だが、どうしたってワクワクしてしまう。

「学術的な水準は?」
「国内最高です」
「所属は」
「どこにも所属していません」
「在野のマッドサイエンティストを探しているわけじゃないんですよ」
「丁儀は哲学と量子物理学の博士号を取得しています。数学の修士号もありますが──専門はなんだったかな。ともあれ彼は、大学の主任教授をつとめ、最年少の科学アカデミー会員であり、中性子崩壊に関する国の研究プロジェクトで首席科学者をつとめたこともあります。去年はその研究でノーベル物理学賞にノミネートされていたという噂です。これでも在野のマッドサイエンティストだと?」
「ではなぜどこにも所属していないのですか?」
 物理研究院のトップと物理学部長はどちらも鼻を鳴らした。
「それは本人に聞いてください」(p193)

あと、球電の量子的な性質を検証している時の不可思議な結果と、それに対する仮説が丁儀によって提起されるシーン(p253)には鳥肌が立つような魅力があった。こういうシーンを書かせたら劉慈欣の右に出るものはいない。

兵器開発の苦悩と責務

本作にはそうした研究の魅力的なプロセスだけが描かれていくわけではない。なんといっても、陳は林雲と出会うことによって単なる球電の研究ではなく「球電の兵器転用」に足を踏み入れてしまっているのだ。研究が成功すれば、それは同時に人を効率的に殺傷できる手段が世の中にひとつ生まれることとイコールなのである。

兵器に美を感じ、研究に夢中になっている林雲は、一般的にいってとてつもなく危険な存在だ。丁儀は、自分の研究対象はサイズでいえば10のマイナス30乗センチメートル以下かそれとも100億光年以上であってこの2つのスケールからすれば地球だの人類だのはとるにたりないという人物で常人からすると感覚がズレている。彼らと肩を並べる陳はといえば両親の件もあって兵器転用とその実験過程での犠牲に心を痛める人物であり、球電が兵器として用いられることに深い苦悩と危惧を抱いていく。

自分が創り出した兵器が人を殺戮した時、どのような行動をとるべきなのか。責務を果たすことはできるのか。はたまた、果たすべき責務など存在しないのか。根っからの物理学者は、その奥底では、丁儀のように人間と地球のことなどどうとも思っていないのか──本作では、兵器開発に携わるものの様々な立場が描かれている。

おわりに

兵器開発の責務についてのテーマを入れるなら終盤のある重要な要素などはその焦点をブレさせてしまっているのではないかと疑問に思う部分もあるのだが、演出のキレ、人物の造形などは《三体》三部作と比べて何ら劣るところはない。人の悪性というか、キャラクタ造形にも《三体》三部作と見比べた時に共通する部分があり、劉慈欣の表現したい人間観がシリーズを通して読んでいくことでよくわかる。

年末読書におすすめしたい一冊だ。