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プラットフォームが巨大な力を持って人間を支配するとき、どう対抗すべきなのか──『デジタルの皇帝たち――プラットフォームが国家を超えるとき』

プラットフォームが大きな力をふるう時代である。アマゾンで日々の必需品を買い、ウーバーで食事を配達してもらう。海外では配車アプリの方で生計をたてている人も多い。Appleのアプリストアでは何十万ものアプリが公開され、その売上がメインの企業も多い。アマゾンのサービスのひとつ「メカニカル・ターク」は、希望者にタスクを分配する仕様で、世界中のリモートワーカーの資金源になっている。

こうしたプラットフォームが存在することは、利点ではある。メカニカル・タークのような巨大なオンライン労働市場はそれだけ仕事を振る人も多く、人のいないサービスと比べれば容易に仕事にありつける。特にオークションや取引プラットフォームなどでは顕著だが、取引が成立したにもかかわらず品物を送らない悪質な取引事業者や個人が現れたときも、プラットフォーマーは権力者としてアカウントをBANしてくれたり、場合によっては保証してくれたりする。ユーザーを保護してくれる存在だ。

しかし、こうしたプラットフォーマーは慈善事業でそうした保護をやっているわけではない。そのため、時にユーザーは利益のためにただただ犠牲者となる。YouTubeの広告費で活動する配信者や動画投稿者は常にYouTubeのBANや報酬の減少に怯えるし、それが公正であるかどうかは保証されない。理不尽な理由でアカウントを取り消しにされても、プラットフォームから誰かが守ってくれるわけではないからだ。

本書『デジタルの皇帝たち』は、そうした国家をも超える力を持ち始めたデジタル空間上のプラットフォームについて書かれた一冊である。著者はシステム開発を経てオックスフォード大学の教授になった人物で、いつ頃プラットフォームは生まれたのか。その特徴は何なのか。プラットフォームを利用し翻弄される個人は、横暴な彼らの振る舞いをただ耐え忍ぶしかないのか、テック企業に対して責任を問うことはできるのか──について論じていく。現代社会を生きる上でデジタル・プラットフォームと関わらないことは難しいから、本書は誰にとっても重要な一冊といえるだろう。

最初期のプラットフォームと社会秩序の構築

最初期のデジタルプラットフォームとして本書で紹介されていくのはオークションサイトのeBay(イーベイ)だ。その創設者はパリ生まれのピエール・モラド・オミダイア。彼は6歳の頃にアメリカに渡り、1990年代に市場と資本主義に魅了されキャリアの初期はシリコンバレー企業で勤務していた。同時に多数の個人プロジェクトも動かしていたが、そのひとつが「あらゆるものが理想的な価格で売られる、完全な市場の創出」という動機からはじまったインターネットオークションサイトだ。

1995年にスタートしたこのオークションサイトは、初期は商品の掲載、閲覧、落札しかできなかったがすぐに大人気となった。オミダイアは月額30ドルの個人用インターネットアカウントでこのサイトを運営し、手数料などは一切取っていなかったから、初期は単に赤字の趣味プロジェクトだった。当時はそのうえ倉庫や決済手段もないから、買い手も売り手は現金や小切手を郵送することで取引していた。アクセスが増えるとサーバー料金も増える。仕方がなくオミダイアはユーザーに対して手数料の支払いを求める決断(25ドル未満の商品に対しては落札価格の5%、25ドル以上では2.5%)をして、その手数料は郵送で受け取るようにした。現代の決済環境から考えると牧歌的なやりとりだが、最初期はそれで成立していたのだ。

しかし規模が大きくなるとそれではうまくいかない。詐欺が横行し、商品の意図せぬ不着も増える。裁判が求められるが、それを実施する権力者はいないのだ(オミダイアはリバタリアンで、自分が権威的立場になることを最初は嫌った)。その役割の代替として、オミダイアは相互評価システムを作ったが、とはいえこれも完璧なシステムではない。相手に悪い評価をつけると報復として自分も悪い評価をつけられる可能性があるので肯定的なフィードバックの送りあいが支配的になって正常に機能せず、オークションサイトの利用が増えるにつれ、詐欺とクレームの件数も増えていった(1998年ではクレームは上半期で300件だったのが翌年には6000件になっていた)。

結果として起こったのは、権力による規制の導入だった。『イーベイは、このような市場の失敗に対し、近代国家と同じようなやり方で応答した。規制の導入である。』いくつかのコレクターズアイテムは鑑定会社で本物だと確認されたもののみリストアップされ、偽物の商品を報告する電話相談サービスを導入し、アルコールや食品や銃器など様々なものに対するポリシーを掲載した。ようは、この時プラットフォームは、自前の権力の行使とそれによる社会秩序の構築に移行せざるをえなかったのだ。

プラットフォームが国家を超える理由

こうした事例は枚挙にいとまがない。麻薬取引マーケットプレイスであるシルクロードの創業者ロス・ウルブリヒトもリバタリアンで匿名性、追跡不可能性に重きをおいていたが、秩序を守るためには弾圧政治に打って出るしかなかった。結局、ビッグデータだなんだのいってもそれは統計でしかない。ブロックチェーンは抽選で、アルゴリズムによる意思決定は、計画経済を目指したソ連2.0にすぎないともいえる。

完全な市場を実現する夢を見ながら、アイン・ランド作品の愛読者であったシリコンバレーのリバタリアンが、結局はソ連2.0を生み出しているのだとしたら、皮肉以外の何物でもない。(p.148)

こうした事例をみていけばわかるが、基本的にテック企業が辿っていく流れは現実の政治や国家が経験してきたことの再演だ。であればプラットフォームは「国家と同じ」になっても「国家を超える」わけじゃないのでは? と思うかも知れない。が、プラットフォームでは国家(正確には民主主義国家)にはできないことができる。

まず、国家が縛られる「領土」的制約がない。また、大した証拠も適正な手続きもなしにユーザーの活動を停止できる。仮に国家がタクシードライバーの免許を無効にしようとしたとしても、そんなに迅速にはいかない。Appleの運営者は自社に都合のいいようにガイドラインを適用できるし、ほぼ誰もそれに文句はいえない。

プラットフォームの経済的制度はかなり現代的かもしれないが、政治的制度──個人の権利の保護についても考慮すると──に関しては、暗黒時代のままだ。このため、プラットフォームは,公平性や尊厳よりも私利私欲を優先させる安価な制度枠組みを用いて、国家の諸制度と競争できてしまう。(p.295)

対抗手段

では、こうしたプラットフォームにどう対抗していけばいいのだろうか? プラットフォームにたいして、個人や一企業で抵抗するのはなかなか難しい。Epic GamesのAppleに対する訴訟やAppleのガイドライン変更・追加にたいして企業が団結して抵抗した事例などもあるが、個別具体的な事例であって一般的な抵抗手段とは言い難い。

本書で著者は国による規制やそもそも一つのプラットフォームを解体し小さなプラットフォームに分割する(ちなみにこれは意味がないだろうとしている)など様々な案を検討していく。国が細かく規制を入れ、たとえばランキング検索結果には「公平で非差別的な条件を適用する」よう求めるのは一つの手だが、どこまでこれを細かく定義するのかは問題だ。またプラットフォーム側は詭弁的策を弄してこうした規制を回避するのもほぼ確定しているから──と、これもなかなか難しいところがある。

著者は、『私は、公益事業規制が本当に効果的なプラットフォームの統制する手法となるためには、公益事業規制をより詳細に記述し、プラットフォームの経営陣の自由を奪うことで、プラットフォームを事実上、行政の支配下にいれる必要があるのではないかと考える。』(p.312)とまでいうのだが──、この議論が最終的にどのような結論に至るのかは、実際に読んで確かめてもらいたいところだ。

おわりに

次第に民主主義国が増えていったように、プラットフォームもまた、同様の変化が求められている時代なのかもしれない。

本書では取り上げたイーベイの他にも、ウーバーやアマゾン、ブロックチェーンにメカニカル・タークなど、様々なプラットフォームについて語られている。現代という時代を理解するうえで、非常に重要な一冊だ。