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AIを搭載した義足と足を失ったダンサーが”共生”し、新しいダンスを作り出す、長谷敏司10年ぶりの最高傑作────『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』

長谷敏司、『BEATLESS』(2012)に続く10年ぶりのSF長篇がこの『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』になる。長谷敏司がその間何もしていなかったわけではなくて、短篇も数多く書いているし、『BEATLESS』のアニメ関連作業も多くあった。また、そうした執筆作業と並行して、2018年からは父の介護も行っていたという。そして、本作はそうした著者の実体験(介護など)が色濃く反映された長篇になっている。

10年ぶりの最高傑作

本作の帯には、『『あなたのための物語』『allo, toi, toi』『BEATLESS』を超える、10年ぶりの最高傑作。』と勇ましい文字が踊っている。通常、こうしたコピーは実際に最高傑作だろうがなかろうが編集者がつけたいと思ったときにつけるものなので話半分に読み取るべきなのだが、本作を読み進めていく中で浮かんできた最初の感想は、このコピーに偽りなし、というものだ。長らく長篇から遠ざかっていた長谷敏司だが、その構成力、描写に衰えがあるどころか、着実にすべてが前進している。

タイトルの「ヒューマニティ」は14年刊行の『My Humanity』の流れを引き継いでいるし、長谷敏司は2012年の『BEATLESS』から本作へと至り、着実に自身と現代の世界に内在するテーマを推し進め、介護と人間の限界という自身が実生活の中で行き当たったであろう問題をも作品に詰め込み、自身の新たな代表作を生み出してみせた。加えて、長谷敏司の長篇の代表作とされる『円環少女』も『BEATLESS』も、どちらも長過ぎるのが勧めづらいポイントではあったが、本作は単行本で300ページ以内に収まっていて、長谷敏司の初読者にもおすすめしたい作りになっている。

そうはいっても手軽に手を出すにはずっしりと重い本だ。中心人物であり、事故で足を失ったダンサーの護堂恒明のリハビリの過程。また、彼が行うことに成る伝説的なダンサーにして認知症に陥って知性も記憶も失っていく父親の介護生活の描写は重苦しく、人間の限界を痛切に思い知らされる。なぜこんなにも苦しい話を読まされなければならないのかと思う読者も大勢いるだろう。つらいことが多すぎる世界だ。

一方、そのような状態にあってなお人間には魅せられるものがあるのだと──、そして、ダンスを踊る意味、人間性が失われていく中で人間に残るものを本作は痛切に描き出している。現在のところ海外も含めて今年一のSF長篇だ。

あらすじ、世界観など。

物語の舞台は2050年の近未来。コンテンポラリーダンサーにして今後日本のダンスシーンに輝かしい名を刻まれると言われていた27歳の護堂恒明が、乗っていたバイクで事故にあった状況から物語は幕をあける。彼はその事故で右足を切断する必要にかられ、当然ながら元のように踊ることはできなくなってしまう。

彼の父親護堂森は74歳の老人だが、50年間もダンスを踊り続ける現役にして伝説的な舞踏家にして振付家。そんな父のもとでダンスにすべてを賭けてきて、体格とスタイルもめぐまれ、ダンサーとしての将来が見込まれる護堂恒明にとって、ダンスができなくなることの絶望は大きい。『護堂恒明という人間の、土台をなしていたのは、踊ることだった。それがおのれの生命そのものだったと思い知った。』

今後何をして生きていくのかも定まらぬ時に、護堂恒明は義足のダンサーの動画を見せられ、欠けているからこその表現手法、その重み。ロボットが人間よりもうまくダンスを踊れる時代にあって、それでもダンスを人間が表現することの意味についてあらためて考えさせられることになる。なぜ、現代に人間が踊らねばならないのか。

 そして、踊りを終えたダンサーが、義足を外して立った。
 立っていた。2本の足で立つのと同じに見える重心位置で、けれど左足がない。脳が見間違えているかと疑った。立つという当たり前のことが、あるべき左足という一部がないだけで、空白の存在感に震えるほど不穏なものに転じる。恒明は息を呑んだ。ダンサーの自然さがどれほど困難な表現で、どれほど鍛え上げ練習を重ねて実現したものか。足を失った恒明だからこそ、嫉妬に焼かれ、憧れに打たれた。
 誰にでもできる、立つということが、芸術になっていた。それだけのことが尊いのだと、失望で穴だらけになっていた心に、しみた。
 今ではダンスだって、ロボットのほうが正確に踊る。それでも、生身のダンサーが芸術として残っているのはなぜか。それぞれ違う人間の身体表現だからこそ、とらえられる世界があるのだ。

護堂恒明は結局、右足を失ってなお再度ダンサーを目指すことになる。今度は、義足を使って。人間が、ロボットと比べれば完璧さに欠けるダンスを踊ることの意味があるのか。どんな手続き(プロトコル)がロボットと人のダンスをわけているのか。その問いの答えと、AIを搭載した義足と人間のあらたなダンスのかたちを求めて。

最も身近で理解し難い父

未来といってもたかだか2050年だからそれですべてがうまくいくわけではない。AI義足は彼の動きを学習して未来の動きを予測して動きやすくしてくれるが、それで日常生活がおくれたとしてもダンスが踊れるようになるわけではない。ダンスではあえて不安定になる足の置き方をよくするが、これは通常の動作とはかけ離れている。

自分の体を極限まで思い通りに動かしてきたダンサーが、何もできなくなってしまった状態から一歩一歩体の動かし方とダンスを再構築していく泥臭い過程と同時に描かれていくのは、高いレベルに到達した人間の人間性が剥奪されていく過程だ。護堂森は途中で軽度の認知障害であることが判明し、唯一その面倒をみられる息子の護堂恒明が住み込みでつきっきりでサポートをする。それは簡単な工程ではない。

父親もいまだに現役の舞踏家なのだ。俺の脳がおかしくなっているんだとしても、俺の体はまだ踊れるんだといって踊り回る。それでいて、風呂に入ったまま何時間も経過して死にかけていたりもする。尊敬していたはずの父が、人生の重荷になっていく。決してよくなることはないから、この介護には終わりがない。人間性が消えていく父との苦闘の中で、護堂恒明は自分自身の新しいダンスのかたちを模索するが、その姿は、介護の中で創作を続けてきた長谷敏司の姿とどうしても重ねてしまう。

人間性の探求

ゼロから構築していく側と頂点から失っていく側の両側から「人間性」のプロトコルを描いていくのが本作だ。護堂恒明は最終的に義足をつけた自身と振付AIと、ロボットたちのダンスの共生というあらたなダンススタイルを模索していくが、はたしてそれがどのようなかたちをとるのか。それは、ぜひ読んで確かめてもらいたいところ。『今、この人間の表現の価値を問われる舞台が、人間とマシンの関係の最前線だ。』

長谷敏司が本作の元となる中篇を書いたのは、2016年のこと(コンテンポラリーダンスのダンスカンパニー大橋可也&ダンサーズとのコラボレーション企画)。そのころはダンスについての知識も思考の積み重ねも乏しかったとあとがきで語っているが、人間はそれからだいぶ時が過ぎたとはいえ、積み重ねることでここまでの”ダンス”を描けるようになるのか。情景が目に浮かぶのではなく叩き込まれてくるような、小説でしか描きようがないラストであった。「人間性」の追求は、おもしろい。