基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

映像だけではなく文章に関わる人にもおすすめしたい、「編集」の難しさと楽しさについての絶品!──『映像編集の技法 傑作を生み出す編集技師たちの仕事術』

『映像編集の技法』は映像編集技師であるスティーヴ・ハルフィッシュが、スターウォーズにシビル・ウォーなど大作映画から『ブレイキング・バッド』のようなドラマの担当まで、50人以上の映像編集者へのインタビューをまとめた一冊である。

映像編集といっても体験したことがないと想像しづらいだろう。たとえば、一本の映画では当然映像は一繋がりの一本しかないが、撮影時には何回も同じシーンも撮りなおし、カメラも複数台存在する。そうなったら、上がってきた映像や複数あるカットの中から、最適なものを選びとっていかなければならない。複数のテイクにいい演技が分散していたら、それをつなぎ合わせることもあるし、台詞の間をほんの一瞬切り詰めることで印象を大きく変えたり、映像の時間の流れをコントロールしたり──。

音楽のコントロールもこの編集段階で入れられるわけで、映画の最終的なおもしろさの大半は、この編集作業にかかっているといっても過言ではない。

『マッドマックス 怒りのデスロード』で編集をつとめたマーガレット・シクセルは、映画の編集について次のように語っている。『映像をつなぎ合わせることは誰にでもできるかもしれませんが、心を揺さぶるような世界を作り出せるかはまた別の話です。編集技師のしごとは、ほとんどのことが整えられた時点から始まりますが、そこからでも作品は変わっていきます。編集とは映画の最終的なリライトなのです。』

編集技師らへのインタビューも、50人以上の話がだらだらと並べられているわけではなくて、たとえば、どのように全体を組み立てるのか。映画のリズム、ペイシングを整えるのか、構成へのアプローチ、ストーリーを伝えるために気をつけていること──といったテーマごとにバラバラに証言が並べられている。これがまあ、大変におもしろいわけですよ。編集技師らが語る映画の裏側も興味深い事例ばかりだが、編集を進める際の困難や楽しさが、文章など他の分野の編集にも相通じる部分が多く、映像に限らない「編集」の本質に迫る本として、本当に素晴らしいのだ。

シーンへのアプローチ

おもしろかったトピックはいくつもあるのだけれども、最初に取り上げたいのはペイシングとリズムだ。単純にシーンをつなぎ合わせていっても映画にはならない。やはりそこには、音楽のように一定のリズムが必要だ。ここに関しては技法というよりもやはり感覚的な発言が多めになのだが、だからこそおもしろい部分ともいえる。

本書にはたくさんの技師へのインタビューが収録されているが、その利点は、こうしたリズムの問題一つとっても、アクションやコメディ、ドキュメンタリなど様々な題材・テーマからの意見が寄せられることだ。たとえば、『デッドプール』の編集をつとめたジュリアン・クラークは、「最高にかっこいい場面と、最高にかっこいいスタントをつなぎあわせて、躍動感あふれる場面を作り出すぞ」などと思ってそのとおりにやっても、出来上がったものは感情面で物足りないものになることが多いと語る。

キャラクタにも勝ったり負けたりといった浮き沈みがあって、変遷を経ていくものなのだから、音楽的な流れを持たせるためにシーンを入れ替えたり、キャラクタのリアクションをどれぐらい見せたいかなど、細かな調整を入れていく必要がある。『マグニフィセント・セブン』の撮影技師をつとめたジョン・ルフーアに西部劇のペイジングについて尋ねると、西部劇は「期待」の物語だというおもしろい答えがかえってくる。道のど真ん中で登場人物を戦わせることができて、観客はいつかその時がくることが絶対にわかっている。だから、西部劇では期待とともにそれを待つ時間を引き延ばすことができる。『観客はみんな待っている。ですから、その期待を先へ先へと送って、さあ始まるぞというところで、さらに先に送る。それが西部劇の特徴です。』

映像はほんの数秒のシーンがあるかないか、あるカットがどれだけ引き延ばされるのかで受け取り方が大きく異なってくるから、一秒単位で映像編集者らがどこまでも細かく追求していくのを読むのは本当におもしろい。『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』(15)は、試写会時にシーンの冒頭2、3分間のテンポを早くしすぎて、見ている人たちがストーリーに引き込まれていないと感じたという。そこで、最初の二分間に6秒から7秒ほど加えたところ、次の試写では反応が大きく変わっていた(エディ・ハミルトン談)。試写を経て、その反応を確かめながら台詞が早すぎるとか、逆におそすぎると判断し、一秒未満の調整を繰り返していくものなのだ。

構成について

書評記事を書いていると、いつも構成が気にかかる。紹介する本のどの部分を抜き出すべきか。どのエピソードを紹介して、どのエピソードは紹介すべきではないのか。前提情報はどれだけ与えるべきか──など。同じことは当然、映画・ドラマの編集時にも起こる。最終的な成果物が脚本通りになることはまずないという。文章と、それを映像に仕上げた時では、出来上がるものはまったく別のものだからだ。

たとえば、火星に一人取り残された男が科学の力で奮闘する『オデッセイ』では、主人公が自分自身の傷の手術を行った後に起き上がって、「よし計算してみよう。食料はこれぐらいあるから、やらなくてはいけないのは……」と凄まじい速度で元気になって解決策を思いつく形になっていた。だが、元気になるのが早急すぎると感じた編集技師は、彼が精神的に立ち直り、状況を把握するためにはもう少し時間が必要だと判断し、後半の映像を再利用して手術シーンのあとに追加したのだという。

大抵の映画は最初の編集では公開版より長くなる。たとえば、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のファースト・アセンブリは2時間30分あったが、監督のJ・Jエイブラムスは2時間におさめたがった(最終的にはエンドクレジット含め135分)。当然そのためには削る必要があるわけだが、この時にも編集技師の実力が試される。同じような内容のシーンをできるだけ削り、全体構成の中で突出して長いシーンはならす必要もある。フォースの覚醒では、とりわけ冒頭の20分のシークエンスが長すぎて相当削ったという。また、素晴らしいシーンを繋いでいくだけでいいわけでもない。

ジョン・ルフィーアは、ある演技やテイクで表現した感情的な高まりが、映画全体の中で見て違和感を感じることはあるかと問われ次のように答えている。『しょっちゅうですよ。あるシーンの編集をするとします。ベストを尽くして面白いものに仕上げます。念入りに、パーティ料理のようにね。そして「なんて美しいシーンだろう。最高だ。気に入った」と考える。その翌日、別のシーンも同じように仕上げます。そしてある時点ですべてをつなげてみると「すばらしいシーンだらけだ。だが、もうお腹がいっぱいだ」と思うことになり、いくつかのシーンは取り除くことになります。』

おわりに

構成の話だけでもまだまだ取り上げたいエピソードはいっぱいあって、たとえばドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ボーダーライン』(15)では、冒頭で映画の原題「シカリオ」とはなにかについて字幕で説明しているのだが、なんでこんなことをしないといけなかったのは、もともと台詞で説明していた、そこそこ時間のある冒頭のシーンが映画の本筋・テーマから外れてしまっていると判断して外された結果であるとか。

フォースの覚醒では、ハリソン・フォードが骨折して撮影を中断しているうちに構成の大きな見直しを行って、冒頭の20分間でレイアとC-3POとR2-D2がみんな登場していたのを、これら旧作のキャラクタが登場する場面を分散させて映画の後半に持っていくことにした。『マッドマックス 怒りのデスロード』では、前三作のあらすじを冒頭で紹介しろという圧力もあったが、ナレーションや「幼い少女」の幻影を入れることでそうしたダサいことをやらずに自然に観客に過去を想起させる作りにしたなど。「いや、そらあかんやろ」みたいな悪手を、みな決死の努力で食い止めているものなんだなと、こうしたエピソード群を読んでいるとしみじみ実感させてくれる。

インタビュアー自身が現役の編集技師であって、やけに専門的で細かいところにつっこんでいってしまうところもあるが、だからこその現場の知恵が引き出せている部分も多く、全体を通して大変に知見に溢れた一冊である。500ページ近い大著だが、映像に興味がある人だけではなく文章に携わる人などにもおすすめしたい!

認知科学の観点からいえる、最強の英語学習法──『英語独習法』

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

この『英語独習法』は、認知科学や発達心理学を専門とする今井むつみによる、認知科学の観点から考えた最強の英語学習について書かれた一冊である。『「わかりやすく教えれば、教えた内容が学び手の脳に移植されて定着する」という考えは幻想であることは認知心理学の常識なのである。』といったり、多読がそこまで良くはない理由を解説したり、一般的に良しとされる学習法から離れたやり方を語っている。

特徴としては、「何が合理的な学習方法なのか」を披露するだけではなく、「なぜそれが合理的なのか」という根拠を説明しているところにある。だから、これを読んだらなぜ一般的な英単語の学習法(たとえば、英単語と日本語の意味を両方セットで暗記していく)が成果を上げないのか、その理屈がわかるはずだ。認知科学のバックボーンから出てくる独習法も納得のいくものばかりである。僕も様々な理由(英語圏Vなどの英語が聞き取れるようになりたい、洋書のSFやノンフィクションをたくさん読みたい)から30を超えてなお英語を勉強し続ける日々であり、大変有益だった。

スキーマの違いが学習を妨げる

認知科学的に最適な学習とはどういうことなのか。いくつかの概念を通してそれを説明していくわけだけれども、中でも重要なのはスキーマだ。スキーマとは体系化された知識のまとまりであり、その詳細が意識されることはない。母語をしゃべる時に、主語がこれで述語はこれで……と考えたりしないのと同じことだ。文法を知識として知っていることと、文法を使いこなすことはまったく違うことだ。

本書では、スキーマを通して言語を学習するとはどういうことかについて、最初に英語の可算・不可算文法を通して説明している。可算・不可算文法の定義はシンプルだ。数えられるものが可算で、数えられないものが不可算。可算名詞で一つなら名詞の前にaがつき、複数なら名詞の語尾にs、不可算名詞には付けない。シンプルなようだが、これがなかなか面倒くさい概念だ。たとえば、名詞で表される概念は、可算・不可算のどちらかに分類されなければならないが、使い分けが難しいケースもある。

キャベツやレタスはどちらも使われるし、idea(可算)やevidence(不可算)といった抽象概念も可算・不可算で判断する必要があり、判断が難しい。母語の学習過程を考えてもらえればわかると思うが、英語を母語として学習する子供は、名詞を覚えて後からそれが可算なのか不可算なのかを覚えるわけではない。aがついているか、sがついているのか、何もついていないのかといった(当然そこに冠詞なども絡んでくる)文脈と文章におけるかたまりごとに覚えていく。そして、かたまりごとに覚えていくうちに、そこに可算・不可算といった区別が存在することにいつか気がつく時がくる。

つまり、母語を覚える子供はスキーマを自分で作り上げるのである。スキーマが形作られると、今度はそれに基づいて意味の推論が行われる。teaと言われた時、可算・不可算文法を熟知していれば、その文脈の中でteaが液体としての中身(不可算)の方を指しているのか、コップ(可算)の方を指しているのかが自然と判断できる。そして、可算・不可算の形に常に注意を向けているから、ideaやevidence,jewelly(宝石。数えられるように見えるが、実際には不可算名詞)のような場合分けの難しい名詞が出てきた時に、その用法を聞いてああ、これは可算/不可算なのね、と深く納得する。

日本語では、ある名詞が数えられるか否かで何も変化しないので、文法的に意識することはない。『このため、日本語話者は、英語話者のように名詞の文法形態に自動的に注意を向けるということをしない。これが英語の名詞の可算・不可算を覚えることを難しくする。』英語を読んだり聞いたりした時も、名詞の意味にばかり注意を向けて、可算・不可算の形態に向かないので、いつまで経っても覚えられないのだ。

誰もが母語に対しては豊かなスキーマを持っているのだが、そのことを知らずに、聴いたり読んだりしたことを理解したり、話したり書いたりするときに無意識に使っている。暗黙の知識を無意識に適用しているので、外国語の理解やアウトプットにも母語スキーマを知らず知らずに当てはめてしまうのである。

単語について

重要なのは単語もだ。ある単語がどのくらいフォーマルかという感覚は、意味だけみていたらわかりづらい部分だ。日本語でいえば、「選ぶ」と「選定」は辞書的にはほぼ同じ意味になる。しかし、友人同士が学食で話していて「先に席とっとくからお前早く選定してこいよ」といったら「お前はアーサー王かよ」とツッコミが入るだろう。意味は同じでも、使うシチュエーションは異なることが日本語話者にはわかる。

つまり、ある単語を使うときにはその単語の意味を知っているだけではダメで、その単語の類義語、その単語の使用頻度、どのような文脈で使われるのか、といった氷山の下の広い知識が必要になってくる。日本語でカンガルーが歩く、と言われたら違和感を覚えるが、それは普通、カンガルーは跳ぶからだ。それに違和感をおぼえ、跳ぶを使うためには、日本語には移動するための動詞に、歩く以外に跳ぶだとか這うだとか走るだとかがあることをしっていなければならない。

では、どう学習すればいいのか

では、どう学習するのが最適なのか。そこは本書の肝の部分なので、詳細に紹介はしないけれど、単語学習で一つだけあげると英単語と日本語の意味の関係性を調べるだけでは不十分である。英単語の類義語を調べ、使われるシチュエーションや一緒に使われることの多い単語を調べと、単語の周囲の世界も含めて調べる必要がある。
skell.sketchengine.eu
本書ではいくつかの英語学習に最適なwebサイトが紹介されているが、「SkeLL」は、英単語を入力すると大量の類例、共起される言葉、一緒に使われることの多い単語を視覚的にわかりやすく表示してくれる優れたサイトだ。たとえばevidenceを入れると、類義語にはinformation,knowledge,statement,analysisという情報や知識、分析に関連した単語が並ぶ。共起語にはsuggest,support,present,provideといった単語がそれぞれ表示されている。これを繰り返していくと、一つの単語を覚える過程で他何十もの単語をその関連の中で頭に入れていくことができるだろう。
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日本語と英語のようにスキーマが大きく異なる言語圏だと語学学習については高いハードルになる。しかし、その違いをきちんと認識して、これまで見過ごしてきたスキーマに意識を向けるようにすれば、その差は乗り越えることができるはず。そう実感させてくれる、心強い新書であった。

正確さと著者の声の間で苦悩する校正者の姿を描き出す一冊──『カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話 』

カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話

カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話

校正とは、印刷物などの文章が正しいのか(誤字脱字が存在しないか、文法的に正しいのか、事実に反する内容はないかなど(こちらは校閲ともいう))をチェックする行為のことをさし、大抵の本や雑誌の刊行前には、これが行われていると思っていい。

本書『カンマの女王』は、アメリカの老舗雑誌「THE NEW YOKER」で長年校正係をつとめてきたメアリ・ノリスによる英語での校正についての一冊である。英語で間違えやすい・悩みやすい文法や規則をテーマに、自分のエピソードを添えていく、といった配分であり、英語の文法よもやま話、といった趣が強い。英語についての本なのでどこまで楽しめるかな、と思っていたが、これが抜群におもしろい。

thatとwhichのどちらを使うべきなのか、カンマをどこに入れるのか、「──」の使い方、セミコロンはどのような時に使うべきなのか、そのどれもに文法的、歴史的な「正解」がある一方で、文章とは生きた言葉なのであり、必ずしも従うべきではないケースも多く、そうした文法にまつわる正解と校正者の葛藤が綴られていく。校正者は著者の間違いを指摘したり提案するのが仕事だが、決して著者と敵対する存在ではない。一緒に悩み苦しむ存在なのだ。それも、文法についてはおそらく著者よりもはるかに。そうした苦悩の跡が本書にはあちこちに記されている。

ぶらさがり分詞とジョージ・ソーンダーズ

おもしろいトピックばかりだが、まずぶらさがり分詞*1について語ったところを取り上げたい。たとえば、ノリスはジョージ・ソーンダーズの短篇でこのぶらさがり分詞と相対することになった。問題になった文章はこれ「While picking kids up at school, bumper fell off Park Avenue,」(子供たちを迎えに行ってて、バンパーがパーク・アベニュー(車種のこと)から落っこちた)だが、これはそのまま文法的に解釈してしまうとバンパーが子供たちを迎えに行っていたことになってしまう。もしこれを文法的に正しくするのであれば、While I was picking the kids up at schoolと明確に主語を与えることだが、そうするとこの文章の個性が失われてしまう。

というわけでこの時の文章は直されず、「ママイキ」(修正せずそのまま)になったのだろう。些細な問題で、そんなことどうでもいいと思う人もいるかもしれない。だが、実際にはこうした一つ一つの判断が積み重なって作家の文体、小説の世界観を形作っているわけであって、重要な問題なのである。『まあとにかく、大事なのはスペルではない。言葉だ──正しい言葉を正しく使い、最大の効果をあげることだ。校正者の仕事は単語を正しく綴ること、ハイフンを入れ、ハイフンをとること。そして、スペルのもう1つの意味を大切にすること──作家が唱える魔法を』

性別問題

英語特有の問題としてあげられるのが性別問題だ。性別を問わないで使えるちょうどいい単数の代名詞が存在しない。heにその役割も持たせること、he-sheとかhe/sheといったように二つ併記すること。heesh,ne,nis,nim,hse,ip,ips,ha,hez,hem、といった新しい語を用意すること。複数形のtheyを単数に対しても使うことなど、様々な選択肢が議論の俎上にのぼってきた。今のところ優勢なのはtheyを使用することだ。世間的にもそうだし、『ウェブスター辞典』などにもこの用例が載っている。

著者はこれについて複雑な立場のようだ。校正者としての彼女の仕事は「害を及ぼさないこと」で、保守派である。they、theirを複数形ではなく単数形として使うのは数が犠牲になるので間違っているといい、単数先行詞を指すtheirが原稿にあればhisと提案する。『言いにくいけれども、theirをこうしてhis or herの意味で使う口語は、単純に間違っている。ジェンダー問題は解決するかもしれないし、話し言葉ではすでに優勢なのは疑いの余地がないが、そのためには数が犠牲になる。』

だが、ひとりの人間、書き手、読み手としてはそうした文法的に間違った文章をあえて残す人たちに感心し、馴染んでいったことを受け入れているようだ。この性別問題を扱った章については、文法から少し離れ、著者の弟が自分がトランスセクシュアルだと打ち明けてきた体験談も描かれている。一緒に買い物にいって性別の変化に伴う対応の変化にとまどったり、、女性になったとはいっても何度も「彼」と言ってしまって妹を深く傷つけたりしてしまった難しさが描かれていて、またよかった。

カンマ

英語におけるカンマは日本語における句読点「、」←これに近い役割のものだ。そんなもの著者の好きなリズムで打たせればいいだろ、と思うかもしれないが、これにも用法があり(たとえば、その一文で欠かせない節はカンマでくくろうとすべきではない、カンマをandと入れ替えられる時は、そのカンマはそこにあるべきカンマである、など)、『白鯨』のハーマン・メルヴィルの文章をおいながら、メルヴィルは句読記号を打つのが下手だったか、当時の校正の慣習の犠牲者だったと書いてみせる。

例題をあげて細かくそのカンマの何がおかしいのかを解説されると「たしかにそうかも」と納得できるのだが、メルヴィルの文章を完全に正しいカンマにしたらその息遣いは消えてしまう。『しかし、これだとポストモダンなメルヴィルになってしまう。カンマは飛び起きるための弾みだ。語り手に、立ち上がるための時間をくれる。それに、このすっきりしたバージョンからはメルヴィルの魅力が消えており、絞り尽くした無味乾燥な文という印象を受ける。カンマがもたらすのは浮力である。』

メルヴィルはもう亡くなってしまっているが、現代に生きている作家であれば違和感のあるカンマを使う理由を直接きくことができる。たとえば、本書にはジェームズ・ソルターの一節が引き合いに出される。『Eve was across the room in a thin, burgundy dress that showed the faint outline of her stomach,〈部屋の向こう側にいたイヴの薄手の、赤ワイン色のドレスは彼女の腹部のかすかな輪郭を見せていた。〉』という文章は、読んだらわかるだろうが、イヴの薄手の、赤ワイン色のドレスとドレスを形容している文章の途中で呼吸が入るのに少し違和感がある。

これは校正が見逃したのだろうか? それともあえて著者がこうしたのだろうか? 考察を重ねていく中で最終的に著者はソルターに質問の手紙を出すのだが、結果として返ってきたのは、事前の推測通りで、ドレスの下の腹部の輪郭を強調する意図のものだったという。薄手の赤ワイン色のドレスではダメで、「薄手の」が重要だった。過去、校正者は指摘したが、「ママイキ」にした文章だったのだ。

おわりに

他にも、ハイフンについて、ダッシュ、セミコロン、コロンの使いどころについて、この記事で紹介してきたような細かい部分のやりとり、検証、考察が繰り広げられていく。これを読んでいると文章は生き物だということがよくわかる。ゆらぎ、そのリズムや使い方が異なっている。そこにどれだけの規則・規範を持ち込み、どこからどこまでは著者の「魔法」に委ねるのか──最終判断は著者にあるにせよ、そうしたジレンマのドラマが本書には隅から隅まで埋め込まれている。おもしろかった!

*1:分詞構文の意味上の主語は、主節の主語と同じでなければならないとされるが、時折異なっているものもあり、こうした分詞構文をぶらさがり分詞/懸垂分詞という。文法的に誤りとされることが多いが、文芸作品では使われることがある

週刊文春はなぜスクープを連発することができるのか──『2016年の週刊文春』

2016年の週刊文春

2016年の週刊文春

  • 作者:柳澤 健
  • 発売日: 2020/12/15
  • メディア: Kindle版
スクープを連発する日本一の週刊誌「週刊文春」と、その中でも二大編集長である花田紀凱と新谷学を中心に取り上げた文藝春秋闘争記である。僕は特集が気になった月刊文藝春秋を読むぐらいで、週刊文春は手にとった記憶がない。僕が普段読むような本ではないが、年末年始で僕の好きな翻訳系科学ノンフィクションの刊行も少なく、評判もいいので読んでみたら、これが世評通りに大変おもしろい。

なぜ2016年なのか。

本書が刊行されたのは昨年の12月のことである。であればなぜ、2020年ではなく2016年の週刊文春なのか、というのが最初に気になったところだが、読んでいて思い出したが、2016年は紙の週刊文春が光り輝いていた最後の時代なのであった。2016年早々に甘利明経済再生相の金の疑惑を報じ、ベッキー&川谷の不倫を報じ、清原和博の覚醒剤使用懺悔告白、「元少年A」の直撃取材──とテレビやネットを騒がせた大スクープを次々とあげ、〝文春砲〟という言葉が使われだしたのがこの頃だった。ほんの数年の間に、すっかりこの言葉も使われなくなっている気もするが。

もちろん、コロナの状況を除いても雑誌にかつてのような盛況が戻ってくることはありえず、雑誌としての週刊文春はその後部数や影響力を大きく落としていく。その代わりに文藝春秋は文春オンラインを立ち上げ、スクープをとることからスクープで稼ぐこと、雑誌だけでなく多様な形で収益を上げることにシフトしていくわけだけれども、そのあたりの描写は控えめで、やはり盛り上がりのピークは2016年にある。

僕は正直、芸能人の不倫なんかスクープして下世話な好奇心を満たすことに何の意味があるんだよ、と否定的にみていることの方が多いけれど、文春がスクープを連発し人の興味関心を引き続けてきたのは間違いがない。であれば、なぜ文春だけがそこまでスクープを連発できたのか。本書は、文藝春秋に勤務し週刊文春の記者だったこともある著者が、週刊文春の歴史と共にその実態を解き明かしていく。

週刊文春は1959年創刊の、60年以上の歴史を持つ雑誌であり、そんだけ長けりゃとんでもない事件が多数存在している。宮内庁批判の記事を連発し右翼から社長の家が銃撃されるとか。JR東日本労働組合の松崎委員長が革マル派だというスクープをあげたらJR東日本管内のキヨスクが週刊文春を販売停止し、約90万部の部数のうち11万部もそこで売っていたので大変な騒動に発展したとか。立花隆はもう間に合わないというところまで書かず、いつもギリギリまでゲームをやって遊んでいたとか笑

そうした週刊文春、文藝春秋でのゴタゴタや揉め事をどう乗り越えていったのかという数多のエピソードもおもしろいが、創刊当時週刊誌としては週刊新潮の力(部数や取材力)が強く、文春がその部数をどうやって超えるのかという少年漫画的展開。それを打ち破るきっかけとなった、誰にでも好かれ、コピーライティングの才能がずば抜けていて、底しれぬ情熱を持って雑誌構築にあたる花田紀凱と、花田とはまた別方向の能力──人付き合いの広さとマメさを武器に立ち回る新谷学という二人の魅力。

週刊誌編集者とはどのようなこと技術が必要なのかという編集論、雑誌とは何なのかという雑誌論としてもおもしろく、とにかく多角的に楽しませてもらった。

雑誌論、編集者論

たとえば編集者論としては、週刊文春編集長の田中健五のエピソードで、『健五さんは、編集部で新聞を読んでると怒るんだよね。新聞くらい家で読んでこい。昼飯も食堂で食うな。外で食ってこい。そのくらいのカネは出してやるって。お前のアタマなんかたいしたことない。貧弱な頭蓋骨が一個しか入ってない。外に出て一〇人優秀な人、新しい人に会えば、素晴らしい頭蓋骨が一〇個増えることになる。これをやらないと編集者は生きられないよ。』と語っていたのが文春の中心になっている話とか。

雑誌のプランとは疑問であり、疑問を解き明かすのが記事である。編集者が答えを出す必要はない。答えは取材者、執筆者が出す。優れた疑問を常に持ち続けることこそが編集者の仕事なのだ。「読者の半歩先を歩け」とは池島信平の言葉だが、田中健五は読者から遊離せず、それでいて読者よりわずかに早く「なぜだろう?」という疑問を抱き続けた。

上記の雑誌のプランについての話もおもしろい。田中は1977年に週刊文春編集長に就くのだが、その時にこの雑誌を「タイム」や「ニューズウィーク」といったような、読者からのクレディビリティ(信頼性、客観性、正確性)の高いものにしたいという基本方針を打ち出し、それが今に至るまで週刊文春の中心となっている。

訴訟との戦い

スクープにつきものなのが名誉毀損やプライバシー侵害による訴訟だ。実際週刊文春はこれまで幾度も負けて慰謝料を毎回数千万払い、謝罪文を掲載してきた。週刊ポストや週刊現代はそうしたのだが、裁判沙汰になりそうな記事を避ければ当然スクープは出せなくなる。文春がスクープを連発できる理由の一つは訴訟を恐れないことだ。

恐れないといってもただ負けて終わるのではなく、何十件も負けていく中でどう書けば負けないのか、というノウハウがたまり、訴えられても勝てる記事を書けばいい、という方向にシフトしていったのがおもしろいところだ。それが無事に身を結んだのか、2016年は民事訴訟を1件も受けていないという意味でも記念碑的な年だったという。反論を許さないように物証を押さえ、取材対象の言い分もきちっと載せておくといった形で、訴訟をある程度コントロールできるようになっている。

もうひとりの主人公である新谷学は「週刊文春だけがスクープを打てるのはなぜですか」と聞かれて、『新谷 今年になってから何度も聞かれた質問ですね。答えは至って単純。それはスクープを狙っているからです。「スクープをとるのが俺たちの仕事だ」と現場の記者はみんな思っている。そう思って取材しているし、現場に行っている。』と答えているが、この「スクープをとるのが仕事だ」と思え、訴訟との戦いまで含めて全てのノウハウをため、環境を整えるのが難しい時代なのだろうな。

おわりに

めちゃくちゃ褒めてきたけれども、結局は営利追求が重要なわけで、いろいろと言い訳し、大層な建前を用意してるけど実際それってどーなのよ、と思う発言も多く(少年法を平然と破ったり、芸能人の不倫報道に関してだったり)、スクープ主義ってやっぱクソだわ、とウンザリするところもある。ただ、そうしたギリギリを攻めることこそが週刊誌の本質であり魅力ともいえるのだろう。『読者が求める刺激を提供しつつ、訴訟や社会的非難を浴びるリスクをギリギリのところで避ける。雑誌、特に一般週刊誌や写真週刊誌は、宿命的に危ない綱渡りを続けていくことになる。』

500ページ超えの本で読み切るのは大変だったが、それだけの価値はある一冊だ。文春オンラインについても(メインではないけれども)後半はけっこう触れているので、そちらに興味がある人も安心して手にとってもらいたい。

罪を犯した人間をただ投獄するのは、正しいか──『囚われし者たちの国──世界の刑務所に正義を訪ねて』

囚われし者たちの国──世界の刑務所に正義を訪ねて

囚われし者たちの国──世界の刑務所に正義を訪ねて

この『囚われし者たちの国』は、刑事司法教育を教える大学ジョン・ジェイ・カレッジ・オブ・クリミナル・ジャスティスの女性教授であるバズ・ドライシンガーが9カ国の刑務所をまわって、今あるべき刑務所、許し、罪と罰の関係性について思考をめぐらせるルポタージュである。日本にいると法律に違反したら(執行猶予はあるけど)投獄されて自由を制限されるのは当たり前でしょ、と思うが、世界を見渡してみると刑務所も罪の償い方も千差万別であり、何が正しいのかわからなくなってしまう。

本書の著者は、出発点はアメリカの刑務所の実態のひどさから、刑務所についての疑問がスタートしている。アメリカが世界人口で占める割合は5%弱なのに、囚人が収容されている人数は230万人、世界の25%に達する。囚人のかなりの割合は薬物関連で投獄されていて、暴力犯罪を犯したわけでもないのに25年以上の刑期や終身刑を言い渡される。アメリカでは仮釈放が存在せず、終身刑は本当の終身だが(追記:すいません、ここ間違えました。アメリカには仮釈放ありの終身刑と仮釈放なしの終身刑があります)、こうした仮釈放なしの終身刑を採用している国は全体の2割ほどしかない。

日本もかなりアメリカと近い制度なので大きな違和感は感じないが、投獄して何年も期間社会から隔絶するのは、社会自体にとって良いことなのだろうか。アメリカでは、投獄される人の数が減るにつれて犯罪率も低下するというデータも、投獄したところで再犯率は下がらないというデータもある。たとえば、2007年から12年にかけて投獄率が大きく低下した州では、犯罪件数が平均12%低下しているのだ。

人を投獄すると、その間社会とのやりとりが途絶える。配偶者や子供らがいた場合、家庭は破壊され、戻る場所は失われ、仕事につくことも難しくなり、さらに社会に反感を抱かせる。こうした社会との繋がりをなくした人間が生み出されるのだから、投獄することで地域社会が安全になるというのは確かに考えづらいものがある。

導入が長くなったが、そうした疑問──「アメリカ発の刑務所への大量投獄制度は、失敗ではないのか?」を抱えながら、ルワンダからはじまってノルウェーに至る刑務所調査がはじまるのである。こうしてみていくと、良いにしろ悪いにしろ本当に様々なタイプの刑務所があり、罪にたいして我々はどのように相対すべきなのか、許しとは何なのか、刑務所とは更生施設であるべきなのか、それとも苦しみを与える懲罰施設であるべきなのか、と数々の問いかけをするとっかかりを与えてくれる。

ルワンダ

著者が最初に訪れるのは東アフリカの小国ルワンダだ。なんで? と思ったが、理由がおもしろい。ルワンダでは1994年に100万人近いツチ族をフツ族が殺す虐殺が起こっている。つまり、ルワンダは一つの場所で、何十万人もの加害者と被害者が隣り合って暮らしている特異な国なのだ。もちろん、彼らの間の対立は消えていない。そうであるからこそ、ここではその対立と許しについて考え直す必要に迫られている。

司法に対する国家の姿勢も、原点に立ち戻ろうとしているという話を耳にする。つまり、罰を求めるのではなく、許しと償いを説くのだ。ジェノサイドによって、ルワンダは国家を支える根本的な柱を見直さざるを得なくなった。その柱のひとつが刑務所制度であり、司法そのものだったのである。

虐殺後のルワンダでは、犯罪者には投獄ではなく、公益労働キャンプのどれかで、学校や道路を建設するといった一定期間の労働を行わせる判決が最も多いという。その判決を受け、週に3日働き、自宅から通うものもいる。建設に必要な技能、公民教育や読み書き、ルワンダの歴史についての教育も受ける。

もちろん刑務所も存在し、著者は、できるだけ単なる見学者にならないように、刑務所では必ずワークショップなどの対話の場を通してボランティア労働を数回に渡って行っていくが、訪れたルワンダの刑務所はアメリカの物とは大きく異なっている。矯正官は銃を持たず、刑務所内は自治によって保たれている。囚人の大半は外に仕事を持っていて、外に出ていって給料の一割を自分のものにできる。矯正官と囚人でサッカーもできるし、囚人服をきている以外は、見た目上は大きな違いはない。

商品も売られていて、クリーニングサービスも内部にある。犯罪や万引などの軽犯罪者ではなく、虐殺者たちが入っているにもかかわらずである。『ルワンダはひとつの壮大な法廷としての司法のあり方を試し、私たちが刑務所と呼ぶ概念の土台そのものを打ち砕いている』

タイ、オーストラリア

そのあと南アフリカ、ウガンダ、ジャマイカといろんな国を回っていくのだけれども、記憶に残ったのはタイとオーストラリアの二国。タイでは王女が率先して刑務所内の女性の権利についての活動を行っている。バズは許可を得て、演劇プログラムなどが特別に導入された女性だけの刑務所を3箇所まわる。

3箇所の刑務所の特別性もおもしろいのだけれども、これが国家によって管理され、見せたいものを見せられた「ショー」「演劇」としての訪問である、と最後に著者が語るところがおもしろいのだ。彼女の訪問はタイのメディアで取り上げられたが、それは宣伝なのである。とはいえ、それで刑務所自体の価値が下がるというものでもなく、演技には力があり、芝居を通すことで世論を変える力がある、と結論づける。

タイで彼女は広報としての役割を担わせられたわけだが、そうでなくても彼女は刑務所に数日滞在するだけのお客さんに過ぎず、そうした非日常・欺瞞としての刑務所訪問をどう自分の中で捉えていくべきなのか、といった自己批判・皮肉屋的な観点がどの刑務所に対しても持ち込まれていて、バランス感覚として優れていると感じる。

一方でオーストラリアは、悲惨なことになっているアメリカの民間経営の刑務所とはうってかわって、人道的な物が多い。たとえば、18〜24歳までが収監される民間刑務所の姿が描かれていく。囚人は入居者と呼ばれ、囚人服も着ていないので、誰が囚人で職員かすらわからない。仕事中のものは普通に出ていき、夜になったら帰ってくる。服役中は、生活するための技能、教育訓練、就職の機会が与えられる。また別の、民間経営の女性の出所準備センターでは大学と境目がわからないほどに隣接していて、数週間おきに子供が泊まりに来られる、洗濯をして食事も自分で作らないといけないなど、外の暮らしを再現するような、人道的な取り組みが行われている。

オーストラリアのすべての刑務所がこうであるはずはないし、著者も「民間刑務所が良い存在であるはずがない」*1と民間刑務所の悪い点を色々と調べたり、司法の問題点を列挙していくが、「良心ある民間刑務所」もあるのかもしれない──と次第に意見が傾いていく。

おわりに

ノルウェーも人道的な刑務所で知られ、与えられる刑期は短く(平均8ヶ月)、刑期は基本的に短縮され、刑期の半分ほどは刑務所外で生活できたりする。著者が訪れる開放型刑務所では、軽犯罪者だけでなく暴力犯罪に手を染めたものや問題児とされていたものもいるが、適切に運営され手間もほとんどかからないという。

何より凄いのは、こうした人道的な刑務所制度を持ちながら、再犯率が20%ととても低いことだ。アメリカは3年以内に再逮捕される確率は60%超え、日本でも再犯者率は48%と非常に高い。再犯率を抑えること、それ自体が刑務所の目的とはいえない。再犯したとしても罪に対しては罰を与えるのだ、という考え方もあるだろう。

そうした考えで運営されている、明確に苦痛を与えるための刑務所も、ブラジルなどで紹介されていく。ただ、どこへ向かうにしろ、今のままでいい、という国はどこにもない。ノルウェーも、再犯率が低いのは微罪でも拘禁されるからでもあるし、開放型の刑務所にも独房監禁区域は存在する。刑務所が今のままの形で運営されていくべきなのか? と少しでも疑問をいだいた人には、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。そうした理念的な話を抜きにしても、他国の刑務所の話って純粋におもしろいしね。

*1:アメリカでは民間刑務所が、利益追求の結果囚人一人あたりにかけるコストを大幅に削減したことでひどい環境になっている

地下を通して、数千、数万年後の祖先に我々は何を遺せるのかを考える一冊──『アンダーランド──記憶、隠喩、禁忌の地下空間』

この『アンダーランド』は、大自然を相手にした旅行記に定評のあるロバート・マクファーレンによる、地底をめぐる紀行文学である。マクファーレンは本書の中で、イングランド南西部で青銅器時代の墳墓を探索し、ダークマターの検出など、科学的な実験のために用いられている地下科学施設におもむき、ある時は氷河の中にロープを用いて降りていき、最終的には核廃棄物を収容する地下施設にまでいってみせる。

「地底」と一言でいっても、訪れる場所の種類がやけにバラついていて、話にまとまりがあるのかなと少し心配しながら読み始めたのだけれども、地底の旅に「時間」と「人新世」という二つの中心を付け足すことで一貫性が生み出されている。様々な文学作品や神話からの引用に彩られた文章も素晴らしく、たいへんおもしろかった。

時間と人新世というテーマ

地下には嫌なもの、見たくないもの、隠しておきたいものが送り込まれるものだ。また、意図せずして地下の奥深くに物がしまいこまれ、何万年も経った後に表出してくることもある。そうした、場合によっては何万年も開けられることのない地下空間には、地上とは隔絶した時間が流れている。本書の原題は『Underland: A Deep Time Journey』で、悠久の時間の旅についての話なのだ。

また、我々は地下から目を逸らそうとするが、時には地下から漏れ出てくるものに相対しなければならない。「目を逸らすことができない地下から漏れ出る物」その具体例として本書で取り上げられていくのが、もうひとつのテーマである「人新世(ひとしんせい)」だ。現代においては人類の活動が地球の生態系や土壌、気候に支配的な影響を与えるようになっていて、こうした新しい地質年代を表すものとして、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが考えだしたのがこの人新世である。

北極圏では、古い時代にたくわえられたメタンガスが、永久凍土の融解にともなって地球地表上に漏れ出ている。著者が一見したところ地下とあまり関係がない北極圏にまでいって氷河の中に入っていくのは、こうした地球環境の変化をとらえ、長大な時間の視点から地球の過去と未来を考えるというテーマに沿ったものだからだ。ダークマターについて語った章だけ浮いているが、これも宇宙創成にふれることで、有給の時間に触れるという観点から。読んでいてかなり強引に感じはしたけれども。

悠久の時間を意識することによって、人は過去から未来へつながる数百万年もの時間のなかで贈られ、引き継がれ、遺されてきたものの網目のなかにいると感じ、自分たちのあとに来る時代や存在に何を遺せばよいかを考えることもできる。

氷河

個人的におもしろかったのは、氷河の中に入っていく章と、核廃棄物の処理場についての話だ。そもそも、グリーンランドの章が始まった時は氷河って入るような地底なくないか?? と思いながら読んでいたが、氷河にはムーランと呼ばれる穴が空いていて、著者はそこに入っていく。ムーランとは、氷の溶けた水が溜まって、それが氷点をわずかに上回っているため、溜まった場所が次第に窪んでいき、最終的に窪みが大きくなっていって、巨大な穴になった場所のことをいう。

ムーランは、数センチ程度のものから、100メートル以上の物もある。氷河の融解が進むにつれムーランの数も増えていき、ムーランが増加することによって、氷河の中に水が流れ込むことでさらに氷が溶けてしまう。著者は体にロープを結びつけ、ムーランの一つに降りていく。結局、氷河に穴が空いた部分でしかないので、降りていった先に特別な景色があるわけではないのだが、降りるまでの過程が旅行記として実に楽しい。ムーランの奥深くで流れる、水によって空気が動いて鳴る特殊な音。三頭の雄大なクジラとの遭遇、巨大な氷塊が海に落ちていき浮き上がっていく瞬間、燃えるようなオーロラ。ほぼ文章だけだが、非常に美しく、雄大な景色の描写が続く。

核廃棄物

ラストは核廃棄物補完所。これも、行くのはフィンランドのオルキルオト島にある核廃棄施設で、その施設自体は順当に案内係の人間に案内されるだけでたいしておもしろくはないのだけど、核廃棄所にまつわる話がおもしろい。たとえば、核廃棄物について考えるためには、通常の時間尺度から離れる必要がある。ウラン235の半減期は約7億万年だ。そのようなものを保存し、しまっておくためには、新しい記号論が必要とされる。たとえば、時代を超えて文明が移り変わったり崩壊しても、それが危険なものだと後世の人間に示すためにはどのような記号を用いるのが良いのか。

人間が人間である限り「危険だ」と認識できる記号など、存在するのだろうか。まさにそうした疑問を検討するために、1990年頃には、原子力記号論という研究分野が生まれた。そして、アメリカでは、ユッカマウンテンやニューメキシコ州で建設中だった核処理廃棄物施設で、今後一万もの間、埋蔵場所への侵入を防ぐための標識システム構築のために、ふたつの独立した委員会が設立され、人類学者、建築家、歴史家、グラフィック・アーティストらが意見を述べた。

そこで出てきた意見に、棘の景観やブラックホールの絵、威嚇するブロックを設置してはどうかというものがあったが、そうした攻撃的な構造は「ここには竜がいる」という警告ではなく「ここにはお宝がある」という誘因として働いてしまう危険性もある。ムンクの叫びのような恐怖を感じるイメージを残すという案も出されたが、記号学者にして言語学者であるトーマス・シーべオクは変化しても働きを失わない超越的なシニフィエを見つけることはできないとして、別の案を提案している。

長期的で能動的なコミュニケーション・システムを作って、その場所の性質を物語や民話、神話などを使って伝達していくことだという。ようは原子力教団みたいなのを作って、そこに改作や修正を許容した柔軟さを持つ、神話を作り出すのだ。SFではよく使われている手段ではある(何千年も経って、意味は殆ど失われていても近寄ってはいけない、触れてはいけないなどの単純な感情だけは伝わっている)。うまくいくかどうかはともかくとして、なかなかに物語的な興味を惹句する案である。

しかし、数千、数万年残る伝達手段を、と考えた場合は、こうした発想の飛躍が必要になってくるのだろう。ニューメキシコ州にある廃棄物隔離パイロットプラント(WIPP)は現在のところ2038年に封鎖されることになっているが、その場所につける標識はまだ検討中で、その計画には社会学者やSF作家が加わっているという。

おわりに

我々は数千、数万年後の人々にとってよい祖先になるために何ができるだろうか。地の底に行くことで悠久の時間にふれ、ダークマターにふれることで宇宙の始まりに、核廃棄物にふれることで何十世代もあとの人類の行末に思いを馳せさせてくれる、優れた紀行文学だ。

政府に頼らず、社会から隔絶したモルモン教原理主義者の世界観から、いかにして抜け出したのか──『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』

エデュケーション 大学は私の人生を変えた

エデュケーション 大学は私の人生を変えた

この『エデュケーション』(原題:Educated A Memoir)は、モルモン教原理主義者で、政府や病院といった公的な機関に一切頼らない父と母に育てられた一人の少女が、いかにして出生届を取得し(出生届すら出してなかったのだ)、大学に行き、自分がそれまで暮らしてきた世界と決別するのかを描き出していく、回想録である。

この本、アメリカで400万部だとか、ゲイツやオバマ絶賛、さらに本邦でもゲラ段階で各所の絶賛を浴びていて、とにかく凄まじい本らしいのはわかっていた。ただ、「大学は私の人生を変えた」と言われても、大学が人生を変えるのは当たり前だとしか思わず、いったい女の人が大学に行った話の何がそんなに凄いんだろう? 凄くなりようがなくない? と訝しみながら手にとったんだけど、読み始めてみればその凄さが一瞬で理解できた。とにかく、彼女が暮らしていた環境が普通じゃないのだ。

生存を危うくする信念のごった煮

何しろ、両親はモルモン教の原理主義者で、世界の終末に備える終末論者であり、いつか政府の手の者が自分たちを殺しにくると本気で信じていて、医療機関に一切信用を寄せない生存主義者である。また、異常に思い込み、信念が強く自分が「こうだ」と信じたことを疑わない傾向がある。病院に行けないせいか、数々のホメオパシーを信じて、太陽に当たれば病気は治ると信じて喉が腫れたら太陽にあてろという。

終末信仰にも様々なレベルがあるが、かなり本気で信じていたようだ。周りの人間にバカにされても銃と食料を溜め込み、1999年12月31日はイザヤ書を読みふけりながら眠りにつき、翌日何も起こらなかったことで、父親の魂は壊れたという。『父は、朝に見たときよりも、もっとちっぽけな存在に思えた。落胆した父の様子はあまりにも幼稚に見え、一瞬、どうしたら神はここまで父を否定できるのかと考えた。』

数多のホメオパシー信奉にモルモン教原理主義者に政府も医療機関も信用せずと、一つでも信じているだけで生存が極度に危うくなる信念を3つも4つも持っている家庭なので、序盤から人生がどちゃくそハードモードだ。しかも、一家総出で車などの廃材処理事業を営んでいて、爆発が起こって何人も指を失ったり、高いところから落ちて脳みそが見えたり、致死的な火傷を負ったりするような過酷な環境だったのだ。政府を敵視しているので公立の学校にも通わせてもらえず、子供たちはほとんど親としか接しないので、そのことに異常性も感じない。父親の意見が絶対なのだ。

どうやって教育にたどり着いたのか?

著者のタラ・ウェストーバーはアラバマ州生まれの7人兄姉の末っ子で、最終的には家庭学習のみでモルモン教が運営するアメリカのブリガム・ヤング大学に入学、その後成果を認められ、イギリスのケンブリッジ大学へと奨学金を得て海を超え、博士号を取得し学問の道を進むことになる。だが、どうやって大学に行けたのか。

きっかけになったのは、3番目の息子であるタイラーの存在だ。タイラーは少しだけ公立学校に通った期間があり、通えなくなった後も持っていたお金で三角関数の教科書を買い、自力で学習し続けた。彼は結局後にタラが行くことになるブリガム・ヤング大学に行くのだけど、これは近くに住んでいた(母方の)おばあさんとおじいさんの影響も大きいだろう。自分の孫たちに勉強をしろ、学校を行けという彼らの後押しがあり、さらにタイラーは父親の反対を押し切るだけの勉学への意欲があった。

タイラーは先に教育の恩恵を受けていた。そして、タラにもその道を進めたのだ。『タイラーは立ち上がった。「タラ、世界は目の前に広がっているよ。君のためにね」と彼は言った。「君の耳に自分の考えをふきこむ父さんから離れたら、世界は違って見えてくる」』さらに、彼女が外の世界に出ることについては、母親も後押しをしてくれた。頭も良かったのか、自宅学習のみでギリギリテストに通った彼女は大学に通えることになるのだけれども、そこで大きなショック受けることになる。

教育は何を変えるのか?

というより、世間から隔絶された世界で生きてきたのだから、ショックを受けて当たり前だ。風呂にもほとんど入らない。廃材の油臭い世界で危険と隣り合わせで、政府や医者は敵だと教えられて生きてきたのだ。彼女は大学にいってはじめて、自分たちが信じてきた宗教や常識が、他の人達と大きく隔たりのあるものだと感じた。

おもしろいのが、あまりにも常識から隔絶されていたので、ある種の社会や勉強の「コード」「文法」が彼女の中に存在しないエピソードだ。たとえば、彼女は最初のうち、まったく授業で点数が取れないので、大学の知人に西洋美術史のノートを参考にさせてもらえないかと頼んだ。そうすると、一緒に勉強をしてくれることになったのだが、そこで初めて「教科書を読むことが重要だ」という概念を知るのだ。

シラバスで教科書の50ページから85ページの範囲が試験範囲として割り当てられているとして、彼女は教科書の写真を見ただけで、文章は読んでいなかった。そもそも、それを教科書として認識していなかった。「与えられた試験範囲の教科書を読む」という、ただそれだけのことさえ彼女にはよくわかっていなかったのだ。

教育がもたらす効果を実感するのが、彼女が一度実家に戻ってきた時のエピソードにある。タラにたいして時折命を脅かすようなレベルの暴力的な態度をとるショーンが、タラの顔が真っ黒だったので、「ニガーが帰ってきた!」と呼んだ。だが、すでに彼女はアメリカ史の授業をすでに受けてきており、そこに侮蔑的なニュアンスがあることを知っているし、黒人が辿ってきた歴史も知っている。

私はものごとを知る道を歩みはじめ、兄、父、そして自分自身について、根本的ななにかに気づいた。私たちが故意でも偶然でもなく、無教養にもとづく教えを他人から与えられたことで、私たちの考えが形作られたことを理解したのだ。

変わらないもの

教育を受けたことで彼女は自分自身がたどってきた道、教育、そして父と母について、違和感を感じていくことになる。彼女を変えたのは教育だけではなく、周りの環境、人間たちがあってこそのものだろう。他者との比較によってはじめてズレがあることが明らかになり、それが、存在しなかった疑問を生み出す。

彼女は変わっていく。だがすべてが変わるわけじゃない。タイラーは家を出て結婚までしたが、子供に予防接種を受けさせるために、奥さんの何年もに渡る説得を受けなければいけなかった。教育を受けたからといって、それまで受けてきた価値観・世界観が一度に塗り替わるわけではないのだ。タラ自身、父と母を大学へ行った後も両親を思っており、イギリスにいっても、時折家に戻っている。その後決定的な決別が訪れるのだが、過去やそれまでの経歴を簡単に切り離せるものでもない。

幼少期の話は、彼女が何の疑いもなくモルモン教的、終末論的な考えや世界観を受け入れている様子が綴られていくのでゾッとするのだが、大学に行きはじめた後半部については、父親や母親が持つ狂気的な世界観(何しろ、彼女の母親はチャクラの使い手で、どれほど距離が離れていてもチャクラで治療をすると平然と言うのだ)と彼女が大学で身につけた世界観がせめぎ合っていて、小説のような味わいがあった。

教育から隔絶された人間が、教育を受けることによって何が起こるのか。それが、凄まじい体験と共に語られている。最初に「大学に行くだけの何がそんなに凄い話なんだ」と思ったが、読み終えてみればただただ凄いとしか言いようがない。

壊れた民主主義を立て直すことはできるのか──『民主主義の壊れ方:クーデタ・大惨事・テクノロジー』

民主主義の壊れ方:クーデタ・大惨事・テクノロジー

民主主義の壊れ方:クーデタ・大惨事・テクノロジー

民主主義が現状まったく無問題に世界中で運用されている、と思う人はそうそういないだろう。民主主義は壊れつつある。あるいは壊れながらも運用されている。民意は反映されず、あるいはおかしな民意に突き動かされて暴走する。議会民主政、司法の独立、報道の自由など、民主主義を成り立たせる重要なパーツも、十全に機能しているケースは稀で、たいていの場合はどこか、あるいはすべてに問題を抱えている。

とはいえ、これまで民主主義は大きな利益を与えてくれていた。最高の制度ではないにせよ、他の制度と比べた場合に、最悪の事態は避けられる。民主主義は、壊れつつあるにしても今のところかなりマシな選択肢だ。本書『民主主義の壊れ方』は、クーデタ、大惨事、テクノロジーと三種類の「民主主義の壊れ方・壊し方」を解説したあと、我々は民主主義以外の制度を選択できるのか、あるいは、壊れかけている民主主義を直すことはできるのか、と問いかけてみせる。民主主義にとって脅威なのは、任期が終わるか選挙で消せるトランプよりも、意図しないままに民主主義を終わらせるザッカーバーグだと言ってのけるなど、なかなかに刺激的な本だ。

民主主義は「中年の危機」にあるというのが本書の主張の一つだ。今の民主主義には、過去のまだ若かった頃と比べて、違いが三つある。一つは、政治的動乱の規模と質が前の世代とは異なっていること(世界的にみて、暴力は減り、平和になってきている)。二つ目は、大惨事の脅威が変容したこと(これはわりとどうでもいい)。三つ目は、情報通信革命によって民主主義のあり方が変化したこと。このそれぞれがクーデタ、大惨事、テクノロジーに対応しているので、簡単に紹介してみよう。

クーデタ

民主主義の壊れ方の一つはクーデタだ。ギリシャでは1967年にクーデタが起こって7年間軍事独裁政権だった。軍事クーデタは民主主義が脆弱な国で起こる。日本やアメリカでクーデタが起こることは想像しにくい。民主主義が成熟していないと、腐敗や操作も起こりやすく、それがまたクーデタを起こすきっかけになりやすい。

こうした軍事クーデタは、わかりやすいクーデタの形である。武力で電撃的に政府機能を麻痺させ、一夜のうちに乗っ取って、民主主義が終わったことは誰の目にも明らかになる。しかし、今おもに進行しているのは別の種類で、民主主義が存続しているようにみせることが成功条件となるクーデタだ。たとえば、支配者層が政変を起こすことなく、裁量で民主制度を弱体化させる。自由と公正さを制限する選挙を行うなど、これらは一見民主主義が存続しているが、実態としては乗っ取り・クーデタだ。

こうした後者のタイプは何年もかけて進展し、どこかのタイミングで「クーデタが成功した」と明確に切り替わるものでもない。徐々に侵攻されるとそれに対抗するのは難しい。対抗勢力が「クーデタだ!」と叫んだところで、大げさでヒステリックになっていると非難されるだろう。『かつてクーデタはそれとはっきりわかった。しかし、今でははっきりしないのがクーデタなのだ。』これまで、それがあまり目立たなかったのは民主主義が弱く、すぐに転覆させられてしまうものだったからだ。成熟して、そう簡単には倒されなくなった老いた民主主義だからこその危機といえる。

トランプよりザッカーバークが脅威

クーデタと並んで重要なのが、テクノロジーだ。現代の情報の流れは早い。何かを発言したらそれに対してすぐ反応が返ってくるものだ。そうしたスピード感に慣れた人々からすると、代議制民主主義は反応が遅い。大勢の意見を聞かなければいけないほど反応が鈍くなる。それは容易く間違った方向に行かないための「価値」でもあるけれど、多くの人々からすればそれも今の民主主義への不満に繋がっているだろう。

たとえば、なぜスマホで誰もが政策や意見を発し、即座に自分の意見を一票として反映させられる直接民主主義に移行しないのか。著者は、古代アテネの直接民主主義が多くの制約や管理のもとに成り立っていた例をあげ、これは難しいという。『私たちは巨大な新興企業が構築したネットワーク社会で生活し、ネット中毒になり、衝動的に行動する。この状態は直接民主主義による管理に適さない。』

これは詳細な反論とはいえず、あまり納得いかないが、続けてソーシャルネットワークは代議制民主主義を偽物であるかのように見えるが(我々は誰でも意見を発せるので、代議制民主主義なんかアホくさい、と)、実態としてはこれに代わるものがないのにそれを壊してしまったのだと非難する。だから、著者に言わせれば、トランプよりも人々をネットワークで紐付け発信する力を与え、代議制民主主義への信頼を失わせつつあるFacebookのザッカーバーグの方が民主主義にとっての脅威なのだ。

言っていることはわかる。かつては、選挙権が与えられること自体が「あなたには一票がある」と尊厳を、政治に関わっているという実感を与えられるものだった。しかし、今は選挙権だけでは自分の意見が政治に反映されていると実感するのは難しい。SNSで誰もが発信できる現代においては、「なぜ聞き入れ、認めてもらえないのか」と民主主義への不満になって現れる。政治家は、それに対応する術をもたない。

どうやって直すのか?

不可避的に民主主義への不満が高まっているわけだが、じゃあどうしたらいいのか。現代の問題は複雑化しすぎていて、投票権に重みをつけようというジェイソン・ブレナンという哲学者もいる。教育を受けた人間には2票やればいい、というわけだ。

ブレナンは選挙について無知であったり社会科学の基礎知識を欠いている市民をふるいにかけるためにテストを実施することが望ましいという。だが、これが多くの批判にさらされているのは、一つはそもそも平等の原則に反していることと、教育を受けたからといって特定の問題を正しく判断できるわけではないことを示す研究が多く存在していることだ。そもそも、誰がテストを作るのか問題も解決できそうにない。

テクノロジーがそれを解決してくれる可能性もある。たとえば、2017年、アメリカのキメラという会社が、個人の選好から選挙で誰に投票すべきかを助言するAIを発表した。これは、複雑な問題に関して最適解を選び出す手助けになってくれるかもしれない。それは思想の蛸壺化に繋がるが、バランスのとれた情報の取り方(たとえば反対意見も閲覧するように仕向けるなど)をシステムに組みこむこともできる。

とはいえ、これも当然システム次第。このAIに指図するのは、我々ではなく開発企業のエンジニアだ。『それ故に、二十一世紀の知者の支配は、テクノクラシーに陥ることを避けることができない』。社会は問題を技術的に解決する方向に向かうが、それは技術者への依存症であって、テクノクラシーへと向かうことを避けられない。

といったかんじで、いろいろと対策はあるが、どれも難しい側面がある。本書は絶対の解答を示す本ではないから、建設的な提案は示されない。ただ、民主主義が陥っている苦境の在り様は、しっかりと示されている。

学びだけでなく行動すること、挑戦することをあきらめたくない人へ──『独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』

独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法

独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法

  • 作者:読書猿
  • 発売日: 2020/09/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
『独学大全』は、ネット上の書き手として、そして『アイデア大全』、『問題解決大全』で大きく話題になった読書猿による三作目の著作である。大全が続いているように、ワン・テーマ、ワン・イシューをおいてそこについて非常に幅の広い知識・知見・歴史を投入して、情報量で読者を圧倒してくるタイプの本、書き手といえる。

で、三作目のテーマは「独学」だ。これまでの作品の中でも最も分厚い圧巻の750ページ本(30ページ以上の注釈を入れると800ページ近い)。ページ数をみて、分厚いと思っても手に取るまで実感がなかったのだが、実際に届いて手にとってみると、ヒクぐらい厚い。500ページを超えるような本の場合上下になるものだけど、この場合は「大全」であり、「事典」であるから、あえて分冊にはしなかったのだろう。

使い方

副題に入っているように、様々なジャンルごとに分けられる55の技法が入っていて、頭から尻尾まで読むような読み方をしなくてもいい。自分の気になること──、たとえば「勉強したいけど、集中力が続かない」という悩みを抱えているのであったら、第四章「時間を確保する」の「ポモドーロ・テクニック」であるとか、第五章「継続する」の日課を習慣の苗床にする「習慣レバレッジ」、独学の進歩と現在地を知る「ラーニングログ」、怠けることに失敗する「逆説プランニング」あたりを読むべきだろう。逆に、知りたいことがあるのだがどうやって調べたらいいのかわからない、という方には、第八章「資料を探し出す」の4つの技法を読むのが最適だ。

そんな本なので、僕も最初は気になるところだけ読めばいいかな、と思っていたのだけれども、頭から読み始めたらおもしろくて一気に最後まで読み切ってしまった。確かに800ページ近く、アホみたいに分厚い(書く方も本にする方もアホだ)のだけれども、実際には中のレイアウトがページごとに凝っていて、図も豊富なので、そうとう読みやすく仕上がっている。さらにおもしろいのが、技法が単純に無秩序に並んでいくというよりかは、ストーリーのようにして、「独学」が段階を踏んで展開していくので、頭から尻尾まで読むことで独学の環境が整っていくような感覚を覚える。

たとえば、この本でえらいのが「独学」をテーマにして、その手法を紹介しているだけではなく、「なぜ学ぶのか」。「学ぶことが見つからないときに、どのように見つければよいのか」。「どのようにしてモチベーションを維持すればいいのか」、「誘惑に負けないための自己コントロール方法」といった、目線の低い、すぐに諦め、挫折してしまう人の視点から書かれているところにある。モチベーションが高く、テーマなど誰にも与えられずに湧いてきて、暇さえあれば新しいことを吸収して、無限に爆走していくようなタイプの人間を想定していないのだ。

だから、本書ではまず独学の技法として、第一部「なぜ学ぶのかに立ち返ろう」といって、なぜ学ぶのかをしっかりと認識・知覚させるところから始まるのである。

なぜ学ぶのか

実際、「なぜ学ぶのか」を強固にしておくのは重要だ。独学者は、数年や数十年といった歳月の中で、学校を卒業する、就職する、子供が生まれる、昇進する、大切な人が亡くなる、病気をする、新しい趣味に没頭するといった人生の変節を経験し、多忙にまみれ、その度に「自分なこんなことをやっていていいんだっけ」とか、「やる意味があるんだっけか?」という独学への猜疑、疑問を抱くものである。

あるいは、疑問すら抱かずに忘れ去ってしまうものだ。そうしたときに、なぜ自分は学ぼうと思ったのか、なぜ学ばないといけないと考えたのかという、動機づけの部分がしっかり構築してあると、何度でも立ち返りリスタートできる。だから、本書の第一部は「なぜ学ぶのかに立ち返ろう」といって、第一章「志を立てる」、第二章「目標を描く」、第三章「動機付けを高める」と、何度でもやり直すための学びの基盤構築に注力しているのである。第四章は「時間を確保する」、第五章は「継続する」、第六章は「環境を作る」と、動機を固め終わったら次は環境の地固めだ。

第二部は「何を学べばよいかを見つけよう」で、ここにきてようやく知りたいことを発見する方法、資料の探し方、事典、書誌、教科書、雑誌記事調査の仕方が続く。この第二部は、「そもそも何を学んだらいいのかわからない」という凡人に向けて書かれていて、第一部から通しで読んでいくと、一人の独学者の環境が整い、何を独学するかが決まり、とステップアップしていく様子がみえてくる。

単純に技法を紹介するだけではない

通して読んでいておもしろいもうひとつの理由が、本書が単純に技法を紹介するだけの本ではない、という点にある。たとえば、読書技術を大量に紹介している第12章「読む」(これだけで読書術の本として切り出しても成立するような凄い章だ)の中の一技法「黙読」の中では、単に黙読のやり方や黙読の効果だけでなく、黙読の歴史が何ページにもわたり書き連ねられている。

歴史的には、おそらく近代市民社会が作られたある時期以降に作られ、支配的になった新しい読書様式・慣習であること。長い間、読者一人で楽しむものではなく、集団で楽しまれるものだったこと。明治初期の新聞は家長によって読み上げられ、家族がそれを聞く形で読まれていたこと──、どれも純粋に技法を効率的に追求するビジネス書的ロジックでは不要と思われるような箇所だが、こうした余談・歴史的な部分の記述が多く、興味がなかったり自分が一度試して「こんなの二度とやるか!!」と思った技法であっても(僕にとってはポモドーロテクニックがそれ)おもしろく読める。

おわりに

なぜ学ぶのかという動機の固め方。モチベーションの保ち方、復活のさせ方。どのようにしてだらだらする時間を減らすのか──そういったテクニックの多くについては、「独学」に限らず、行動や、これまでやったことがない挑戦をしたいすべての人にとって有用であり、本書の応用範囲はどこまでも広がっている。また、基本的な学習として、英語と数学と国語が想定されているが、プログラミングの独学など、幅広い分野の学習に役立てられるだろう。僕自身、今けっこう厄介で大きな独学のテーマと向き合っている最中なので、相当に勇気づけられる一冊だった。

アメリカの投票の公平性がいまもなお脅かされつづけていることを記した、闘いの歴史──『投票権をわれらに:選挙制度をめぐるアメリカの新たな闘い』

本書はアメリカにおける「投票権」をめぐる闘いを記した一冊である。

これは本当にえらい本で、歴史的な流れとしてどのようにアメリカでアフリカ系アメリカ人をはじめとしたマイノリティから投票権が奪われてきたのか。また、それに対する抵抗の歴史が50年に渡ってみっしりと記された歴史書であり、これを読むことで今アメリカで何が起こっているのかという見通しもぐっとよくなった。法律用語が多く、400ページ超えの大著で読むのは大変だったが、これは今読めてよかった。

投票の権利は特にアメリカにおいては当たり前に与えられるものではない。そもそも奴隷には選挙権などなかった。南北戦争を経て黒人奴隷制が廃止され、人種、肌の色によって投票権に関する制限があってはならないことを定める憲法修正第15条が1870年に採択。それは歴史的な瞬間だったが、南部諸州から、明確な差別はなくとも実質的に黒人を排除するような州法が制定され、事実上投票権は奪われていく。

1965年の投票権法の効力

たとえば、アメリカでは投票するためには有権者登録をしなければいけない。その有権者登録のハードルを上げる(読み書き能力や憲法の知識を問う識字テストを課したり、有権者登録に必要な身分証が少なかったり)ことによって、黒人を選挙から排除していたのだ。そうした状況を大きく変えたのが1965年の投票権法である。

『投票権法はすぐに二十世紀でもっとも重要な公民権法として、また連邦議会で成立したもっとも画期的な法律の一つとして知られるようになった。』というが、それはどのような法なのか。まず、南部全域で有権者登録の際の識字テストが廃止された。司法長官に投票税の廃止を求める訴訟を起こす権限が与えられ、非協力な登録官は連邦政府の登録官に交代させられるようになった。一部の州に関しては特殊条項として、選挙制度を変更する際には事前に連邦政府の承認を得なければいけなくなった。

投票権がその後の数十年間で南部の黒人有権者の登録率は31%から73%に。全国でも広選職についた黒人が500人未満から1万500人に。連邦議会の黒人も5人から44人に増えた。この数だけをみてもどれほど黒人有権者が選挙制度から排除されてきたのかがわかるというものだろう。

終わりなき闘い

じゃあ、投票権の差別についての歴史は1965年の投票権法成立でハッピーエンドってこと? と思うかもしれないがそんなことはない。投票権法はその歴史の中で何度も正当性を問われてきた。たとえば、連邦政府に承認を得なければいけない選挙制度の変更とはどこからどこまでのことなのか。いつまで特定の州に関する特殊条項は適用され続けるのか。連邦政府は州のやり方に指示を出すのをやめるべきだ、と。独立性の高いアメリカの州だから、州の主権に関わると反対の声が上がりつづける。

投票権法が成立した直後、投票権法の効力が及ぶのは「有権者登録」に関わるもののみであるとして、いくつもの州が別の形で権利の制限をはかった。たとえば、ミシシッピ州では黒人議員が生まれないように、選挙区割を白人が確実に過半数を超えるように変えた。それまで選挙で決定されていた郡の教育長を選ぶプロセスも任命制をとるように変更し、立候補の要件を満たすためにそれまでの10倍の署名を集めるように変更するなど、とにかくなりふりかまわない妨害的制度変更が行われた。

だが、連邦最高裁は「投票する権利は投票行為を絶対的に禁じることだけでなく、票の効力の希釈によっても影響される」として、ミシシッピ州のやり方を退けた。ただ、それで諸州が諦めるわけではない。特殊条項下にある州が提出した選挙制度の変更の数は1970年には110件だったのが71年に332件、72年には1359件と増え続けている。一体何をそんなに変更すんねんという感じだが、要はなんとしても差別に見えない形で投票権利に制約をかけたいという必死の抵抗が続いていたのである。

草の根的な投票制限もずっと続いていて、たとえば不在投票者用の投票用紙を申請したすべての黒人世帯の家に、たしかに留守であるかを調べるために警官がやってくる。登録したばかりの黒人有権者が投票用紙に記入するのを手伝ったために不正投票罪で逮捕されるなど熱心に投票を制約しようとする時代が続く。中でも驚いたのは、2000年に行われたフロリダ州選挙で起こった投票権剥奪の事例である。

選挙手続きを少し操作するだけで結果を左右できる

フロリダ州は67郡の選挙委員長に重罪犯とされる5万8千人の名簿を送りつけて有権者名簿から抹消させたが、この運用がめちゃくちゃだった。そもそもフロリダ州の登録有権者のうち黒人は15%だったのに抹消対象者名簿には黒人が44%も含まれていた。そのうえ、登録者名簿にある氏名が州の重罪犯人データベースにある氏名と70%一致していれば、登録抹消対象者の名簿に加えられていたことが後に判明した。これによって、まったく身におぼえがないのに投票をできなかったものが続出した。

中には、何十年も前にベンチで居眠りしていて放浪の容疑で逮捕された人が突然抹消されたり、財布ごと免許証を盗まれ使われただけの人間が登録を抹消された事例もある。本書では3人の事例をあげてそうした状況が説明されていくが、その3人に共通していたのは、みなアフリカ系アメリカ人でアル・ゴアに投票するつもりだったということだ。もちろん違法であり、後に起訴されて1万2000人もの「重罪犯とされるべきでない人が登録されていた」ことを認めたが、選挙が終わってしまった後では意味がない。フロリダにおけるブッシュとゴアの得票差はわずか537票だった。

これで「接戦になる場合選挙手続きを少し操作するだけで結果を左右できる」という最悪な教訓が生まれてしまった。これと同様の事例が4年後にオハイオで起こり、ある意味ではその後もずっと起き続けている。投票権をめぐる闘いが、その最大の達成のひとつであるバラク・オバマの当選後に激化したからだ。オバマの当選後、2011年から15年の間に49の州で投票を制限する措置が395件とられた。米国の半分の州が投票を困難にする法律を制定し、その大半は共和党の支配する州だった。

マイノリティの力が増すと、彼らに支持されにくい政党にとってはマイノリティの投票率を下げることが力になる。投票権を侵害したい勢力が消えることはないのだろう。オバマが大統領になったことをきっかけとし、特定の州・地方政府の選挙制度の変更に制限を加える特殊条項はもはや不要であるという声が大きくなっていく。2013年には、特殊条項における「特定の州と地方政府」を定める基準は平等な州の主権と連邦主義の原則に反しているとして最高裁判決で違憲と判断された。

おわりに

投票権をめぐる闘いは終わっていない。原書刊行は2015年のことだが、近年の事例については訳者あとがきでも軽く触れられている他、著者ツイートを見れば動向も追える 。黒人が多い地域の投票所が減らされて何時間も並ばないと投票ができなくなったり、状況は大きく変わってはいない。2044年頃を境に非ヒスパニック系の白人が過半数を割るというが、アメリカの社会は今後どのようにかわっていくのだろう。そうした未来を考えるにあたって、どのような歴史が刻まれてきたのかを知るために最適な一冊だった。

リモートワークするならとりあえず読んでおくといい本──『リモートワークの達人』

この『リモートワークの達人』はソフトウェア開発会社の「ベースキャンプ」の創業者ジェイソン・フリードと同社の共同経営者にしてプログラミング言語Rubyのweb構築フレームワークとして有名なrailsの開発者デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソンの二人によって書かれたリモートワークについての一冊だ。著者らの会社は実際に長年にわたってフルリモート制を採用していて、長年の実戦経験にもとづいた、現実的な分析を通してリモートワークの長所と短所を明らかにしている。

この二人、これまで何冊も本を出していて(『小さなチーム、大きな仕事』)、こんな本出してたっけ? 現状にあわせて翻訳したのかな?? と思っていたら前に単行本で出ていた『強いチームはオフィスを捨てる』の改題しての文庫化であった。まったく別のタイトルになってはいるものの、一冊通してリモートワークについての話であることには違いがない。原書は2013年頃刊行の本ではあるけれども、リモートワークに必要なもの・利点に本質的な違いはないから、十分活用できるだろう。

なぜリモートワークなのか?

著者の二人は自分たちの会社が基本的にフルリモートであることもあって、リモートの推進に超積極的で本書でもその姿勢をガンガンに押し出してくる。会社は邪魔だらけであり、やたらと話しかけられたりミーティングを入れられたりして仕事にならない。もちろん家で仕事をするにしても邪魔は多い。テレビやゲームや動画。だがしかし、こうした邪魔は自分でコントロールできるものだ──、しかも、通勤もない!

子どもがいる家庭だったり、そうはいかんケースもあるだろうと思うが、そのへんは「部屋が完全に分けられる前提」で想定していなさそうである。まあ、実際に我社は永久不変にリモートワークですというのであれば家賃の高い都会に住む必要もないわけで、より広い家に転居できるのかもしれない。あと、家がどうしても集中できなければカフェなどでやればいいという話もあり、必ずしも在宅を想定していない。

あまりにもリモートワークの美点を推してくるので若干ひいてしまう面もあるのだけれども、リモートワークがオフィスでの仕事と比べて素晴らしいことに、深く同意する。僕もプログラマなので今年は3月に入ってから毎日家で仕事をしているし、それで特に問題も感じていない。コミュニケーションの情報量はオフィスに行くときよりは減少しているが、少し相談したいことがあればDiscordで通話いいすか? と5分ぐらい処理について相談してやっていれば大きな齟齬は起こらない。

何より通勤がいらないのは素晴らしい。通勤時間に読書ができるとか運動になるという人もいるのかもしれないが、僕は電車みたいな集中できない空間・場所で読書をする気になれないし、運動なら家の中でも十分にできる。リングフィットもあるし、VRを使ったかなり本格的な運動もある。YouTubeのストレッチ動画をみながらストレッチも毎日しているから、むしろ通勤する時よりも身体は健康的だ。

通勤がいらないから、仕事をはじめる10分前まで寝ていられるのは最高だ。服も着替えなくていいからパンツ一丁で仕事ができるのもいい。仕事が終わった瞬間にゲームを起動することだってできる。さらに、これは「結果的に」ということだけれども、もはや新型コロナが全世界的な終息を迎えることが難しく、今後「分散」がキイワードになっていく以上、部分的にであってもできるかぎりリモートワーク体制をとり、分散した上で仕事を回していく方法を模索していかなければならない。

アメリカでは本書刊行直前にYahoo、刊行後にはIBMが積極的なリモートをとりやめたり(本書でもIBMはリモートを積極的に取り入れオフィスを削減したと成功事例として挙げられている)とリモート非推進の動きが出てきていたのだけれども、こうなってしまったら「そうもいっていられない」だろう。

どんな欠点があるのか?

ともあれ、そうした動きが出てくるぐらいなのでリモートワークは何も完全無欠な働き方というわけではない。さっきも書いたようにコミュニケーション総量は減少する。最初から信頼関係の築けているチームであればリモートになっても変わらずに仕事ができるはずだが、たとえば新人や中途が入ってきた時に信頼関係を遠隔で築き、教えながらやるというのは(無理ではないけれども)なかなか面倒くさいものだ。

あと、文字コミュニケーションが主体になるので、どうしても文字での伝達能力が低いと「いったいなにをいってるんだ??」みたいなすれ違いも多くなる傾向もある。本書では、そうした懸念に対してひとつひとつ丁寧にその突破策(あるいは、それは誤解だという指摘)をしてみせる。たとえば、コミュニケーションの不足に関してはバーチャルな雑談の場所を作ること。週に一度、「最近やっていること」で進捗などの共有をはかること。言葉の使い方が下手くそな人間はいるものだから、汚い言葉使いや逆ギレをしている人間を見つけたら積極的に注意していくこと(マネージャーでも、社員同士でも)。採用活動で文章力のある人を雇うなど、無数に提案されていく。

ベースキャンプみたいに最初からリモート前提なら問題ないだろうが、今回みたいに急にリモートワークに移行すると、どうしても合わなくて、家では仕事ができないから出社させてほしいという人もいる。一番良いのは、そうしたスタイルが社員によって自由に選べることだろう。週に一回ぐらい出社してやりたい人もいれば、まったく出社したくない人も、全日出社したい人もいる。

ちなみに、このベースキャンプ社でも最初に採用したあとの数週間についてはシカゴの本社に呼び寄せてみんな(少数の出社している人たち)と一緒に仕事をさせ、信頼関係を築かせるという。やはりここまでリモートを推奨している会社であっても最初の信頼関係構築は対面じゃないと難しいと感じるんだな、と思う。また、それ以外にも年に数回は全社員が同じ場所に集まってのミーティングを行うそうだ。

おわりに

ベースキャンプ社の中には、旅をしながら仕事をしている人も何人もいるという。リモートワークには通勤時間がなくなるとか、集中力が保てるという即時的な利点もあるが、より本質的には「場所」から自由になった働き方ができることこそが利点なのだといえる。250ページ程度の薄い文庫なので、気になる方はパラパラっと手にとってめくってもらいたい。

暗殺作戦、苦難のすべてがこの一冊にまとまった、圧倒的な密度を誇る大著──『イスラエル諜報機関 暗殺作戦全史』

イスラエルの諜報機関──モサド、シン・ベト、アマンの3機関はその能力の高さから世界中に恐れられている。何より暗殺の作戦数が豊富で、一説によるとイスラエルがこれまで国として行ってきた暗殺作戦は2700件にも及ぶという。イスラエルが国として成立したのが70年前の1948年であることを考えると、驚異的な数といえる。

というわけでこの『イスラエル諜報機関』は、そんなイスラエルの諜報機関がこれまで行ってきた暗殺作戦を、その最初期から現代に至るまで丁寧に追った一冊になる。イスラエルの諜報機関の情報って公開されてんの?? と疑問に思ったが、やはりまったく公開されていないみたいで、国防省に調査協力を求めても無意味。イスラエルの各情報機関に、法律の規定に基づいて過去の文書の資料開示を要求するが、なんと裁判所が共謀して手続きを引き伸ばしている間に法律自体が改正され、50年だった秘密保持期間が70年になってしまったという。お前はミッキーマウスかよ。

さらに、バイネームで著者の調査を邪魔するために彼の調査を阻む特別会議が開かれ、職員には個別の面談を行うなど厳戒体制をしかれていたようだ。そうした網をかいくぐって著者は情報機関のリーダー、現場の工作員、政界の人間などにコンタクトをとって情報を集め、7年以上に渡る期間を経て本書として結実した、という経緯のようである。実際、読んでみたらそのデータ、状況の描写の細かさと密度。そして単純な質量にぶったまげてしまった。上下巻で1000ページ超え、原注と作中だけで200ページある。読むのも圧倒的に大変だったが、いやはや、これがおもしろい!

当然ながら暗殺作戦なんてそうそう簡単にうまくいくわけではない。それをどうやって確実に成功させるのか、また失敗した時にどうやってリカバリーするのか。歴史の中では手痛い失敗も(人質救出作戦で突入する階を間違えて人質を何十人も殺されるとか)数多くやらかしていて、そのすべてが本書の中にまとまっている。

それだけではなく、時の変化の中には技術の変化、攻撃の変化も含まれていて、たとえば自爆テロに暗殺でどう立ち向かうのか。ドローンを暗殺にどうやって組み込むのか、倫理の崩壊にどう立ち向かうのかなど多くの論点が詰め込まれている。読むのに時間がかかるのは確かだが、とにかく凄いのだ。

そもそもなぜそんなに暗殺しなければいけないの??

しかしなぜイスラエルという国はそこまでの暗殺大国、諜報機関大国にならなければいけなかったのか。それは当然といえば当然だが、国家が直面する危機に対処するためだ。イスラエルという国は建国された瞬間から常に危険と隣合わせだった。

国家樹立宣言後の深夜に、周辺のアラブ諸国から送り込まれた7つの陸軍部隊がイスラエルを攻撃し、ユダヤ人集落を制圧し多数の死傷者を出している。イスラエルは素早く部隊を編成し、防衛・攻勢に回ったが、周囲の国家は新しい国家の正当性をまったく認めておらず、生まれたばかりの未熟な国防軍が一時的に撃退を重ねているにすぎない。そして、イスラエルの長く複雑な国境を防衛することは難しい。そうした状況で必然的に選択されたのがインテリジェンスに力を入れるという選択だった。

 六月七日、ベン=グリオンはテルアビブの元テンプル会居住区にある自分のオフィスに、シロアッフをはじめとする幹部や側近を招集した。その場でシロアッフは、ベン=グリオンに次のようなメモを手渡した。「インテリジェンスは、われわれがこの戦争において緊急に必要とする軍事的・政治的ツールである。これを、(平時の)政府機関を含め、国が恒久的に利用できるツールにしなければならない」

この日、ベン=グリオンは3つの機関の設立を命じるが、それがシン・ベト、アマン、政治局(これが、一年後にモサドになる)であった。イスラエルの諜報機関の歴史はここからはじまるのである。

泥沼化していく暗殺

本書を通して読んでいくと、確かに所定の目標をあげているように見える暗殺も多いが(周辺国の核開発に関わる科学者を次々と暗殺してその開発進捗を止めたり)、まるで無意味にみえる暗殺もあれば、「いったいこの暗殺に意味はあるのか……?」と判断がつかないようなものもある。ただ、それに対する機関側の言葉が凄い。

たとえば、1990年代の後半からイスラエルは度重なる自爆テロに悩まされるが、自爆テロ犯をとめるのに暗殺を実行してもしょうがない。では、どうすればいいかということで2001年末以降は自爆テロ犯の背後にいる活動の基盤をターゲットにしようと、地域の工作員からタクシー運転手、自爆テロ犯の別れのビデオを撮影するカメラマンまで、広範な領域を暗殺対象に含めることになる。「そいつらも殺してもしょうがなくね?」と思うのだが、情報機関は自爆テロの指揮に積極的にかかわっているのは300人以下であり、ある程度殺してビビらせればテロも減ると考えていた。

 誰かが暗殺されれば、すぐ下の人間がその地位を引き継ぐことになるが、それを繰り返していくと、時間がたつにつれて平均年齢は下がり、経験のレベルも落ちていく。イツハク・イランは言う。「ある日、PIJのジェニーン地区の指揮官が取調室に連れてこられた。たまたま殺さず生け捕りにしたんだが、その男が一九歳だと知ってうれしくなったよ。勝利が目前に迫っていることがわかったからね。われわれは、この男に至るまでの鎖の輪をすべて断ち切ったんだ」

殺し続ければいずれ代わりもいなくなるのは人間が有限である以上真実だが、なんともまあ……という感じの発想だ。そもそもこの対処をしているのも、イスラエルでハマスからの自爆テロ者が多いときには数日おきに爆発を起こして何百人も(2002年3月、自爆テロだけで女性、子ども含む138人が死亡している)殺していることへの報復措置なのであって、泥沼化しているよなと思いながら読んでいた。

兵士は明らかに違法な命令には従ってはならない

個人的に好きなエピソードは、首相が精神衰弱で実務が行えない状態で実験を握りつつあるシャロンに反抗した軍人らが従った教訓の話である。イスラエル国防軍には、訓練の際に教えられる教訓がある。その教訓が生まれたのは1950年のことで、イスラエルの国境警備隊が、外出禁止時間帯に仕事から戻ってきた大勢の住民を集め、射殺した事件に起因している。これにより女性や子どもを含む43人が死亡した。

裁判になったが、警備隊は夜間外出禁止令に違反したものは射殺せよという命令を守っただけだと主張した。だが、この時の判事はこれについて「兵士は明らかに違法な命令には従ってはならない」との判決を下した。これはホロコーストに対する意識から出てきた判決でもあるのだろう。以来、これはイスラエル国防軍の教訓になっている。シャロンは「ターゲット以外の人間も乗っている民間機であってもターゲットを殺すためには撃墜せよ」と命令を下したが、現場指揮官らはこれに背いたのである。

セラは言う。「命令を受けると、私はイヴリを連れてエイタンに会いに行き、こう言った。『参謀総長、われわれにこの作戦を実行するつもりはありません。絶対に行いません。ここが国防大臣の指揮下にあることは理解しています。誰も大臣には逆らいません。だからこそ、われわれが食い止めます』。

おわりに

長い歴史の中にはいろんなことがある。暗殺に否定的な立場の長官も幾人も現れるし、俺たちスゲーと調子にのって手痛い失敗に陥ることもある。驚くほど綺麗に決まった毒殺もあれば、グダグダになって人質の交渉合戦に持ち込まれて毒を持った相手に解毒剤を渡すこともある。だが、そのたびにイスラエルの諜報機関は変化し、最新技術を取り入れ、諜報・暗殺技術の向上に対して貪欲だ。とにかく、凄まじい本だった。