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クリストファー・プリーストの集大成的作品──『隣接界』

隣接界 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

隣接界 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

『双生児』や『奇術師』で知られるクリストファー・プリーストの新刊である。二段組で600ページ近い大著であるが、たいそう読みやすい。かつ円熟の域にある描写は(そのシチュエーション設定も込みで)ページをめくる手を止めてはっとするほどに美しく、『夢幻諸島から』を筆頭とするほとんどの作品を思い起こさせるモチーフが投入された、クリストファー・プリーストファンとしてはたまらない逸品である。

それと同時に、著者の善き面がこれでもかというぐらいに凝縮され、本書を読むことで「クリストファー・プリーストとはいったいどのような作家なのか」がわかる一冊でもある。近未来の英国を舞台に、徐々に進みつつある環境汚染、生態悪化、国家間の関係は悪化の一途を辿る──という暗い時代を扱いながらも、あくまでも観察者であるフリーカメラマンを中心人物に据え、人が一切の痕跡も残さずに消失する新兵器と、その現象にまつわる人々の物語が展開していく。その兵器によって死亡した(と見られる)人々は、死体が残らないため、可能性の世界では生き続けることになる。

秘密任務を遂行途中の手品師、かつての男の影を追う女性パイロットと、そんな彼女と恋仲に落ちるイギリス空軍の整備兵。夢幻諸島を思い起こさせる幻のごとき島の数々、物語は無数の人々の物語を取り上げながら、状況的に明らかに死んでいる。しかし、生きていないともいいきれない──そんな"はっきりしない"、いわば"可能性に揺らぎのある世界"を描き続けていく。そんな作品、普通に書いたら焦らされてばっかでなんだかよくわからん、となりそうなものだがプリーストが描くと──仄めかし程度に明かされる近未来世界の暗い魅力も含めて、おもしろくてたまらない。

では簡単に、あらすじや読みどころなどを紹介していこう

あらすじとか世界観とか

無数の人物の物語が進行していくわけだけれども、その中心となるのはカメラマンのタラントだ。彼は妻のメラニーと共にトルコの野戦病院に滞在していたのだが、メラニーは病院の外で、おそらくは敵の爆撃によって死亡した。おそらく、というのは、調査に赴いた面々が見つけたのは大きな三角形の形に黒く焦げた土壌だけで、死体の痕跡はなかったからだ。だが、多くの者がメラニーは死んだのだと結論づけた。

世界背景としては、全世界的に戦争状態が続いており、国家間の移動どころか国内の移動すらも容易ではない。英国は何度も新種の低気圧嵐に見舞われ、地方の一部は武装ギャングによって支配され、ロンドンではメラニーが殺されたものと同様の"大きな三角形の形に黒く焦げた土壌が残る"攻撃によって10万人以上が殺された/消された。そんな状況下で、トルコから船でイギリスへと戻り、メラニーの両親へと報告を済ませたタラントだが、彼の元へと海外救援局の職員が迎えにやってきて、彼をロンドンに連れていくので、そこでトルコでの体験に関する詳細報告を提出せよという。

タラントはメブジャーと呼ばれる軍用車輌に乗って延々と移動を続けるのだが、その過程でいろいろと不可思議な出来事に遭遇することになる。フローと名乗る女性との出会いとセックス、乗っていたメブジャーが突如として跡形もなく消失する。死亡をその目で確認した人物と遭遇する上に、相手は自分を覚えていない──。信頼できない記憶、あるいは可能性の世界を相手に、タラントは"観察者"として対峙していく。

写真とは、受動的な行動だと、メラニーはかつて言ったことがある。受容的で、不干渉な行動である、と。出来事を記録するが、けっして出来事に影響を与えることはない。(…)写真はアートの一形式である、とタラントは無駄なあがきながら、反論した。アートには、実践的な機能はない。ただそこにあるだけなのだ。アートはなにかを伝え、あるいは何かを示し、あるいはたんに存在する。だが、世界を動かしうるものである。メラニーはそんなことを言うタラントを嘲笑し、ルーズネックのシャツの襟をあけ、引き下ろして、肩と上腕を露わにした。

奇術師、パイロット、整備兵、夢幻諸島

そんなタラントの物語と交互に、第二部「獣たちの道」ではH・G・ウェルズと、ある理由により軍に呼び出された奇術師の物語が(『わかっています、職業倫理ですね。やり方をお話しにならないのは理解しています。また、あなたが物質を消せないこともわかっています。物理的に消せないことを。ですが、見えなくする方法をご存知のはず。』)第四部「イースト・サセックス」では"戦争を終わらせる兵器"の元となった振動隣接場の研究者へのインタビューを通して重要な隣接性の概念が語られる。

第五部「ティルビー・ムーア」では第二次世界大戦時の、イギリス整備兵とスピットファイアに憧れる女性パイロットの仄かな恋愛が描かれ(『彼女の手の感触、彼女の声、彼の耳のあたりにふれる彼女の黒髪の感触、ちらりと見えた静かな涙。そして外国人ならではの完全で明白な異質さの魅力も。ほぼ夜通し、彼は眠らなかった──心の底から、救いようがないほどに、彼女に恋していた。』)、第七部「プラチョウス」以降では閉ざされた島、中立地帯であるプラチョウスで事態が展開し、これまでばらばらに語られてきた人々の物語が鮮やかに収束していくことになる。

 この諸島のすべての島々と同様、プラチョウスは中立地帯である。が、この諸島のすべての島嶼国家のなかで、もっとも峻厳に独立している。ここはつねに閉ざされた島だった──プラチョウスという名前は島方言で"フェンス"という意味なのだ。

描写の魔力

そうしたばらばらのエピソードそれ自体が、まるで単体でクリストファー・プリーストの短篇(あるいは長篇)を読んでいるかのように文体から内容までが異なっており、また抜群におもしろいわけだけれども、中でも特にじーんときてしまうのは描写の力だ。スピットファイアが空高く飛び去っていく際のあまりにも美しい描写、プラチョウスを端的に説明する堅くとも魅力的な描写、諸島(アーキペラゴ)の歴史語りなどなど、頭のなかにぶわっと情景が広がってしばらく読み進められなくなるほど。*1

おわりに

様々な形で恋人を思い、距離は隣接しているにも関わらず記憶や認識がすれ違う、ロマンチックな恋の物語であり、揺らぎのない真実の物語ではなく、揺らぎに身を委ねる物語である。集大成的作品とはいえ、これまで一冊も読んだことがない人も、本書から入ってそのうちの気に入ったモチーフが共通する作品を辿っていくのにちょうどいい。その際は読了後に巻末の訳者あとがきを参考にすればいいだろう。

いやしかしこんな作品を書いておきながらその後もガシガシ新作を書いているんだから恐ろしい爺さん(1943年生まれ)ですね、クリストファー・プリースト。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
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*1:ま、これはこの作品の魅力というか、プリースト作品全体の魅力なんだけれども。