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生命の本質を分子間の相互作用の中に見出す新しい分野──『相分離生物学の冒険――分子の「あいだ」に生命は宿る』

この『相分離生物学の冒険』は、米国の学会では2018年からよく取り上げられるようになってきた、最新の生物学分野の研究テーマである「相分離生物学」について書かれた一般向けのノンフィクションである。著者の白木賢太郎はこの分野の研究者で、東京化学同人社などですでに相分離生物学の著作のある研究者だ。

相分離生物学とは何なのか。

僕は相分離生物学のことは名前すらも覚えがない(読んだことぐらいはあるのかもしれないけど)状態で読み始めたが、これはおもしろかった。現代の我々は人体を構成する要素についてかなりの部分わかってきている。DNAの解析も進み、どんなタンパク質で人体が構成されているのかも、あらかた把握できているといえるだろう。

では、そうして判明した人体の構成要素をピンセットで並べていったら、素材が完成した段階で新しい人間が動き始めるのか? といえば、そういうわけではない。ビーカーに酵素を入れても、連続反応は進まない。ピンセットで酵素を並べても、生きた状態にはならないのだ。では、「素材」と「生命」の間には何があるのか。我々を生命たらしめいてる、素材と生命の間をつなぐリンクは、どこにあるのか。

 いま、手元に生きている細胞があるとしよう。培養細胞とか単細胞生物などでもよいが、この細胞を、すり鉢に入れてごりごりとすりつぶすと死んでしまう。ここではいったい何が失われるのだろうか? 分子は共有結合(化学結合)で形成されたものである。すり鉢でごりごりするくらいでは化学結合は壊れない。だが細胞は死ぬのだ。つまり、ここで失われるのは、分子ではなく分子と分子のあいだに働く相互作用であると想像できる。

分子を部品として考えて、分子をただ並べただけでは生命にならないのだとしたら、その分子間の相互作用に注目する必要があるのではないか。そこにこそ、生命が宿っているのではないか。そのように、分子集合物を生命の理解の単位にするのが「相分離生物学」という概念であり、これを理解することで、連鎖的に人工生命や抗がん剤やアルツハイマー病の治療薬といった幅広い分野への理解に繋がっていく。生命の本質に迫る魅力的な分野だ、というのが素人ながらに本書を読むだけで理解できる。

では具体的に分子間では何が起こっているのか。

なるほど、分子と分子の相互作用を研究するのが相分離生物学なのね、となんとなくわかるが、ではそこではどのようなことが行われているのか。

前提となる「ドロプレット」について先に紹介しておこう。たとえば、水の中に少量の有機分子を加えただけだと、基本的にその分子は集合せず離散した状態になる。だが、水の中に過剰な量の有機分子を入れると、有機分子は集合し、水と分離する。このような分離の現象を液ー液相分離といい、分離アンド形成された状態をドロプレットという。ドロプレットは液体の性質として分離しているだけで、集合体の間に膜のような仕切りが存在するわけではない。つまり、ドロプレットは固定化された状態で存在するのではなく、環境に対して動的に変化するものとして存在する。

多少複雑な説明になったが、こうした動的な変化(集合と分離)を可能にする仕組みがこそが生命の秘訣らしい。たとえば、塩や砂糖を水に入れて溶かすと、途中からどんなにかき混ぜても溶けなくなるが、同様にタンパク質やRNAといった生体分子も一定以上の濃度になると溶けなくなる(この限界の値を溶解度という)。

ケンブリッジ大学の研究チームが線虫の細胞をつぶしてタンパク質の溶解度を調べたところ、ほとんどのタンパク質はそれが溶けることのできる限界まで細胞内に存在していた。体内には溶けることのできる必要量以上のタンパク質も生成されているが、その調整は「溶解度」という化学的な仕組みによって、その時々で溶けたり溶けなかったりのバランスが決定されているようなのだ。

分子レベルの生死の分岐点

そして「溶けるか溶けないか」の性質は、けっこう簡単にかわる。たとえば塩を水に食わえると、水の性質が変わって溶けやすさが変わる。溶ける物質のほうのタンパク質を加熱などによって変質させても、凝集して一切とけなくなったりする。

たとえば卵白は加熱すると水分子と混じりにくくなるが、これはタンパク質が変質してタンパク質同士で凝集したほうが安定的になり、水に溶けなくなることを意味している。これは不可逆なので、分子レベルでは死んだことになる。分子レベル的に生きた状態といえるのは、溶けているか、溶けた状態へと戻れることを意味するからだ。

ざっくりいってしまえば、卵→ゆで卵のような、一般に観察できる凝集ー溶解の過程が我々の人体を形作っている。しかしそう簡単にタンパク質が生体内で不可逆に凝集していると、人体はあっという間に機能しなくなってしまう(実際タンパク質凝集はアルツハイマー病やプリオン病など多くの疾患の原因になっているようだ)から、生体内では「タンパク質の凝集をふせぐ」様々な種類のタンパク質が働いている。

しかし、歳をとるとタンパク質は凝集しやすくなるようだ。20代と64歳以上を対象にした研究では、タンパク質凝集量は高齢者のほうが2.1倍も多かった。もしそれが老化や病を引き起こすのならば、なぜタンパク質はもっと安定性を持つように進化してこなかったと疑問に思うが、タンパク質が不安定であるからこそ、突然変異も許容され、多様性が生存に繋がっていったのだとも考えられる。

 生卵がゆで卵になるという、このありふれた現象が分子レベルでの生死を分ける境界であり、この性質の背後にはタンパク質の不安定性がある。にもかかわらず、この不安定性こそが生物の多様性を生み出し、38億年にわたる生命を存続させてきたのである。

おわりに

他にも、人工的なタンパク質の合成・探索についてやその先にある人工生命は可能かというトピックなど、相分離生物学が進展していった先に何が起こるのか、といった展望もおもしろかった。これからアルツハイマー病やがん治療などで我々の生活・治療に関わってくる可能性を秘めているので、興味がある人はぜひ読んでみてね。

一般向けノンフィクションとはいえ化学用語は出てくるので難しい本だが、数式などはないしじっくり読めば理解できるはず。分量的にも200ページちょっとだしね。

まったく関係ないが自著の宣伝

まったく関係ないけど最近SF(サイエンスフィクション)についての本を書いて出したのでよかったら買ってください。