基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

「足す」だけでなくあえて「引く」ことの、潜在的な可能性について──『引き算思考:「減らす」「削る」「やめる」がブレイクスルーを起こす』

世の中、何かを「足していく」行為が基本的には評価対象となる。会社の売上は? もちろん足していったほうがいい。規則・ルールは? 足していけばみんなが明確でわかりやすくなるから足したほうがいい。アプリやシステムの機能は? 当然足したほうがいい。多機能になってなんでもできるようになればみんなが満足する。

本なんてどんだけ積んだっていい。積めるだけ積もう、とは読書家、愛書家がよくいうことである。しかし──、「引く」ことによって利益が生まれることもまた否定できないだろう。持っている本が少なければ、自分が一番重要だと思う本にすぐにアクセスできる。規則は重要だが多すぎると本質的に守るべき規則が何なのか、優先順位がわかりづらくなる。経験をプラスしていくことも重要だが、時として経験こそが人の判断を誤らせる(偶然、白揚社から刊行の本書と同時に『経験バイアス:時に経験は意思決定の敵となる』というズバリな本も刊行されている、こちらもおもしろい)。

というわけで、「足す」のが重要なのはそうだけれども、「引く」ことも軽視されがちだけど重要だよね──と、主張していくのが本書『引き算思考』である。

 私はベンにこう言った。もし引き算が足し算と同じくらい有益なのに、にもかかわらず使われることが少ないのなら、そこには潜在的な可能性が眠っていることになる──これがわれわれの実験結果から言えることの一つだと考えていいだろう。変化をもたらす基本的な方法がせっかくあるのに、人はそれをつねに無視しているんだ。(p.43)

重要なのは「引き算は足し算と同じくらい有益」という点だ。本書は別に「引き算がつねに最良の選択」だと主張する本ではない。あくまでも、足し算と同じぐらい引き算の有用性を意識すべきだ、といっているわけだ。しかし、それが難しい。

なぜ「引く」ことが軽視されるのか

そもそもなぜ現代社会においてはみんな「足す」ことを目指して「引く」ことが軽視されるのかといえば、それには理由がある。「引き算」も「足し算」もともに現在の状況を変化させる行為なわけだが、まず足した時は目に見えてわかりやすい。

たとえばある文章をもっとよくしてください、と課題を出すとほとんどの人は課題文に文章を「足す」ことを選ぶ。装飾を増やしたり表現を増やしたり豪華にすると、修正者が何をしたのかは一目瞭然だ。建物を建てたり、新しいルールや規制を作れば、わかりやすい形で「仕事している感」が出る。成果が残っているからだ。一方で減らす、削るだけだと、それがどれだけ有益であろうとも、証拠は目に見えづらい。いくら「こんだけ減らしましたよ!!」といっても、それは目の前にないのだ。

「生存」という生物の最も重要な観点からみても、足す方が重要であることがわかる。食料はたとえ食べきれないにしても、足りないよりは過剰な方がよい。これは生物学的な裏付けもあり、たとえば食べ物でも食べ物以外でも、何かを獲得する時、脳内では同じ報酬系の箇所(中脳辺縁皮質経路)が活性化することが確認されている。この経路は情動面にかかわる中脳構造を通ってドーパミン経路の出発点である腹側被蓋野にまで繋がっているから、何かを獲得することはそのまま快感へと繋がっている。

他にも人間には「損失」を回避する損失回避のバイアスがあって──と、「足す」ことにこだわる理由も「減らす」ことを忌避する理由もあるのだが、とにかく人間は「足しがち」であるといえる。しかし、だからこそ「減らす」「削る」「やめる」ことの意味や効用は意識して実践していかなければ難しいのだ。

そこで、本書の主張が活きる。「意識的に、引く」のだ。

本当に「足す」傾向があるの?

ここまでの議論は人間に「足す」傾向があることを前提としているが、本当なの? と思うかも知れない。意外と引き算してない? と。著者はバージニア大学の工学部・建築学部で教鞭をとる教授だが、これに関する実験をいくつも行っている。

たとえば単純なレゴの実験がある。被験者には縦八列、横八列のレゴブロックの構造物に取り組んでもらう。好きなように変えて良い、といってその行動をみると、もとの構造物よりもブロックの数を減らしていた人はわずか12%にすぎなかった。

同じ傾向は音符のランダムな並びを変える実験でも同じだし(90人中2人)、最初のレゴの構造物をランダムにしても変わらなかった(60人中1人)。ワシントンDCを一日でまわる旅行計画を練り直すという課題では、もとのスケジュールが14時間にわたって移動・見学し続ける過密スケジュールだったにもかかわらず予定を削除したのは4人に1人だった。左右非対称の格子図形から「ブロックを追加したり減らす」ことで左右対称にしてもらう課題では、やはり図形を変えるのに引き算をした人は20%だ。

「足す」ことでもらえるお金が減る、ようは罰則を与える仕組みの実験にしてもやはり減らす人の方が少なかった(59%が足した)。その差が逆転したのは、足すことに罰則を追加し、さらに「取り除くのはタダ」と説明した時だった(61%が引いた)。実際に人間には「足す」傾向があるのは間違いないといえる。

減らして良かった事例

では、具体的にどういう時に「減らす」べきなのか──といえば、これはそう簡単な話ではない。足すのが良い状況もあれば、減らす方が良い状況もあるからだ。本書では無数の事例が紹介されているのでそのごく一部を紹介しよう。

たとえばアメリカでは牛乳を油と同じ分類にしている規制が存在していたのだが、この規制を廃止したことで推定10億ドル以上もの取り締まりのコストが減ったばかりか、環境保護庁も本当に有害な汚染の問題に時間を割けるようになった。これはオバマ大統領による大統領令があって可能になったもので、それ以前から環境保護庁の長官はこの規制の廃止を働きかけていたのだが、内部で反対にあい実現しなかったのだという。一度ルールができてしまうとそれを撤廃することはいつも難しくなる。

「削る」のは製品開発にも有用な考えだ。たとえば子供用の自転車のストライダーは、既存の自転車から「ペダル」を完全に削ることで大ヒット商品となった。それまでも子供用の自転車は補助輪をつけたりタイヤを太くしたりといった「足す」発想で作られてきたが、自転車からペダルを引き算することで補助輪をつけるよりも早くから子供は自転車に乗る訓練ができるようになったのだ。

文章もまた減らせるなら減らしたほうがいいもののひとつだ。マーク・トウェインが言ったとされる「短い手紙を書く暇がなかったので、長い手紙を書きました」。あるいは、ジョン・ロックによる「じつを言うと、私はいま非常に怠惰、いや、非常に多忙なので、とてもこれを短くすることができない」など、長い文章は怠惰で、短く簡潔な文章の方が難しいことを示す格言はいくらでもある。

最初は必要だと思って書いているので、それを削るのは身を切るような思いがするものだ。せっかく書くために使った時間も無駄になっているので気分も悪い。それでも思い切って削ってみると、その方がずっと良い──そんな経験を、僕自身何度もしている。そういう意味でいうと、この記事はもう長くなりすぎているといえるだろう。

おわりに

というわけで締め。本書では他にも、「どうやったら気づいてもらえる「レス」が達成できるのか?」という問いかけ・答えだったり、減らす時の手順なども紹介しているので、気になる人は手にとってみてね。日常を一変させる力を持った一冊だ。