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脳に性差はあるのか?──『ジェンダーと脳──性別を超える脳の多様性』

この『ジェンダーと脳』は、よく言われる「男女で脳に性差はあるのか?」というテーマに、神経科学者であるダフナ・ジョエルが向き合った一冊である。

先に結論だけ書いておくと、性差は間違いなくある。たとえば、男性と女性で脳全体の大きさに差があるし、視床下部の中継核の大きさだとか、脳領域の各所や、神経伝達物質にも性差は存在する。ただ、注意しておきたいのは、その差は何十、何百といった脳の平均の差であるということだ。たとえば、男性の方が平均としては大きいとされる脳領域であったとしても、女性で男性の平均を超えているケースもあれば、男性で女性の平均に近いケースもあり、多くの女性と男性の脳は重なり合っている。

つまり、大半の女性と男性では大きさが変わらないのだ。あるいは、その特定の領域は一部の女性で大きく、一部の男性で小さいこともある。この傾向はヒトの脳の性差の大半に認められる。平均すればわずかな性差があるが、男女間で大部分は重複しているのである。

性差はあるが、脳はホルモン、ストレス、薬物、環境などあらゆる影響を受けて柔軟に変化するものであり、脳の性差は個々人の脳内にはモザイク状に存在していて、単純に男脳/女脳と分類できるものではない、というのが本書の中心的な主張である。世間一般的には、『話を聞かない男、地図が読めない女』に代表されるように、女性脳と男性脳は大きく異なっていて、得意とする分野も苦手とする分野も白黒分かれていると理解されているだろうが、実際にはそこまでの違いは存在しないのだ。

ヒトの脳スキャンデータを解析すると、281個の脳のうち、10個の領域のスコアがすべて「きわだって女性的」あるいは「きわだって男性的」にそろった脳はわずか7例。3分の1ほどの脳は「きわだって女性的」「きわだって男性的」なスコアの両方を備えていた。かなりの部分のヒトは女性的な脳の部分も男性的な脳の部分も併せ持っていて、モザイク状に分布していることになる(本書の原題は『Gender Mosaic』)。

脳の領域が重複していてあまり差がなかったとしても、脳の活動パターンには性差があるのではないか、と思うかもしれないが、これもどうも怪しいようだ。有名な脳の活動パターンの比較をした実験で、女性は男性と比べると言語処理タスクをする時に脳の両半球を使う(男性は左半球がメイン)と結論を出したものもあるが、後の追試や26の研究をメタ解析したところ、男女で言語処理の際に違いは認められなかった。

脳は次々変化していく。

人ではなくラットの例だが、ラットはオスとメスの海馬の錐体細胞に存在する樹状突起棘(スパイン)の密度に性差が存在する(メスのほうがスパインの数が多い)。だが、ラットに30分にわたってストレスを与え24時間後に脳を調べると、オスのスパインの数は増えてメスと同じ密度になり、逆にメスの方は減少してオスと同じ形態になった。

また、ヒトの視床下部の中継核は男女差の大きい領域で、男性で女性の二倍あるが、中年になるとこの神経核は縮みはじめてやがて典型的な女性と同じになる。ラットの例とあわせて考えると、脳の在り方は可変的で、ストレスや時間の経過と共に変わっていき、この事からも単純に男/女脳と分類できるものではないといえるだろう。

ジェンダーレスな社会へ

本書では神経科学的な話と合わせて、ジェンダーレス社会に向けての提言も行われている。男女の脳が大部分重なり合っているのであるとすれば、男性と女性がここまで別種のものとして扱われる社会は間違っているのではないか、というわけである。

そうはいっても女性と男性とでは幼少期からその嗜好や傾向は異なるじゃないか、という意見もある。生まれつき女性と男性とで異なる部分があるのであれば、別の対応になっても当然だ。たとえば男の子は怪獣が好きだったり戦うのが好きな一方で、女の子はおままごとやお人形が好きであり、暴力的ではないといったように。また、女の赤ちゃんは平均すると男の赤ちゃんよりも言語テストで好成績をあげるという。

幼少期の趣味嗜好や赤ちゃんの時の言語テストのような早期の差異なら、それは性別に起因するものではないかと思うかもしれないが、言語能力の発達の大きな要因は話しかけられることで、親は一般に男の赤ちゃんよりも女の赤ちゃんに話しかける量が多い。女の子がお人形を好み、男の子はそうではない〜〜〜という通念に関しても、女の子には周囲からの「女の子はお人形の方を好むものだ」という思い込みがある。

生後三ヶ月の赤ちゃんに性別のはっきりしない黄色のベビー服を着せ、成人のボランティアに対して赤ちゃんが女の子である/男の子であると設定上の性別を聞かせ対応の違いを探った実験では、赤ちゃんが女の子だった場合に人形が選んだ人は男の子と聞かされた人の2倍いた。こうした周囲の環境・対応が本人にどれほどの影響を与えるのかはまだわからないが、影響がないということはないだろう。

性差によるレコメンドが本人の趣味嗜好ともあっていて良い影響を及ぼすこともありえるだろうが、「女の子なんだから○○するんじゃありません!」といった制約につながる可能性もあり、その場合無根拠な理由で選択の自由が奪われることになる。

 最後に述べるのは、観察される性差は「生来」のものだという根拠のない思い込みがある、ということだ。性差は「生まれつき」あるいは「あらかじめプログラムされている」と見なされ、そのために私たちには対処できないし、すべきでもないと考えられている。しかし、すでに見てきたように、女性と男性の違いが生物学的な性別から直接生じる結果、つまり性別にかかわる遺伝子やホルモンの結果であると結論づけることはたいていの場合には不可能だ。

おわりに

僕は幼少期から自分の血液型は知りたくないと拒否して生きてきて、今も自分の血液型を知らないが、それは不確かな血液型占いや周囲の思い込みに影響を受けることを恐れてのことだった。同じように、自身の性に関する情報も知らないでいることができたら、どのように育ったのだろう、と本書を読みながら思わず考えた。

現状性別を知らずに生きていくのは肉体的に不可能なわけだけれども、できるだけ性差のでない教育、環境を構築することは可能である。たとえば子供向けのおもちゃで女の子向け、男の子向けなどとカテゴライズされていることが多いが、こうした性による分類を排除して、親も周囲の人間も子供が何で遊ぼうがそれについて口をはさまない、というのはすぐにできる。そうした一人一人の行動の結果として、できるかぎり性に制約のない、選択の多様性が確保されていくのではないか。