基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

自分がどうやって、どのような経路でSFに入門したのか

今度8月6日に埼玉で行われるSF大会の一企画で、「SF入門書で「SF再入門」」という企画を牧眞司さん、池澤春菜さんと僕の三人で行う予定なのだけど、このイベント前に一度「自分はそもそもどうやってSFに入門したんだっけ?」を振り返っておこうと思った。そういう文章は(たぶん)今まで一度も書いてないのもあるし。
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僕の場合おもしろいのは、SFを明確にたくさん読み始めたのは大学生になってこのブログ(基本読書)を書き始めて以後のことで、SFにどのようにハマっていったのかの軌跡が残っている点にある。たとえば僕がこのブログを書き始めるきっかけになったのは神林長平の『膚の下』を読んで、自分も何かを書き残さねばならぬ! と強く決意して以降のことだ。しかしそもそもなぜ『膚の下』を読んだのかといえば、その前に僕が神林長平の『戦闘妖精・雪風』を読んで衝撃を受けていたからだった。

何でSFを読み始めたのか?

というわけで僕のSF入門の最初の作品は神林長平の『戦闘妖精・雪風(改)』だったといえる。そもそもなぜ雪風を読んだのかといえば、確か大学生協か何かの文庫案内みたいなパンフレットで、この作品の装丁とタイトルがあまりにもかっこよかったから(内容紹介はほぼなかった)、思わず手に取ったのだった。

そこから次々と神林作品を読んでいって、おそらく当時刊行されていたものはすべて読んだ。また、『膚の下』を読んだ後に、小松左京の『さよならジュピター』や星新一の『ご依頼の件』について書いている記事があるから、小松や星、筒井といういわゆる日本SFの御三家の作品を、入門した人間なりに読んでいたようである。

この当時読んでいたのはあまりにもジャンルがバラバラでどういう基準で読んでいたのかわからない。『さよならジュピター』を読んで、『ご依頼の件』を読んで、その後神林の『魂の駆動体』(傑作!)その後宮部みゆきの『ICO』のノベライズ読んで、押井守の『Avalon』ノベライズを読んで、その後森博嗣の『クレイドゥ・ザ・スカイ』を読んで、時雨沢恵一の『学園キノ2』を読んで、『敵は海賊・海賊版』を読んで、アンソロジー『地球の静止する日 SF映画原作傑作選』を読んでいる。

当時のブログの記事一覧(楽天ブログ)

その後谷甲州の『軌道傭兵1』を、レムの『ソラリスの陽のもとに』を、神林の『ラーゼフォン時間調律師』を、次にヘッセの『車輪の下』、小野不由美の『黒祠の島』読んでいる。『さよならジュピター』を読んだのが2007年の7月25日で、その後『黒祠の島』を読んだのが8月5日だから、わずか10日あまりの間で15冊を読破していて自分のことながらほんとに読んでいるのか? とちょっと信じられない思いがする。

しかもその合間にヘッセやレムのソラリスが入ってるんだ。大学生の暇な夏休みだったとはいえすごすぎる。そのあともSFに目覚めたとばかりに名作を次々読んでいる。8月中にはベスターの『虎よ、虎よ』や山田正紀の『神狩り』『鼠と竜のゲーム』、ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』を。

この時期何を指針にして読むSFを選んでいたのかあまり記憶に残っていないが、ド定番、ド名作ばかり選んでいるので、たぶん何かのオールタイム・ベストを参考にして読んでいたと思う。2chかなんかのSF板だったかなんだかに貼られていた、SFの必読の名書リストみたいなのを参考にしていた記憶があるが、定かではない。

人生、ほとんどの期間に渡って僕は本を読み、楽しんできたわけだが、この2007年(大学一年生で、初めての大学での夏休み)の時期は、僕にとっては至高の一年だった記憶がある。SFという新しい世界のおもしろさに目覚め、かつての名作といわれる作品を次々と読んでいた時期だ。金がなかったので全部図書館で借りていたが、僕が読みたかったのは新刊ではなく古い本ばかりだったから、それで何も困らなかった。

ベスターを、クラークを、ホーガンを、ブラッドベリを、レムを、ティプトリーを、小松左京を、星新一を、筒井康隆を、山田正紀を、小川一水を、飛浩隆を、一気に読んだ年があったのだ。そりゃ、SFも好きになるわな。

どうやって選んでいたのか?

入門当時どうやってSFを選んでいたのか? 先にも書いたが、「オールタイムベストランキング」を参考にしていたのは間違いない。何のオールタイムベストランキングかは自信がないのだけど、最初に読んでいるのがほとんど海外作品であることから、定期的に行われているローカスのオールタイムベストを参考にしていたと思う。

本は参考にしなかったのか? 記録に残っているのは僕がSFを読み始めてすぐぐらいの頃に出ていた谷岡一郎『SFはこれを読め!』ぐらいで、他に何かブックガイド系のものを参考にした記憶がない。たぶん参考にはしなかったんだろうな。最初はとにかくオールタイムベストランキングで知った作品を読む→その後気に入った作家の作品をできるかぎり読む、といった形で芋づる式に読んでいた。ティプトリーがきにいったら全部読み、ブラッドベリが気に入ったら全部読み──というように。

それ以外の経路としては、僕の場合は読んだら記事を書いていたので、記事を読んだ人のおすすめを読んでいった記憶がある。イーガンを薦めてくれたのも当時ブログで交流があったdaenさんだった(彼とは今も毎月遊ぶぐらいには仲が良い友だちだ)。2009〜2010年あたりまで気に入った作品を読む→作家の作品を芋づる式に読むスタイルで、その後次第に新刊を中心に読む今のスタイルに変遷していったようだ。

雪風以前のSF

そういえば雪風以前、SFにハマる前に僕は時代小説やらライトノベルやらにドはまりしてそればっかり読んでいたのだけど、ライトノベルの中にもSFはあるので、その時点でかなり読んでいた記憶はある。筆頭といえるのはやはり秋山瑞人だろう。これもたしか2chのスレか何かで絶賛されていたのを見て読んだはずだが、『E.G.コンバット』の衝撃は凄まじく、高校への通学中に読み始めて、こんなおもしれえ小説を脇においたまま学校で勉強できるか!? と思いつつ授業をサボって読んだ記憶がある。

それ以降秋山瑞人の作品を読み漁ったのは言うまでもない。『イリヤの空』の衝撃もすごかった。ただこれはやはり僕の中では秋山瑞人、あるいはライトノベルそのものへのめりこむきっかけではあっても、「SF」というジャンルへのめり込むきっかけではなかったといえるだろう。

現在のSF入門

さて、では現在SFを読み始めようという人はどう入門したらいいのだろうかといえば、なんでもいいんじゃないかな。『SF超入門』の著者としてはこの本から入ってください、というべきなのだろうけど、僕自身が『戦闘妖精・雪風』と大学生協のパンフレットで衝撃的に出会った箇所から衝動的にのめりこみ、手当たり次第に読んでいったわけなので、何が入り口になるかはわからない。

結局、僕にとっての『雪風』のように、「なんて凄まじい作品なんだ!!」と、衝動に火をつける作品──それも、「ジャンルを体現する」かのような作品と出会えるかどうかが、あるジャンルにハマり込めるかどうかの大きな分水嶺であり、人によってその作品は異なるはずだ。そうした作品に出会う、あるいは出会った後に衝動を広げていく入り口としては、僕のようにオールタイムベストランキングを適当につまむとか、『SF超入門』を使うとか(池澤春菜さん監修の『現代SF小説ガイドブック』を使うとか)、色々なケースがある。

このブログをSFタグで絞ってめぼしいものをみつけてもらうのも良いだろう。今度、SFマガジンでは「SFをつくる新しい力」特集ということで、入門者向けのガイドも出るし、2023年はSFに入門/再入門する入り口・補助輪がたくさん出た年といえるかもしれない(『SF超入門』も『現代SF小説ガイドブック』も今年初めの刊行)。

というわけでいい感じに締めれそうなのでこれにておしまい。人によってどういうルート、ガイドブック、作品群を辿ってSFに入門していったのかは異なるはずなので、人の話も聞いてみたいですね(って、その話をSF大会でするはずなんだけど)。よかったらコメントや自分のブログでも何でもいいので、自分の入門話も書いていってね。

『ゲド戦記』や『闇の左手』のル・グインによる、最後のエッセイ──『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』

暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて: ル=グウィンのエッセイ

暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて: ル=グウィンのエッセイ

ル・グインは何をおいても『闇の左手』や『ゲド戦記』の、類まれなSF作家・ファンタジィ作家であるが、僕は彼女が書いたエッセイや評論も大好きだ。詩的でメタファーに満ち、それでいて明快だ。本書に収められているエッセイも、2010年以降の、80代という老境に入ってからの文章にも関わらず相変わらず鋭く、力強い。

本書は2010年から始めていたブログの記事41篇をテーマごとに沿って並び替え、まとめたもので、2018年にこの世を去ったル・グインによる最後のエッセイ集になる。これまでのエッセイ集ではファンタジィやSF、フェミニズムなどテーマがはっきりとしていることが多かったが、本書は元がブログということで、飼っている猫についての備忘録的な記載あり、食事、進化論と宗教、ベジタリアン、SFやファンタジィのこと、そして老いについて──と非常に雑多であり、それがまたおもしろい。

老いについて

全体をパラパラとめくっていくと、やはり老いについての記述が印象的だ。本書の書名の「暇なんかないわ〜」は、かつて卒業したハーバード大学からの「余暇には何をしていますか?」という質問に対する返答だが、これも終わりの時間が見えているからこそのものだ。たとえば、私には余暇は存在しないと彼女は語る。『私の時間はすべて、使われている時間だからだ。これまでもずっとそうだったし、今もそうだ。私はいつも、生きるのに忙しい。』『私の年齢になると、生きることのうち、単純に肉体を維持することが占める部分がふえてきて、まったくうんざりする。』

年寄りになるということは、「生きているだけで精一杯」の状態で生きていくということであり、より若い人たちに「年齢は気持ちが決めるものです」といわれて即効反論していく様子もおもしろい。『あのね、八十三年生きてきたということが、気の持ちようの問題だと、まさか本気で思っているんじゃないでしょうね』。そりゃ、老齢は気持ちの問題ではないだろう。どんどん身体が動かなくなっていく、非常にリアルな問題だ。そして、衰えて残り少ないものをどのように使うべきなのか、そうした問題にどう向き合うべきなのか本書では丹念に描きこまれている。

他にも、どのようにル・グインが言葉を書き、言葉をあやつっているのかについて。『言葉は私にとっての織り糸、そして粘土の塊、そして、まだ彫刻されていない木片。言葉は私の魔法のケーキ、非諺的なケーキ、私はそれを食べる。そしてなお、もち続ける。』。読者からの質問で困惑するタイプのものはなにか、今必要とされている文学賞について、政治についてなどなど、まさに「ブログ」といったかんじで、時代や彼女のそのときの話題、状況に関連した話題が次々と取り上げられていく。

なくなる直前までル・グインは猫と暮らし、このようにしっかりと物を考え、その世界を広げていたのだなと「残り少ない時間で何をするのか」という問題に対する見本をみせてもらったように思う。ル・グインファンはもちろん、今まで読んだことがない人であっても、このエッセイ集から手にとっても良いかと思う。

ル・グインの他エッセイについて

ル・グインの久しぶりのエッセイを読んでいて、そういえば昔ル・グインのこうしたエッセイについて原稿をSFマガジンの2018年の8月号、ル・グイン追悼特集号に書いたなと思い出して下記に引っ張り出してきた文章を置いておきます。ブログ用にちょことこ書き換えており、ル・グインのエッセイを概観するにはいいかと思う。

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)

ル・グインはSFやファンタジィ、物語ること、ジェンダーについて、深い洞察と豊かなユーモアを兼ね揃えたエッセイを残している。その語りは『世界の半分は常に闇のなかにあり、そしてファンタジーは詩と同様、夜の言葉を語るものなのです。』と綴る最初の評論集『夜の言葉―ファンタジー・SF論』からして研ぎ澄まされ、後の刊行作はその内容を発展させていく壮大なSF・ファンタジィ評論群となっている。

第二評論集『世界の果てでダンス』は『闇の左手』をフェミニストの枠組みから捉え直す評論などジェンダー論が多いが、とりわけ創造することへの表現が印象に残る。『何かを創造すること、それはミケランジェロが彫像をおおい隠す大理石を刻んだように、その何かを創案し、発見し、掘り出すことです』。かように、ル・グインの言葉はメタファーに満ちており、明確な定義を与えるのではなく、毎回異なる表現を使いながら、より深い場所を流れる観念を捉えようとするかのように掘り下げていく。

『いまファンタジーにできること』では、ファンタジーに対して、『ファンタジーは、善と悪の真の違いを表現し、検証するのに、とりわけ有効な文学です。』と語り、『夜の言葉―ファンタジー・SF論』では、大人がファンタジーを拒絶・恐れることを「アメリカ人はなぜ竜が怖いか」と題し、それはファンタジーが真実だからであり、そこに含まれる自由が、大人の虚栄を暴き出すのが怖いのだと喝破する。

卒業公演やシンポジウムで、彼女は見過ごされ、軽んじられる女性の側に立った発言を繰り返すが、その姿勢はジェンダーのみに向けられたものだけではなく、大人から低俗なものと迫害されてきたファンタジー、SFに対しても同様だ。彼女は高らかに物語の意義、意味を謳い上げてみせる。それは決して庇護に留まらず、作家らに対し、より高みを、達成不可能な問いにこそ立ち向かえという鼓舞も含まれている。

時代を超えて受け継がれるべきエッセイ集ばかりなので、こちらもぜひ機会があったら手にとってもらいたい。

整理をしないという整理──『アンチ整理術』

アンチ整理術

アンチ整理術

森博嗣氏の新刊である。今回のテーマは「整理術」──というが、長年森氏の日記を読んでいる人からすれば当然わかるように、氏の家は雑然としている。物がたくさんあって、なんというか、好きなものがそこら中に転がっているような大人の子ども部屋みたいな、夢のイメージがある(写真以外では一度も見たことがない)。

整理をしないという整理

そういうわけなので氏は「整理」をしない人なのである。だから本書のタイトルも「アンチ整理術」になっている。つまるところ、氏にとっての整理術とは整理をしないことである。その理由も理屈が通っている。整理する時間があるならば、研究や創作や工作を少しでも前進させたい、だから整理なんてしてられない、そもそも何かを作っている時というのは必然的に周囲が散らかるものなのだ──というわけである。

僕も大枠としては氏の考えに賛成である。何かを書いたり作っている時に周囲が雑然とするのはもはや避けられないことだ。むしろその混沌とした状況が──必ずしもプラスだけではないにしても──心地よく感じられることもある。僕は今とあるテーマの一冊の本を書いているが、周囲に本が散らばって、相当雑然としている。

机の上に何冊も本が積み上がって、そのすぐ脇、ゴミ箱の上にも本が積み上がっている。都度本棚に戻せばいいのかもしれないが、どうせすぐ使うのだからそのへんに散らばっていてくれたほうがありがたい。それも、常に出したり入れたりで動き回っているので、「そのへん」で整理するのも難しい。散らばるのは必然である。他にも、僕が知る限り、優秀な編集者の机はだいたいいつも混沌としている。

僕と森氏の違い

一方でそれが終われば当然ながら僕だって片付ける。もう(少なくともしばらくは)読まないわけだし、あっても邪魔だ。そして僕は家がきれいであることを好む。物に溢れているのは我慢ならない。基本的に「もう読まない」ではなく「しばらく読まないだろう」本はすぐに捨てて(売って)しまうから、家に本は200冊もない。

「積読」というのも僕は嫌いである。邪魔だからだ。2ヶ月も読まないまま積んだら、それはもう「いまよむべき」本ではない。だから、読まずに捨ててしまう。また読みたくなったら買い直せばいいのだ。こんな事を考えているせいで、僕は毎年何十冊もすでに読んだ本や買った本を買い直してまた売っているのだが……。時折買い直すのが不可能、あるいは高騰していて難しくなったりするが、世は無常、盛者必衰であり諦めるしかない。どうしても諦められないものは、さすがに取っておく。

本だけでなくすべてを「必要になったらまた買い直せばいい」と思って「何ヶ月後に絶対に使うだろう」というものも捨ててしまうので、うちは全体的に物が少ない。そもそも、物がたくさんあってほしいものがなかなかみつからない、というのが僕はいやである。探すぐらいなら買い直したほうが精神衛生上楽だ。買えば必ず家に届くのだから。そのへんは、森氏との違いだろう。森氏は自分で買った物はほとんど捨てないという。『これは、僕の書斎に見られる傾向だが、地面に平行な場所は、悉くなにかが置かれてしまうのである。ただし、例外が一つだけ。それは天井だ。』

そこは違いではあるが、でも僕だってできれば本や物を捨てたくなんかないのである。ものすごく広い家に住み、好きなだけ物を置いても自室が乱雑にならないのであれば全部とっておきたい。なぜ捨てるのかといえば、僕が都心に住んでいて、家賃がゲロ高だからである。部屋が狭く、物を置く場所がないのである。森氏は全部とっておいて、ためこんでおいて、狭くなったらより広い場所へ引っ越してきたという。

うーん、僕もそれができるならそうしたいが……。というより、別に今すぐにでもそれは可能なのだが(郊外に引っ越せばいい)、僕はその可能性を捨てて家賃の高い都心に住んでいるわけなので、やはりそこは「物を持つ」ということに対する価値観の違いが現れているとみたほうがよいのだろう。僕は家に自分の物を置くことにたいした価値を認めてはおらず、それより、仕事に便利な場所に住む方を選ぶ人間なのだ。

つまるところ、整理術というのは方法論のずっと前の段階でその人の価値観が現れてくるものなのだろう。

おわりに

この『アンチ整理術』は、最初こうした「物を整理すること」についての森氏なりの考えが語られ、その後『整理・整頓は、あなたの外側ではなく、まずは内側、あなたの心の中でするのが、最も効果がある。』といって思考の整理、人間関係の整理へと繋がっていく。書きながら考える森氏らしく、最後の方は噛み合わない編集者との問答がまるっと一章挟まっていたりして、いきあたりばったり感の楽しい本である。

はたして「整理」というのは本当に必要なのか? 一度立ち止まって考えてみてもいいのではないだろうか。ほぼ僕の整理術の話になっているが、もうあまり紹介することもないので、こんなところで。

うつに殺されないために──『#生きていく理由 うつヌケの道を、見つけよう』

#生きていく理由 うつヌケの道を、見つけよう

#生きていく理由 うつヌケの道を、見つけよう

本書『#生きていく理由 うつヌケの道を、見つけよう』は、小説『今日から地球人』などの著作もある作家のマット・ヘイグが、自身が陥ったうつ病と不安神経症、そこからどうやって生き延びてきたのかを綴った自伝的エッセイである。

そもそもどのようにうつへと落ちていったのか。発症前はどう過ごしていたのか。なぜうつは理解されにくいのか。どのように回復していき、何が支えになったのか。うつヌケした先から説教臭く語るような本ではなく、希望が見えなかった”かつての自分”に対して、今は希望がまったく見えないかもしれない、だが──その先には”希望”があると信じるのだと、共感と共に語りかけてくるような一冊である。

恐怖と不安が巧みに描写されていく。

著者も断りを入れているが、人によって症状の大小も異なれば、症状の現れ方が少しずつ違うのもうつを理解することの難しさに拍車をかけている。しかしそんな中で、著者はあくまでも主観的な実体験として、うつ持ち以外には伝わりづらい、うつとはどういう状態なのかを小説家らしい描写力で綴っていくのが第一の読みどころだ。

うつ病の身体的症状としてずっしりと体にのしかかる重さがある。ただし僕の場合、重さよりもさらにぴったりなたとえがある。低気圧だ。(……)僕は低気圧にすっぽりはまっていた。外側から見れば、つまり周囲の目に、それから数ヶ月間の間の僕は普通より動きが少し緩慢で、少し元気のない人に見えたことだろう。でも、僕の頭のなかでは、あらゆることがつねに激しく容赦なく、飛ぶように動いていた。

彼が陥っていたうつ病と不安神経症の症状は読んでいるだけでゾッとする。うつに加えてパニック障害が併存していた時期には、自分の影におびえる。不眠、空気が薄くて息苦しいような感覚が続く。自分が死ぬ、もしくは気が狂う兆しを探し続ける、最終的には幸福でいることすらも強い不安を覚えるようになる。不安や恐怖は頭の中で生じているだけなのだが、当時は全てが肉体的に感じられるようだったという『つまり、頭のなかで起こることさえ、すべて僕を襲う衝撃として知覚されるのだ。』

合間合間に取り混ぜられていくユーモア

そうしたうつの体験記の合間合間にユーモアが配置されており、そこまで重くなく読んで楽しめるところもいい。たとえば『”うつ”という言葉から僕が思い浮かべるのは、パンクしてぺちゃんこになって動かなくなったタイヤだ』など、的確な表現で笑わせてくるし、「うつは命をおびやかす病」の章では、うつ病のあまりの過酷さゆえに自ら死を選ぼうとする人々や、統計をあげて自殺者の数が胃がん、肝硬変、大腸がんの患者とくらべても多いことを述べ、うつが持つ深刻性を描写してみせる。

その直後に続く、「うつ持ちには言うが、ほかの理由で命が危ない人にはぜったい言わないひと言」の章では、『「へえ、結核にかかった? でも、よかったよ。結核では死なないからね」』『「きみ、どうして胃がんになったと思う?」』『「わかるわよ。大腸がんはきつい。でも、立場が逆なら、この病気の人と暮らしてみたいと思う? ほらね、悪夢よ」』といったように、別の病気になぞらえた「うつ持ちにたいして何気なく発せられる言葉」が列挙されていく。たしかに、きみ、どうして胃がんになったと思う? なんて言われたらキレてしまいそうだと納得しつつ、あまりにひどい物言いなので笑ってしまった。

同時に、うつ持ち、あるいは不安神経症をかかえる人との過ごし方などの章を読みながら、これまでそんなひどいことを言ったりやったりしたつもりもないのだが、周囲には大勢いたうつ持ちの友人・同僚たち、これから出会うだろう人々に大して再度気をつけるきっかけにもなった。何しろ、五人に一人がうつを経験するという時代である。明日、自分がそうなってもおかしくはないのだ。

たとえ人生のどん底にいても、未来が見えないわけじゃない

マット・ヘイグ(1975年生まれ)がうつと不安神経症にかかったのは24歳の頃。今の彼はそこから抜け出し(何度も再発するものだが)平穏な生活を送っているようだ。

本書は、そうやって「生き延びた」彼から、希望をなくし、死を思っていた「かつての彼」、今まさに現在進行中でうつで苦しんでいるすべての人々へのメッセージというか、対話的な本でもある。対話の果てに辿り着く、最終章「もう何も楽しめないと思ったあのとき以来、僕が楽しんだこと」には、思わずぐっときてしまった。僕は自分がもしうつ病っぽくなったらこれを読んでガンバロウと決意している「うつ本リスト」を作っているのだが、当然ながら本書はその中の一冊に加わることになった。

ちなみに、本書のタイトルであるハッシュタグの #生きていく理由 は著者が自身のツイッタで、うつの経験を持つ人達に向かって「あなたの生きていく理由を教えてください」と呼びかけ、大きな反響を読んだ #reasonstostayalive というタグの日本語版。僕はうつ経験がないので特に投稿するような内容がないのだが(ただ楽しいから以外に答えようがない)、日本語版タグにも無数の理由が語られている。

帯文を寄せている田中圭一さんの『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』も幾人ものウツ経験者との対話を通してうつヌケの方法、うつ期の堪え方について、うつ持ちの人々に寄り添った温かな視点で描かれていく漫画で、合わせてオススメしたい。これも僕の「うつ本リスト」のうちの一冊だ。

うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち

うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち

ゲームプレイヤーの人生を綴ったIGNの人気連載の書籍化──『電遊奇譚』

電遊奇譚 (単行本)

電遊奇譚 (単行本)

ネットを日夜徘徊している人はIGN Japanの連載「電遊奇譚」を読んだことがあるかもしれない。たとえば、母が頸を吊って死に、その後残された一家がヨーロッパへと向かい、そこで泊まったホテルのベルボーイとの会話、傷んだ心にもたらされる救済と心温まる手紙のやりとり、ラストへの(ゲーム連載として秀逸な)オチとあらゆる意味で完璧な短篇である【電遊奇譚:其十三】ロンドンのルイージマンション

人生を破滅させるほどゲーム(「Wolfenstein:Enemy Territory」)に没頭し、たとえ後には消えていき物理的に後に残るものはなかったとしても、それでもゲームに人生を賭けて没入する理由を語った「【電遊奇譚:其一】 身を滅ぼしてまでゲームに打ち込む理由」など、この連載は著者自身の経験をベースにしたゲームのプレイ体験記──あるいは人生記であり、普通じゃない程ゲームに打ち込んだ人間の人生を通して「ゲームをプレイする」体験自体の魅力を引き出し、「ゲームと共にある人生」の姿を無数の側面から描き出していく。『人生をだめにするほどビデオゲームに没頭した経験をもつ人は多くいるだろう。そこからどのようにして生き延びたかが問題だ。』

本書はそんな連載の書籍化である。連載されている時からこれは実体験なのか、はたまた小説なのか、といった問いかけはなされていたが、著者によるといずれであるかの判断がつけようがなく、英米文学の「Creative nonfiction」に(おそらく)近いと答えている。物にもよるだろうが、ようは基本的には事実ベースの短篇であるぐらいに捉えておいていいのだろう。だいたい、人間の過去なんかどれほど正確に描写しようとしても、その大半は事実かフィクションかなど判別のつきにくいものである。

淡々とした語り、それでいてゲームへと人生を賭けたことのある人間からしかでてこないような燃えたぎるような体験、感情の表現のすべてが秀逸。いったん連載が終了して再スタートを切った15回目以降は、ビデオゲーム以外のゲームと自分の実人生の関わり(ギャンブル、新婚旅行、競馬)を語ったり、ゲーム論が並んだりと内容の幅も広い。僕自身、起きている時間のほとんどをMMOに費やしていた期間があり、語られていく内容には深い共感を覚える。それは著者と同じく平成生まれの同世代人であり、やってきたゲームも似通っていることも関係しているかもしれないが。

ここにあるのは”新しい現実”を舞台にした、”新しい語り”である。そうであるがゆえに、本書を読むことは、人生をだめにするほどゲームに没頭した人はもちろん、小説、エッセイファンにとっても新しい、特異な体験となるだろう。

ざっと紹介する

第一回で著者の師匠が語る、マイナゲームを極める理由『ひとりの人間には、たったひとつだけでいいから、なにか心から誇れるものが必要なんだ。おれはあるひとつのことを、ここまで突き詰めてやったんだ――人間には、そういう自負が必要なんだ。』。初の恋人から「バイオハザード」をプレイしてほしいと頼まれ、そこから始まる、彼女の部屋へ行ってキスをしてから「バイオハザード3」のプレイをはじめる奇妙な週末のサイクルを描く【電遊奇譚:其四】さよなら、ラクーンシティ

認められなかった自分の欠点を認め、敗北を重ね強くなっていく楽しさを知る「【電遊奇譚:其七】 敗北の先にある戦い」、【電遊奇譚:其十二】おれにはゲーマーの歌声が聞こえるで語られる、FPSの日本代表チームの練習で知る、『システマティックに機能するチームという有機体の中で重要な役割をこなすことからくる充足感』あたりは、たとえゲーム自体プレイしたことがなかったとしても、FPSやTPSへとのめり込んだ経験があれば、頷かずにはいられない。僕が最近ハマったのは『Overwatch』だけど、名前も思い出せないゲームもたくさんやったなあ……。

単純に短編として異常に出来がいいのは、最初に紹介した「ロンドンのルイージマンション」で、話として惹かれるのは小学生にして麻雀をこなし、「点10」で賭けた金で「スターフォックス64」を買いにいく【電遊奇譚:其六】 小学生の雀鬼が麻雀を辞めるまで。(スターフォックス64は本当に名作)、Eve Onlineでのロシア人との敗北必至な戦争を描く【電遊奇譚:其三】銀河系の片隅の戦争と友情をはじめとした、Eve Onlineを題材にした回は、著者が日本有数のプレイヤーであることも手伝って、どれもMMOの底知れない魅力を最高の形で知らしめてくれる。

第十五回以降の、特に奥さんが出てくる回(【電遊奇譚:其十五】九州自動車道のジャックポット【電遊奇譚:其十八】あとにして、私はいまハイラル王国にいるの)は全体的に村上春樹っぽいし(と思っていたら最後の、精神性を参考にしたという参考文献でそのどちらも村上春樹があがっていた)、『ゲームこそが新しい時代の芸術であると。ゲームによって救われる魂の数は計り知れないと。』と高らかに歌い上げる【電遊奇譚:其二十五】ゲームは人生の解釈である(前編)も、ゲームと人間の関わりを問い直し、著者の小説作品へと繋がっていく素晴らしいゲーム論だ。

おわりに

ゲームというのはたとえオフライン・ゲームであっても、出会いも違えばクリアまでの道筋も違い、その体験は人によって大きく異なっていくことになる。多人数が介するオンラインゲームに至っては、人との出会いもあれば裏切りもあり、経済もあれば恋愛もある、そこは現実とはまた別のルールが支配する”もうひとつの現実”だ。

年齢も性別も住んでいる場所も関係なくそのゲームがなければ出会うはずもなかったバラバラの性質を持った人たちの集合体。今でこそオンラインゲームは一般的なものとなってそう珍しいこともないが、それが現れたばかりの頃は──ウルティマオンラインやEverQuest、ラグナロクオンラインを初めて触った時の感動は言葉ではとても言い表せない。画面の中を! 別の人間が操作しているキャラクタが! リアルタイムで動いている! 殺すこともできるし、話しかけたら答えが返ってくる!

しかも、オンラインゲームでは闘争も競争も出会いも別れもすべてが高速化して起こる。高速化されたもうひとつの現実──だからこそ、そこで起こったすべての出来事は現実の出来事と同じぐらい語られたがっている。だがしかし、これまでそう多くは語られることはなかった。著者はそこを開拓した。本書と同時期に早川書房から『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』が刊行されたが、当然ながら、単著も何もないうちから見込まれ、依頼されているわけで、著者の筆力は普通のものではない。

ようはいきなり、ほとんど何もなかった土地を凄い勢いで開拓しつつも、後続が乗り越えるのが非常に困難な壁を築き上げていったようなものだ。『ゲームこそが新しい時代の芸術であると。』と著者は宣言するが、そうであるならばゲームについての語りも、さらに豊穣であらねばならない。本書はそうした挑戦の一冊である。

諸国の教育現場をまわり、良いところ悪いところを比較する──『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?:5つの教育大国に学ぶ成功の秘密』

日本の15歳はなぜ学力が高いのか?:5つの教育大国に学ぶ成功の秘密

日本の15歳はなぜ学力が高いのか?:5つの教育大国に学ぶ成功の秘密

本書は、『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?:5つの教育大国に学ぶ成功の秘密』と、こんな書名なので日本の教育について語られた本なのかと思いきや、原題は『CLEVERLANDS The Secrets Behind the Success of the Worls's Education Superpowers』で、日本のみならず世界の教育を対象にした一冊になる。

国際学力テストPISAで上位に入る5つの国家の教育現場へと赴いて、それぞれの国の教育における良いところと悪いところを比較してみようとした記録、いわば教育というテーマを持った旅行記である。研究というほど厳密な内容ではないが、教育の場に見に行くだけではなく仕事を手伝うことで深くコミットしており、その視点が(日本にもきていて、外からみるとこう見えるのかと新鮮に感じる)またおもしろい。

読解力、数学知識、科学知識を調査するPISAは1997年にはじまって以後、3年毎に調査結果を出している。おおむね15歳の生徒が対象に選ばれ、日本はこの調査の中で上下移動はあるものの、数学的リテラシー、読解力、科学的リテラシーなどなど10位以内の常連だ。本書で他に取り上げられているのは上海、シンガポール、フィンランド、カナダになるが、みな10位以内に入る、成績上は優秀な国家である。

とはいえその上位の国みなみなが同じやり方をしているわけではない。共通している部分もあるが、各々の国の固有の歴史、文化からくる特殊な形態もあり、良いところもあれば悪いところもあるのが実情である──というのは日本で暮らし、教育を受けた人々からすれば先刻承知のことかとも思うが、そうなのである。

たとえばフィンランド

さて、それではそれぞれの国がどのようなどのような教育システムを持っているのか軽く紹介してみよう。たとえば、成績のばらつき、家庭環境の影響でともに際立って平等な教育システムを有するフィンランドでは、最初に学校に入ったときに、読み書きがうまく覚えられない子たちに対してはクラスを分けるのではなくクラス担任による追加指導が入る。また、必要があれば特別教師にサポートを頼むことも出来る。

場合によっては、勉強面だけではなく心理面などでもサポートが可能なように、学校には心理カウンセラー、ソーシャルワーカー、スタディ・カウンセラーが揃っている。また、システム上の特徴としては、小学校と中学校が統合されており、7歳で入学した後は9年間学校に通い、15〜16歳になった時点で、大学入学を目指すための学校に進むか、職業専門学校に進むかを決断することになる。フィンランドの極めて高い公平性には、こうした統合された公平な学習期間が関係しているようだ。

理想的にみえるが、課題がないわけでもない。上級クラスにあたるものはほとんど存在しないので、優秀な子が伸びるのを妨げているのではないかという批判もある。最近は、移民の急増によって全体的な成績は低下している。多文化を前提とした教育の在り方が必要とされているが、まだ十分にその対応が行われているわけではない。

たとえば日本

日本の教育については皆さんよくご存知だと思うが、イギリス人の目を通すとまた違った観点がみえてくる。たとえば規則に従い、文句はいうなと従順な人間を構築する学校教育。著者は日本の学校に暖房やエアコンの設備がないことを知って、日本では禅に由来する〈我慢〉が重要視され、『耐え難いことに忍耐と威厳を持って耐える』特性を培うためだと理解してみせる(ほんとにそうなのかわからんが)。

いい面としては、誰もが高校に行くと思われており、そのためのきちんとした制度が整っている。教師は評価を基準にして学校間で異動させることによって、どこかの学校に優秀な教師が集中することがなくなる(いいかどうかは兎も角)。フィンランドと同じく、学校内で能力別クラスに分けることはなく、日本には、万人に等しい教育を受けさせるという非常に強い信念がある(それは確かに実感するところではある)。

日本の教育カリキュラムは固定されておりそれがしっかりと作り込まれている(○年生の段階ではここまでしか教えてはいけないという制限なども含めて)おかげで教師陣は生徒をフォローする時間を持てる(いや、バリバリ残業してると思いますけどね……)とか、いやいや、固定カリキュラムの功罪もいろいろあって──と細かい話をし始めるとキリがないが「まあ、こう見えるんだな」というのはおもしろい。

それ以外の国をざっくりと

シンガポールは非常にPISAの成績が良いがシステムの実態としてはキツイものがある。子どもたちは人生の早い段階で能力別に入れる学校のランクが振り分けられ、その後どのようなカリキュラムが受けられるのか、大学にいけるかいないかまで含めて事実上大きく制限されてしまう。中国ではみなが同じ進行で勉強をするが、高考と呼ばれる大学統一入試でその後の人生の大半が決まるため、中国の子どもたちはそこに向けて猛勉強しなければならないという大きなプレッシャーにさらされている。

それぞれ良いところもあるわけだが、著者が子どもを通わせるとしたらここだというのはカナダのようだ。認知的、社会的、道徳的スキルや特性の教え方のバランスがよく、子どもたちはのびのびと勉強し、能力の劣る子どもにも支援の手が適切に差し伸べられている。ま、シンガポールも中国も日本もそれぞれ極端な面があるからね。

おわりに

決められたカリキュラムをこなし、試験で良い成績をとる。そうした与えられた問題を解きこなしていく能力と、自分自身で問題を考え出し、手持ちの物で解決していく能力のことを考えると15歳までの学力のみを問題にしても仕方がないところがあるが、それはそれとして15歳までの教育システムの比較として興味深い一冊である。

本書では最後に総まとめとして、「高い成果と公平性を実現するための五つの原則」なども挙げられているが、日本での例をあげるまでもなく、あくまでもイギリス人が短期間滞在して見て、考えたものなので、厳密な内容の本ではないのには注意。

読書によって夫婦の相互理解は深まるのだろうか?──『読書で離婚を考えた。』

読書で離婚を考えた。

読書で離婚を考えた。

円城塔、田辺青蛙の小説家夫婦が、課題本を出し合い交互にその本についてのエッセイを連載することによって、夫婦の相互理解につとめる──そんなコンセプトではじまったWeb連載が一冊にまとまったのが本書である。かたや理系で、わけのわからない抽象的な小説を書くと評判の円城塔さん、かたやホラー・怪談作家で読む本としては実話に近いものを好む傾向がある田辺青蛙さんと、書くものも読書傾向もさっぱり合わない二人だが、はたして読書で相互理解は進むのか!?

攻撃としての相互理解

……といえば、相互理解はなかなか進まない! そもそも本好きなんか数百冊読むような人たちが集まったところでお互いの趣味領域が一致することは稀である。

その上、確かにスタート時点ではコンセプトが「読書で夫婦間の相互理解を図ろう」となっているし、実際連載の中でもそのコンセプトは立ち戻るべき母艦として何度も繰り返されるのだが、二人の相手へのオススメ本を見る限り、その選定の基準はよくわからないことも多く、特に序盤は、"相手を驚かせてやろう"か、もしくは"相手への要望/意見を伝えよう"という方向に寄ってしまっている。

たとえば健康診断を受け医師から10キロ程痩せなさいと言われた夫に差し出すのが『板谷式つまみ食いダイエット』であったりする。それは相互理解を目的とした選書ではなく、ただの要望ではないか! その上、原稿のほとんどが本についてではなく自分と相手のことで占められている事も多い中、この連載は一応読書、書評リレーなのだから本の紹介を挟まなければいけないわけだが、こうまで実用一辺倒の本だと紹介も書きにくいというさらなるツラミまである。これではほとんど攻撃である。

とはいえ、相手が普段読まないものであったり、自分の相手に対する要望が上乗せされた本を読ませ、書評を書かせることによって意外な一面がみえてくるという側面もあるのかもしれないし、そうなると攻撃的選書もまた相互理解のための一手段といえなくもない。そして、そうした相互理解という名のもとに、ちくちくと、時にどすどすとお互いを攻撃しあうやりとりは、読んでいてやたらとおもしろくはある。

読書で離婚を考えた?

和気あいあい大いに結構であるが、やはりおもしろくあるためにはたとえ夫婦間であったとしても殺るか殺られるかの緊張感が欲しいものである。そういう意味では、狙ったかどうかはともかく、二人とも大したエンターテイナーだな、と感心してしまう。しかしそれで夫婦仲が悪くなってしまっては、あらゆる意味で本末転倒である。たとえば円城塔さんの連載回では、こんな不穏な一説が途中で挟まれることになる。

ただ、僕の中でこの連載が、「続けるごとにどんどん夫婦仲が悪くなっていく連載」と位置づけられつつあることは確かです。僕の分のエッセイが掲載された日は、明らかに妻の機嫌が悪い。
「読んだよ」と一文だけメッセージがきて、そのあと沈黙が続くとかですね。
どうせ自分は○○だから……と言いはじめるとかですね。

うーんこれはつらい。と、こんなところから書名である『読書で離婚を考えた。』に繋がってくるわけだけれども、これは少年ジャンプの主人公が途中でピンチに陥るようなもの。このあともつつがなく、仲睦まじく読書エッセイリレーは続くわけであって、つまり、特に心配する必要はない。だいたい、本書を読み終えた人がまず思うのは、「この人たち仲良すぎかよ!」という感想だろう。

ちなみに本書でざっくばらんに紹介されていく本を一部ご紹介すると、まず最初の本は吉村昭「羆嵐」、テリー・ビッスン「熊が火を発見する」でいきなり熊二連続。かと思えば大阪周辺のネタを集めた「VOWやもん!」、スティーヴン・キング「クージョ」、山田風太郎「〆の忍法帖」など各ジャンルをふらふらと蛇行し、最後はスタニスワフ・レム『ソラリス』、高見広春『バトルロワイヤル』で連載は〆られることになる。しかし、相互理解をコンセプトにした読書リレーで、最後の二冊がこのチョイスってのはなかなか凄いというか異常なものがあるなあ。

古いものから新しいもの、小説からレシピ本、折り紙本まで多種多様で、紹介もしっかりしていくので書評本的にも読み甲斐があるが、その合間合間に夫婦の初デートの話が挟まれたりして、これがまあ愉快。たとえば二人が最初のデートで食事にいった場所がサイゼリヤで、二度目が和民であったことが判明し、『今だから言えるけど、せっかく京都から出てきたのだから、全国チェーン店じゃなくって、東京じゃなきゃ行けない店に行きたかったです。』などと赤裸々に暴露されついつい笑ってしまう。

果たして夫婦は読書で相互理解に至ることができるのか? というか二人の人間が相互理解に至った状態とはどのようなものなのか? そもそも夫婦というものは相互理解をする必要があるものなのだろうか? と疑問が疑問を呼んでいく。夫婦の在り方なんかその夫婦ごとに様々だろうという大前提こそあれど、夫婦なんか理解できないぐらいがちょうどいいんじゃないのかな、むしろ理解できてしまったらお互いにつまらないのではないか──そんなことを感じさせる一冊であった。

おわりに

円城塔/田辺青蛙ファンはすでに買っているだろうが、それ以外にもほっこりしたい人、夫婦間での関係性について悩んでいる人、小説もノンフィクションもレシピ本も読みたい本好きの人などなどにはオススメである。

本を読んで変わる人生

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版

大学生で暇で暇でしょうがなかった時、学内新聞をつくろうと思ったことがある。*1

立派な大学なら学内新聞の二つや三つあるだろうが(偏見かもしれない)三流の私大だったからそんなものはなかったし、僕は文章を書くのが好きだったから、できるだろうと適当にアイディアをまとめてつくってみることにしたのだ。

読書で人生が変わった経験がありますか?

ブログを始めたのは大学一年生の頃ですでに書く方については経験もあったから、(二年の頃つくろうとした)学内新聞には僕がいくつかの書評とコラムを書こうというのがまず決まった。第一号ではそれに加えて教授陣へのインタビューを実施することになった。その中の設問に、どういう理由で入れたのかよく覚えていないのだが「読書で人生が変わった経験がありますか?」という質問を入れていたのだ。

僕としてはそんなものは愚問というか、そこら辺の犬ならともかく大学で教鞭をとるような人間なのだから読書で人生の一つや二つ変えたことがあるだろうと思っていたのだが、意外と「本を読んだぐらいで人生が変わるわけがない」と答える人がいた。当時はそういうもんなのかと反感を覚えもしたけれど、ざっくりとした質問なので解釈次第でどんな答えが返ってきてもおかしくはなかったと今は思う。

極論をいえば、ただ息を吸って吐いているだけだろうが身体の組成は変更され何もしていなくともインスピレーションを受けたりもするものだから、"この世に人生を変えない事象などない"とさえも強弁できる。その逆もまた然りであろう(本を読んだ人生と読まなかった人生を比較して検証できるわけではない)。とはいえ僕としては本を読むことで人生は変わりえると主張しないわけにはいかない。

冬木糸一の読書遍歴、またいかにして本を読んで人生が変わったか

というよりかは、しこたま本を読んで/読みすぎてしまって、もはや本を読んで変わらなかった人生とは一体何なのかというのがわからなくなってしまっている。ドリトル先生やエルマーのぼうけんに心を踊らせ(話はさっぱり覚えていないが表紙のイラストと、彼らの物語が温かで愉快だったのは覚えている(過誤記憶かもしれない))、ファーブル昆虫記からはノンフィクションのおもしろさをしった。

司馬遼太郎作品に惚れ込んだ流れで宮城谷昌光や塩野七生の手による、過去の血なまぐさい時代の小説に没入し、指輪物語を読んでこの世にこんなにおもしろい物語があっていいのかと思い震えた。そうした一つ一つの出会いが、レールを切り替えたとまではいかずともハンマーで杭を打ち付けるように少しずつ生き方に変化を与え、最終的には逃れようがないぐらく今の人生に変革されてしまったように思う。

『人を動かす』に感銘を受ける嫌な小学生

とはいえ、明確に人生のレールが切り替わったと思った本との出会いもある。

一冊は、小学生の時に誕生日プレゼントに買ってもらったデール・カーネギーの『人を動かす』だ。なぜ小学生にして、自己啓発本をもらいたいと思ったのかわけがわからないのだが、この本との出会いは衝撃的だった。言わずと知れた本なので内容を紹介する必要があるとも思えないが、この本は人間関係について、とりわけ人を動かす方法についてデール・カーネギーが考察した一冊である。

この本の中には重要なことが書いてある。たとえば、誰もが褒められたがっているのに褒められる機会は少ない。だから、人に好かれ、動かしたければ人を褒めることだ。それも嘘をつくのではなく、心の底から相手の良いと思うところを誠実に。また、誰もが話したがっているのに聞いてもらえることは少ないから、あなたは聞き手に回るべきだ──などなど。で、僕は小学生にしてまったくその通りだと感銘を受け、以後人を本心から褒め、聞き役に回ることで相手をコントロールできることに気がついてしまった(嫌な小学生だな)。

今も僕は相手の良いところを探し、褒めるようにしている。逆に自分が褒められた場合は「この人間はこっちをコントロールしようとしているのではないか」と過剰な警戒を抱くようになった(それはどうなんだ)。ともあれ、そうした経験があったおかげで僕は"本を読むってのは使えるぞ!"とかなり早い段階で気がつくことができたのである。そういう意味でレールが変わった一冊といえるだろう。

膚の下

もう一冊は神林長平先生の『膚の下』という小説である。

神林作品の中でも代表作といえる火星三部作、その刊行順としては最後になる作品なのだが、僕はこれを読んで完全に頭がおかしくなってしまった。読んでいる最中に時間の経過が一切感じられなくなって、読み始めたときは朝だったのに、読み終えて外に目をやったらもう日が沈んでいた。そして、そのままいてもたってもいられなくなってブログ「基本読書」を立ち上げ、その興奮をそのまま書き付け更新し、移転し、10年後に至る現在までちまちまと更新し続けている。
plaza.rakuten.co.jp
今なお『膚の下』を読んだときの熱狂は自分の中に残っている。「基本読書」のおかげで、SFマガジンやHONZなど無数の媒体で文章を書くことにもなった。先日は機会があり神林先生に直接お会いして感謝を直接伝えることもできた。もし『膚の下』を読んでいなかったら──とたまに考える。文章はなんらかの切っ掛かけで書いていたのかもしれないが、今のような形では書いていなかったと思う。

あくまでも僕個人の話ではあるが、読書によって常に人生には微細な変化が加えられ、時として強烈な一撃によってレールが大きく切り替わってしまうことがあるのだ。きっと、みなそれぞれ自分の"レールが切り替わった体験談"があるだろう。

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚の下 (下)

膚の下 (下)

*1:※シミルボンに投稿した自己紹介コラムをブログ用に編集して記載しております。

この十年間のSFをめぐる状況──『現代SF観光局』

現代SF観光局

現代SF観光局

表紙にババーン! と「THE INSTRU-MENTALITY OF SCIENCE FICTION」とあって、それがあまりにも格好いいために「いったい何が始まるんです?」という感じだが、なんということもない、本書はSFマガジンに連載されている「大森望のSF観光局」と「大森望の新SF観光局」約10年分を書籍化した、SFエッセイである。

SFファンなら誰もが知る連載の書籍化であるわけだし、僕なんかがあらためて紹介する必要はないよなとも思ったのだが、やはり一気に読むとおもしろかったので書いてしまう。それでは、まずは内容を端的に要約している序文から借用してみよう。

 本書は、二〇〇六年十一月から二〇一六年八月までの約十年間、こうしたSF界の変化を観察・分析した記録である。激動の十年間のSF的な出来事はだいたい網羅されているので、本書を一読すれば、いまのSFがどうなっているか、おおよそのところはわかっていただけると思う。

という文章に続けて、『──というのはべつだんウソじゃありませんが、こうして一冊にまとめてみると結果的にそう読めなくもないよね、という話で、もともとそれを目的に書いてきた原稿ではない。実際の身はいわゆるひとつの……なんだろう? SF四方山話? まあ、要するにSFネタのエッセイ集ですね。』と自嘲的に語ってみせるが、この辺のバランスの取り方もまったくもって大森望さんらしい。

「伊藤計劃『虐殺器官』の衝撃」と題された記事から始まって、京フェスの話をしながら翻訳ファンジンの歴史語りをする回あれば、日本SFの英訳事情を語る回あり、ワールドコンなどのイベント体験記もありと盛りだくさんである。けっこうな割合で追悼記事が入るが、業績の整理を行いつつも毎回きっちりとした作家論になっており、さらには大森さん個人の思い出や視点が色濃く反映されているのもまた楽しい。

僕はSFサークルに所属していたわけではないし、イベントにも出向かないので昔から今に至るまで基本一人っきりでSFを読んでいるSFファンである。そうした、いわば「SF交友関係」の外にいる人間からすると、大森さんの各種エッセイは「へえ、京フェス/SFセミナー/ファン交流会っていうのはこういうところなのか」とか「この人はこういう人なんだ!」がわかる絶好の窓口なのであった。

非常に交友関係の広く、イベントでも登壇者となることの多い大森さんだから、あの作家やあの翻訳者、あの編集者などなどの業界人とのとっておきの(かどうかはともかくとして)個人的なエピソードが読めるのもならではだ。勝手にテッド・チャンを囲む会で実施された、テッド・チャンへのインタビューはいつまでも手元においておきたいし、学生時代から続く人間関係などの非常に狭い部分の情報もおもしろい。

しかし、こうやって10年分の出来事をざっと見渡してみるとSFをめぐる状況は日に日におもしろくなっているな、と実感する。もちろん幾人もの作家や翻訳者が亡くなり、SFマガジンが隔月刊化したりと後退と捉えられるトピックも多いが、創元SF短篇賞がはじまり、SFコンテストも復活して順調に新しい才能を供給しているし、SF専門の出版社以外からもおもしろく/新しいSFが出続けている。英訳が進み、海外で賞をとる作品も出てきて、映像化もいくつも進行している。

本書は、最初から意図していたというよりかは結果的にそうなった側面が強いとはいえ、この10年のそうした変化を丹念に切り取った貴重な一冊だ。

おわりに

SFの専門誌に連載されていたエッセイであるけれども、SFをたくさん読んでいないとわからないなんてことはまったくない。わかりやすく順序立ててSF業界内のトピックやプレイヤーが紹介されていくので、誰であっても「いまのSFがどうなっているのか、どのような経路でいまの状況があるのか」がよくわかるはずである。

人類社会と昆虫の多様な関係──『昆虫の哲学』

昆虫の哲学

昆虫の哲学

昆虫の哲学と言われてもいったいなんの事なのかよくわからないが、著者によれば次のように説明される。『「昆虫の哲学」とは、さまざまな昆虫の哲学ではない。それは、私たちが当たり前のように口にする、「法の哲学」、「芸術の哲学」、「科学の哲学」、「自然の哲学」などと同じ意味での「昆虫の哲学」なのだ。』

そう言われてもよくわからんなあと思いながら読み進めていったのだが、分類学、社会学などなど、人類史における昆虫の扱われ方について幅広く問いなおしていく内容で、哲学といえば哲学だし、広義の昆虫エッセイともいえるだろう。たとえば昆虫やダニやクモ類の命が、哺乳類に比べると軽くみなされるのはなぜか? という問いかけも、あらためて問いかけなおしてみると確かに不思議である。

実際、小型の陸生節足動物と自分を同一視することはかなり難しいし、一方で科学的な根拠としては昆虫らは苦痛を感じていないのも確かなので「まあ別に脚がもげようが残酷に殺されていようが別にいいか」と思うのも無理はない。とはいえある動物に対する扱いが道徳的に非難されるか否かが、その動物に苦痛を感じる能力があるか否かに依拠するのかといえばそうとも言えまい──とかなり単純な問いかけであっても厳密に考えていくとずいぶん厄介な生命倫理の問題に繋がってくる。

普段の生活ではあまり昆虫との関わりは(特に大人は)持っていないことが多いと思うが、概念的には非常に身近な存在でもある。アリは常に2割働かないやつがいるという実験結果が出ればあの感情移入しようがない生物と共通点もないくせに人間は「人間の社会も同じだ!」とか言い出してみせる。人間の社会と昆虫の社会はあまりにも違っているが、それでもどこか均一性を持つと仮定しているかのようだ。

カマキリのメスは交尾が終わった後オスを食うとかめちゃくちゃなことをするように、昆虫は哺乳類ほど我々人類に近くはなく、植物ほどには離れていない。たしかにアリやハチは社会を築くが、それはやっぱり哺乳類の物とはまったく種類が違うし、その違いこそが比較対象的に物を考えるときには価値となる。本書をエッセイと最初に表現してしまったが、そんな人類から距離のある昆虫を入り口にしていろいろ考えてみた哲学の本といったほうがしっくりくるかな。

ユクスキュルの環境世界論、デリダの動物論、生物/昆虫学者としてはダーウィンからファーブルまで古今東西の昆虫哲学を総まとめ的に語り尽くしており、「昆虫哲学総集編」みたいな雰囲気もある。なかなかおもしろい一冊だ。

翻訳出版が冒険であった時代──『翻訳出版編集後記』

翻訳出版編集後記

翻訳出版編集後記

常盤新平さんが「出版ニュース」にて1977年から1979年までにかけて連載されていた、早川書房で翻訳出版に携わっていた日々をメインにしたエッセイ集である。なんでそんな、40年近いむかしのエッセイが出るんだと言えば、版元の幻戯書房が著者の没後も未発表の作品を発掘し、本として出してくれているからだ。

僕は翻訳出版の編集者ではないが、翻訳物を読む機会が多いので読んだけれども、そのような趣味や仕事上の関係分野でもなければ40年前に書かれたエッセイを読もうとは思わないかもしれない。ただ、著者が早川書房で働いていた1959年〜1969年は翻訳出版が現代以上に全部博打みたいな状況であり、現状の翻訳出版をめぐる状況がどのように創りあげられてきたのかが感じられるおもしろさがある。

当時の状況

たとえば、翻訳するためには権利を買い取る必要があるが、当時その金額が探偵小説とSFの場合は125ドルから150ドル、ノヴェルズからノンフィクションでも200ドルから250ドルだったとか。物価がわかりづらいが、1967年頃のコーヒーは5、60円で1ドルが360円、著者の年収は30万円とかだからそんなもんかあという感じである。ただ早川書房の編集者はみな『給料が出版界でも有名なほど安いから』ということもあって二足のワラジ(翻訳とか原稿書きとか)をはいていたという。

編集といっても仕事は色々あるが、著者の場合はキャリアの初期の方で「ホリデイ」という雑誌を創刊して1号で潰したりもしているが、おおむねSFを除いた翻訳物の企画から翻訳権の取得、編集までを広く受け持っていた*1。なので、そうした海外エージェントとのやりとりや翻訳についての話が多い。その頃の翻訳出版をめぐる状況は、随分と牧歌的な時代だったようだ。早く翻訳したい作品を見つけて交渉すれば、仁義によって他所は手を出してこないし、競争もなく版権を安く買えた時代である。

今の早川書房の編集者はとてつもなく忙しそうだが、当時の早川書房はそんなに忙しくなかったみたいでもある。「パブリッシャーズ・ウィークリー」誌や「ニューヨーク・タイムズ」などを取り寄せて読んだり、新刊の書店や古本屋をぐるぐるとまわりながらアメリカの出版社が送ってくる新刊予告を読んで何の版権をとろうかなあと思案して日々を過ごすのはずいぶん楽しそうというか天国みたいに思える。

翻訳出版は冒険である

とはいえ売れないと責任がかかる。何度も本書で強調されるのは当時の翻訳出版は「冒険である」ということで、今もそうだとはいえるんだろうけれども「翻訳出版というものが確立していない」時代のことなのでより過酷である。あの『ゴッドファーザー』も、「おもしろくてもマフィアの小説をいったい誰が読むのか」と議論しているのが後世からみるとおもしろい。インターネットもないから情報の伝達が遅く、文化の隔たりが大きい。海の向こうでベストセラーになったからといって日本では鳴かず飛ばずということが頻繁に起こる時代ゆえの苦悩といえる。

 翻訳ものを出版するというのは、私にとってはいつも冒険だった。それは早川書房にとっても冒険であったし、早川書房ははじめからその冒険に賭けてきたのである。私の上司だった福島正実氏が、人真似をするなと戒めたのも、他社の真似をしたのでは、早川書房の存在理由がなくなるし、編集の楽しみもなくなると考えたからだろう。

引用部にはあの福島正実さんの名前もあるが、当時の伝説的な編集者らとの交流の記録としても魅力的だ。いろいろと確執もあったようだが、おおむね好意的に描かれている。逆に、常盤新平さん自身はあらゆる要素を自虐的に語るのがおもしろい。ダメダメな翻訳/編集者だったとか、自分が翻訳したら売れなかったかもしれないとか、軽率だったとか、書かれているのは後悔ばかりである。文章だけ読むと、正直な人だったんだなという印象が湧いてくるが、それゆえに語りがじんわりと染みてくる。

 もし私がもう一度翻訳担当の編集者になったら、と空想することがある。不可能であることはわかっているのだが、自分も翻訳したいという気持は抑えて、原書を読み、翻訳の原稿を丹念に読むだろう。たぶん、訳者におずおずと助言するだろう。校正をていねいに読むだろう。
 早川書房時代に、私はそういう基本的なことを怠った。悔いがあるとすれば、その点である。

たとえばここなんか、読んだ時は思わずドキっとしてしまったもんな。基本的なこと、僕は怠りまくっているもの。重要だとわかっちゃあいるがいざ直面するとやはり逃げたくなって/面倒になってきてサボりたくなってきてしまう。

著者が早川書房を退職したのちに、日本とアメリカの流通はより密接になり翻訳出版をめぐる状況も変わっていくわけだが、その前夜の翻訳出版状況を知ることのできる貴重なエッセイだ。幅広い層に訴求する本ではないかもしれないが、おもしろいよ。

*1:二足のワラジで翻訳もしていた

作家・冲方丁による物語論/人生論──『偶然を生きる』

偶然を生きる (角川新書)

偶然を生きる (角川新書)

もうすぐ(3/24)マルドゥック・スクランブルをはじめとするシリーズ最新作『マルドゥック・アノニマス』の一巻が出るのでワクワクして待っていたところだったのだが、その前に新書が出ていた。いったいどんなものやら……と読んでみれば、人間はなぜ物語を求めるのかという物語論を主軸にした、人生論のようなものであった。たとえば5、6、7章はそれぞれ「日本人がもたらす物語」「リーダーの条件」「幸福を生きる」とそれぞれ日本人論、リーダー論、幸福論になっている。かなり雑多だ。

とはいえ『偶然を生きる』という書名には読む前から納得する部分があった。『マルドゥック・スクランブル』を筆頭に、冲方作品には偶然と必然が物語の中心に根を下ろしている。『たまたま起こった事柄の意味を探り、その事柄の反復をもくろみ、そして新たな、より「価値のある」事柄を起こそうとする。それが必然へと赴くということである。』とは『マルドゥック・スクランブル』旧版のあとがきの言葉だが、これは偶然によって死に瀕した悲劇の人生にたいして「なぜ、わたしなのか」と問いかけていく少女の物語なんだよね。

そのためエッセイ(人生論)でもそれが中心となるのは納得感がある。『偶然にはリアリティがあります。その偶然性を必然と感じること、感じさせることが、人間が行う物語づくりの根本になっているのです。』とは本書からの引用だが、物語のテーマ、中心だけでなくテクニックの部分でも偶然と必然は関わってきている。故に本書はいかにして人を引きこむのかという物語論であるともいえるし、物語に惹きつけられる仕組みを解剖していくことを通して人間(人生)を語る一冊でもある。

 物語づくりとは、そうした偶然のリアリティを差し替えたり、動かしたり、改変したりしていく作業だともいえます。人は誰でも偶然を生きている。その偶然を考えていくことは、物語の本質を突きつめていくことになるとともに、物語にあふれた世の中で、どう生きるべきか、本当の幸福を掴むにはどうするのがいいのか、といった道筋を探すことにもつながっていくのです。

4つの経験

本書では世界の捉え方を主に4つの経験に分類している。全体を通してこの概念が中心になるので説明しておこう。第1は「直接的な経験」で主に五感に相当する経験のこと。第2は「間接的な経験」で、社会的な経験ともいう。殆どの人は宇宙に行ったことがないが、伝聞や写真で宇宙から地球がどう見えるかを知っているように、さまざまな知識が伝達可能な状態で我々には伝えられるがそのことを指している。

第3は「神話的な経験」でようは神話で世界を理解する試みのこと。太陽が上る理由や月の満ち欠けを神様のせいにして納得してみたいろt、かつてはこの経験が世界を理解するために重要だったが、現代ではこの経験は失われつつある。第4は「人工的な経験」で、これはようは作り上げられたフィクションのことだ。たとえばある新製品を売り出す時に「これをこんなふうに使えばあなたの生活が一変しますよ!」というようなもの。基本的には物語などのフィクションもここに含まれそうな感じ。

多くのことが語られる本なので、これこれこういう本なのですとまとめるのは難しいのだが、この4つの経験を前提にしてみるといろいろなことがわかりやすくなる。

たとえば、「幸福」を考えるときにもこの経験を4つにわけるのはけっこう便利だ。幸福は第1の経験の範疇にあるものであって、第2の経験である社会的な経験に固執しすぎると第1の経験がぽっかりと欠落してしまう。だから本書では幸福に至る道のひとつは、第1の経験に立ち返るために、時に第2の経験から離れて──ようは、社会からいったん離れるなり目線を離すなりして「客観視」することによって、第1の経験である自分の感覚に立ち戻ることが重要なんだという話になる。

また、著者の本業である物語創作についてもこの4つの経験で説明すれば第2や第4の経験を第1の経験に直していく作業だとたとえられる。たとえたからなんだ、と思うかもしれないが、理屈を理解し事象をより細かく解剖していくことでより捉えやすくなる、応用範囲が広がるといった利点は大きい。

偶然と必然を区別するのは難しい

偶然に満ちたこの世界を人はどう生きるべきかを問いかけていく本書ではあるが、偶然と必然を区別するのは難しいものだ。偶然を必然と思い込んでしまうこともあれば、必然を偶然と思い込んでしまうこともある。本書にも「自分には歯医者は学力的に無理だ…」と諦めてしまった知人の話が紹介されているが、歯医者になる為の大学にはそこまで入るのが難しくない場所もあり、そうした知識がないと「知らないという偶然」が「歯医者にはなれないという必然」に変わってしまう。

世の中には変えることのできる物事と、変えられない物事がある。たとえば小説家になりたくて賞に応募するけど落ち続け、自分には才能がないんだ……と落ち込む。場合によっては書くことをやめてしまうかもしれない。しかし実際には作品は広く認められるだけの価値がありながらも、さまざまな偶然に左右されて落とされている……というのは無数にきく話だ(それも、後に成功した例だけだが)。「応募する先がまずい」のかもしれないし、たんに「運が悪い」のかもしれないし、本当に価値がないのかもしれない。ようするに、現実はそんなに見極めがつきやすくはできていない。

生まれた時代、生まれた時の遺伝子、家庭環境、人生のスタートからして偶然に左右されていて、我々はいつだって偶然を生きるしかない。いったいなにが変えられる物事で、何が変えられない物事なのかを教えてくれる神様は存在しないし、本書もその区別をつけてくれる一冊ではありえない。しかし少なくとも人生があらゆる偶然に満ちたものであることを教え、最低限の手ほどきを施してくれる一冊ではある。

おわりに

とまあ、冲方丁ファン以外が読んでもなかなかおもしろい本であると思う。度々『天地明察』などの時代小説が引き合いに出されたり、かつて挑戦していた文芸アシスタント制度についてなんで失敗したんだろう? と考察する部分などもあるのでファン的にも嬉しい。どちらにせよ冲方丁ファンは買うだろうが。

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉