はじめに
本の雑誌2021年3月号掲載の原稿を転載します。普段僕が連載で取り上げている本は完全に自分の好みで選んでいるせいでサイエンスノンフィクション多め、それもほぼ翻訳書になってしまうのだが、今回は『2016年の週刊文春』とか、『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』といった普段取り上げないような本が入っている。
今回取り上げた中でもとりわけオススメなのは、やはり刑務所を渡り歩いた『囚われし者たちの国』で、塀の中で質素な食事で単純労働を繰り返すといった僕の中の貧弱な刑務所イメージと、罪と罰はどのような対応関係であるべきなのか、といった問いかけに対して新しい視点を与えてくれた一冊だった。
本の雑誌2021年3月号掲載
まず紹介したいのは、世界の特徴的な刑務所を渡り歩き、罪に対する罰、許しとはなんなのか。刑務所は今の在り方のままでいいのかを考えていく、バズ・ドライシンガー『囚われし者たちの国 世界の刑務所に正義を訪ねて』だ。本書の出発点となっているのは、アメリカの刑務所運営の劣悪さである。アメリカで収容されている囚人数は二三〇万人で、世界の囚人の二五%に達する。囚人の多くは薬物関連で投獄され、暴力を犯したわけでもないのに二五年以上の刑期や終身刑を言い渡される。近年、投獄されると社会との繋がりが切れ、社会復帰が難しく再犯に繋がることが指摘されている。投獄される人数が減るにつれ犯罪率が低下するデータが存在するのだ。ルワンダでは、犯罪者は投獄ではなく、公益労働キャンプで学校や道路を建設させる判決がくだることが最も多い。オーストラリアでは民間刑務所が盛んで、囚人は入居者と呼ばれ、囚人服も着用せず、仕事のための外出が許されている場所もある。刑務所がどこへ向かうにしろ、今のままでいい、という国はどこにもない。刑務所のあり方について、疑問をいだいたことがある人にはぜひ読んでもらいたい一冊だ。
関連して、世界ではなくアメリカの刑務所に刑務官として潜入した著者によるルポタージュ『アメリカン・プリズン──潜入記者の見た知られざる刑務所ビジネス』もおもしろかった。民間経営の刑務所の中には、受刑者の食費や衣服、医療コストを非人道的なレベルまで削ることでコスト削減して設けを出そうとする場所があるという、あまりにも酷な現実が紹介されていく。800人の受刑者にたいして刑務官が2人しかいない、というケースもあるのだ。そんな状況でまともに管理できるはずがない。続いてリュック・ペリノ『0番目の患者』は、病気を発見し、有名になった医者"ではなく"その患者の方にスポットを当てた医学ノンフィクション。感染症学では集団内ではじめて特定の感染症にかかった人のことをゼロ号患者というが、本書はその定義を感染症以外の症例にまで広げている。脳に損傷を受け言語能力が失われた患者タンタンは、後にその損傷箇所の名が、発見した医師の名をとってブローカ野と名付けられることになった。発達性言語協調障害を患った一族の話、脳の九〇%が液体になっているのに、普通の受け答えができる脳のない男など、医療は自分の病気を認識し、医師に相談した患者抜きには進展しなかったことが読み進めていくとよくわかる。スクープを連発し日本一の部数を誇る週刊誌となった週刊文春。その六〇年以上の歴史を、元文藝春秋社員でノンフィクション作家の柳澤健が、花田紀凱と新谷学という二人の名編集長を主人公として描き上げたのがこの『2016年の週刊文春』である。宮内庁批判の記事を連発して、激怒した右翼が社長邸を銃撃するとか、JR東日本最大の労働組合委員長の松崎が革マル派だというスクープを出して、JR東日本管内のキヨスクが週刊文春の販売を停止し、十一万部の販路が途絶えたとか。そんなエピソード群だけでも魅力的だが、当初週刊新潮に部数で負けていた文春が雑誌の申し子花田を編集長に据えスクープを連発し猛追する少年漫画的展開、週刊誌の編集者は何を重視すべきなのか、という編集者論、スクープにつきものの民事訴訟をどう乗り越えるのかなど、様々な軸からぐいぐい読ませる快作だ!
人生一〇〇年時代といわれて久しいが、最新の統計では男性の健康寿命は七二歳、女性は七四歳。一方で平均寿命は男性八一歳、女性八七歳と開きがあり、我々は晩年の一〇年ほどは要介護や寝たきりの生活を送っている。近年、老化をできるだけ遅らせ、死ぬ直前まで元気でいられることはできないのか、という老化の阻止を研究する研究者が増えているという。『LIFE SCIENCE 長生きせざるをえない時代の生命科学講義』は、細胞生物学専門で、中でも老化現象に深く関わってくると見られている「オートファジー」現象の研究者吉森保による科学ノンフィクションだ。オートファジーの最先端研究だけではなく、科学的思考とは何か、遺伝子やウイルスとは、抗体ができるとはどういうことなのかといった生命科学に関連した広いトピックスについて、わかりやすく解説してくれている。これを読んでおけば、日常となった科学ニュースの理解がぐっと容易になり、騙されることもなくなるだろう。
『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』は、作家や哲学者の対談イベントを自前のカフェで配信し利益を出しているゲンロンという会社の代表をつとめていた批評家・東浩紀による、自伝的経営奮闘記である。主に経営について語った本ではあるが、書かれているのは華々しい成功ではなく、任せた相手に口座の金を使い込まれたとか、売上を寄付しすぎて会社が潰れかけたという、転び続ける日々である。最初は経理や事務を、やりたくないこと、見たくないこととして遠ざけていたが、次第にそれこそが会社の本体なのだと評価し、人間やはり地道に生きねばならん、と新たな境地に至る過程が描かれていく。ゲンロンでの事業を通して東氏の近年の『観光客の哲学』や『哲学の誤配』といった著作に至る流れやその中身もわかりやすくまとめられており、自伝的にもおもしろい。
サイエンス・ライターであるサム・キーンによる『空気と人類 いかに〈気体〉を発見し、手なずけてきたか』は、地球の大気組成の変化、酸素濃度が地球生物にもたらした変化など、気体と人類の関わりをテーマとした化学ノンフィクションだ。人間を蒸発させるために必要なエネルギー量についてや(骨まで蒸発させると、七万五千キロカロリーを一度にぶつける必要がある)、カエサルの死に際の一息に含まれた分子を我々は一日に何回吸い込んでいるのか? など、奇抜な問いかけを通して気体の理屈とおもしろさを伝えてくれる、優れた仕事である。