基本読書

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人間は、どこまで遠くを見れるのか。『法治の獣』著者がおくる、傑作宇宙探査SF──『一億年のテレスコープ』

この『一億年のテレスコープ』は、早川のSFコンテスト(第七回)で優秀賞を受賞、受賞後に刊行されたSF中篇集『法治の獣』は年間ガイドの『SFが読みたい!』で国内篇の一位を獲得と、順調にその実力を証明してきた作家・春暮康一の最新長篇だ。

著者のデビュー作(『オーラリメイカー』)は、天の川銀河に属する文明群が正体不明の星系改造種族に迫る、質実剛健というか手触りの良い中篇であった。続く中篇集の『法治の獣』には、シンプルに驚かされた。ウェルメイドを突き抜け、圧倒的な個性と視点で、地球外生命体SFやファーストコンタクトもののあらたな地平を切り開いていく気概が感じられた。先日刊行されたアンソロジー『地球へのSF』所収の「竜は災いに棲みつく」は、同アンソロジーの中でも突出した広義の気候変動ものだった。

ようするに、著者は新作を読めば読むほど驚くような速度で変化している作家だったのだ。当然その三作目、それも初長篇には期待せずにはいられないが、本作はその高まったハードルをはるかに超えてくる、完全に「才能が開花したな」と思わせる作品であった。規模、質量、アイデアとも既存の自作を超え、日本のファーストコンタクト・地球外生命体SFの水準を引き上げる作品で、三作目にしてこれが出てきたら今後どこまで行ってしまうのだろう、とその先まで想像を広げてしまうような傑作だ。

作家的にハードSF寄り(できるだけ科学的に正確であろうとした作品群)なので誰しもが楽しめる作品というわけではないだろうが、その前提があってなお驚くほどに読みやすい。そのスケール性やコンタクトものであるという点で劉慈欣の《三体》などとも比べたくなるが、本作が向かうのは《三体》とはまったく別の方向だ。以下でより具体的に紹介するが、本作がどこまでの地平をみせてくれるのか、そこで何が起こるのかは、ぜひ読んで確かめて欲しいところである。

あらすじ・世界観など。

物語は主に三つの視点で進行していく。一つは、「遠未来」と記されており、文字通りはるかな未来を舞台にしているパートだ。おそろしく高度な技術を持ち人間とは何もかもが異なる何者かの母子が、「大始祖」と呼ばれる存在の足跡を追っていく。なんでも、「大始祖」はまだ星々同士が遠く隔てられた時代に生まれ、それを結びつけた立役者らしい。子どもの好奇心から大始祖について調べ始めた母子は宇宙の各所をまわり、様々な生態を持った種族から、大始祖のエピソードを集めていく。

それに続くのが、メインパートにあたる地球人類のパートだ。主人公は「望」という少年で、父親にその名前の由来をたずねる場面から物語は始まる。なんでも、「望」の由来は一般的な待ち望むや願うこと──ではなく、辞書にも載っている、「とおくをみること」なのだという。幼少期の望くんはなんだそりゃ、とため息をついて肩を落とすが、父親は遠くを見るのはじつは大事なんだといって譲らない。

「おいおい、おれは真面目に言ってるんだ。望。遠くを見るってことはな、まだ知らない新しい何かを見るってことだ。近くの同じものを見るばかりじゃなくてな。ものだけじゃなくて、人との繋がりだってそうだぞ。近くの繋がりも大事だけど、いつでもそこにない、まだ見ぬ繋がりを追い求めてほしいって思いが込められているんだ」(p.17)

最初はまるでピンときていなかった望だが、父親にそう言われ、学校である出来事を経由したのちに「天文台」に、ひいてはその先にある宇宙への欲望を喚起されることになる。その後にもう一つ、「遠過去」と記されたパート──宇宙を漂う謎めいた〈飛行体〉──が入り、この3つが交互に入りながら物語は進行していく。当然、これら3つのパートは最終的に繋がっていくわけだが──。

「遠くを見ること」の物語

主人公の名前の由来からはじまっていることからもわかるように、当然本作は「遠くを見ること」の物語だ。最初は望が個人で扱える小さな望遠鏡や天文台のレベルから話は始まるが、高校生になり、大人になり、と歳をとり、技術が向上していくうちに、そのスケールもまた増大していくことになる。たとえば高校生になった望には同じ天文部の新(あらた)が、大学生になってからは縁(ゆかり)という二人の仲間ができて、どうしたら三人の共通の夢──ものすごく遠くを見ること──が実現なのかを、よく議論している。

たとえば、「遠くを見る」ためにはまずもって望遠鏡が必要なわけだが、その方式にもいろいろある。光学望遠鏡はレンズや鏡などを使って可視光を観測するが、電波望遠鏡は文字通り天体が放ち、地球に届く電波で観測をする。どちらにも強みと弱みがあり、可視光は波長が短く(望遠鏡の分解能の限界は観測波長にたいして反比例する)、それなりの大きさの望遠鏡ひとつではるか遠くまで見通せる。一方で、波長の長い電波は非現実的なほど大きい望遠鏡を作っても、ピンボケ写真のようにしかみえない。

しかし、電波望遠鏡には離れた望遠鏡同士を結合する、超長基線電波干渉計ネットワーク(VLBI)という手法がある。これを使えば、個々の望遠鏡では決して得られない分解能(一般的には計測できる一番小さな値のこと)を得ることができる。何を言っているかよくわからないかもしれないが、ようは「すごい遠くに電波望遠鏡を設置して他の電波望遠鏡と結べば、すごい高解像度で遠くの景色や情報がみれる」わけだ。

望はこうした特性から電波望遠鏡を自身の専攻に選ぶのだが、その目的は結局遠くをみること、そして最終的にはそこで未知を発見することになる。そのためには、実用をはるかにこえた発想が必要だ。たとえば、太陽系サイズのVLBIが考えられる。

月にアンテナを置くだけで相当な基線長(38万km)を持つ干渉計ネットワークを作れるし現在も構想されているが、望らはさらにそこから発展して、周回している彗星を使ってそこにアンテナを載せることで、基線長が50億km規模の干渉計ネットワークを作ることを夢想してみせる──。初期の望パートはほぼ現代で望も学生なのでそれが実現することはありえないが、青春時代はすぐに過ぎ去り、この世界には精神アップロード技術が生まれ、人間は事実上不死となりそれゆえに望が構想した「太陽系規模のVLBIの構築、さらに、その先へ──」も実現可能性を帯びていくことになる。

不死になった人間なら、何億銀河をも超えていくことも可能だが、そこに何も存在しないのであれば、ただ座標が変わっただけである。最初の引用部にあるように、本作における「遠くへ」とは、未知なるものとの遭遇、自身という存在、それ自体を変化させる意味も指している。本作は、どこまでの地平をみせてくれるのか。そして、人はなぜ「遠く」を目指すのか。地球で満足できないのはなぜなのか──。本作は情景のみならず、人間を未知へと突き動かす情動、そのものをとらえた作品だ。

おわりに

本書の終盤には様々なアイデアが投入されるが、僕が本書で最も感動したのは、ここで描かれていく情景が、たしかにこの宇宙の仕組みそのものから導き出せるのかもしれない、と思わせてくれた点にある。物語の序盤。主人公の望が、VLBIを使うことで世界を遠くまで見通すことができることにたいして、『まるで自然が、遠くを見通すための抜け道をあらかじめ用意してくれたかのよう』p.29だと語るシーンがある。

この言葉を借りるなら、本作の終盤にかけての情景、道筋は、SF、フィクションでしかありえないものながらも、実際に自然が用意してくれた抜け道であるかのように感じられるのだ。グレッグ・イーガン『ディアスポラ』や最初に述べた『三体』など、様々な作品を踏まえ、その先へと至ろうとした物語であり、単巻でこれがまとまっているのは信じがたい。間違いなく今年を代表する一冊なので、日本のみならず海外まで含めて、現代最前線のSFを堪能したい人には、ぜひおすすめしたい一冊だ。