基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

クジラの子らは砂上に歌う by 梅田阿比

砂がすべてを覆い尽くす世界、そこにぽつんと浮かび漂流を続ける船”泥クジラ”。その泥クジラには500名ほどの共同体で、サイミアと呼ばれる一種のサイコキネシス能力を持った短命の人々と、サイミアこそ持たないものの寿命が長く組織の運営にあたる人々が、大きな展望も広い世界もないものの慎ましく幸せに暮らしている──。「砂がすべてを覆い尽くす世界」「漂流を続ける”泥クジラ”」、それ自体が魅力的な単語ではあるが、いかんせん僕のような貧弱な想像力ではそれはどこか野暮ったさを感じさせるものしか浮かんでこない。おっとっとのクジラみたいなのと、ただただ汚いだけの砂の世界。
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一巻を読み始めてすぐに、どのような理屈もなく、絵の説得力によってただただ強制的に理解させられる。これだ、これこそが泥クジラであり、砂に覆い尽くされた世界とはこういうことを言うのだと。あまりにも印象的な”泥クジラ”の全景。まるでハウルの動く城の宮﨑駿デザインバージョンをはじめて見た時のような「イマジネーションの奔流」。そして本作の場合は「その泥クジラで人が暮らしている、ロジカルな機能性」が同居している異質さ。砂の世界を航行する泥クジラなんていう圧倒的なファンタジィな産物でありながらも、人々はそこで生産活動を行い、時には人を罰し、会議をし、社会活動を行っている。全景からのぞきみえることはわずかだが、確かにそこには人の暮らしがある。

物語は、小さな共同体で暮らしていた彼らが、ある漂着した廃墟船(この世界には泥クジラだけが存在しているわけではなく、他所の船が時折打ち捨てられている。)で、砂クジラの歴史始まって以来と思われる「他者」と遭遇することから動き出す。今まではほとんど意識されることのなかった「外の世界」。それは波乱のきっかけだった。彼らはなぜ”泥クジラ”で漂流を続ける羽目になっていたのか、この砂で覆い尽くされた世界には、いったいどれだけの「外」があるのか。世界の謎が解き明かされる度に、泥クジラで暮らす人々の「ちっぽけだった世界観」は拡張され、驚きと共に選択を迫られ、痛みを伴って前に進んでいくことになる。

物語にはちゃんとチャクロという少年が主人公として存在している。で、この子の主人公の特性・特徴がまずもって僕がこの作品を読んでみようと思う強いきっかけになったのだが、「なんでも記録せずにはいられない過書の病(ハイパーグラフィ)」なんだよね。彼は短命なサイミア使いだけれども、ウマくその力を使いこなすことが出来ない代わりに記録係として彼が体験したことをすべて書き取っていくことになる。だからこそこの”泥クジラ”と砂の海の記録は後世にまで残り、梅田阿比はその記録を見て本作を漫画化することができた。そういう世界観で本作は「ここではないどこかで、だけど確かに起こったことなのだ」という建前を持っている。

そう、それはあくまでも建前、世界設定、創作者の茶目っ気にすぎない──のだが、あまりにもこの世界は「そうであるようにして」創られているように僕は思う。SFでもなければファンタジィでもない、『クジラの子らは砂上に歌う』世界として、確かにこの世界は、我々の世界の歴史には存在していなかったのだとしてもメタフィジカルな領域で確固として成立している。嘘を嘘とわかっていてもそれを嘘と認めきれない存在感が、どうしてもある。砂の世界に泥クジラがぽつんと浮かんでいる世界。キャラクタ一人一人の心情まで、まるで正反対の意見を持つもの達であってもまるで自分のことのようによく理解できる。

このちっぽけな世界で死んでいくなんて信じられない、もっと広い世界を見てみたいんだという世界への欲求。残酷な真実を知っているからこそ、世を去る以外に重苦から逃れる術がないという諦観。戦いで多くのものを失った、もう戦わないんだという決意。ただただもっと新しいものを見てみたいんだ、可能性があるのならば諦めるべきではないという希望。本作の世界設定として、感情を食べ、それによってエネルギーを発生させる生き物が出てくる。本作はひとまず第四巻までは、この感情を食べさせ、無感動に、機能的に世界を運営していくことを選んだ人々と”泥クジラ”で感情を手放さずに生きることを選択した人々の対立を軸にして展開していく。

だからこそ、焦点となっている「感情」を大きく揺さぶるような形で、まるで「感情の価値」の是非を問うかのような展開が続いていく。唐突な、自身の望んではいなかった形での世界の真実、身近な人間の悲惨な死。だがそれと同時に描かれていくのは感情を持つことの美しさ──景色に感動し、人の為になりたいと行動し、希望や新しいものへと心をわくわくさせる機能もまた厳然と存在しているのだという単純な事実。一人一人の感情の振れ幅は非常に大きいけれども、しかしその全ての人間の気持ちに深く同調することができる。表情の力もあるし(表紙の表情をみよ)、単純な台詞回しのウマさもあるだろう、すべてが高いレベルで昇華され、「ただそうである世界」として、「そうか、本当にこういう人達がいたんだな」と納得してしまう。

記録すること・書き換えること

チャクロは記録魔というのはやっぱり面白い設定だと思った。僕も書きすぎる傾向があるからわかる部分があるのだが、過書の病であるといっても、ただ何でもいいから書きたいというのでもない。自分が書くべきもの、書いていて愉しい物、新しいものについて書いている時に筆は(基本はタイピングだけど)自分では止めようがないほど自走しはじめ、まるで手が考えたようにして文字が生成されていく。書きたいものがある時は、まるでいつでも発車できるぜとぶるんぶるんエンジンをふかしているバイクのように、あー早く書きたい、思う存分にタイピングしたいと思っていてもたってもいられなくなるものだ。

そうした書きたい欲求を満たすためにこそ、僕も平均からするとかなり多い量の本を読むのかもしれないと思うことがある。読みたいから読んでいるのではなく、書きたいから読んでいるのでは? と。チャクロもまた同じであるように思う。未知の体験をしたいからというよりも、記録がしたいからこそ未知へ、新しい世界へとドンドン頭をツッコんでいく。知らないものを見、体験したことのない体験をして、その感情の動きを記録する為に。小さな世界の出来事を記録することに全力を傾けていたチャクロが、広い世界を知ってその衝撃にうち震えてゆく感覚はまさに僕が本を読むことで知った「自分のこれまで知っていた世界がいかにちっぽけなものだったのか」を認識した時の驚きそのものだ。

二巻の最後、チャクロ達”泥クジラ”勢が大きな選択を迫られた時に、チャクロの記録にこんな独白が残っている。

私たちは泥クジラで生まれた この小さな世界で 私が外の世界を知り最も戸惑ったのは この島の外にも人々の人生が渦巻いているということだった 気の遠くなるほどの数の人々の中にもそれぞれに生きてきた軌跡がある それを想像すると圧倒される思いだった それはただの生命ではなかった 記録だ 
人ひとりにも膨大な記録が溢れている 泥クジラの上だけでも魂の記録は天に届くほど… だから怖いのだ その記録が一瞬で消えるとはどういうことか
どんなに恐ろしく悲しい思いをしても… 
私たちは記録者であることをやめたくはない 
私たちは私たちを終わらせたくはない

この作品はこういっちゃあなんだが陰気な漫画だ。決して主人公であるところのチャクロが突如凄い力に覚醒して敵をなぎ倒す話でもなければ、彼らが新しい世界へ輝かしい成果を残しに冒険をしにいくぞ! という話でもない。彼らは追いやられ、そして今さらにまたゴミか何かのように掃除されつつあるだけの存在で、仮にその状況から逃れ得たとしてもその先に待っているのが「輝かしい外の世界」である保証など微塵もない。確率からいえば彼らは無残にも野垂れ死ぬ可能性が随分と高くなりそうに思える。それこそ自死でも選んでとっとと苦痛の元を断ったほうがいいぐらいに。

それでも「ただの陰気な漫画」で終わらず、切なさを携えたまま前に進んでいくのは、結局のところこの作品が「書き残されたのだ」というところにあるのではないかと思う。これまでにも悲惨な事があって、これから先にも、きっとひどいことが起こるに違いない。それでも、愉しいことだけでなく痛みや苦しみまで記録され、生きた証として残ったことだけは確かなのだ。「どんなに恐ろしく悲しい思いをしても 私たちは記録者であることをやめたくはない 私たちは私たちを終わらせたくはない」という宣言は、果たされている。

もちろん本作の記録係チャクロがまず嘘をつき、重要な部分を隠す可能性がある。それとはまた別に、都合の悪い記録をそもそも残さない、あるいは記録が残ったとして、その過程で誰かに改ざんされた可能性も否定出来ない。それを漫画に起こす段階で、またいくつかの補正が著者によって行われていることも提示されている。記録とは完全なものではないのだ。常にそこには「書き換えられる」過程があるし、そもそも記録者の主観によってねじ曲げられたものしかそこには存在しえない。

本作は四巻まで至って、大きな戦争が起こり、ついに外の世界へと漕ぎだす時がきて、「記録する/書き換える」とはどういうことなのかにまでテーマが及んでいる。果たしてこの世界の記録は「誰かに書き換えられたもの」なのか、はたまたチャクロの理想を追求した記録となっているものなのか。それは作品を根底から揺り動かす問題だ。「一つの異世界を創りあげること」にこれほどまでに成功している作品にそうそう巡り会えるものじゃない。完結していない作品だからこその、この先何が起こるのかさっぱり予測のつかないわくわく感がある。ストーリー的にも四巻でいったん一段落ついたところなので、読むにはいいタイミングだ。

クジラの子らは砂上に歌う 1 (ボニータコミックス)

クジラの子らは砂上に歌う 1 (ボニータコミックス)

クジラの子らは砂上に歌う 2 (ボニータコミックス)

クジラの子らは砂上に歌う 2 (ボニータコミックス)

クジラの子らは砂上に歌う 3 (ボニータコミックス)

クジラの子らは砂上に歌う 3 (ボニータコミックス)

クジラの子らは砂上に歌う(4)(ボニータ・コミックス)

クジラの子らは砂上に歌う(4)(ボニータ・コミックス)

グッデイ (ビームコミックス) by 須藤真澄

我々は今のところ将来的に全員死ぬ。

小学校入学より確実に死ぬのだから、みんな準備しておけばよく、なぜそれじゃあこの世界では死別がとても悲しいものかのように描かれるのだろうと不思議に思うところだ。しかしそれはいつ死ぬかはほとんどの場合、当人にすらわからないからだろう。余命3ヶ月ですと言われて意外と何年も生きたり、あっさりと3ヶ月も経たずに死んだりする。死は平均寿命などもあって悲しみに拍車をかける。たとえば日本において3歳などで死んだら悲劇だろうし、20代30代40代で死んでも早い死ということになるだろう。「もっと長く生きていられた可能性があった」という期待が裏切られたからこその悲しみであり、生きていれば存在していたかもしれないやりとりがもはや発生しなくなってしまったことによる喪失感なのだろう。

本作『グッデイ』は死を扱った連作短編集だ。コレ一冊でキレーにまとまっている。あたたかな絵柄で、悲しいだけの死ではない、死にいたるさまざまな生の形を描いていく。死ぬ当人、親族、ほとんど無関係な人……死ぬというイベントが起これば、周囲の人間をそれなりに引きずり回すものだ。このあたたかさが伴った死への手触りが独特で、どの話も芯にある部分は一緒だが、魅せ方が全然違ってぐっとくる。途中から涙が止まらなくなり、一度最後まで読んでからまた最初から読むことで二度泣ける。長い漫画に毒されてしまった体が良質な一巻漫画を求めてやまないが、本作はその中でも最高レベルの品質だ。

世界観として我々の世界と一点だけ異なるのが、この世界では玉迎えという現象が存在しているところにある。これは突発的な事故などではなく、体の寿命で亡くなる方の体が、その前日に突然球体に見えることをいう。誰もが球体に見えるのではなく、玉薬と呼ばれる薬を飲んだ場合、飲んだ人と誰かの組み合わせ(これは一つしかない)によって、組み合わせがばっちりハマった人だけが死期が明日に迫った人の体を球体に見える。それ以外の人はいつもどおりの、普通の体型に見えているのだという。

この組み合わせも、家族や親族、友人関係のような近いものに限らず見ず知らずの人間の間で起こる。だからすべての人にこの玉迎えが起こるわけではない。たまたま、道でみかける。たまたま、家族が組み合わせ対象だった。え、見ず知らずの人間が球体に見えたら、どうしたらいいの!? と真っ先に疑問に思うところだが、そういう時に、ほとんどの場合前提として「ひとまず本人には知らせず、家族に知らせること」という常識があるようだ。ただこれは別に法律で決まっているわけでもなく、本人の良識に任せられていると言ってもいい。忙しくて見てもスルーする人もいるだろうし、家族を探すのが面倒で単刀直入に本人に言ってしまう人もいるだろう。

基本的に一話につき一人、玉迎えが起こった人がその死の前日をどのように過ごすのかを中心におっていく。家族が組み合わせ対象だった場合は幸せなパターンだろう。家族仲が良ければ、それとなく親族を呼び寄せてくれて、普段食べるよりちょっと豪華なものを食べさせてもらい、そしてゆったりと明日を迎えることが出来るかもしれない。普段会わない孫や息子、娘が集まってきて、ゆったりといつも通りに犬の散歩でもして、最後にああ、いい人生だったと思えればそんなに良い終わりもそうそうない。逆に、見ず知らずの人間を球体に見てしまった場合は、見てしまった人も大変で、「うぎゃあ、なんとかしてあの人の家族に伝えてあげなくちゃ! それもできれば本人に知られないような形で!」と四苦八苦することになる。まず本人に知られずに接触するのが難しいよね。

死にいたる生の肯定

死を明日に迎えた玉迎えの人たちは、なぜ球体に描写されるのだろう? それは一つに魂迎え、霊迎えの読みの連想からきているのだろう。あともう一つ、球体は卵を連想させることも影響しているのかなと思った。卵、そこからまた産まれ得る、再生の象徴か。実際本作では死生観の一つとして輪廻や、死後の世界を想像させるような霊体なども描かれている。そして本作は一貫して死の前日を描いていくわけだけれども、実はそこには悲壮的な死は描かれなく、そこが最大の特徴といえるかもしれない。みなそれぞれ自分のやり方で自分の人生を振り返り、最後にやるべきことをやって、TODAY IS A GOOD DAY TO DIE、死ぬにはいい日だ、とでもいうように最後に見せるのはみんな儚げな笑顔だ。

それは輪廻や死後の世界があるからみんな肯定的に死ねるってこと? といえば、そういうわけではない。そうした世界観も描かれるが、それは単なるこういう価値観もあるよね、という一例として存在しているに過ぎない。では本作で描いているのは死の肯定でなければなんなのだといえば、死にいたる生、それ自体の肯定なのだろう。我々はだれでも死んでしまう。明日死ぬかもしれないし、明後日に死んでしまうかもしれない。90歳まで生きるかもしれないし、50歳で死んでしまうかもしれない。我々が死を怖れるのは消滅それ自体が恐ろしいからか、あるいは消滅に伴う苦しみ、苦痛が怖いのか。それはわからないが、「死を肯定」するのではなく、「死にいたる生」という避けられぬ物を絶対的に肯定することを描いているのは確かだと思う。

だからこそ本作で死に臨む人たちはみな朗らかに笑っている。自分の人生を振り返って、いろいろあったけれども、とりあえず今は満足だ、できればまた、この世界に生まれてきたいものだと人生を肯定してみせる。それは常に言葉で表現されるものではなく、ちょっと豪華ないつもどおりの日常を過ごすこと、ずっとやりたかったことを最後に一つだけやってみること、最後にたまたま居合わせた人と会話を交わすこと、といった様々な形で成し遂げられていく。僕はそれを読むことによって自分の死に思いを馳せ、はたしてこのように人生を肯定して死んでいくことができるのかと考えこんでしまった。たぶん読んだ人は誰しも自分のそのような問いを投げかけることになる。その問いへの答えが出るのは実際に、いざ本当に死ぬのだとわかった時にしかこないのだろう。我々は死ぬ。それはわかっている。しかしいつ死ぬかまではわからない。

本作にはいろいろな人が出てくる。死を告知されて慌てる人、淡々と受け入れる人、整理整頓し、死を目前にして自分が成してきたことを見てじわりと感じ入るもの、玉迎えにそなえて、死の前日にはあれをやろうこれをやろうと入念に準備を重ねてきた人──。周りの人も大変だ、死ぬのがわかっているから出来るだけその最後はいい日にしてあげたい。十人いれば十通りの、人生へのケリの付け方というものがある。どんなケリの付け方であっても、最後に自分の人生これでよかったんだと肯定できるなら、きっとその人生は、いい人生だったと言えるのだろう。

僕もできれば、まさに明日死ぬとなったときは、本当に楽しかった、また生まれて来たいと思いながら死にたいものだ。 ※同日発売でKindle版がありました。こういうの、嬉しいね。Kindle版で購入。

グッデイ (ビームコミックス)

グッデイ (ビームコミックス)

ドミトリーともきんす by 高野文子

日本では屈指の知名度と実績を誇る4人の科学者───朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹がそれぞれみんな大学生で、ドミトリーともきんすという寮に住んでいるという架空の設定で、それぞれの生活や、後に彼らが書く本の片鱗を伺わせるようなエピソードを重ねながら、そのまま本の紹介もさらっと入る、シンプルな「本と人物の紹介マンガ」である。マンガを描くのは高野文子。『るきさん』などで有名なその作風は、独特の力が抜けたキャラクタとかけあい、またシンプルな線と、独特なコマ割り表現で読んでいるとふっと気持ちが落ち着いてくるのだが、本作でも十分にその力量が発揮されている。

題材となる一人一人がみな大科学者であり、その著作の中身を1話5ページで表現するのは不可能である。ではどうやって表現していくのかといえば、ほんのエッセンスのようなものを拾い上げて、最後のページの半分を使って、取り上げた本の中から印象的な文章を引用して〆ている。たとえば朝永振一郎の『鏡のなかの物理学』を紹介するページでは、はしがきに書かれている『顔の前にかがみをかざして、それにあたりをうつしながら、家の中を部屋から部屋で歩きまわる。こういう遊びを子どものころによくやったことがある。こうすると、毎日みなれてたいくつなわが家が、見知らぬ別の家のようにみえる。それがたのしみであった』という部分をピックアップして、寮の中で鏡を持って歩きまわる朝永振一郎を寮母さんとその子どもと一緒にコミカルに描いている。

マンガ部分は理論の説明そのものというよりかは、「あれってなんなんだろう?」と思う科学における発想の元、好奇心に駆られていうろうろと行動するまさにその瞬間が描かれていて、それがまたとても面白いんだな。自然現象そのものにどきどきしていく興奮、普段我々が不思議と思わずにスルーしてしまうような場所にこそ「なぜなんだろう?」と切り込んでいける鋭さ。そうした科学者特有の発想の根源をうまーく捉えて題材にもってくる。そして最後の、紹介している著作の中から引用されてくる文章がまた良い。著者自身が特にそれぞれの分野の専門家ではないから、一般向けにわかりやすい部分が選択されているのはもちろんだが、どれも印象的な一節でそれぞれの科学者のスゴさが溢れている引用部分だ。たとえば先に紹介した『鏡の中の物理学』では次のような一節が最後の引用部として採択されている。

 物理法則というのはいろんな種類のものがあるわけなんですけれども、それらの法則を鏡にうつしたとき、変るのか変らないのか、変るとすればどういう変りかたをするのか、そういうふうな、ひじょうに普遍的な問いに対して、三枚の鏡を用意せよ、そうすればミクロの法則は必ずもとにもどるであろう、という、いわば法則の法則とでもいうべきものが見出されたわけであります。そういうようなすべての物理法則、ひいてはすべての自然法則を包括して規制するような、そういう基本的なこの法則ですね。これはつまり、神様が左ぎっちょであるか右ぎっちょであるかというような、そもそも神様の性格にかかわることなのです。神様の姿を描いた絵など見ますと、厳密に左右対称に描いてあるものが多い。神様はそういうお姿のように、右と左とに差別なく働かれるものなのか、あるいは神様はやっぱりぎっちょであるのか、そういうことにかかわることなのです。

物理学や植物学など、本作に出てくる科学者たちはみなそれぞれ分野は異なっているけれども、書いた文章を読んでいると見ている景色が一瞬垣間みえる。当時人類の最先端を開拓していった圧倒的な知性からくる発想や物の見方は、こういうとあれだが明らかに一般人を凌駕していて、最先端の知性の物の見方を追体験できるのだから本は凄い。僕も朝永振一郎の『物理学とは何だろうか』を読んで物理学の面白さとそのシンプルさに心惹かれ、中谷宇吉郎の中谷 宇吉郎『科学の方法 (岩波新書 青版 313)』 - 基本読書に表現されている「科学とは何なんだろう、どのようなプロセスなんだろう」という純粋さに驚き、そのスゴさに常に圧倒されてきた。今回こうやってマンガとしてそのエッセンスと「未知へと向かっていく好奇心そのもの」を読んで、改めてどの本も読み返したり、あるいは読んでいないここで紹介されている本を読んでみたくなってしまった。実際何冊も買っちゃったしね。

本作はそれぞれの科学者がやってきた業績の解説ではない。それぞれが持っていた不思議に思う気持ち、そして解明へと向かっていく気持ちそのもののマンガ化である。誇張するわけでもなく、かといって忠実に再現しよう、スゴさを表現しようと力が入っているわけでもなく、自然で、力が抜けたそれぞれの人物表現に漫画家・高野文子さんの円熟した力量を見た。いやあ、いい本です。

ドミトリーともきんす

ドミトリーともきんす

キヌ六 by 野村亮馬

『ベントラー・ベントラー』で名前を知った野村亮馬さんの新作。架空の歴史をたどった2001年が舞台でサイボーグ達が身体をバラバラに、ブチブチ引きちぎりながら殺しあうアクション漫画が『キヌ六』だ。基本このブログでは5巻以内に完結する漫画をメインに紹介しているが、これは二巻でつい先日に完結した。上下でなく二巻となると「打ち切りか」とすぐ心配してしまうこの世界は残念だが、最後の巻末解説によると全12話二巻完結は当初の予定通りだったようだ。確かに話し的にもわりとすっきり終わっており違和感はない。もっと読みたかったような気もするけれど、2巻の中にぎゅうぎゅう詰めでいろんな要素が詰め込まれており満足度は高い。

あらすじはシンプルなので簡単に説明しておこう。サイボーグの少女、六がヌードル屋でアルバイトをしているところに突然火星人類を名乗る少女キヌが転がり込んでくる。特別に生み出された人類であり撃たれても再生するわ、頑丈だわでまるで人類と違う構造をしている。ひとまず外見は人間と同様、かわいい少女だ(よかった)。キヌは謎の組織に追われてガンガン撃たれているのだが街中破壊しながら逃げ回っている。彼女の目標は生まれ故郷である(生まれてないけど)火星へと戻ること。ヌードル屋で働いているサイボーグ少女は単に人質としてその旅に付きあうことに成る。

この銃弾もはねかえしパワーも半端ないサイボーグ少女(ヌードル屋で働くにはオーバースペックだろ)と火星人類であるキヌが次第に打ち解けていくのがプロット1。火星に辿り着くまでの艱難辛苦がプロット2。火星と地球はは既に何十年も前に行き来が途絶えており、もうどうやっていったらいいのかわからないような状況である。キヌは謎の組織にかなりハードに追われているしで、キヌを生み出した組織、越冬隊と名乗る組織、火星人類を支援する組織が入り乱れていくが基本的には「キヌがなんとかして火星へ向かう物語」とだけ把握しておけばいいだろう。

キヌ六世界は現実とは全く異なる歴史をたどった架空の過去(2001年)であるので、まずその諸々の造形がおもしろい。車からバイク、電荷ブレードにトンボ形昆虫型の偵察ロボットにパワードスーツ、サイボーグ、なんか触手を自在にあやつるキモい改造人間となんでもござれだ。街の造形からして現代とは似ても似つかない、BLAME!めいた世界観が構築されていく。ただヘンテコな町並みが描かれるのではなく、細いパイプの上を歩いたりゴミゴミしたなかを走りぬけ破壊し時には落下していくのでパイプ丸出し建造物スキーにもたまらない(なんだそれ)。銃器はほとんど現実に存在する物ベースだとはいえサイボーグがつかうものだからヤケにゴツイものがどかどか出てくる。

あまり複雑な話はないのでページのほとんどはアクションに費やされる。サイボーグアクション物の醍醐味といえば人間だとどうしても不可能な動きの実現であったり、腕が吹っ飛んだり腹に穴が開いたり足が吹っ飛んだり首がねじ切れたり、そうした人体欠損を抱えながら人間がアクションを継続させていくところではなかろうか。生半可な銃だと身体にあたっても簡単に弾き飛ばしてしまうので近接戦闘に移行していく過程もいい。首がぶちぶちとネジ切れる様などまったくもって興奮するし、腕がじゃかじゃか吹き飛んで腹に穴があくなんてとても楽しいじゃないか。現実になってほしい願望ではなく現実ではありえないからこそのロマンだ。

ボクシングで人間がボコボコになりながら相手に向かって行くとなんだか興奮する。それをロボットでもない、サイボーグ物のSFだと人体欠損という形でその表現をさらに先鋭化させることができる。ガンダムだって最後はボロボロになりながら敵にくらいついていくのがかっこいいのではなかろうか。ただ本作においてアクションが表現としてうまいかどうかというと、正直何をやっているんだからぱっと見よくわからないところもあって繋がりが良くはない。だが描きたいシーンへの欲望みたいなものは強烈に感じるので、充分に楽しんで読めるだろう。ていうか主人公はそう名言しないもののしょっちゅう敵の首を引っこ抜くのでたぶん首引っこ抜きフェチなんだろう。それぐらい首をブチブチする。新しいではないか、首引っこ抜き系ヒロインって(こういう場合でもヒロインというのかよくわからないが)。

ガチガチのSFを期待するようなものでも、作劇のたくみさを期待するようなものでもない。二巻完結だしね。ガジェットのおもしろさとあまり表に出てこない設定を想像して楽しみながら(五度目の氷河期に対しての第五越冬隊がどのようにして氷河期を乗り越えようとしていたのかとか)、身体が欠損しボロボロになりながら敵の首をひっこぬく女の子達を楽しむ漫画だ。アクションあんまりうまくないっていったけど、二人の主軸になる女の子のコンビネーションアクションはかなり良かったと思う。無口突撃サイボーグ女と、状況に流されっぱなしで自分の身体のローンのことばっかり心配する図太い女同士が仲良くなっていく過程に燃えろ。

キヌ六(1) (アフタヌーンKC)

キヌ六(1) (アフタヌーンKC)

キヌ六(2)<完> (アフタヌーンKC)

キヌ六(2)<完> (アフタヌーンKC)

一人星雲賞 【コミック編】

 一人星雲賞とは何か。いやそもそも星雲賞の説明からしたほうがいいだろう。

 星雲賞とは公式サイト2014年 第45回星雲賞から引用すると下記の通りのものである。

星雲賞は、日本のSF及び周辺ジャンルのアワードとしては最も長い歴史を誇るSF賞です。
星雲賞は、前年度に発表された作品の中から、SF大会参加者のファン投票により最優秀作品を選ぶものです。
第45回星雲賞は、4月27日から6月15日にかけて第53回日本SF大会参加者による投票がおこなわれ、7月19日に発表予定です。

 ようはSFの賞であり2013年度に発表されたSF作品やSFっぽい作品やぜんぜんSFっぽくないがなんでかよくわからないが候補になっているものの中から、日本SF大会の参加者による投票によって決定されるファン投票賞なのであると理解していればいいだろう。結果は今年の7月19日に発表される

 分野は多岐にわたり【日本長編部門】【日本短編部門】【海外長編部門】【海外短編部門】【メディア部門】【コミック部門】【アート部門】【ノンフィクション部門】【自由部門】とそれぞれ分かれている。それぞれの分野で先に紹介したページでは参考候補作一覧が載せられている。投票権を持った人間は基本的にこの参考候補作から対象の作品を選んで投票するわけだが、あくまでも参考候補作であるために一覧に載っていないものをえらんでもかまわない。

 僕はどうせSF大会にもいかないし、星雲賞にも、何一つ関係がない人間である。そんなまるで無関係な人間が勝手に星雲賞候補作を読んで受賞作を決めてやろうと思っているので「一人星雲賞」なのだ。fujiponさんの一人本屋対象を勝手にパクったのはいうまでもない。参考候補作にあがっているものをちゃんと一個一個読んで、出来る限りレビューを書いていき、選ぶのだからなかなか労力もかかっている。まあさすがに全部門はやらないが。

 短編部門は候補作がのっているSFマガジンを集めてくるのが面倒くさいからパスだし、メディア部門は映画やOVAならまだしもTVアニメシリーズが入っているとさすがに見ている時間がない。アート部門もよくわからない。が、ソレ以外の分野についてはだいたい既に読み終わっていることもあって、出来る限りやっていこうと思う。まずは【コミック編】である。

 さて、肝心要のコミック部門の参考候補作は何かといえば次の4つである。【星のポン子と豆腐屋れい子】【成恵の世界】【GANTZ】【あかねこの悪魔】GANTZが一番有名で巻数も多く37巻、その他の作品は知名度が落ちるか。もっともこういう賞の醍醐味というのは、受賞作に箔が付いたりする以外にも「候補作にあがった知らなかった作品が目に触れること」だったりする。

 今回で言えば候補作が発表する前段階で【成恵の世界】は既読、GANTZは20巻あたりまで既読、【星のポン子と豆腐屋れい子】と【あかねこの悪魔】は未読、存在すら知らない状態であった。こういう機会でもなければたぶん手には取らなかった作品なので、星雲賞には勝手に感謝したい。以下作品ごとにおける雑感及び選定。

星のポン子と豆腐屋れい子 (アフタヌーンKC) by トニーたけざき - 基本読書

 候補作の中では唯一の一巻完結物。ストーリー的には古き良きプロット、みたいな懐かしさをどこか思い出させる。幼い姉弟の元になんでも願いを叶えてくれるという胡散臭い宇宙人がやってきて……しっちゃかめっちゃかになっていってしまう、というもの。一巻完結物の漫画としては非常によくまとまっているお話で絵的にも大満足な一冊。静と動、爽やかさとエグさへの運動が激しく、それでいてとても表現的に丁寧に積み上げていくので楽しい一冊。

 ほんわかした雰囲気の立ち上がりでグッとグロさとエグさをプロットだけでなく絵で表現していく能力が圧巻だが、さすがにこの候補作相手だと一巻完結はちょっと厳しいか。

世界はたくさんのみんなでできているんだよ『成恵の世界』 by 丸川トモヒロ - 基本読書

 1999年から連載が始まり、2013年2月号でついに連載が完了した。全13巻である。素晴らしい青春SF活劇コメディであり、13年の時の流れを経て、なお古びれることのない傑作漫画だった。もしあなたが最近の漫画は長すぎて終わらねえ、まとまった良作はないのかと眺めているのならばこれを読まない手はない。
 青春日常ラブコメ物の、ほんわかした雰囲気を保ちつつもハードなSF設定を両立をさせている技の冴えは、他に並ぶものがない。日常のドタバタにSF設定を取り入れているだけかと思いきや、のちのち長大な時間軸上のプロットに伏線回収されていくさまなど胸が踊る。成恵と主人公の、どちらもどちらの精神的支柱であり、共に支えあいながら、補完しあいながらも物事を前に進めていくさまに涙する、色んな意味で濃縮された傑作だった。今回はこの【成恵の世界】と【GANTZ】のどちらを賞に選んだほうがいいか、ずいぶんと悩んだものだ(別に僕の決定で星雲賞が決まるわけではないが)

あかねこの悪魔 by 竹本泉 - 基本読書

 ゆるゆる。ほのぼの。読書好きが図書館に入り浸っているうちに、本の世界に入り込んで紙魚退治をするはめになってしまうという本浸りのシリーズ。とても心地よい。六巻で完結。巨大な悪がいるわけでもなく、苛烈な恋愛闘争が繰り広げられるわけでもない。図書館でだらだらと過ごすところとか、出てくる人達がみな本好きで一分の隙もなく本を読んでいるところとか、いろんな図書館が出てくるところとか、ドラマ的な部分ではなく心情や環境にたいしての魅力が大きい。もちろん架空のお話の中に入り込んでいくのは「あはは、こんな話ないだろ」みたいなものから「ちょっとよんでみたいかも」というものまで様々で、たのしい。

 まあ、内容はSFというよりかはファンタジーであり、コミック編の方向性を広げていて面白いけれども、今回は惜しくも選ばなかった。一度本好き女の子主人公ものでまとめてみたいな〜〜。

GANTZ by 奥浩哉 - 基本読書

 あまりにも順当な、と思われそうだが【GANTZ】をやはり一人星雲賞コミック編の受賞作としよう。エロにグロ。とても勝てそうにない強大な敵にかっちょいい武器、武道。デカい敵もいれば小さくて多い敵もいる。だがだれもかれもみな強く、圧倒的な力を持っていて、主人公たちはあまりに非力だ。でも知恵やチームワーク、覚悟を決めてその強敵に挑みかかっていく。

 漫画という表現手段をめいいっぱい活用して描かれた圧倒的な敵、破壊の爪あと、人間の快感原則に沿いきる為に無茶苦茶になってしまった展開も、ソレを裏打ちする絵としての表現がなければ説得力がない。巻を増すごとにデカくなっていく物語スケール、敵の強さ。結末に向かうに連れて否定的な意見が増えていったが、GANTZは最後までエンターテイメントに忠実であった。

全体的な雑感。次の【日本長編部門編】へ続く。

 なんだか面白味のない結果になってしまったがGANTZは面白い。成恵の世界も面白い。あかねこも豆腐屋もそれぞれみな違った部分が面白い。こうしてやってみると全く異なる作風の全く異なる巻数の表現者たちが描いたものをまとめて「コミック」と称して無理矢理一作品を決めるのはえらく難しいことに気がつく。

 たぶん実際の星雲賞は投票だから、一番知名度の高いGANTZに集中するだろう。もしこれを読んだ人の中でどれも読んだことがないのであれば、成恵の世界を読んでもらいたいなあ……。GANTZは人生の内漫画喫茶で一晩とまることにでもなった時に一気に読めばいいよ。 次はたぶん【日本長編部門編】をやります。

GANTZ by 奥浩哉

 エロにグロ。とても勝てそうにない強大な敵にかっちょいい武器、武道。デカい敵もいれば小さくて多い敵もいる。だがだれもかれもみな強く、圧倒的な力を持っていて、主人公たちはあまりに非力だ。でも知恵やチームワーク、覚悟を決めてその強敵に挑みかかっていく。GANTZという漫画が世間一般にどういう評価でもって受け入れられているのか知らないが、僕にとっては単純明快なエンターテイメント作品であり、快感原則に寄り添って全力疾走してくれる、めちゃくちゃおもしろい漫画だった。

 あらすじをほとんど知らない人もあんまりいないだろうが念のため、簡単に説明しておこう。人が死ぬと、どういう条件高は不明だが謎の部屋に飛ばされ、武器を持って変てこな星人と戦い、敵を倒すと設定されたポイントを受け取ることが出来る。100ポイントで「記憶を消去して生き返る」「誰かを生き返らせる」「もっと強い武器をもって0ポイントから」の3つのうちどれか一つを選択可能。主人公は物語冒頭であっという間に死んで、このデスゲームに巻き込まれていくことになる……。

 敵が滅茶苦茶強いのがいい。「勝てるわけがねえ……」と毎度絶望感を味あわせてくれる。よく毎度毎度ここまで「勝てねえ……」と思わせてくれる敵を設定できるものだ。それは単なる言葉で(「あいつはやべえ……」とか)強さを表現しているのではなく、ビジュアル面からして圧倒的であったり、「町を破壊する」「人体を破壊する」「仲間の強者をむごたらしく殺す」という「強さの結果」によって表現されている。モブキャラクタや時にはメインキャラクタさえも無残に臓物をまきちらして死んでいくその緊張感ときたら。

 人体は飛び散り、弾け飛び、、中身がこんにちわして、死体はそこらじゅうに転がって、最後敵はぐちゃぐちゃになる。息絶える前にゲームクリアすれば身体も再生されるというルールがあるおかげで、人体がこうも盛大に破壊される場面を見ることができる漫画もそうそうないであろう。別にそれは痛快というわけではないし、爽快でもないと思いたいのだが、さまざまな感情を想起させる。死ぬかもしれない、という感覚、その恐怖感は表現から十全に伝わってきて、人間たちの突飛な行動、突飛な言動、デスゲームへ陥っていく人間たちへの確かな共感となる。

 主人公たちがいかに魅力的であろうが、敵がしょぼかったら戦いも盛り上がらない。誰しもの記憶にがっつりと根を下すねぎ星人のインパクト、デカすぎる千手観音、恐竜! 言葉の通じないモンスターから言葉の通じる理性ある脅威まで、あらゆる側面から魅力的な敵を描いてきたのがGANTZだ。そして対峙するのは我らが人類。一度死んだ人間たちが特殊なデスゲームに放り込まれ、生き返りたかったり、誰かを生き返らせたければこのむごいゲームで戦果を稼がねばならない。

 モンスターハンターしかり、オンラインゲームしかり、強いヤツ、多い敵、謎解きでもいい──巨大な難関にみんなでとびかってぎりぎりの戦いをする。それがどれだけ面白いか、体験したことのある人はみな理解していることだろう。GANTZはまさにそれだ。「すげえ強い敵!」「個性的な仲間!」「命がけのたこ殴り!」彼ら彼女らが使う武器も最初はよくわからない銃、剣からはじまって、次第に謎の超能力使いやら武道使い、はては特殊アイテムとしてのパワー度スーツや透明スーツ、巨大ロボットに飛行ユニットが集まってくる楽しさよ。

 武道家が敵を謎の型でぶっ飛ばし、はめ殺し、殴り合い、一発喰らえば即死亡の打撃を掻い潜りながら技を当てていく快感!

 突如現れた謎の超能力者! もちろん能力にはリスクがあって自身の身体をぼろぼろにしながら敵を粉砕する、一撃必殺的なこの快感!
 敵であふれた道のりをロボットで縦横無尽に踏破していく圧倒的な暴力!
 巷で大人気のアイドルで主人公にベタボレな役得!
 デカい敵! 強い敵! もろい人類! 飛び散れ内臓! はじけ飛べ人体!
 鳴呼、血沸き肉躍る宇宙ゥウウ!

 忘れちゃいけないのがエロだ。死に瀕した時、まだ若い(おじさんもいるが)彼ら彼女らが何を思うか。愛する人でありやりのこしたことであり……そしてなんといっても性欲ではなかろうか。死が明確に性を意識させるのは、それが繁殖による不死と結びついているからだろう。性と死が明確に直結しているそのわかりやすさ! みなそれぞれの思いで死を前にして性を発散させていて、それは時に生き残る理由になり、時には死ぬ理由となる。

 ……と興奮しすぎるぐらいに興奮しているだけで、あっという間に読める。37巻もあるので多少ためらってしまうところもあるだろうが、実際はド迫力の絵、戦闘の描写をいかに表現するかにページのほとんどが充てられているからだ。人体が破壊されるだけではなく、見慣れた東京の風景、大阪の風景、果ては世界にまで飛び火して、世界がぶっ壊れていくさまは壮観だ。なぜこれほどまでに、街が壊れていく様に興奮してしまうのだろう。破壊の美学とでもいうべきか、物は壊れることによってその成り立ちを、最後に明らかにするのかもしれない。

 飽きずに楽しめる理由は、あらゆる面でスケールアップしていくことだ。それは敵がスケールアップしていくだけでなく、味方の戦力面しかり、最初に判明していた物語規模しかり、町の破壊頻度しかり、物語が進むにつれて「ああ、これは漫画版地球防衛軍だったんだ!」と誤解するぐらい、信じられない勢いで膨れ上がっていく。夢にまで見るシチュエーションを全部乗せでブチ込んで、それを表現しきってくれたそのことへの感動。あまりにもアホといえばアホ、信じられないようなシチュエーション、無理やりなプロットといえばそうだろう。それでも最後の戦いに赴く主人公、ラストバトルは、これが読めるんだったら多少の不整合なんかどうでもいいだろう!? という理不尽さをすべてねじ伏せて納得させてくれる力があった。

 終わってみれば37巻あっという間で、あー楽しいアトラクションだったなーと大満足して現実に帰っていく。それが僕にとってのGANTZだった。痛快明快娯楽活劇ゆえに細かいな部分はあまり期待してはいけない……と思いきやけっこうおもしろいところもある。ラストに向かうにつれ演出として使われるのが「2ちゃんねる」だ。常に起こっている事象を穿って批判的に見て、弱い方を叩き、マスコミに踊らされた無根拠な批判を繰り返し形勢逆転すれば急に前から味方だったようなフリをするクズどものように描かれていく。

 この露骨な嫌悪感にたいして、「ここまで悪く書くなんて、著者は2ちゃんねるやネットで叩かれすぎて病んでしまったのでは」と微妙な気分になって読んでいたのだが、。これはこれで徹底していて面白い表現になっていると思う。たとえば主人公の親父はマスコミが息子を叩いている時は息子をけなすクズ野郎的な側面が書かれた後、英雄として戦いに赴いている時は名前を叫び応援してみせる。最後の場面はいっけん感動的なのだが、しかし親父はその前に息子を、マスコミに都合のいいように踊らされて悪しざまにののしっているわけであって、これは「ほらね、父親であっても人間なんてこんなふうにすぐに意見を反転させるクズなんだよ」と嫌な気分になる。

 2ちゃんねるの反応もラストバトルに赴く主人公に対してこれまでの叩きムード、完全なあきらめムードから一転、応援するような論調が増えていく。最終的に行き着いた場面だけ切り取ってみれば「人類の命運をかけて戦う主人公と、それを応援する無数の普通の人々」という構図になるが、いくらいい話風の演出でしめられても、それまで家族も2ちゃんねるも友達も、悪意をもって接していた状況を明確に書いている。

 主人公周りの人間関係、ネット上の反応はすべて「社会とはこんな風に単純に立場が変われば意見を180度反転させるようなクズだらけ」「自分の都合のいいように相手への態度を変えるのが人間」であって、このような視点でみるとなんとも皮肉の聞いた毒々しいお話に一転してしまう。そんなクズまみれの世の中だけど、極まれに他人の為に動くことの出居る「本当のヒーローがいる」、欲望と諦観にまみれた人類のクズさを描いてきたからこそ、そうした「一握りのヒーロ」が強く輝くのかもしれないと、最後まで読み終えたときに思ったよ。

星のポン子と豆腐屋れい子 (アフタヌーンKC) by トニーたけざき

 一巻完結物の漫画としては非常によくまとまっているお話で絵的にも大満足な一冊。静と動、爽やかさとエグさへの運動が激しく、それでいてとても表現的に丁寧に積み上げていくので楽しい一冊。

 ジャンルとしてはSFになるのだろう。セールスウーマンを名乗る可愛らしい小動物系の異星人が子供の姉弟の前に突然やってくる。セールスウーマンというのだから物を売るのだ。現在科学を超越した技術力で「なんでも複製できる装置」と引き換えに異星人が姉弟に要求したものは「お手持ちの不要なハヒセ」であるという。

 ハヒセはそのあたりにありふれているものだと言われてすっかりその気になってしまった姉弟はその提案を受け入れてしまうが──。無知に付け込み都合の悪いことは隠して話を進めていくのは営業の常套パターンだ。かわいらしく、愛らしかった異星人は突如としてその本性を表し、一家は悲惨な事態に巻き込まれていく。貧乏だが幸せだった家庭から一転金はあるが不幸な家庭へ、そして転落した家族の恨みを晴らすため豆腐屋れい子は自分たち家族を陥れた異星人を探す復讐の行程をはじめるのであった。

 幸せな子供時代を過ごしていたはずのれい子の転落の描写は非常に丁寧かつ落差が激しくて惹きつけられる。一気に時間は5年間飛び、退廃的な生活を送るれい子が描かれるのだが、その絵的な表現が凄いのだ。さっきまで純粋無垢な少女だったれい子がゴミだらけで物が地面を埋め尽くしている真っ暗な部屋の中、ヘッドフォンをしてネットを見ながらペットボトルに自分の小便をジョボボボと流している絵のインパクトときたら!

 目つきは悪く生気も感じられないが5年を経て美少女に成長したれい子。無気力そのもので退廃的な生活をおくり、ようやく見つけた仇の異星人打倒のために金と自分の身体を売るところまで落ち込んでいっている。一方その頃異星人の方も人間の闇の部分へ落ち込んでおり──と、人間の闇へようこそツアーのように一巻の中でこれでもかとどん底を表現してみせる。

 暗い部分を表現することで出てくるのはリアリズムというよりかは、「物事はそうそううまくいかないし、うまくいったと思ってもその結果が望ましいものであることの保証なんてどこにもないんだ」という嫌な法則だ。よかれと思ってやったことがどんどん裏目に出るし、なんだかいやな方向へと現実が進み続ける。それは異星人すらも例外ではなく最終的にはお互いの妥協点の探りあい。でもだからこそ見出だせる結末もある。

 絵の表現としては退廃的な美少女が素晴らしい。死んだような目、人をなめくさった態度、もうなにもかもどうでもいいやというだらしなさが素敵だ。爽やかにはじまりエグく中継し再度爽やかな方面に振りきれていく、言葉にしてしまうと簡単なようだが、それらを説得力以上の物を持って丁寧に絵とストーリーに落としこんでいくのは並大抵のことではない。特別なところはないが、実にしっくりとくる漫画であった。

たぶん惑星(REXコミックス) by 粟岳高弘

 表紙に描かれた海と空、そして潔いスク水の清々しさに惹かれただけで、全く何の期待もせずに読み始めたらこれがまためっぽう面白かった。『たぶん惑星』は粟岳高弘による漫画作品(Wikipedia的な始まり方だな)。同人作品がたくさんKindleストアにあがっているが表紙のスク水率が半端ない。実際中身もやたらと肌の露出が高く、なにかと理由をつけてスク水になりほぼ全裸の腰ミノ姿になりと制服を着ている方が珍しいぐらいなのだが、単なる女子高生のお色気漫画なのかといえばそうではない。

 露出がやたらと多くスク水を着てエロい恰好をする女子高生が出てくるという特徴以外を述べていくとなると、欄外にまで書き込まれていく世界設定がまずあげられるだろう。昭和64年夏に、とある惑星(行政区分上は日本国静岡県小笠市)に引っ越してきた少女が主軸となって物語は進む。明治35年に着工された東海道本線牧之原第弐式隧道の金谷川560mにて発生した原因不明の吸気現象が観測され──まあこれが恒星間ゲートであり太陽系外惑星へとつながっていてそこが本作の舞台になる。

 越してきた少女も叔父の研究にともなってであり、物語開始昭和65年の時点では人が入植し住めるようになっている。太陽系外惑星らしくもちもちという謎の原生生物(知性が感じられる)がいたり、人類文明に存在しない高度な機能を持つ数々のアイテムを創りあげた建造者がいたり(ほとんど出てこない)「見る人」という謎の異星人がいたりする。その変てこな惑星でのゆるやかな生活を描いていきながら惑星の謎が明らかになったりならなかったりしていくのが主なあらすじ。

 恒星間ゲートなど理屈がわからず「ただそういうものです」という設定もあるが、大気中の窒素と反応して格子構造を形成し発泡建材を生成するなどと謎に詳細な説明がされる特殊アイテムがあったり、NASA開発の無人観測機が出てきたり、電脳戦までやってのける、妙なところでリアリティを発揮してくる設定が腰ミノやスク水ばかり着ている女の子とのアンマッチさで特殊としかいいようがない雰囲気を出している。

 斥力のコントロール装置など、漫画的に面白いアイテムも出てくる。たとえば2巻の表紙は斥力により重力方向が変わってしまっている図であり、こういう視点がまるきり入れ替わってしまうような絵の表現は漫画ならでは、SFだからこそできることだ。そして人類入植の歴史、この謎惑星へのトンネルが日本からのみではなく米国トンネルなどがあることや、人類の何倍も進んだテクノロジーを持った建造者の設定が開示されるところまで話が進んでいくにつれて、単に雰囲気だけ異世界っぽくつくりあげたほんわかSFものではなくなんだかもっと異質な何かだこれ、と気がつくことになる。

「たぶん惑星」の「たぶん」が実際に意味を持っていると判明する箇所などSFが的にポイントが高い。登場人物の会話だけでフォローされない部分はコマの欄外で解説が行われるが、この欄外解説があると正しくSF漫画している感が出てくるよね。某機動隊みたいに。あそこまでいくといきすぎかもしれないが。

懐かしいアイテム

 また時代がなぜか昭和64年とだいぶ昔に設定されていて、人類文化圏のアイテムがみな古くてその解説もまた面白い。1970年代にはやったBCLラジオを筆頭にPC-988が主役として鎮座していたり、海のトリトン(作中ではウニのトリトン)が再放送で夏にやっているなどなど懐かしい人がみたら「うわあ懐かしい!」と声をあげてしまいそうなアイテムで溢れている。当然携帯などない。南国を思わせる不思議惑星にレトロなアイテムと装い(ほぼスク水が腰ミノ)が相まって独特すぎる世界観を表現している。

 恐らく大ヒットすることはないであろう随分なニッチ狙い。何しろスク水に昭和64年にSFですからね、誰が得するんだこの組み合わせというようなマイナな狙いですが、独特な雰囲気が味わいたいのならば是非。今なら1巻がKindle版で280円、2巻が400円と二冊買っても一冊分の値段で済んでしまう。

たぶん惑星(1) (REXコミックス)

たぶん惑星(1) (REXコミックス)

あかねこの悪魔 by 竹本泉

 ゆるゆる。ほのぼの。読書好きが図書館に入り浸って本の世界に入り込んで本浸りのシリーズ。とても心地よい。

 六巻で完結。なんと第45回星雲賞候補参考作。かといってばりばりのSFかといえばそんなこともなく、ごくごくゆる〜いファンタジーというのが実態。本が好きでメガネで地味めな女の子と絵的にはわりとかっこいいがなんだかほわほわしている男の子が入学し、卒業していくまで物語。赤猫の悪魔により、妙な本ばかり集まる高校の第二図書館で本のつじつまをあわなくさせてしまう紙魚を、本の世界に入って排除する仕事を契約してさせられるようになる。

 排除するといっても別に襲いかかってくるわけでも探す時にドラマがあるわけでもない。入ると速い時には1コマで片付いてしまうし、長い時でも一話あれば終わってしまう。紙魚紙魚という名前の癖に魚ではなく猫の形をしているから「あ、いた。てやっ」という感じで簡単に取得できてしまう。ねこねこかわいい。ゆるゆるとたくさん出てくる架空の本のあらすじを楽しんだり、架空の本の内容に合わせて女の子がするコスプレを楽しんだりするお話、というのが一番ぴったりくる。

 ノーストレスゆるゆる本だ。SF的には充分につじつまのあったお話はその時点で存在をはじめるだとか、紙魚によって本の内容が書き換わってしまうといった設定がおもしろいし、若干メタ的な要素も出てくるけれど、まあそこまで重要なわけでもない。現実に存在している本に入っていく内容だったらそれはそれで面白そうだと思ったけれども、「つじつまの合わない本」の中は世界が存在せず書き割りとしてしか存在できないとか喧嘩売りまくりの内容なのでちょっと厳しいか。

 図書館でだらだらと過ごすところとか、出てくる人達がみな本好きで一分の隙もなく本を読んでいるところとか、いろんな図書館が出てくるところとか、ドラマ的な部分ではなく心情や環境にたいしての魅力が大きい。もちろん架空のお話の中に入り込んでいくのは「あはは、こんな話ないだろ」みたいなものから「ちょっとよんでみたいかも」というものまで様々で、たのしい。

 そのうちキャラクタも増えていくがみなのほほんとしていて心地よい。恋愛もべたべたに進行するのではなく、ほんのちょっとずつ進行し地味めな女の子の魅力が描かれていくほのぼの進行なので好みだ。恋愛て少しでも配分を誤ると威力がデカ過ぎて本筋が引っ張られてしまうからあんまり好きじゃないんだよね、個人的に。設定的にいくらでも続けられそうなお話だがほぼリアルタイム進行で3年で卒業。

 うーん、しかし、いいなあ、本の世界に入れるのは。仕事でいいから入りたいものだ。実際に入り込んだらなんだか恐ろしいことが起こりそうではあるけれども。本シリーズ、入り込んでくのはミステリばっかりなんだけど、自分が殺されちゃったりしたらどうなっちゃうんだろう。とまあなんだかいろいろ想像が広がっていくお話なのだ。ゆるゆると楽しみたい方はどうぞ。六巻でまとまっているしちょうどよい。

ハックス! by 今井哲也

このブログでは10巻以内の漫画、できれば5巻以内に完結している漫画を対象にしてレビューを書いているが(なぜならそれぐらいにまとまっている漫画が好きだからだ)この『ハックス!』は4巻なので個人的にベストなまとまりぐあい。のちに『ぼくらのよあけ』や『アリスと蔵六』と次々傑作を書いていく今井哲也さんの初連載作。後の傑作に比べると絵でも構成でも粗さが見えてしまうけれども、それでも充分に魅力的な内容だ。

ストーリー的には高校のアニメ制作をド素人からはじめてハマっていく過程を書いたのがこの『ハックス!』で、ド素人ながらもアニメをつくるって実際どうすればいいのかを地道に描写していて、物を創りあげていく楽しさに溢れている。この「作り上げていく上で実際具体的な作業として何をどうすればいいのか」って、マンガや小説ならともかく、アニメぐらいの集団制作物になると、素人だとわからないものだ。

「絵をいっぱい描いてそれを撮影して動画にしているんでしょう?」とそれぐらいは想像できたとしても、じゃあどうやって線をテレビ放映に耐えうる物にして誰が色を塗って撮影ってどうやるんだろうと想像をつめようとしてもよくわからなくなってしまう。色ってどうやって塗るんだろう、監督って何をしてるんだろう、動きってどうやってつけるんだろう……。

ド素人のアニメーション研究部員たちだが機材だけは過去の遺産でちゃんとしたものが揃っていて、試行錯誤しながらもアニメーションを創りあげていく。その過程が実に丁寧に描かれるのでアニメの出来上がり方もわかるようになっている。美術を下に固定して、上のセルだけ順番に交換して撮影を行っていく……アフレコのやり方、などなど。そうしたアニメの製作過程をおっていくだけでも随分と面白いものになっていると思う。

年代的にちょうど良かったのがすでにニコニコ動画が登場していたことだろう。素人クリエイターが作品を発表して、再生数やコメント数という形で人様に提供して反応を得ることができる環境がすでに整っているというのは、今では当たり前のことになったけれどもやっぱりとんでもないことだよなあ。もしニコニコ動画がなかったらド素人たちが段々と作品を創りあげて、人の評価を得て創ることの楽しさにのめりこんでいく──という、作品コンセプトがそもそも成立していなかっただろう。

最初は一人の熱意で始まったものが、段々とその熱意が全体へ普及し……最終的には自主制作アニメを文化祭で上映することが目標になって──とざっくりとしたお話としてはその程度のシンプルなものだ。これは『ぼくらのよさけ』でもより洗練されていく方向性だけど、今井哲也漫画はプロットはシンプルでも、今井哲也さんの描くキャラクタの心情の変化はみな丁寧で、その丁寧さのみをとりあげても特徴として抜きん出ているために作品として成立している

たとえば本作でいえば肝といえるのは「物を創りあげていくことの楽しさ」にある。物を創りあげていく過程での楽しさはいくらでもあるだろうが、たとえば最初に創りあげたものが初めて動き出した時、創りあげたものが人に届いた時、感想が集まりだした時、周囲の目が変わりだした時……その時々の小さな一歩、だけども大きな喜びが、丹念に描き出されていく。そういうのって「楽しかった」とだけ書いて伝わるようなものでもないんだよね。

もっと疲れきった時の身体が脱力していくような感覚とか、思いがけない言葉がふってきたときのなんともいえないような気持ちだったり、アニメで自分の作った絵に声が吹き込まれていくところであったり、思いがけない反応が帰ってきたり、段々と出来上がっていく作品、予想外のことが起こっていく過程、「楽しかった」では表現しきれない、うまく言葉にできない感情ががつみあがっていく感覚の描写が見事なのだ。

そのことを象徴するように『ハックス!』で主軸として描かれる、高校ではじめてアニメーション制作に出会いのめりこんでいく阿佐実みよしは自分の考えていること、感じていることを言葉にすることがうまくできない。「なんかどきどきしたんだよ もうなんか なんだろう? なんかすごいうずうずなってさ」という風に。でもそのよくわからないエネルギーをそのままアニメーション制作に転嫁させて自身の駆動力とさせていく。

ものすごい行動力を持った人というのがこの世にいて、そうい人の周りにいるのは凄く楽しい半面、ついていけないことが悲しくなったりもする。明らかにこの人の速度にはついていけない、この行動力についていくことができない、才能が全然違うんだ、とある面での自分の能力のなさがより際立ってしまうからだ。本作で書かれるみよしは、うまく言葉で感覚を言葉にできない反面まさにその天性の行動力タイプで、人を巻き添えにして突き進んでいくが、うまくいくことばかりではない。

集団制作には様々なモチベーションを持った人間が関わるからだ。先陣を切っていくことに喜びを見出すもの、アシスタントに徹することに喜びを見出すもの、自分からの行動力はないが、求められればその能力を発揮するもの、目標が見つけられずに足を引っ張ってしまうもの、そもそもそこまでの熱量を見出だせないもの……四巻の物語によくもそこまでの多彩なキャラクタを埋め込んだものだと思うように、エネルギー量と使いみちが違う人達が出てくる。

アニメーション制作が大抵の場合たったひとりの天才で作られているわけではなく、集団を必要とするものであるように(新海誠さんなんかが出てきて、例外ではなくなっているが)本作はそうした集団制作上の不和までもを書いているのが面白いところだ。コミュニケーション上の不具合がどうしても起こってしまう人間関係の描き方についても、次作以降でより洗練されていくものとなるのだが──、それはまた別のお話。ぼくらのよあけ - 基本読書

最高傑作というわけでもないが、「楽しいことだけ考えたらいいんですよ」「大変ですけどそれでアニメはうんと楽しくなります」という本作で書かれるメンターからの台詞がそのまま著者の心境にシンクロしているようで、「ああ、本当に楽しんで漫画を書いているんだろうな」と思える良い作品だ。今井哲也さんのTwitterをみると本当に楽しそうにアニメをみているからな!今井哲也 (imaitetsuya)さんはTwitterを使っています

ハックス!(1) (アフタヌーンKC)

ハックス!(1) (アフタヌーンKC)

ハックス!(2) (アフタヌーンKC)

ハックス!(2) (アフタヌーンKC)

ハックス!(3) (アフタヌーンKC)

ハックス!(3) (アフタヌーンKC)

ハックス!(4) <完> (アフタヌーンKC)

ハックス!(4) <完> (アフタヌーンKC)

作家を救う電子書籍という活路『ナナのリテラシー』 by 鈴木みそ

電子書籍漫画。

背景真っ白、もしくは線だらけ。顔ドアップの連続でコスト削減極まりない。電子書籍出版で鈴木みそさんの実体験をベースにした漫画でさくさくと話を展開させていくので普通のストーリー漫画と同じ軸で評価するものでもない。まず本書では現状確認から始まる。

電子書籍が売れないのは少しでもこの媒体に興味がある人にはわかっていることだと思うが、はじめて知った人は驚くだろう。一部の名が売れた有名作家こそある程度は売れるだろうが(それでも紙の本と比べればせいぜい5%ぐらいだと思う)それ以外だと2円だとか3円とか。要するに殆ど売れない。

過去に出版されたものを電子書籍化したって売れないし、新たに出たものを出しても宣伝をかけなきゃ誰も出たことにすら気が付かない。棚に刺さっているわけではないのだから検索しないと出てこないし、殆どの人は検索してまで電子書籍で買わないからだ。

そんな熱意のある人間ならとっくに紙の本で買ってる。読書をする人間の数がもともと少ないのに、そのうちさらに電子書籍なんてものに手をだす酔狂な人間はさらに少ない。iPhoneAndroidがあればKindleで本が買えることすらしらない人がほとんどだ。つまるところ、電子書籍は現状「売れるはずがない」のだ。

さて、現状の把握のためにいくつか数字が続く。現在プロの漫画家の数は推定でしか出せないが漫画雑誌が現在251誌。1つの雑誌で20人の漫画家を使っているとすると250誌で5千人。複数の雑誌で書いている人間が数%、連載を控えた予備軍、待機状態の漫画家を現役の半分として7千人から1万人。これが推定で出される漫画家の数になる。

食べれるレベルで売れているのがトップ1000人、トップ100人がめちゃくちゃ売れているとしよう。本屋はどんどん潰れている。新刊は日々増え続け今では漫画だけでも日に30冊は出る(年間12000冊)、売れている漫画は本屋に残り続け棚に残り続けるから必然売れないトップ100人以外の漫画が棚から削られていくことになる。

そういえば本書は別にノンフィクションマンガでもなく、フィクションなのでストーリーがある。女子高生の女の子が職場体験ということで映像を一瞬で記憶してしまう記憶能力を持った一人の天才男の職場に転がり込んでくる。その男は言葉巧みに鈴木みそ吉という漫画家にたいして現在の出版状況をめぐった絶望的な状況を解説し、今まで出版社の用意した船に載っていただけの状態から自分で舵をとる本当の意味での事業主に転換していかなければいけないと諭す。

その為の手法がなんとも心もとないが2つあって、1つはクラウドファンディング、1つがKindleのセルフ出版だ。この話が説得力をある程度持つのは書いている鈴木みそさんが今非常に「売れている」電子書籍著者だからだ。先日も2013年の電子書籍収支という記事をあげていたが⇒2013年電子書籍の収支 - CHINGE これほどまでに電子書籍で稼いでいる「ニッチ向け作家」は他にいないだろうという額。

凄まじいことに売上が1千万を超えている。もちろんこれは今までの蓄積を電子書籍にして出したり、値段を変えたり、セールにのっかったりと様々な要素が組み合わさっての結果だが、電子書籍でもこれだけやれるというひとつの(奇跡的な、かもしれないが)一例である。

紹介されているもう一つの方法はクラウドファンディングだ。希少価値をつけて金持ちに高く売る。100万円で10人に売っても100円で10万人に売っても得られる金額は同じだ。クラウドファンディングパトロンをインターネットで募集する。たとえばJコミでは活発に行われているこのクラウドファンディング★ Jコミの新型ビジネスモデル、「JコミFANディング」 のβテストを行います! 【初回目標額は10万円】 - (株)Jコミの中の人 だがサイン入り色紙や、または「高いかねで買ってくれた人に飲み会の招待券がついてくる」権利などで「普通に漫画を買うよりも高い金をファンから徴収する」仕組みだ。もちろん一定のファンがいる人にしかつかえない手段だが。

コンテンツの値段は実を言えば「際限なく高い値段をつける」こともできる。なぜなら、著者がつくりだす作品は別の人につくりだすことができないからだ。たとえば僕は秋山瑞人が書いた長編が1万円出さなければ絶対に読めない、となっても喜んで金を出す。秋山瑞人のような文章と物語を書ける人間は他にいないからだ。著者はいってみれば「独占供給者」なのである。実力があれば、そしてそれだけのオリジナリティと魅力を兼ね揃えていれば……という条件付きではあるが。

話はここから出版社から権利を取り戻して──という独立戦争の様相をていしてくる。出版社におんぶにだっこな状態から一人で戦う戦士になるのだ、って煽り過ぎだが。僕は正直な話鈴木みそさんの件は「真っ先にプロ作家が本気でやった例」として例外的にうまくいったケースであり後に続いても、成功例を模倣しても、このレベルで売れることはもうないんじゃないかなあ。というのも電子書籍市場で目立つ方法は実に限られているからだ。

1.もとより有名であること
2.ランキングにのること
3.日々のおすすめや値下げで特権的な地位にのせてもらうこと

これぐらいしかない。もとより有名であることはいうまでもない。ワンピースなら宣伝しなくても勝手に売れる。でもその地位にある人たちは極少ない。メインの発表媒体である雑誌の売上は年々下がっている。今後どんどんなくなっていくだろう。そうすると紙媒体での宣伝すら不可能になってくる。それ以外だともうネットのレビューサイトで取り上げてもらう他ない。3の日々のオススメ機能などはAmazonのショップで毎日、毎月の単位でやっていることだがこんなランダム性の強い要素に賭けられるはずもない。

2のランキングにのること。これが現状売上を大いに押し上げる要因になっている。電子書籍が「無限に広がる可能性を持った書棚」を持っていても、問題は「画面上に表示できるスペースは限られている」ということだ。読者は本屋をまわるようにして視覚的にいっぺんに本の情報を得ることは不可能なので。AmazonKindleトップページをみてみるとすぐにわかるけれども、ところ狭しと本の表紙を載せているが、その数の貧弱さ、スペースの貧弱さは悲しいぐらいだ⇒Amazon.co.jp: Kindleストア

中でも目立つのは日々変動をみせる「ランキング」。このランキングこそが「スペースの少ない」Web媒体で人に価値を知らせる最有力な手段になっている。Pixivでもニコニコ動画でもみてみると、「ランキング」形式ばっかりだ。ランキングを制するものがインターネット媒体でのview数を制す、というか判断基準がそれぐらいしかないからだろう。ランキングを毎日みていると1.値下げされたものがランキングに上がってくる。2.人気作家の新刊がランキングに上がってくる のが基本だ。

問題はランキングの枠がトップで表示される分については10個しかないところで、しかも人気作家の作品であればあるほど最近は発売と同時にKindle化されるので「枠の奪い合いが熾烈化」しているところだと思う。値下げすれば売れることも既に誰もが理解しているだろうから値下げを単純にすればいいというものでもない。ランキングを使って目立つのが、いくらニッチに的を絞ったところでどんどん難しくなるのではなかろうか。

この漫画ではその後出版社の再生プランとして社員を大幅削減、過去作やアーカイブを管理する所として残し、今までは受けてこなかった漫画以外の仕事、チラシや看板を描くことや大学を退官間近の先生の自伝本をマンガで描きおろすといったニッチな方向へと舵をきって「絵が書ける人間との大量のつながりがある」という残った利点を最大限活用した「絵が賭ける人材融通会社」として生き残っていく方法を提案していく。

実際マンガが売れなくなった、本が売れなくなったと言っても出版社が他の企業には持っていない価値を持っているとしたらそれは多数の作家との「コネクション」を持っているということだ。今後はこのコネクションを最大限活用していくしか道はない、というのは凄く合理的な考え方。でもこんなことはもう何年も前からわかりきっていたことで(電子書籍がくることも)森博嗣さんなんかは2000年代以前よりこのことを指摘している。

いろいろな条件が揃わなければ鈴木みそさんのようにニッチ作家が一千万円超えの純利益を叩きだすのは厳しいと思う。しかしたとえ生活していくだけの賃金を稼げないとしても、電子書籍出版というのはひとつの手段だ。僕も電子書籍を出してみようか、と思って今Amazonに申請中だが、ずいぶん簡単にできた。つまり簡単に一人出版社になれるわけで、「生活できないからやらない」とかそういう次元の話では既になくなっている。

世界はたくさんのみんなでできているんだよ『成恵の世界』 by 丸川トモヒロ

1999年から連載が始まり、2013年2月号でついに連載が完了した。全13巻である。ぎりぎりになってしまったが、完結年に紹介できてよかった。素晴らしい青春SF活劇コメディであり、13年の時の流れを経て、なお古びれることのない傑作漫画だった。もしあなたが最近の漫画は長すぎて終わらねえ、まとまった良作はないのかと眺めているのならばこれを読まない手はない。青春日常物の、ほんわかした雰囲気を保ちつつもハードなSFと両立をさせている技の冴えは、他に並ぶものがない。僕も別に漫画をすべて網羅しているわけではないので断言できるわけではないのだが。

セリフ回しからキャラクタの構築まで一級の構成であり、一コマの情報量は回を追うごとに増していく。SF設定のハードさについてはあとで書こう。星船とよばれる宇宙船がコマを占める様などみていてふるえるほど素晴らしい。それだけなら「SFとしてすごいってこと?」となりそうだが、日常物としてキャラクタの立て方や表情、日常の何気ない描写があとあと大きな枠の中に回収されていくところなど、日常物としても緻密な出来をほこっているところが日常とSFを奇跡的に両立させている。

艦隊これくしょんで一気に戦艦などの擬人化が注目を浴びたが、宇宙船やら戦艦の擬人化がこれでもかと盛り込まれていて(艦船のタイプによって擬人化した時の年齢が変わるなども設定が共通している)メカメカしさと美少女の両立がいたるところでみられる。

いやあ、とにかく素晴らしい作品なんですな。えっとどこから説明したものかといったところだけど。まずタイトルになっている成恵というヒロインの造形が素晴らしいという話から始めようか。元ネタは『非Aの世界』原題”The World of Null-A”からとられているようだが、彼女は実は! 宇宙人なのだ。主人公である中学生:和人くんはひょんなことから彼女と出会い、あっという間に一目惚れして告白して付き合うことになるのだが、彼女のエキセントリックな行動にガシガシ巻き込まれていく。

とはいっても彼女はハルヒのような突き抜けて気が狂ったようなタイプではなく、普通の女の子、ただしちょっと変で活動的、ぐらいの塩梅が非常にいい具合。女性的な、といったジェンダー的な役割から外れた所にいて、バットで叩くのが大得意という活発さだ。女性は守られ、男性は戦って、なんて観念はとっくにライトノベルの氾濫で失われているが、精神的な意味では男が優位に立っている物語が多い。つまるところ武力を与えるだけ与えてめくらまししているわけだ。

本作は依存というわけでもなく、お互いがお互いに補完しあっている。精神的な意味でも成恵は和人をひっぱっていくし、和人は和人で彼にしか気が付かない視点だったり、彼なりの努力だったりで、暴走気味な成恵のいいアンカーとして機能しているように見える。まあようはベストカップルということだ。

日常物としての側面

しかし一話目で付き合ってしまう、というのもラブコメだとあまりないタイプではないかなあ。僕が知っている中でもハサミの漫画やソードアート・オンライン、化物語なんかは一巻目で付き合うタイプの物語なので皆無ではないが。『成恵の世界』では、一話目で付き合い始めてから、その後浮気やら破局やら三角関係やらが特別な議題にあがることもなく、かといって多少の喧嘩は含みつつも、この二人はずっとバカップルとしての役割を果たしていく。ハリウッドのシリーズ物だとありがちなエピソードが積み重なる度に「別れ」がきて「よりを戻す」のではなく「どんどんお互いに惚れ合っていく」というクソバカップル物として珠玉の出来である。

年齢が中学生であるのも譲れないポイントだったろう。バカップル化しつづけていくのに普通であれば性が避けて通れないが、中学生ならぎりぎり本人たちの倫理観なるものでとめることができる。妊娠しちゃうと別ジャンルの漫画になっちゃうからな! また、一話目で付きあわせてしまうことは、主人公たちの関係性は揺るぎないものとしてあるために、入念に周囲の人間関係を描写できるという利点があるのだと思う。

入念に描かれていく周りに存在する人たちはみな優しく、それぞれにクセがあり、主人公とヒロインとの関係性は申し分ない(どんどんバカップル化していく)。サブキャラクターをこれだけ丹念に書き込んでいった漫画って、ちょっとこれを超えるものは僕の中からは出てこないなあ。最終的にはサブキャラクターも膨大な数になってくるのだが、その一人一人が愛おしくなっている。よく言われる「日常漫画」の主要キャラクタ数人で回される日常とは違って、本当の意味での日常とは周囲に存在する個々の人間の行動の集積である。

だからこそ周囲の人々との関係性を丹念に書いていった結果、本作は1999年からの作品とは思えないほど「日常物」としての幅の広さと深さを獲得していったのだと思う。これは考えてみれば『よつばと!』の方向性に近いかな。ジュブナイルSFなので当然ながら、内実としては別物なのでよつばと路線を期待されてもまったく答えられないが。ジュブナイル物の目的のひとつは、身も蓋もないことをいってしまえば読者を理想の青春時代に連れて行こう、ということだ。日常においてこれほどまでに理想的な学生生活を書いた作品は、ないぐらい僕には眩しかった。

そしてこの日常感覚は実はSF部分とも接続されている。『世界はたくさんのみんなでできているんだよ』と記事のタイトルにつけたが、これは第12巻からの引用。日常を推し進めた結果としての大量のサブキャラクター、そして並行世界物としてとらえたときに存在する「無限の可能性」としての「たくさんのみんな」。つまり「世界」とはあらゆる並行世界の人々を含めたものなのだ。日常ものとSFの両立が、テーマからプロットのレベルまで浸透して完全に融け合っているのがまた素晴らしいところだ。

最後に書いておきたいこととして、会話がドレも凄いのだが、これは言語化できない。なんてことのない場面での会話構築さえも凄いのだ。たとえばこんな感じ。A『くだらない星でつまらない仕事 宅配便にくらがえ?』B『傭兵団のモットーを忘れた? 金と依頼に貴賎なし』とか、海の家での『不味いヤキソバと高いかき氷どっちがいい?』のようなナチュラルに毒を吐くような、台詞のテンポが良かったり、キャラクタの性格などの表現が毎度ガシガシ織り込まれているから情報量が多いのだなあ。

SFとしての側面

わりと規模のでかい話になる。いくつもの世界、いくつもの種族が描かれていく。その中で根っこになるSFの大ネタは説得力があって良い。どんなに先進的なな科学技術があったとしても、それを使う個々の人間がろくでなしのクソ外道しかいなければ方向性を違えるように、個々の人間が個々の世界を平和に保っていくことこそが最終的に人類全体の方向性を決定づけていく。だからこそ本作は日常を書いた。この作品の素晴らしさって、そのハードなSF設定と日常の雰囲気が途切れることなくシームレスに繋がっている所に本質があるのだと思う。

このシリーズの前半はほぼ他愛もない日常なのだが、実際にはそこには常に影がつきまとっている。宇宙人ってどういうこと? いったいどんな世界が地球の外に構築されているわけ? たまに襲われるけど理由は? 和人と成恵の世界がとても優しくて幸せそうに見えてくればくるほど、それが終わるかもしれないことを想像し、不安が大きくなってくる。繰り返される夏、何度も起こるパラレルワールドへのタイムトラベル、そうした「直接的には明示されない謎」が物語後半にいたってSFとして大きな意味を持っていくことになる。本当の意味で安心するためには、不確定に自分たちの日常を破壊する可能性がある要素について、無自覚なままではいられないからだ。

SF的な大ネタはいくつかあってひとつはパラレルワールドネタ。これ自体はSF設定としては「ありふれている」といっていいぐらいのものだけど、本作の場合扱いが独特だ。何百光年も旅して別の惑星にいくより、近くのパラレルワールド、といったような感じで、並行世界間の行き来が一般化した世界なのだ。いくつもの分岐世界があり、その結節点というか、中心点として地球がある世界になっている。並行世界同士が自然に行き来し、相互に影響しあっているような世界なので、「並行世界まで含めてぐっちゃんぐっちゃんになったひとつの世界である」という大前提がある。

終盤、ナチュラルに並行世界を行き来し自分たちのいる世界がいったいどの並行宇宙なのかわからなくなっていく感覚の描写や、並行宇宙間を負けが決まった世界からまだ負けが確定していない世界へとガンガン移動して勝利をつかもうと集まってくる描写なんか、SF的な想像力がぎゅんぎゅん刺激される。先ほどの『世界はたくさんのみんなでできているんだよ』もここでまた重要な意味をもってくる。並行宇宙がある、きっとさまざまな理由で世界は分岐していくのだろう。でもそうした無限の可能性を持つ世界のすべてが「成恵の世界」なのだ。

当然ながらそんなぐっちゃんぐっちゃんの世界なので相互に影響を与えまくる。文明レベルも違えば価値観もルールも違うのだ。そのぐっちゃんぐっちゃんの状況は「影響を与えるのはいいことなのか悪いことなのか」といったテーマや、「異種族間はわかりあえるのか」といったテーマにつながっていく。メインの異種族たる機族(あらゆる能力が人間より高いが、人型機械生命体である)と人間とのやりとりがぐっとくる。

もうひとつは人類史にわたる「種を存続させる仕組み」で、この大ネタには結構びっくりした。このシステムは種族が抵抗しそうになると並行宇宙間に穴を作ったりといった活動を通じて刺激を与えてくるのだが、最初に成立した当初つくったやつらはは「わお! このシステムすごくね!?」という感じで盛り上がったのだと思う。しかし何百年も時間がたち創設者がいなくなると誰も創作理由を覚えておらず、「え、え、なんでうちらこんな刺激を与えられないといけないわけ!?」とわけもわからずに攻撃を受けたみたいな状況になってしまう。

あまりに長いこと機能し続けるシステムを作り上げると、もうそもそも最初につくりあげた目的や仕様を誰も覚えていなくて右往左往するっていうなんかシステム開発の現場で今まさに起こっている泥沼を見せられたような感じがしてちょっと胃が痛かったりするが(本職がシステムエンジニアなのだ)、SFネタとして今まで見たことがなく、かつもっともらしい演出なのが凄い。いやあ、ちゃんと何十年も続くようなシステムを作ってしまったら、初期の設計理由とかの情報をちゃんと残しておかないとダメだよね、と思った。

だいぶ長くなってきてしまったが、割と流されがちな「サザエさん時空」にSF的な説明がついていたり、本作最大の謎である「なぜ一話でいきなりこの二人は付き合うようになったのか」というラブコメのお約束なところにまで理屈っぽく最終的に説明がつくところも素晴らしい。ネタ自体はまどか☆マギカとかぶっているところがあるが(因果の集中だったり)こっちのが構想としては先でしょう。

ガジェットのかっこよさ

あと9巻だったかな? ぐらいから巻末にSF設定資料がつくようになるのだけど、そこで描かれているSFガジェットたちがどれも燃える。全長一キロの飛行構造物とか文字面だけでも興奮するのにそういうのがばしばし出てくるんだもんなあ。マスをうめつくす宇宙戦艦の群れとかミサイルの群れとか、もうそういうの大好き。最近絵の練習を始めたことも会って無心で模写してしまうぐらいかっちょいい。日常物をやろうっていうノリとこうした機械愛が同居しているのが奇跡的だ。

まとめ

さあ、どうやってまとめたものか。ずいぶんたくさん書いたからもし読んだ人間がいるなら僕がどれぐらいこの作品が好きだったかだけは伝わったことだと思う。実際、それだけでもわかってもらえれば、いいんだけど。これは「世界を変える」物語ではない。日常が永遠に続いていく物語でもない。どんなものにでも終りがあるのだ、と。でも人が死んで、悲しかったりつらかったりしながらも続いていくものが日常なんだよねっと、銀河を揺るがすような闘争から日常に戻って行くまでの物語なのだ。

ひょっとしたら読んだ人はとちゅうであまりに設定がぐちゃぐちゃしてきてよくわからなくなってしまうかもしれない。終盤はかけあしで1ページあたりの情報量が増えるからだ。それでもきちんと読み通していくと、この世界が周到に構築されたものであって、同時に成恵や和人がとった選択と、考え方の意味がちゃんと飲み込んでいけると思う。スルメのような、というとあまりに使い古されたたとえだが、何度も読み返せる稀有な傑作だ。2013年は成恵の世界の年だった。

成恵の世界 (1) (角川コミックス・エース)

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成恵の世界 (13) (カドカワコミックス・エース)

成恵の世界 (13) (カドカワコミックス・エース)