本作は書名にも「ラヴクラフト」と入っているように、明確にクトゥルー神話の産みの親、H・P・ラヴクラフトとその著作が関係してくるが、それは(文庫解説にもあるように)シンプルにリスペクトだけがこめられているわけではない。ラヴクラフトには人種差別的な傾向が存在することが指摘されており、そうである以上本作(『ラヴクラフト・カントリー』)でも無批判に取り上げられていくわけではないのだ。
「黒人差別の歴史を描き出している〜」などというとそこばかりに注目しそうになるが、本作は家に住まう幽霊との対決を描く物語もあれば遠い星へと至るドアについての物語も、魔術的な秘密結社らの壮大な計画も、黒人と白人の「入れ替わり」をテーマにしたあり──とさまざまなテイストで楽しませる、純粋におもしろい作品だ。
短篇はそれぞれメインの登場人物が異なるのだが、最終的には背後で動いている大きな仕掛けが浮かび上がってきてそのすべてに裏があったのだ──とわかる構成も素晴らしい。以下、詳しく紹介しよう。
プロローグとなる「ラヴクラフト・カントリー」
最初の章が表題作でもある「ラヴクラフト・カントリー」。主要な登場人物と本作の基盤をなす世界観が明らかになるプロローグ的な一篇で、ページ数的にも一番長い。
朝鮮戦争からの退役後、フロリダで働いていたアティカス・ターナーの元に、別居中の父親からマサチューセッツ州のアーダムに向かうと書かれた手紙が届く。手紙にはそこに向かった理由と、アティカスの母親の祖先について。またアティカスが「秘められた聖なる遺産を継承していたのだ」など謎めいたことが書かれており、アティカスは父親の消息と真意をたしかめるため、アーダム(ちなみにラヴクラフト作品に登場する架空の都市「アーカム」をもじっている)へと向かうことを決意する。
アティカスは叔父と幼馴染で霊媒師の娘であるレティーシャ(恋人なわけではなく、単に途中まで乗せてくれというので)と同行してアーダムに到着するが、そこには巨大な荘園のアーダム・ロッジ、その創設者にして資産家のブレイスホワイト家の居住地が存在していた。そこで、滞在中のガイドを任されている召使いから、アティカスの父親(モントローズ)はブレイスホワイト家の人間とボストンへ行っており、同時に今このロッジでは、特殊組織〈結社〉に招集がかかっていると伝えられる。
明らかに怪しい説明と場所なので、本当にアティカスの父親はボストンへと行っているのか(この荘園のどこかに監禁されているのではないか)、この組織の人々は何者で、なぜ集められているのかといった探求が行われていくことになる。要約すると、〈結社〉は魔術についての知識のある秘密組織の一群であり、アティカスは黒人でありながらもその創設者にして強力な力の持ち主であったとされるタイタス・ブレイスホワイトの直系の子孫で、結社の規約的には強力な権力を持つらしい。
アティカスは結社らから差別される「黒人」でありながらも、同時に敬うべき「偉人の子孫」でもあるという、二律背反の微妙な立場の存在なのだ。無論彼とその父親がここにくるよう仕向けられたのはブレイスホワイト家のある思惑あってのものなのだが、その開陳と打倒がメインプロットになっていく。
魔が棲む家の夢
続く「魔が棲む家の夢」は、アティカスの旅に同行したレティーシャが中心となる。彼女、そもそもアティカスの旅に無理やり同行するなどかなり行動力がある人間なのだが、そのキャラクター性が全開になった一篇だ。レティーシャは父親の昔の資産を受け取れることになり、家賃収入をもらえるような大きな家の購入を決意する。
しかし、問題はこの時代、黒人が黒人居住区に住宅を買おうとしてもローンを組ませてくれる銀行がなく、ほぼ不可能だった。白人の居住区に家を買うことも(間に白人の代理人を入れるなどして)できなくはないが、そこに住み始めると煉瓦が投げ入れられるなど激烈な差別に出会うので、現実的な選択肢ではない。それでもレティーシャは決して諦めず家を探し続け、安く、しかもニグロにも売ってくれる、相当な訳あり物件──幽霊屋敷なのだが──を売ってもらえることになる。
ホラー作品なので当然そこではめちゃくちゃな幽霊騒動(物が動いたり、変な音や轟音がしたり)に巻き込まれるのだが、レティーシャは音がなろうが家を揺れ動かされようが、一切動じることはない。幽霊譚でここまで堂々とした人物も珍しい。
しかし二度めを予測していたレティーシャは、荒波に翻弄される船の甲板で仁王立ちになる船長のように、まったく動じなかった。実際この家は、彼女の船も同然なのだ。「わたしたちは出ていかない」レティーシャが言った。「今はここが、わたしたちの家だ」嵐に向かい、彼女はつづけた。「この家は、わたしたちが引き継いだんだ。」
そうやって幽霊を乗り越えた先にも周辺住民からの差別は襲ってくるのだが──と、不動産にまつわる差別を扱いながらも、思わず笑ってしまうコミカルな一篇だ。
宇宙を撹乱するヒッポリタ
個人的に一番印象に残ったのは、天文台の中に別の惑星に繋がるポータルが存在する「宇宙を撹乱するヒッポリタ」。ヒッポリタはアティカスの叔父さんの妻で、天文の愛好家である。天文学者を志したこともあったほどだが、女性でしかも黒人が、大学であってもアマチュアとしても学者として認められるのは難しい。
彼女はある時立ち寄った天文台で、別の惑星に繋がるポータルを発見し、推定で10の192乗もある宇宙の中から、適当な惑星を選んでポータルをくぐり、そこで一人取り残された謎の女性アイダと出会う。アイダがどのような理由でそこにいるのかが話の中心となるわけだが、ヒッポリタが宇宙を見るときの思いの文章、無尽蔵に存在する惑星や銀河の描写、たった一人で暮らしているこの惑星の描写の美しさなど、プロットよりも情景が染み渡る作品だ。『天空から大きな銀河が沈みはじめており、数本ある腕のうち一番下のものが、まるで船の櫂みたいに水平線に突き刺さっていた。』
おわりに──差別が当たり前になってしまった日常を描く。
他にも、レティーシャの姉ルビーを主人公に、彼女が全く別の容姿端麗な白人の女性に一定期間変貌できる霊薬の使用を通して、当時の白人が黒人と比べてどれほど恵まれた立場、特権的立ち位置にいたのかを示す「ハイド・パークのジキル氏」など、様々な形で当時のアメリカの黒人差別の実態を、ファンタジックに描き出していく。
本作では多くの差別が描かれていくが、中でも個人的に印象に残ったのは、登場人物はみなそれを当然のものとでも考えているようで、怒ることはあっても、なぜ自分たちばかりこんなめにと、特別に嘆いたり、非難したりはしないことだ。彼らは日々恫喝を受け、行動を制限され、時にそれはまともに生きることさえ難しくさせる。だが、彼らにとってそれは「あって当たり前のもの」で、すでに日常になってしまっている。しかし、無論そうであってはいけないからこそ、強く印象に残るのだ。
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