基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

鈴木さんにも分かるネットの未来 (岩波新書) by 川上量生

これは凄く良かった。どこかが突出して良い、コンセプトがいいというよりかは全体的に満遍なく良い。スタジオジブリの「熱風」という一般には販売されていない雑誌に連載されていたもので、「鈴木敏夫さんでもわかるように」書かれているので僕の両親(50代半ばだから世代が違うが)にも渡せるような出来だ。内容としてはそういう前提があるから、「ニコニコ動画とはなにか」「ネット住民とは、リア充とはなにか」というような少しでもネットに触れている人なら「そんなの知っているよ」と思うようなところから流れを説明してくれる丁寧さがある。

鈴木さんにも分かるネットの未来 (岩波新書)

鈴木さんにも分かるネットの未来 (岩波新書)

いくらネットにどっぷり日常的に浸かっている人たちであったとしても、それぞれ得意分野であったり興味分野が異なっているものだから、一部分については詳しくても他の部分については殆ど何も知らないということが往々にしてある。本書はその溝を埋めるようにして広く、細かくおっていくように構成されている為、広く薦められる本になっているのではないかと思う。というわけで、インターネットといったものを見渡した時に、主要な論点をほぼほぼ解説し、未来はどうなるのかを予想という形で示していくのが本書の内容だ。

常日頃の川上さんの文章にならって本書はその内容は基本的に理屈立てて並べられている。理屈とは結論なり概論なりを導き出すために言語と意味上の筋道が通っていることだと仮にしておくが、間違いや異論があったとしても指摘しやすい(筋道がないと指摘もできない)。もっとも僕は本書の内容にほぼ異論はないんだけれども。平均的な日本人より各種の情報が入ってくる位置にいるから当然ともいえるが、やはり川上さん自身関わりあいの深いコンテンツとプラットフォームのあたりの内容は抜群に面白い。何より、当り障りのない「ネットの現在」と「これから」を語るのではなく、あえて議論が割れそうな部分へ踏み込んでいるのが良い。

目次が綺麗にまとまっているのでまずはそこをとっかかりにしよう。1 ネット住民とはなにか. 2 ネット世論とはなにか. 3 コンテンツは無料になるのか. 4 コンテンツとプラットフォーム. 5 コンテンツのプラットフォーム化. 6 オープンからクローズドへ. 7 インターネットの中の国境. 8 グローバルプラットフォームと国家. 9 機械が棲むネット. 10 電子書籍の未来. 11 テレビの未来. 12 機械知性と集合知. 13 ネットが生み出すコンテンツ.14 インターネットが生み出す貨幣. 15 リアルとネット ネット住民とは何かはまあ常識的な話にしてもネット世論はニコニコアンケートの話があって面白かったな。

たとえば100万人以上が回答するニコニコ動画のネット世論調査では、情報源を得る媒体(新聞、テレビ、インターネット)の違いによって支持政党の割合が大きく異なっているのだという。新聞から情報を得る層は自民党指示が38%、テレビが自民党26.8%、インターネットが自民党56.6%。『これをどのように解釈すればいいでしょう。いわゆる世間で世論と呼ばれているものは、自然発生したものではなく、新聞とテレビというマスメディアの強い影響を受けた世論であると考えることができるでしょう』そして当然ネットを主な情報源にする人間も偏った比率を出すわけで、これがいわゆるネット世論ということになるのだろう。

オープンとクローズド、コンテンツとプラットフォーム、インターネットと国境のあたりの話は殆ど一繋がりの話題で、どこかで切ることが難しいのだがそれだけに本書における中心的な話題になってもいる。面白いのは、川上さんは「インターネット上に国境と国家権力による支配があったほうがいい」という意見を語っているところで、背景にあるのはシンプルな理屈だ。ようは日本国内のインターネットを日本政府が中途半端に規制すると、国内の企業はそのルールを守らされ海外の企業はその分だけ有利にゲームを進めることが出来るようになってしまう。違法な動画が海外企業にアップロードされているだけで手が出せなくなる、電子書籍のようにサーバとの通信だけで取引が完結してしまう場合は消費税すら払われない。その分だけAmazonは圧倒的に有利になってしまう。

『実質的には海外企業の保護政策みたいなものになってしまうからです。』そもそもインターネットに国境をつくるとはどういうことかといえば、自国の法律に従わない海外のサーバへのアクセスに制限をかけることだ。それだけで事実上のシャットアウトになり、法律は守られる範囲だけでネットが存在するようになる。当然これについては今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなるわけで、反発必至だ。何もかも自由ならそれはそれでフェアだ。しかし半端な規制がかかった状態で考えると、普通に利用している個人からすれば迷惑な話だ、となるけれども自分たちだけ枷がハメられている日本企業からすれば朗報だし、国家としても本来のルールならとらなければならないはずの税金がとれるようになるわけだから正常な形といえる。

それは結局のところコンテンツ企業が息を吹き返す結果になって、結果的に個人にまで利益が還元されるかもしれないし、そんな事はないかもしれない。ただ現状インターネットが法律や税といった面においてグローバルにグダグダ、無法地帯になっているのは確かで、そこに秩序を求めるのは動きとしてそう間違ったものではないと思う。その後の「グローバルプラットフォームと国家」で語られるように、現在AppleやAmazon、Googleのような巨大プラットフォームがいつでも変更可能な税をとり、審査によって法を決め、場合によっては削除まで思いのままでそれに抵抗することのできない国家の力が弱まっていくという現在の構図まで含めて、世界の見取り図としてよくできている。

機械が棲むネット、電子書籍の未来、テレビの未来、機械知性と集合知、ネットが生み出すコンテンツ、インターネットが生み出す貨幣、あたりは繋がりはさほどなく個別テーマの仔細検討と言った形だけれども、どれもまとまっていて良い。電子書籍については結論だけ書けば紙の本が電子書籍に置き換えられるのは避けられない未来だというけれども、まあそうでしょうね。コストと利便性の殆どの面で優っているので、置き換えられない理由はほぼないでしょう……というのが個人的な感想だけれども、一方でアメリカの電子書籍ブームは終了したという話もある。⇢アメリカの電子書籍、“ブーム”は終了 « マガジン航

どうなんでしょうね。このまま二十年後も紙の本をみんな読んでたまに電子書籍買います、っていう未来像は想像しにくいけれども。置き換わるときはけっこうあっという間に置き換えるんじゃないかなあ。書店自体はどんどん減っている。流通する書店があるから紙の本をするし、トラックをガンガン走らせているわけで、流通する書店が減っていくに連れそうした輸送コスト及び製本コストがどんどん割りに合わなくなっていくと結果的に電子書籍への移行が進むと思っていたけれども。あとは定額課金制はすべてのコンテンツの制作費を賄うほど収入を分配することが難しいと言っているのは(今は移行が終わっていないから可能なだけで)まあ、そうだろうなあという感じ。

最終章のネットとリアルでは、ネットを自分たちの住処とするネット原住民とビジネスサイドからネットを見る人達と、生まれた時からネットが身近にあるデジタルネイティブを対比して語っている。ネットの利用者層がデジタルネイティブになるにつれ当たり前のようにネットがあり、リアルとネットの対比などそこには存在せず、当たり前のようにそれを使う、自然な融合が行われるようになるのだろうという。ただ「デジタルネイティブ」と一言でいっても、その使い方はそれ以前の層とは随分違うんじゃないかな、というのが個人的な感想。非常に限定的で、Twitterには鍵をかけ、興味範囲を「囲う」「閉じこもる」ような使い方が目立つように思う。

まあ、そのへんは僕の主観でしかないけれども。本書には未来予想がずらずらと並べられているが、ニコニコ動画以前と以後でネットの様相が大きく変わったように、何か一つの大きな要因によって5年、10年先のネットの未来図が想像もつかないものになっていてまったく不思議ではない。今だと人工知能やVR・SRだろうか。あるいは既存で可能な技術であってもいくらでも一変させる仕組みは起こりえる。教育において「学校に行く」形が撤廃されて各自自宅からインターネットを通して授業を受けるようになるだけでその世代の価値観と未来像はまったく変わることになるだろう。「学校にいく」ことをしない世代が「会社にいく」ことを当たり前のこととするわけはないし。

本書で書かれた予想は一年以上前のものだけど、それ故に現在において「あ、あたっているな」と思える部分も見えてきていて検証にもちょうどいい。僕はこれからはSFの時代だと思っているけど、あまりにも変化のスピードがはやいから「ちょっと先」のことを書くぐらいが読者の側からすると「感覚にぴったり」だったりするからだ。Twitterで暴れまわっている川上さんをみると「なんなんだこの人」と思ってしまうけど、いや(いくら対面ではないとはいえネットでやりとりする時に言葉遣いが荒くなる人が多すぎではないか。見るたびに辟易する。)、良い本ですよほんとに。

文系の壁 (PHP新書) by 養老孟司

久々に新書。なんか五年ぐらい前と比べると今の新書はどれも大変うすっぺらくつまらない上に対談本含有率が高くなって(主観的な割合だが)げんなりなのだが、本書もまた対談本である。それでも何故買ったのかといえば対談相手の一人が森博嗣さんだったからだ(それだけ)。基本理系とされる人達との対談集で書名が『文系の壁』とくれば、理系らで集まって文系ってバカだよねープークスクスクスと笑い合う本なのかといえば、そんなわけはない。

どのような本なのかは巻頭言から多少引用する。『対談の背景は、いわゆる理科系の思考で、文科系とされる問題を考えたらどうなるだろうか、ということだった。理科と文科の違いなんて、べつに問題じゃない。そう思うこともあるが、そう思わないこともある。ではどういう場合にそれが問題になり、どういう場合には問題にならないのか。』

文系の壁 (PHP新書)

文系の壁 (PHP新書)

直接的に文系と理系が主題としてあがってくるのも主に最初の森博嗣さんぐらいで、後は純粋にそれぞれ専門家の方々の話をきいたり、養老先生がそれにツッコミを入れたり自説を披露したりしていく。取り上げられているのは四人で、その人選が特徴的だ。元工学部助教授で今は余生状態で物書きをやっている森博嗣さんは文理の人である。主要研究テーマが適応知性および社会的脳機能の解明であり現在はVRを体験できるシステム及び安価なアイテムの販売等を行なう事業家でもある藤井直敬さんと、現在smartnewsという人によって最適なニュースを毎日届けてくれるアプリを開発・運営する会社を設立した鈴木健さんはどちらも理系でありながらその能力を事業という形で直接的に役立たせている。

須田桃子さんは『捏造の科学者 STAP細胞事件』を書いた人。元々は物理学専攻で修士まで終えている科学ジャーナリストでこれまた単純な理系というわけでもない。『いわゆる理科系の思考で、文科系とされる問題を考えたらどうなるだろうか、ということだった。』をまさに体現するような人選だ。個人的には理系文系というわけかたはイマイチ基準がよくわからないし、あんまり有効じゃないよなと思う。数学ができれば理系なのかといえば数学ができるのはどのレベルかという話に当然なるし、そもそも医療系や生物系などいくらでも数学を使わずに日々を過ごしている「理系」ともくされているひとたちもいるわけでこれまた曖昧だ。

科学系(なぜ? Why)を問う、工学系(どうやって? How)目的達成手段を考える、言語系(世界を言葉で解釈する)ぐらいが個人的にはしっくりくる区分けか、あえて二つに分けるなら理系・文系ではなく「実証主義的か非実証主義的か」の方が実際的ではないか。それも別に誰にも当てはまるわけではないし。そもそも文系と理系を分けることに何か実務上の意味があると感じたことがない。ま、それはおいといて本書は本としてどうなのか。こういう何人もの対談本(インタビュー本)は当然ながら一人一人の知見に深く切り込むのではなくざっとサラってみせて興味を沸き立たせることがメインといっていい。全編とおして「ふーん、そんなもんなんだー」ていう感じだけど、森博嗣さん以外の人は僕は知らなかったし、その人達の話はめっぽう面白かったから収穫は大きい。森博嗣さんが語る内容は僕はほぼどこかで既に読んだことのある内容だからここでは殊更取り上げないが、他でいくつか面白かった話をピックアップしてみようか。

VRとSR

たとえば「ハコスコ」というVR体験装置を売っていて理化学研究所で研究も行っている藤井さんの事業的な発想がそもそも面白い。本格的なバーチャルリアリティ装置は作り込みも必要だし非常に高額になってしまう。しかしスマホのアプリでインストールしてもらい、あとは段ボールのケースを用意してそこにハメ込めばお手軽にVRが体験できるようにしたっていうのが凄い。そんなんでできるんだね。今後ゲームにも搭載され、その後も確実に普及が進むだろうが、その場合当然我々は複数の現実を生きることになる。でもそれって、別に我々の現状だって既にそうだよねっていうのは養老さんも繰り返し述べていることでもある。

藤井 あと、これはケンカの仲裁にも使える。たいていのケンカが起こる理由は、同じイベントを違う方向から見てるために、同じことが違うふうに見えているからじゃないかと思うんです。だから、同じイベントを複数の視点から記録しておいて、それぞれの立場から見てみれば、「俺が緑だと思っていたものをおまえは赤だと言ってたけど、反対側から見たら確かに赤だね」と納得できるかもしれない。そうすると、「あ、世の中ってこの程度なんだ、いい加減なんだ」とわかる。

でも勿論殆どの場合我々は現実は一つだと考えていて、なぜかというと現実が二つも三つもあると言い出したらしっちゃかめっちゃかになってしまうからだ。考えるコストもかかる。だから現実が二つも三つも許容されうる為には、世界はもっと豊かにならなければならない。宇宙に人間が行く時には服装から体重、行動まで全てに厳格性が適用されなければならないけれども、晴れの日のビーチなら別にどんな服装でいようが何も問題にならないように、選択肢がいくらでも担保されていることが豊かさだと。

新しい投票制度や貨幣制度について

あと鈴木健さんの話も刺激的で面白いものだ。殆どは『なめらかな社会とその敵』と一時期各所で話題に上がっていた本(高いから読んでない)の著者で、同時に天才的なプログラマで今大人気smartnewsの設立者でもあるとちょっと出来過ぎな人。smartnewsはHONZが掲載されるようになったのとこのブログもたぶんはてな経由で載って人が(一回載ると数千人単位で人がくる)くるようになったので一応アプリは落としていた。まさか『なめらかな社会とその敵』を書いた人が設立した会社だとは知らなかった。対象としているのは政治や経済。たとえばより適切な投票システム、経済ではより適切な貨幣システムはなにかという問いかけに、純粋に工学的な=プログラム的なやり方で誰もが納得する実装はどのような形なのかを提案していく内容で、もう完璧にエンジニアの発想。

たとえば投票システムで問題になるのは「死票」だという。たとえば5人の投票で3人の票を集めた人間が当選を果たしたら、あとの2人の意見は消えてなくなってしまう。またある意見に賛成か反対かといっても、その人の中でも6・4で賛成が6ですといったらその人の中の4の反対部分は消えてなくなる。このような割り切れない一票を割れるようにして、0.6票と0.4票で投票できるようにすればいい。あるいは、5人の投票で3人の票を集めた人と2人の票を集めた人を二人共当選させてしまって、当選した人間の発言の重み付けを票数でやればいいとする。

これは、理屈としては非常に正しいのでは? と思う。実際に動くかどうかは別だが。本人がエンジニアだから、試しに動かしてみて、ダメだったらバグを直すようにして調整していけばいいというような発想があるんだろうなとは思う。新しい貨幣システムについても触れられているが、どちらにせよ情報が少なすぎて「面白そうな発想だな」とは思ってもその実現可能性についてはよくわからないというのが正直なところ。話自体も「そうはいっても投票システムがうまくいったとしても、政治はなんにも変わらないけどね、行政システムが変わらないと」といって「行政システムも完全自動化できるようにすればいいじゃん」と話が続いていくのだがなんでも自動化したがるエンジニアの極致みたいな話なので面白いが以下略。

STAP細胞

最後にジャーナリストの須田桃子さんだが、STAP細胞関連で初単行本を出しているだけあって話題もSTAP細胞及び理研について。たとえば自分で状況を整えて、仮説を立て、その仮説が立証されるか否かといった実験をやると、今回のSTAP事件のような錯誤が起こってしまうこともある。ある程度のバイアスが研究者の方にかかっている(Aという結果が出て欲しい)から、その結果にそぐわない現象を無意識的に見落としてしまうのだ。この対談で盛り上がるのは「だから実験って困難なんだよ(バイアスがかかるから)」ってことで、それはまあその通りだなと思いますね。

おわりに

養老孟司さんの本は『唯脳論』に感動した。バカの壁などの〜〜壁シリーズは対して面白くないし「ふーん」以外の感想が出てこなかった。本作も薄っぺらい対談本なのはその通りだが、四人の人選はいいしそれぞれのトピックは読みどころのある、良い塩梅だ。

友だちはいらない。 by 押井守

友だちはいらない。(TV Bros.新書) (TOKYO NEWS MOOK 481号)

友だちはいらない。(TV Bros.新書) (TOKYO NEWS MOOK 481号)

ぱらっとめくってみて「げ、聞き書きかよお」と思ってしまったけどめっぽう面白い。インタビュアーが押井さんと付き合いの長い人で、ざっくばらんに「顔の見える」会話をしてくれているからというのはあるだろうな。ただ、テーマ的に奇しくも、押井守さんも『スカイ・クロラ』を監督した縁のある森博嗣さんの『孤独の価値』と著しく似通っているのが惜しくはあるんだけど。出版時期もそれほど離れていないし。テーマに限って言えば『孤独の価値』の方がより充実しているので、そっちを薦めておくが、本書はまあ押井本だから、テーマがどうとかで読む人もあんまりいないかな。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
僕個人の考えとしては孤独と友だち観については上記の記事と『天才を生んだ孤独な少年期』の中でほとんど語ってしまっているから、あまり新しい引き出しも特にない。huyukiitoichi.hatenadiary.jp

押井 もっと言うと、友だちはいいというふうに決め付けているのが、僕には理解できない。その決め付けがあるから、友だちがいない自分はおかしいんじゃないか、人間性に欠陥があるんじゃないかと悩み、世間だって、友だちのいないあいつはヤバイだとか、悪人かもしれない、なんて色眼鏡で見るようになる。

本の内容はまあ引用部からも明らかなように、「そもそもなんで友だちがいることが良いことだなんて思っているわけ?」「いないのが普通で、いないからといって悩む必要なんか一切ないんだよ」という話になる。じゃあずっと一人でいろってことかあ? と思うかもしれないが、ここが押井さんの主張の特徴的な部分で、人生で必要なものを語っている。

師匠、家族、仕事仲間

押井 人生において必要なのは、自分を導いてくれる目上の人、師匠やマスターと呼ばれるような存在と、奥さんのように、自分はバカだということをいつも思い出させてくれる肉親や家族、そして一緒に何かを作ってくれる仕事仲間。もうひとつは、孤独にならないための小さきもの、つまり動物だよね。師匠、家族、仕事仲間、そしてイヌネコさえいれば人生、何の問題もないです。

この「じゃあ必要なのは?」という答えは、僕の考えとほぼ同じだ。「一緒に何かを作ってくれる仕事仲間」って友だちじゃね? と思うかもしれないけど、これはようは「同じ目的地へ向かう船に載っているか、いないのか」っていう違いなんだろうなと思った。仕事仲間は仕事、たとえば押井さんだったら「映画をつくる」でも「本をつくる」でもいいけど、とにかく同じ目的地へと向かってオールを漕いでいる相手のことだろう。友だちはそういう利害関係がないからこそ意味があるものだ(いらないなんて言わずに、別に多少友だちがいたっていいのに)と思うが「ひたすら過去を懐かしむような後ろ向きな間柄」のことを特に強調していっているのかなとも思う。たとえば高校時代の友人であろうとも現実社会について論じたり映画について会話を熱心にするなら押井さんの中では、それは仕事仲間になってしまうんじゃなかろうか。

まあそのへんの細かいことはどうでもいいんだけど。うんうんと頷いたのは『イヌネコさえいれば』という部分で、これも個人的な体験が大きいからどれだけ広く適応でいるのかわからないけど、少なくとも僕は犬が子供の頃いてくれてほんとに救われた部分がある。友だちがいないのはずっと本を読んでたから孤独だとも寂しいとも思うことはなかったけど、とにかく学校に行くのがツラくてそれ以上に親との関係がツラかった。鬱一歩手前みたいな状態で、今思えば人生が一番ツライ時期だったけどあの日々をなんとかやり過ごせたのも犬がいたからだろう。

犬っていうのは基本的に全肯定してくれるものなんだよね。良いとか悪いとか、調子の波とかがなくて、常に変わらず肯定を与えてくれる存在なのだ。猫はそういう意味では全肯定は与えてくれないかもしれないけど、常に変わらずにそこにいて、同じ接し方をしてくれる、というのがやはり大きいように思う。それはある意味では自分を現実に繋ぎ止めてくれるアンカーのようなものでもある。帰るべき場所というか。押井さんはこのコトについては、「人間はパーフェクトではなく、何かが欠けている」から、生き物と接することで何かを補完しているのではないかと表現している

読書について

あともう一つ面白かったのが、読書について語っているところ。本というからにはそこには書いた人がいて、僕はその書いた人間に常にツッコミを入れ、それはどうなの? と疑問を挟んだり、「すげえ!」と喝采をあげながら読んでいるから、あんまり一人でいるような気がしない。それは小説でも、この本のようなノンフィクションでも同じ。書いた人が死んでいるか生きているかも関係がない。

この本も、いちいち細かく取り上げないだけで「それはどうなの」という部分は幾つもある。たとえば押井さんは「孤独はよくない」会話がどんな内容であれ仕事仲間との会話があれば孤独を噛みしめるより絶対いいというが、このあたりは意味がわからない。会話の内容はともかく会話があるのがいいんだとかいったら、それ仕事仲間ってかただの友だちとなんにもかわらんじゃん。何事かを成す時に「仕事仲間」が必要なのには同意するが、孤独を紛らわすために会話をするぐらいなら孤独でいたほうがよほどマシだと思う。

知性について

と、こんなふうに僕は僕の頭のなかに作り上げた架空の押井守さんに意見を申しながら読んでいるわけだ。一方、こっちは逆に「そうだよな〜」と思いながら読んだ部分。

押井 ものを考えるということがちゃんと分かっている人でなければ本を読む意味はない。逆に、ものを考える能力を身につけるには依然として本を読むしかない

「本を読む意味はない」のがなぜかっていうと、それは結局「本には嘘が書いてある」からなのだろう。筆者の立ち位置、思想から必然的に出てくる偏向もあるし、あるいは単純に間違いもある。読む意味がまるでないバカみたいな本も多い。たとえば上で僕があげた「ここはおかしいんじゃないの」という部分も、何か正解があるわけではない。でもだからといって盲目的に書いてあることを全部正しいと読んでいいわけでもない。もちろんまるっきりクズな本だと当てはまらないが、ある意見を「正しくない」と思いながら読むのはそれ自体価値のあることだ。なぜなら差し出された1の情報に対して、応答側はその裏をみたり、角度を変えてみることによって1を2にも3にも増幅させることができるから。

この「本を読む力」、「情報の取捨選択」みたいなのは、僕は現実に対するマッピング能力だと思っている。たとえば、現実はただ現実としてそこにある。「目の前にティッシュボックスがあります」ぐらいなら、殆どの人が現実から言葉にする過程であまり情報を欠かすことなく伝達可能だ。しかし社会を論じたり、関係性を論じたり、「ヒットするコンテンツとは」といった現実が現実としてそのまま示しづらい話をしていくと、その言質は少なからず現実から乖離していくことになる。それは言葉で創りあげられた、架空の現実の見取り図だから。現実をうまく言葉に移し替えることのできる人は、たとえていうならば道案内のうまい人のようなものだろう。でもそれができる人はすごく少ない。

言葉にする前段階で誰しも頭の中に「現実とはこういうものだ」という見取り図を持っている。世界を神が創ったという見取り図を持っている人もいれば、世界はビッグバンで出来たという見取り図を持っている人もいる。科学は現実に対して正確な見取り図を提供するためのツールである。現実に対する不正確な見取り図を頭のなかに持っている人は、現実でも正しく目的地にたどり着くことは出来ない。たとえば、「努力すれば絶対に成功する」という誤った見取り図を持っている人は自分のしている努力が適正なものかどうかの観点が抜けてしまうかもしれない。これは極端な例だけど。

「誰にも動かせない厳然たる現実」というものがこの世にはあって、誰もその総体を知ることはできない。たまに洞察力の鋭い人がエッセイを書いたり、研究者が今まで誰も知らなかった法則を明らかにすることで、誰も知らなかった現実の法則が少しずつ明らかになっていく。だが、その法則の「正しさ」はどう判定され得るのか? 自分がよく知らない現実のルールを取り入れるのが本を読むことだとしたら、自分がよく知らない世界の法則の正当性を、読者はどのようにして判定すればいいのか? 

ようは、「総体」を知ることはできないけど、どこが欠けているのかという線引がある程度正確できてはじめて新しい知識の正誤判定を可能にさせる。既存の知識からの推測というか。いってみれば知性とはなにか、という話なのかもしれない。そしてその正確な現実に対する見取り図をある程度構築する為に、単純に本をたくさん読めばそれでいいかというと、そうとは言い切れないだろうと話はつながっていくけれども、本の内容からどんどん乖離していくのでこれぐらいにしておこう。

本書はそこそこってとこかな。最初に言ったように同テーマなら『孤独の価値』を推すが、長々と語ってきたように面白い部分もちょこちょこある。押井ファンは買うだろうが、まあ各自判断されたし。

荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書) by 荒木飛呂彦

漫画家荒木飛呂彦による漫画術。どういう意図でタイトルをつけて、情報を与えることを意図して一コマ目を設定し、ページの割り振りを決定し、情報量をコントロールして展開していくのかを自作を使って解説しくれるめちゃくちゃ贅沢な本だ。これはあれかな、聖書かな?

ただ、どんな「技術」にとってもいえることだが、別にこれを読んだからといってジョジョのような漫画を描けるようになるわけではない(当たり前だ)。ここで明らかにされているのは「漫画一般の描き方」に通じる部分の多くある「荒木飛呂彦という一人の漫画家が、これまでどのようにして漫画を描いてきたのか」だから、時代も違えば達成目標も違うであろう他の漫画家が全面的に参考にするようなものでもない。

しかし、本書で荒木飛呂彦さんは漫画の王道を明らかにしようとしている。漫画の王道とはいったいなんなのか?

 漫画を描きたいのならば、漫画の王道を知り、その「黄金の道」を歩むという意識を持ってほしいと思います。そして、漫画の王道は、時代を超えて愛され、受け継がれていく名作に行き着くはずです。単に一過性でヒットすればいい、という人は、たとえいくつかのヒット作を出せたとしても、本当の意味での漫画の王道を知ることはないでしょう。そもそも、そのような態度で描き続けられるほど漫画は甘いものではない、と予め釘をさしておきます。

漫画の王道、黄金の道とは、「迷ったときに見る地図のようなものかもしれません。」とこの後に語られていく。山に登る時の正規ルートのようなもの、別に外れたとしても構わないが、ちょっと脇道にズレてみても良い。ただしその時も正確な地図が、ある程度頭のなかに入っているからこそ、外れるという冒険もできるようになる。本書は荒木飛呂彦さんがどのように漫画をつくってきたのかをみていくことで、そうした見取り図を展開していってくれる。これがまあ、面白いんだな。

情報量のコントロールについて

もちろん漫画にしろ小説にしろ、創る側は読み手が想像もつかないほどたくさんの事を考えるものだ。引きずり込み、熱中させ、時には突き放すことさえ効果として与えること、緩急に後に繋がる象徴など、いくらでも入れ込める。もちろんそれがきちんと想定したとおりに読者へ機能するかは別だが。その為に何が重要かといえば、やっぱり基本的には「情報量のコントロール」なんだろうな、と全体を眺めていると共通項としてまず思う。

たとえば本書でも第一章は「導入の書き方」について語っていく。どのようにして読者をその世界に引きずり込むのか。ここでは導入については、『最初の一ページで、その漫画がどんな内容なのかという予告を、必ず描くようにしています。たとえば戦争についての漫画でしたら、それが「兵士と家族の感動」を表現するのか、あるいは「反戦」がテーマなのか、それとも純粋に「戦場のバトル」を描くのか、まず予告しなければいけません』とはじめているが、ここまでは恐らく誰しもふむふむと読み進めるところだろう。

全くその通りだと思うかもしれない。逆に、別にこのパターンを崩してもいい。黄金の道とは別にそこを辿らなくてはいけないものではないのだから、目印として「黄金のパターン」があるのだという自覚を持って外れてもいいわけだ。だがもちろんこうしたパターンを「絵」「コマ割」として実際の表現に落とし込まないといけない。この章ではこのあと武装ポーカーを例にとって説明を続けていくが、「どんな情報を入れるのか」そして逆に「読者がわかりやすいようにどの情報を削ぎ落とすのか」については、説明できる部分ではなく作品ごと、作者ごとに意図を練り上げていく部分になっていくのだろう。もっといえば経験値が生きるのもこの部分であるように思う。

漫画の「基本四大構造」

続いて荒木飛呂彦さんが漫画を書くときに常に頭を入れておくべきこととして語るのが漫画の「基本四大構造」だ。ここでは重要な順に①キャラクター、②ストーリー、③世界観、④テーマと続いていく。これらはお互いに独立しているのではなく、それぞれが密接に影響しあっており、キャラ、ストーリー、世界観を統合するのがテーマで、それを最終的に表現に落としこむのが「絵」という最強のツール、さらに台詞という言葉でそれを補う図式であるという。

問題はこれが密接に絡み合ってくるので、バランスを特に意識して描いていくということになる。キャラクタはOKでもストーリーはダメか、テーマがなくて全体にまとまりがなくなってしまっているのか、世界観に魅力がまったくないのかと点検が容易になる効果もある。ここについても自作を例にとりながら、キャラクタの作り方、ストーリーの作り方、絵、世界観、そしてその中心に位置するテーマとはなにかを順繰りに論じていくが、ここについては実際はけっこう人によってブレる部分だろうとも思う。少年漫画と青年漫画、少女漫画ではまったくストーリーの作り方も変わってくる。キャラクタについてはここでは何が好きでどんな夢を持っているかという身上書みたいなものを創ると述べている人もいるが、また別の作り方(ある程度テンプレートに則ったような)もので創る人もいるだろうし、様々だろう。

ここには漫画家・荒木飛呂彦がその漫画家人生の中で練り上げてきた哲学と技術が統合されて表現されている。さすがだなあと思うのは、やっぱりこういう理論を他人の参考にすべきところは参考にして、自分はこれでいくんだっていう理屈がきちっとしているところ。他人の意見に右往左往されずに、ある程度は「これでいくんだ」という芯、それは漫画のテーマとは別に人生のテーマ、時代の読み、のようなものかもしれない。「自分の頭で考えよう」なんていう人もいるけど、基本的には自分が考えたことよりも人の考えたことを参考にしたほうがいい。自分の能力をそんなに高く見積もるべきではないからだ。だが、どうしたって自分で考えなければいけない部分もある、それは自分自身のことだ。

 僕自身もデビューしてしばらくの間、ヒットに恵まれなかった時期、編集者から様々なアドバイスをされたのですが、その言葉を額面通りに受け取るのではなく、要するに絵が問題なのだろう、と考えていました。ゆでたまご先生はじめ、同世代の漫画家たちが「ひと目で誰かわかる絵」でデビューしていたのに対し、僕は、絵をどう描くかをずっと迷っていたのです。

あの荒木飛呂彦がどう絵を描くかで迷っていたのかと驚いてしまうが、確かに初期の初期は今ほど個性的な絵は書いていないんだよね。だからいまの「ひと目で荒木飛呂彦とわかる絵」は、かなり自覚的に構築されて、達成目標として選択されてきたものであることがわかる。天才などと表現されることもあるが、じっくりと何が必要なのかを考えて練り上げてきた結果でもある。

 しかし、はっきりとここで言っておきたいのは、「黄金の道」とは、「漫画の描き方」のマニュアルではありません。
 「黄金の道」とは、さらに発展して行くための道。今いるところから、先へ行くための道です。「自分はどこへ行くのか?」を探すための道とも言えます。

と宣言しているとおりに、本書はマニュアルではなくここから先へ向かうための基礎、地固めのようなものなのだろう。土台があるからこそその土台をひっくり返してみたり、薄めてみたり、脇道を迂回してみたり、さらにその先へ進むことも、土台をさらに細かく構築していくこともできるようになる。ここにあるのは荒木飛呂彦さんがいかにして漫画を描いてきたか、そして描いているのかという商売道具の開陳、ネタバラシに近いものだが、それも「まだここからどんどん変化する」という自分自身への信頼があるから出せるものでもあるのだろう。

貴重な一冊だ。

荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書)

荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書)

一本の槍──『声優魂 (星海社新書) 』by 大塚明夫

自分のやりたいことが明確に規定できている人間は圧倒的に強い。

それはいってみれば覚悟がキマっているということだから。この道で生きていく、あるいは自分はこれをやる為に生まれてきたのだという強烈な「思い込み」。もちろんかみさまーが上から現れて「お前がやるべきことは、これ!」と指図してくれるわけではないのだから、我々がいかに「自分はこれをやるんだ」と思ったとしてもそれは思い込み以外のものではない。しかし一旦そう完全に思い込んでしまえば、それ以外の要素は人生から徹底的に排除され、その身はただ目標を達成するために研ぎ澄まされた一本の槍となる。こうなった人間は強い。

本書『声優魂』は、役者という生き方を自己に規定しまさに一本の槍のように突き進んできた男・大塚明夫による声優論である。声優論といってもただ声優とはこうあるべきだ、という話ではない。おおまか本書の構成を二つに分ければ、「声優と一般的に職業として思われている物がいかに職業として成立していないのか」をあくまでも現実の現象を例にとって説明していく「声優諦めろ論」。あとは自分の芸歴を振り返りながら周囲とのかかわり合いの中で大塚明夫さんが声優としての生き方について考えてきたことを綴られている。

そこにあるのは自分の仕事への強烈な自負だ。『私より仕事量の多い声優はいくらでもいますが、そのことで危機感を抱いたことはありませんし、これからもないでしょう。私に危機感をおぼえさせるほどの後輩に、どうか出てきてほしいものです。』とまでいってのけて、しかもそれをまったくの本気で思っているであろうことが伝わってくる。声優という人気商売、立場を安定させる絶対の保証などどこにもなく、次から次へと若い人間が現れる不安定な環境。本書の言葉を借りれば三百脚の椅子を、常に一万人以上の人間が奪い合っている状態だ。それでもそこで生きてきたのだし、これからも生きていく、それだけの技術を磨き続けているのだという確信が語られる。

声優だけはやめておけ

本書はキャチコピー的に「声優だけはやめておけ」と大塚明夫をしていわしめるのは何故かと煽り文句もついているが、何故かも何もない。そんなもん業界の中にいる人間でなくても、外から観ているだけでわかることだ。あんなに声優になりたい人間がいて、パイが極端に限られているんだから職業にできるのは覚悟と技量と才能と運が伴わなければ無理だなんて、常識で考えればわかる。若くてちやほやされるかわいい/かっこいい声優、けっこうなことだ。しかしその中で10年20年容姿も衰えて自分より若い人間が次から次へと入ってくる時、生き残っている人間はどれぐらいいるんだろう。それでもなりたい人間が後を絶たないのはやはり自分の能力を過信しているか、憧れが目を曇らせるのだろう。

ただ外から見ていても「実感」のようなものは湧いてこないしその具体的なところはわからないので、そのあたりをきちんと現実ベースで理屈だてて書いてくれるのが良かった。常に競争率が高く失敗する確率が高くつぶしのきかずリターンの少ない「ハイリスク・ローリターン」というのはまったくその通りという他ない。視点として面白かったのは、「声優は、自分で仕事を作れない」ということ。声優の仕事とは声をあてることであり、その為には既につくられたものがなければならない。だから『私達は、ただじっと仕事を「待つ」ことしかできない立場だ、ということです。』 たしかにそうだよなあ、自分で仕事を作れないのだから。自分で仕事を作ってしまったらそれはプロデューサーとか監督とか別の役職になってしまうだろう。

 先ほど私は、声優は少ない仕事を奪い合わなければならないものだ、と書きました。しかしこの奪い合いにおいてすら、我々がすることは「待ち」なのです。店の棚に陳列された商品のように、とにかく誰かに選んでもらわねば始まりません。
 これは多くの声優志望者が見過ごしがちな点ですが、実は恐ろしいことです。誰かが何かを作ってくれなければ──「この作品のこの部分でこれを喋ってください」と頼まれなければ、私たちの仕事は存在しないのですから。

声優・大塚明夫

で、そうした声優地獄めぐり的な話が終わった後は大塚明夫さんがどのようにしてこの道に入って、何を考え、何をやってこの業界で生き残ってきたのかが語られていく。これがまた抜群に面白い。Fate/zeroのライダー、メタルギアソリッドのスネーク、攻殻機動隊のバトー……どれを取り上げても大塚明夫さん以外の適役が思い浮かばないキャラクタばかり。芸歴と共に語られていくシーンはどれも言われてみれば印象深い物ばかりだった。観ているときは映像やゲームに集中しているので声の演技がどうとか何一つ考えないから「おお、凄い!!」と思わなくても、やっぱり記憶には残っているものなのだ。

そしてやっぱり凄まじいのはその覚悟のキマリ方だ。かつて富野由悠季さんは覚悟について『覚悟というのは気合いではなく、毎日毎日階段を上っていくという作業でしかない。これが原理原則です。』と語ったが*1生き方を定めただそこに向けて全力を尽くす大塚明夫さんの在り方はまさにそれだ。

 私は、制作スタッフと仲良くなって、その人づきあいの中から仕事を得る、というようなことをほとんどしてきていません。素材としての芝居をきちんと納品する。そこで評価してもらい、選んでもらう。かっこつけた言い方をすれば、「仕事で惚れてもらう」のが私のやり方でした。

役者として生きる。生きるためには仕事を得なければならない。仕事を得るための手段として、仕事で惚れさせる。そしてその為にできることをやる。「生き方」を決めた瞬間に自分が何をすればいいのかがあっという間にビシっと決まってしまう。結局のところ「やりたいことを見極めろ」ということになるのだろう。ちやほやされたくて声優になりたいのであれば、それでもいい。ちやほやされる為に全力を尽くせ、と。自分のやりたいこともわからずにふらふらとしている人間は大塚明夫さんのようにしっかりと方向を見据えまっすぐに進んでいく人間には絶対に敵わないだろう。

 重要でない、モブに近い役をとりあえずミスなしで言い終える。それが惹かれる演技でなくても、「まあいいや、口パクは合わせてくれるから次もそういう役はまかせよう」とは思ってもらえるでしょう。でもそこで一歩踏み込んだ主張をする。他の声優にはできない演技をしようとあがいてみる。そうしたとき、初めて「ん? もうちょい喋らせてみようかな」「違う役もやらせてみようかな」と思われるのです。

これなんか、なかなか実際にやるのは難しいと思うんだよね。何しろいくらでも代わりのいる存在なのだから、そうそう枠からはみ出ることもしたくない。変なことをして次から使ってもらえなくなったら、それこそ困る。だからとりあえず及第点的な内容で終えたくなる気持ちは十分に理解できる。しかし『それを自分の方から放棄して、及第点を取ればいいという考え方になっている人には、じゃあお前さんはどこで主張するんだい、と思います。』も、まったくその通りなのだ。圧倒的に正しい。代えのきく存在から代えのきかない存在になる為にはそれを証明し続けなければならないのだから、手を挙げ枠をはみでなければ始まらないのだ。

そして大塚明夫さんは、多少の葛藤や妥協もあれどその道を歩んでいった人間である。だからこそ言葉の一つ一つが深く刺さってくる。大塚明夫さんは「はじめに」で、『多少の厳しい物言いはご容赦ください。あいにく、芝居はできても嘘はつけない性分なものですから。』と書いている。その宣言通りに、厳しい現実も、自分の覚悟も、一切の偽りなくドストレートに語っていることが伝わってきて、内容の正当性がどうだとか、声優がどうだとか以前に、大塚明夫という一人の男の生き方に完全に魅了された。

声優魂 (星海社新書)

声優魂 (星海社新書)

イスラーム国の衝撃 (文春新書) by 池内恵

イスラム国関連の書籍をざっと4,5冊読んだが1冊選ぶとしたらこれだな。次点としてロレッタ・ナポリオーニの『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』はイスラム国のメディア戦略とテクノロジー、あとは世界政治の中での立位置にページを割いていてまとまっているのが良かった。それに対して本書『イスラーム国の衝撃』はイスラム国(伸ばし棒うつのが面倒臭いから書名以外では省略する)イスラム国そのものの成り立ち、疑問点に思想と政治両面からフォーカスした内容でその分ぎゅっと詰まっていてわかりやすい。

今や日本人の脳内にもくっきりとその特異性が刻みつけられているイスラム国だが、ニュースをみているだけだと時間や文字数上の制約からどうしても「今まさに起こっている事象そのもの」に対してのあーだこーだに終始することになる。成り立ちから今後まで見通していく為には新書程度でもまとまった分量で読むのがいいだろうと思う。何しろ歴史的に見てもソーシャルメディアなどの現代技術を使いこなしメディアを効率的に使いながら自分たちを演出し経済的な基盤を早々に確立し領地を築き上げてきたテロリズム国家というのは特異なものであるからして。

イスラム国が起こしている一連の事件と歴史について、おおまかなことはこの一冊の中にまとめられている。いくつか一般的な疑問点をあげてそれに対しての解答を返すような形で簡単な紹介の代わりとしたい。この一ヶ月の行動をみているだけでもたとえば資金源はどうなっているのか。たとえばそもそもの最初の領地はどのように確保したのか。なぜ人質をとってその殺害映像を流すなど派手な演出を好むのかなどなど疑問はいくらでも湧いてくる。

成立過程について

たとえば、成立過程について。突然お空から降って来たわけでもなければ突然イスラム教徒が集まって国をつくったわけではない。そこにはやはり成立に至る経緯と、世界情勢上のタイミングが絡んでいる。「イスラム国」と呼ばれるようになったのは2014年6月のタイミングと最近のことだ。ここ数年の間に同組織は次々と呼び名を変えている。最初は「タウヒードとジハード集団」、「イラク・イスラム国(ISIS)を名乗るようになって、「イラクのアルカイダ」に吸収された。その後「イラク・イスラム国」に戻り、また別組織と合体し「イラク・レバントのイスラム国」に改称。そして最後に特に吸収・合併があったわけではないがカリフ制国家(だいたいスンニ派絶対宣言だと思えばいい)の建国宣言をする直前に「イスラム国」通称ISとなって知られるようになる。

名称以外の成立の経緯からいえば、わかりやすい起点はやはりアルカイダ組織がアメリカの対テロ戦争によって壊滅的な打撃を受けたところから始まるのだろう。アメリカにより壊滅的な打撃を受けたとはいっても、アルカイダも完全消滅するわけではなく分散し、各地でそれぞれの行動を起こすようになる。アルカイダが体現したような世界へ向けた聖戦、グローバル・ジハード思想の広まりによって個人や兄弟・親戚関係などのごくごく個人的なローン・ウルフ型のテロと呼ばれるものが台頭するのもこの時期である。

もちろんアルカイダの残党がいまのイスラム国を形つくっているという単純な話でもなく、思想的な面でアルカイダを受け継いだ各地のフランチャイズ店舗みたいな組織などが吸収合併を繰り返していくうちにイスラム国としてまとまっていくようになった、と強引にまとめるとそのあたりになるだろうか。もちろん各組織の名称・歴史なども簡潔に本書でまとめられているので参照されたし。

なぜあんな演出的に人質を殺害する動画を載せ続けるのか

人質をとるのはある程度は理解できる。活動資金のため、自分たちへ敵対行動をしてくる相手への威嚇のためなどなど。しかし殺害に至る一連の動作を映画的に撮影したり、良いカメラを使い鮮明な映像で相手を挑発することに意味などあるのだろうか。これについては著者はおもに言われている「米国をイラクとシリアでの戦闘に引き込む」ことと「米国を威嚇して介入を思い止まらせる」、どちらの目的も含まれていると書いている。ようはイラクとの戦争に米国を引きずり込めば、攻撃してくる相手に対する自衛のためと言い訳することでイスラム国はより正統性を高めることになる。同時に好き勝手空爆してくれやがってふざけんなよ殺すぞという威嚇行為としての映像でもあると。

そもそも土地はどうしたのか

国といっても領地がなければただの子供の遊びに過ぎない。逆に言えばイスラム国は領地を有しているからこそ国として特異性を持って衝撃を与えている。要因の一つはアラブの春(2010年から2年間ほど、アラブ世界において起こった大規模な民主化希望運動の一連の流れのこと)によって反政府活動組織がその動きを活発にさせ、中央政府に大きな揺らぎが発生したこと。それにより辺境地域に「統治されない空間」が出現・拡大してしまったこと。政情不安定にともなって国を超えてスンナ派とシーア派の宗派主義紛争が激化・拡大していったこと。

この「統治されない空間」にも当然住民はいるわけだけど、このイスラム国は何しろ金があるので(WSJによれば原油の輸出だけで一日200万ドル。相場によってかなり上下するからこの下落傾向の中だいぶ落ち込んでいる可能性もある。密輸というか、施設の武装占拠によって獲得したものだけれども)、さらに支配した地域では企業から税金をとって、道路を補修し食糧配給所をつくり電力の供給も行いとイスラム国が占領した地域の住民は村の状況が改善されたと証言しているらしい。長期的な領地の占領に必要な住民のコンセンサスというものをよくわかっているといえる。

構成員は誰なのか。どうやって集まっているのか

欧米人の参加していることもよくニュースになっているが、これはまあ宣伝活動の賜物でもあるのだろう。イスラム国の領土に関する基本計画は、スンニ派のムスリムにとって、ユダヤ人にとってのイスラエルとなることで、他のイスラム国家が不正や不平等、腐敗が横行し宗派の違いで争いが絶えないことから強烈なメッセージ性を持っているイスラム国になびく人間が集まってくる。またメディア向けの宣伝動画をいくつも投稿しているが、その中の一つにはエジプトをみろ、民主主義など存在しないとぶちあげてみたり、欧米を支配しているのは銀行だ、と民主主義否定の側面も持っている。こうした思想面に惹かれて集まってくる人間が多く、戦闘員といえども賃金は普通に働いたほうが割が良いぐらいのようだ。思想は金になるなあ。

新しい組織の形か

戦略的なメディア戦略、拠点の侵略、住民への取り込み政策、思想を煽ることで人員の結束を効率化させ、それから経済的な拠点の確保も意図が明確だ。どれをとってもいちいち効率的で演出的である。テレビで黒いマスクをした男たちの姿だけを観ていると単なるテロ組織以上の感想がなかなか湧いてこないが、実態はめっぽうしっかりしている。何よりこんなものが成立して「国」として認められてしまうなら、近代国家の概念は塗り替えられ今後の世界情勢にも大きく関与してくるだろう(もうとっくにしてるが)。いろんな意味で目を離せない現象である。

イスラーム国の衝撃 (文春新書)

イスラーム国の衝撃 (文春新書)

イスラム国 テロリストが国家をつくる時

イスラム国 テロリストが国家をつくる時

ニッポンの音楽 (講談社現代新書) by 佐々木敦

佐々木敦さんによる1960年代末から現在にまで至る日本のポップミュージックの歴史をおった一冊。歴史をおったっつってもそこには何百何千というアーティストの列があるわけで、すべての動きを追っていったら年表出来事羅列形式でもない限り新書一冊におさめるのは無理な話だ。その為本書はだいたい十年ごとに区切り、十年の中でも特徴的な動き……基本的には特定のアーティストを取り上げながら歴史の変遷をみていく。時代の寵児とでも呼べそうな存在はいつの時代にもいる。ざっくりとした形にはなってしまうものの「どのような問題意識・環境で新しい音楽が出てきたか」「新しく産まれた音楽を聞いたクリエイターはそれをうけて次に何をつくったのか」と連綿と変化・発展を遂げてきたニッポンの音楽が概観できる形に仕上がっている。

僕自身は音楽をまったく聞かないしカラオケも大嫌い。本書で取り上げられているアーティストや楽曲のことも一度も聞いたことがないものがほとんどだ。それでも特定分野の歴史の動きには興味をひかれるし、何よりこれを機会にいろいろ聞いてみようかとも思うようになった。ほぼ無知であるだけに本書の妥当性についての検証はまったく行えないわけだけれども、書かれていることで「それはおかしいのでは」と思えるような理屈の飛躍はみられない。当時のアーティストへのインタビュー記事や当時書かれた評論記事の引用が多く、当事者たちからの証言や書かれたものを中心に論を構成しているからというのもあるだろう。引用はどれも時代の空気が感じられてよかったな。

取り上げられているアーティストは目次である程度把握できるだろう。

第一部 Jポップ以前              
 第一章 はっぴいえんどの物語
 第二章 YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の物語
~幕間の物語(インタールード) 「Jポップ」の誕生~         
第二部 Jポップ以後              
 第三章 渋谷系と小室系の物語
 第四章 中田ヤスタカの物語

はっぴいえんどの特異性としては60年代に存在していた政治性・社会性のある歌詞とは違いほとんど能動的な意味を持たない風景のみといってもいい牧歌的な空っぽさを抱えていたことがあげられている。そしてサウンド面では日本語とロックを融合したこと。いまにして思うと日本語でロックなんて当たり前のことをと思うけれど、当時ロックはアメリカ、外の文化でありそれを日本語でやるのはハードルが高いと思われていたみたいですね。日本語ロック論争なんてものがあったなんてはじめてきいた。

続いて語られるのがYMO。テクノの始祖であるなどの音楽的な新しさやメンバの経歴に触れながら、明確に「内=日本」「外=アメリカ」がわかれていた時代から、YMOが最初は外に向けて「日本」「アジア」的なものをイメージ戦略として象徴的に使いながら注目を集め、外で評価されたという事実・お墨付きをもって日本に戻ってきて評価を得たのだという主張は面白いですね。ふうむ。

次の章では渋谷系と小室系ということでフリッパーズ・ギターから小室哲哉が関わったさまざまなアーティストが出てくるのでいろいろと読み応えがある部分なのだが、とにかく小室哲哉という男の影響力の強さが記憶に残る。作詞、作曲、編曲、レコーディングから仕上げに至るまでの全工程をトータルに手がけることから著者がいうところの「オールインワン型」のプロデューサー。小室哲哉全盛期はぼかあまだ小学生ぐらいの時代だったので記憶にほとんど残っていないのだが、確かにこの頃街でかかってた音楽は小室哲哉が関わった音楽ばっかりだったなあ。この時代になると「日本風味の洋楽」とかじゃなくて「純粋な洋楽」を日本でリリースするなど、内と外の区別はかなり曖昧になってきている。

そしてもちろん我々が知っての通りその後小室哲哉の時代も終わりを告げる。そこには当然複合的な理由があり、オリコンもほぼ崩壊したように見える今は時代を代表するアーティストなんかいないんじゃないかと思う面もあれど、本書の締めは中田ヤスタカになる。作詞・作曲・編曲・演奏・録音・ミックス・マスタリングをすべて一人でこなしていることから、本書では彼を「オールインワン型」の完成形としている。音楽的な特徴としてはソフトウェアを駆使してヴォーカルから何からなにまで加工してしまうスタイルになるのだろう(声の加工自体は何十年も歴史があるけれども)。

最初は明確にあった「外」と「内」の区別がYMOの時代には行ったり来たりする、視点が交錯する身近なものになり渋谷・小室系の時代にはそうした領域は限りなくなごりを残しつつもほぼ消滅。そして中田ヤスタカが出てきた時代ではもう「外」と「内」の区別はほとんど意味をもたないものになる。時代を経るごとに何もかも移り変わっていくのは当然だが、ニッポンの音楽という枠組みの中でのサウンド的な変遷と、文化的な変遷の両面から、スナップショット的によくおさめられていたとおもう。

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

昆虫はすごい (光文社新書) by 丸山宗利

昆虫はすごい。

昆虫がいなけりゃあ繁殖できない植物がいっぱいある。生態系のかなめだ。昆虫自身の繁殖方法も多様で、繁殖が終わった瞬間にメスの餌になってしまったり、遺伝子を混合させずに自分と同じ遺伝子を持った子孫を残す種がいたり、自分の種を別の種族のやつらに育てさせるよう偽装を施したり、せこいけどすごいやり方がある。狩りをする方法も待ちぶせ戦法から相手の体内に入って自在に行動を操って内側から食い破ったりひどい。逆に身を守る方法は葉っぱそっくりに擬態したり体内で化学反応を発生させて相手に熱をぶち当てて撃退したりする。すごい。

僕は虫を採集する趣味は今のところないけれど好きなのはアリやハチなどの群れで生息する昆虫たちだ。こいつらの魅力的なところはなんといってもあのちっこい身体で、一体一体はカスのような存在なのに集合体となると知性のようなものを感じさせることだろう。群体として効率の良い餌発見システム、地面と樹木など存在している場所は異なるものの機能的な巣の建築能力。外敵や餌となる生物への攻撃方法。どれも群体としての特性を活かした機能的なものだ。

なかでも日本のミツバチが独自に到達した驚異の天敵スズメバチに対向する手段は僕に格別な感動を覚えさせる。何十何百匹といった数でスズメバチに向かっていって身体を振動させ、その熱でスズメバチを熱死させる。その成立に至ったであろう時間と多数の犠牲を出すながらも相手を無理やり消滅さしめる強引さ。どれをとりあげても凄い。

つまるところ昆虫はいろいろと凄い特徴を持っている。本作は言ってみればそうした「昆虫すごいエピソード集」みたいなもので、それ以上でもそれ以下でもない。別に仕事に役に立つわけでもないし、ここに書いてあることを知っていたからといって、何か人生に役に立つことがあるとはなかなか思えないだろう。でも昆虫、すごい! と拍手喝采してどきどきするのは純粋に面白いし、読書というのは小説だろうがノンフィクションだろうが、基本的には面白ければ勝ちである。しかし一方で、昆虫は身体が小さいし、使えるエネルギーは多くないし、知性があるわけでもないが、その分生存戦略は極限まで研ぎ澄まされたシンプルさを抱えていて、故に一種のこの世の真理を体現しているようにも思えるのである。

それは僕が昆虫について書かれた物を読むのが好きな理由の一つでもある。たとえば本書には似たような種類の巣に侵入し、女王を殺し、新しく女王に成り代わって自分の産んだ卵をそこにいた働きアリに育てさせるような寄生型の昆虫紹介も幾種類か出てくる。しかしこういう乗っ取り型は逆に「乗っ取る相手」がいなければ成立しないのであって、必然的に乗っ取る側は乗っ取られ側よりも増えず、少数にとどまる傾向がある。あまりにもその勢力を伸ばしてしまったら、共倒れになって人間に観察される前に絶滅してしまうことだろう。

似たものとしては別の自衛手段を持っている昆虫そっくりに擬態する昆虫の存在だろう。これもそうした「自衛手段を持っている昆虫」が他の昆虫に広く知れ渡っているからこそ擬態するのであって、擬態する昆虫の方が多数派になったら擬態の効果が薄れてしまう。こうした一つ一つの現象は、アリが考えた結果そういう均衡になっているわけではなく、「結果的に最適なバランスがとれた種が残ったから」そういうことになっているのである(もちろんすべてが一定のバランスに収束していくわけではないけれど)。そこにアリの知性によってくだされた決断は存在しないが、その代わりに世界におけるエネルギー交換の収支原理が明確に現れている。

個人的に好きだった特徴を持つ昆虫はやっぱりアリで、クロナガ族のアリは草食のアリで、秋に活動して種子を集めて巣へと持ち帰って冬は巣で暮らす引きこもり体質が気に入った。こいつら、夏もあまりでてこないで地下数メートルまで掘り進めた巣で暮らすようだ。外に出て働くのは晩秋と早春だけ。うらやましいものである。しかも、地面に持ち込んだ種子が勝手に発芽しないよう管理しているのだという。頭の良い怠け者だ。

昆虫はすごい (光文社新書)

昆虫はすごい (光文社新書)

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書) by 冨山和彦

アベノミクスによるトリクルダウンの効果を非常に一面的に見積もっているのではないかとか、貿易赤字はそこまで問題じゃないでしょと思ったり、細かいところで異論があるけど発想部分は面白かったな。それは著者が学者ではなく経営コンサルタント、経営者であるというのが大きいからだろうけれど、自分が見てきたこと、関わった企業を話の中心に据えて語りながらも数字も同時に挙げていくので説得力はある。これだけ読んで「そうだったのか!」とはならないけれど、でも考え方として面白かった。

「ローカル経済」と書名についているものの、グローバル経済(製造業やエネルギー、IT関連など)再建の方にもページを割いている。ただこちらは特に発想的に新しいものではない。いや新しいのか? とにかくここ三十年の間大手総合電機メーカーなどの日本のグローバル企業が営業利益率や売上高を下げ続けてきたのは「構造的に儲からなくなっている事業をぎりぎりまで引っ張る」とか「比較優位を失っている機能をぎりぎりまで引っ張る」というように、経営判断上の集約と労働生産性を高める手を打ってこなかったからだと経営者の意思決定ミスの問題に 帰結させてしまうなど、かなり強引なところも多いが、「法人税減税しろ」とか「規制緩和しろ」といった具体的な提言の方は至極まっとうだ。

一方のメインとなっているローカル経済とは何かといえば、こっちはこっちで最初にイメージされるであろう地方の話ではない。こちらはいろいろと定義はあるだろうが、基本的にはサービス産業、地域密着型の非製造業系の経済圏のことだ。たとえば東京の町田に住んでいれば、歯ブラシを買いに新宿まで行くことはほとんどの場合ないし、町田のバスは町田にあるからこそ意味がある。「グローバル化」とはよく聞く言葉だが、日本のGDPの70%と雇用の80%の雇用はこうしたローカル経済圏で起こっているのであって、グローバル企業向けの施策だけではこちらの7割の方が捨て置かれてしまう。

で、このローカル経済圏で起こっている現状もっとも切実な問題は労働者不足なのだ。2013年10月の人口推計によると、15歳から64歳の生産年齢人口は前年から116万人以上減少し、8000万人を下回った。物凄い勢いで働き手が減っているわけであって、製造業やITなどを除いたサービス業などの「ローカル経済圏」では、アベノミクスよりずっと前からこの労働者不足が顕在化しているのだという。つい最近もこんな記事が出ているし⇒地方企業の35%「人手不足」 日経「地域経済500調査」  :日本経済新聞

著者が持ち出す指数(中小企業の従業員過不足DI(今期の従業員数が過剰と答えた企業の割合から不足と答えた企業の割合を引いたもの))によれば、製造業の人手不足は2013年第三四半期から始まっていて、一方の非製造業ではアベノミクスがはじまるずっと前の2010年第四四半期から始まっている。つまりアベノミクス効果によって人手不足が誘発されているわけでは(もちろんその効果も出ているであろうが)ないというわけだ。

その理由にもいろいろあるだろうが、大きなのは当然ながら少子高齢化による生産労働人口の急激な減少、それから地方の若者は東京に出て行く選択肢が常に存在していることも関わってくるだろう。

「地方は人手が余っていて、仕事がなくて悲惨だ」
 こうした論調があるが、事実ではない。その段階はとっくに過ぎている。既に見たように、地方のほうが先に高齢化が進んでいる。生産労働人口も、地方から先に減り始めている。なおかつ、地方の若者には東京へ出るという選択肢もあるので、生産労働人口は今後絶望的に減少していくと考えられる。

地方からどんどん人手がいなく、減っていったとしても先に言ったようにスーパーやバス、床屋のような「近くにあるからこそ意味がある」サービス産業の需要は、供給の減少と同じペースで減少することはない。もちろん人口の減少と共に需要も減っていくのだが、人手の減少とペースが違うため人手がそれによって「足りなくなる」わけではないのだ。そう言われればそれもそうか、そんなことも考えつかなかったなあと思った。実際著者が関わっているバス会社ではもう何年も慢性的に運転手が不足しているようだ。

しかもこのローカル経済圏の問題は質に関係なく近ければ近いほど有利だったり、そもそもバス会社がそこにしかなかったりと生産性の高低やサービス内容の善し悪しによる競争原理が働くわけではない。つまり質の悪い企業が淘汰されず残っているのであって、労働者の不足から今度は地獄じみた労働時間のブラック企業化も発生する可能性が高くなってくる。そこで本書が提案している「ローカル経済圏の復活案」は「競争原理が働かないローカル経済圏でどのように質の悪い企業を淘汰するのか」を論じた後、「淘汰に成功したら生産性の高い企業に労働者を集約し労働生産性を平均として上げ、それに伴って賃金も上がる」という理屈で繋げていく。

質の悪い企業を淘汰し、企業及び人員の集約とそれによる密度の経済効果による労働生産性の上昇を狙うということですね。このあたりの議論はやはり現役のコンサルタント兼経営者だけあって非常に具体的だ。短期的には地域金融機関のデットガバナンスを強化し生産性の低い将来的な見込みのない企業を退出においこむ、もしくは最初から貸し入れを制御して出さない。早期再生・再編促進型の倒産法の導入によって倒産と再挑戦をスムーズにさせる。中期的には現状邪魔になっている規制の改革、中小企業倒産を妨げている重すぎる信用保証制度の改革などなど。

もちろん「地方だからといって人手が余っているわけではない、むしろ人手は不足している」ことと「需要が減りつつあり、前年度比の売上は減少し続けていく」ことは同時に起こっている。「そんなこといったって地方からどんどん人が減っていったら立ちいかなくなる」のも確かで、本書ではそのあたりの議論は、地方のターミナル駅の周辺に集約し人口三十万人〜五十万人程度の中核都市圏を政策的につくっていくことを述べている。まあ、減るのは既定路線な以上そういう方向しかありえないんだろうけど、手間の多さと反発なんかを考えると気が重い事業だなあと思う。

生産年齢人口が減っていくのも、そもそも需要源たる人口が減っていくのは今後避けられない大問題で議論として行われるのは「世界にいかにして出ていくか」という方向性が多い中ローカルに目を向けた話で面白かったですね。

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書)

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書)

はやぶさ2の真実 どうなる日本の宇宙探査 (講談社現代新書) by 松浦晋也

現在時点で打ち上がっている可能性もあったはやぶさ2だが、現状延期中で次の予定は12月3日になっている。一応予備日として12月1〜9日までおさえ、計算しているはずなのでそのどこかでは打ち上がってくれると信じたいところだ。小惑星も天体も常に動き続けており、一年ごとに再接近してくれるような都合のいい軌道はとっていないのではやぶさ2の場合、2014年の打ち上げを逃すと今回並に条件のいい打ち上げ機会は2020年以降になってしまう。ちょっとしたズレが何年もの計画遅延を引き起こすのは宇宙探査系では当たり前のことだけれども、予算獲得やその計画に時間がかかることからの意志の共有など政治面での折り合いが悪い。

本書『はやぶさ2の真実 どうなる日本の宇宙探査』は「真実」とかついているので何か隠されていた謎が暴かれる的な話ではなくはやぶさ2ってなんぞやという初心者向けガイドブックになっている。初代はやぶさの功績と何が凄かったのか解説から始まって、はやぶさ2の目標はなにか、その目標はどうやって決められたのか。はやぶさ2とはやぶさ1の機体面での違いはどこにあるのか。どのような技術と技法を使って遠くの小惑星まで飛んでいくのか。はやぶさ2が何度も政治的な予算面で潰れそうになってきたか、そのぎりぎりの綱渡りの内実まで幅広く書かれていながらどれもディープなところまで踏み込んでいる。こういう本ってけっこう、時事ネタに便乗してトーシロみたいな人間が書くことも多いんだけど著者の松浦晋也さんはずっとこの関連分野を追いかけている人なのでその点でも安心だ。

宇宙の常識は我々が住んでいる地球の常識とは異なることが多いので、普通にニュースなどで断片的に話を聞いていてもよくわからないこともあるだろう。たとえば初代はやぶさは打ち上げから太陽を1周して1年後に地球のすぐそばまで戻ってくるのだが、地球の重力場を介した運動エネルギーのやりとりのた軌道をズラさなければならないというごくごく基本的なところをおさえていないとなぜわざわざ1年も無駄にして地球のそばまでまた戻ってこないといけないのか理解できないだろう。イトカワのように物凄く小さな、行って帰ってくるだけで何年もかかるところに何百億もかけていく理由も、何の知識もなければさっぱりわからないと思う。

そんなこと、別に知らなくたって日常生活では何一つ困らないわけだが……。日本という国で世界に比肩しうる宇宙探査のような分野を持ち、それを維持し続けていくことの意義を理解して、応援する人間がいなければ、いつのまにか我々は他国が宇宙へ出かけていくのをただ眺めているだけになってしまうだろう。そうなった時にこの国には宇宙分野で誇れるような技術がなにもないねえ……といっても遅い。技術はたえずブラッシュアップされ、新しいものを取り込む過程で生き返っていくものだが、現状日本の政治にはこうした分野における確固とした意志は存在しない。いったん途切れたら、そこで終わりに向かっていくということもありえる。

まあ、そんなややこしいことを考えなくても、あの「はやぶさ」の2号が、今まさに宇宙へ向けて旅立とうとしている、そしてそのはやぶさ2ってのはいったいどんなヤツなんだろう? という単純な好奇心から楽しめる一冊だ。太陽光や大気のない極寒の中ものすげー遠くまで地球と交信しながらとんでいって、いまだ人類の目が何一つ辿り着いたことのないものをみて、小惑星のサンプルをけずりとって持って帰ってこようってんだから、完全に想像の埓外だけど、それが人間のちからで出来るんだよね。すごいこっちゃでほんま。

わりとディープな技術的な面までわかりやすく解説しようとしてくれているので、その辺もうれしい。何より新書の価格帯で出ることに意義がある。

はやぶさ2の真実 どうなる日本の宇宙探査 (講談社現代新書)

はやぶさ2の真実 どうなる日本の宇宙探査 (講談社現代新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書) by 森博嗣

思考を自由にするために、思考をする。この『孤独の価値』を読んでいて、森博嗣さんがここ何年か出している新書群を一言で言い表すなら、こういう表現が良いのではないかと思った。たとえば昨年出版された「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書) - 基本読書 は、仕事にやりがいを見出すこと、楽しく働くことがあるべき姿のように吹聴されており、それを真に受けて現実の自分とのギャップに苦しんでいる人がいるが、仕事は本来辛いもので生きるため=金を稼ぐための手段でしかないからそう割り切るのも一つの考え方だという「押し付けられた幻想」を打ち壊すための「思考」について語っている。

本書はこの例にのっとっていえば、孤独、寂しさを感じることは一般的には「悪いもの」とする風潮があるが、それは本当かと問いなおす一冊だ。孤独とは何なのか、寂しいと感じるのは何か不利益をもたらしているのか? そして孤独でいることには、大きな利益も産むのではないだろうか? こうしたことを一つ一つ考えていくことで、我々は「寂しさを感じるのは悪いことだ」とする思考の枷を外すことが出来るかもしれない。それは「孤独に生きろ」「いろいろな人と付き合うことをやめろ」ということではない。ただあえて孤独と呼ばれるような環境・心境に身を置くことが絶対的に悪とされる選択肢ではなく、価値のあることだと意識するだけでも、生き方のルートは大きく広がっていくだろうとする考え方の拡張だ。

もちろんこのような思考の枷、「こうでなければならない」「こう感じなければならない」とする、自分で自分を縛り付ける思い込みは孤独や仕事に限らない。世の中に溢れている情報、たとえば広告なんかはその最たるものだが、広告をうつ側が自分の望む側に、見た人を誘導したい場合である。情報というものは本質的にそのような、発信者が望む方向へ読者・視聴者を誘導する性質があり、我々は常にそうした「他人が強制してくる思い込み」にさらされているとも言える。たとえば漫画やアニメ、小説、ドラマなどエンターテイメント系の作品では「一人ぼっちは寂しいことだ」「だから友達をつくらなければならない」「一人ぼっちの子を仲間に引き入れてやるのはいいことだ」「大勢で何かを成し遂げるのは素晴らしい」というような単純な価値観で溢れている。

確かに人間は基本的に群れをつくる生き物で、襲われず、集まることそれ自体に価値があった(ある)ことは確かだ。だからこそ仲間がいないこと、仲間を失うことを本能的に寂しいと感じる。が、現代においては我々は別に一人っきりでいたからといって命が危険にさらされるわけではないし(特に都市部では)理性的な部分で考えると一人でいることを否定する要素はないように思える。極端な例かもしれないけれど、本能として性欲は生殖行動を求めているわけだけれども、そうした本能に振り回されて性欲対象をレイプし始めるわけではない。自分なりの理性にしたがってそれを処理していくわけで、孤独も本能に根ざすものであったとしても理性(思考)で対処・利用することが出来るはずだ。

というわけで、考えてみる。寂しいと何か悪いことが起こるのか? と。寂しいことは寂しいことであり、それはとても嫌な状態だから悪いことだというかもしれないが、でも別に腹が壊れるわけでもない。まあ、精神的に不調になる場合もあるだろうし、焦りで何も手につかなくなってしまうなんてこともあるかもしれない。それはしかし、考え方によって変えられないものなのだろうか? また一人でいることは実はめちゃくちゃ楽しいことなのではないか? たとえば僕は一人が大好きな人間で、大学に入った時は「これで四年間誰とも会話しないですむ!」と思って本当に嬉しかったし、卒業して会社に入った後もずっと一人になりたくて、結果的に辞め、家で誰とも会わず、会話もしないで仕事ができる環境を整えた。

一人でいれば自分の好きな時にトイレにいけるし、突然歌いだそうと思えば歌い出せるし、犬を撫でたいと思えば撫でられ、ニコニコ動画がみたいと思えばみれ、本を読みたいと思えばすぐに読める。ようは法律に違反していなかったり他人に迷惑をかけなければ、自分がしたいことを何も考えずにできるのであって、そこには他者からの制約が一切ない。自分の好きなことをいくらでもできる(たとえば僕で言えば本を読んで文章を書き続けられる)ので、めちゃくちゃ幸せだ。もちろんたまに誰かと会話をするのは良い息抜きになるけれど、なくたって構わないものでしかない。誰もが僕のように一人っきりでいること、客観的にみれば孤独な環境に身を置くことに価値を見出すとは思わないが、そのような生き方もあるのである。

つまり、寂しいことは本能的な部分を別にすれば何も悪いことなどない。むしろ、いいことさえある。現代はつながりっぱなしの時代といわれるほど、ツイッタやFacebookのようなSNS、LINEやらSkypeでいつでもどこでも人とやりとりが出来てしまうが、むしろそれだけに誰とも接続されていない時間、一人っきりでいる時間の重要性も浮き彫りになってきているのだろうし、求められているとも感じる(たとえば現在大人気のライトノベル『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』も、そうした孤独の肯定という側面を持っている。)。

本書はここからさらに「孤独であるからこそ発揮されるもの」があると続いていく。たとえば小説は一人でつくるものだし、漫画だってアシスタントを使う前段階、ネームの段階では個人作業だ。アニメも集団作業だがその元となるのは脚本・絵コンテといった個人作業の集積である。孤独から生産されるものというのは意外と多い。創作は孤独に通じているようだ。あえて孤独に身を置くことは本能を思考で制御する、人間性そのものにも通じる価値のある行為であるともいえる。

孤独を受け入れるために。創造と孤独

だが、そんなこと言われたって寂しいもんは寂しい、思考の枷を外そうとか言ってることはわかっても、無理です! という人向けに、孤独を受け入れるためのもう少し具体的な手法についても本書は最後の方で触れている。森博嗣さんの新書においてこの辺の具体的な親切さみたいなのは過去にあまり読んだことがなかったような気がするので驚いたけれども、まあ、創作だったり、研究だったり、あえて無駄なことをするなどいろいろ述べられている。

あえて付け足すことがあるとすれば、日記でも何でもいいから「書く」ことだと個人的には思う。それはブログでも個人的な日記でもいい。でも誰も読んでくれないし……といっても、PVや読者が現代にいるかなんていうのはあまり関係のないことだ。文章というのは、時と場所を超えるもので、いつか、これを、誰かが読むかもしれないと思って書くだけで、たとえ現在時点において自分の周りに誰一人いなかったとしても、そこには他者性が生まれえるのである。これはたぶん「書く」ことだけではなく、創作全般に通じることだともいえることなのだろう。だからこそ孤独を受け入れることと創作には深いレベルでの繋がりがある。

そもそも何を隠そう僕がこのブログを書き始めたのが、神林長平先生(SF作家)が書いた『膚の下』という作品の、下記の一節に触れて、いてもたってもいられなくなったからだった。神林長平 膚の下 - 基本読書*1

「なにもしない」と慧慈は言った。「互いに寂しいことに気づいた。実加もわたしも。それだけだ。読み書きができるようになれば、実加の寂しさを埋められるとわたしは思って、それを習うことを勧めたんだ。あの子はおそろしく孤独だった。それを彼女は自覚したんだろう。わたしも、自分の身の上は実加以上に孤独だと思った。無人の地球で独りで死んでいくんだ。その前に殺されるかもしれない。でも実加は、わたしが死んでも、わたしの日記を、火星から戻ってくる二百五十年後に読んでやる、だから寂しくない、とわたしに言ったんだ。実加が本当にわたしの日記を読むかどうかなど、そんなことはどうでもいい。わたしは彼女から生きている実感を与えられたんだ。実加のような人間がいる限り、わたしは孤独ではない。初めての経験だった」──膚の下

これを読んだ時に、自分が孤独だ、寂しいと感じていたのかは思いだせない。が、とにかく自分も何かを創らなければならない、創らないにしても、何かを書き記さねばならないと思ったのは確かだ。まったく悩まずにブログをつくって、ブログ名を考える時間も面倒くさかったから最初に思いついたシンプルな『基本読書』をつけて、小説もなにも書いたことがなかったからとりあえずこの衝撃を書き留めねばならぬと思い、有無をいわさず書き始めた。この『膚の下』という小説がどれだけ僕にとって衝撃的な本だったかはとても語り尽くせるものではない。しかし『膚の下』の書評を書く為に衝動的に始めたこのブログが、八年もの時が経ってもいまだに熱量を落とさずに更新され続けているだけでも、多少は僕が受けた衝撃が伝わるのではないだろうか。

一応小説の補足を入れておくと、慧慈は人間に創られた人造人間(アートルーパー)で、地球から逃げ火星へ移住する人間とは別に地球に残って任務を果たすことになっている。人間に創られた存在がはじめて自立的に考え、行動していくことになるとはいったいどういうことなのかを「創造」という主題を中心に据え語っていく本作において、孤独と寂しさ、またそれを打ち消すものとしての書くこと・創造することが提示されている。読み書きができない少女に読み書きを教えることで、孤独を知らなかったアートルーパーが孤独を知る。しかし同時に、彼女が自分の書いた日記を将来読んでくれるかもしれないと「仮定」することで、彼は深く安心するのである。

なんだか『孤独の価値』のレビューというよりかは『膚の下』のレビューのようにもなってしまったが、孤独において考えるにあたっては必読の一冊だろう(膚の下がじゃなくて、孤独の価値が)。そして森博嗣さんの本を読む価値はテーマとされている部分について考えるだけでなく、思考の枷を外す為にはどうやって考え、疑ったらいいのであろうかといった部分への理解につながるところにある。表層のテーマだけにとらわれず、より抽象的に読むこと、応用可能性のある題材、思考の骨格として読むことで、価値は飛躍的に高まっていくだろう。

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚の下 (下)

膚の下 (下)

*1:このブログの、一番最初に書かれた記事。はてなブログ上では最初の記事ではないが、それは移転した時に適当に記事を並べたからである

江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書) by 原田実

本書『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書) 』は、江戸しぐさなる、江戸時代に存在していたとされる行動哲学、商人道、共生の知恵のようなものがまったくのペテン、歴史偽造であり1980年代に発明された考え方だったことを明らかにしていく一冊。しかし江戸しぐさというのはどれぐらい浸透しているものなんだろうか? そもそも僕は江戸しぐさなんてものを一度も耳にしたことがなかったので、「そんなもの一体全体どこで流行しているんだ」とか「だいたいどの程度流行しているのか」とか「そもそも一体それは何なのか」というところが知りたくて読み始めた。本書は非常に丁寧に「江戸しぐさが存在しない」ことを例証を、ところどころユーモアを交えながらも説明していく。江戸しぐさへの反証の本というだけでなく、存在しないものの証明のプロセスをどう踏めばいいのかについてもお手本になるような内容だ。

とりあえずAmazonで検索してみると驚くのが、その関連書籍の多さである。数を数えるのも面倒なほど江戸しぐさを教える本が出てくる。内容的には江戸時代のマナーや行動を、現代人向けに教えるような内容だけなので結果的には「マナー集」的にはいいんじゃねえか、どうせすぐに廃れるだろうと思うところである。しかし普及者が熱心だったり、現代向けにチェーンアップされた(いやまあ1980年代に作ってその後普及者がいいように作り替えているんだから当然だが)内容も相まって拡散を続けているらしい。すごいのは文部科学省が道徳教材で「江戸しぐさ」が江戸時代に実在した商いの心得として明記していることである。

韓国の歴史偽造を笑えねえなあというか、こうもあっさりと与太話が蔓延していく状況ってなんなんだろう、ウケる。しかしことが文部科学省にまで認定されるところまできていると「あはは、こんなものを信じるなんてばかだなー」と笑ってられないのも事実である。ある対象が「存在する」ことを示すにはそれを一つでも提示できれば終わりだが、「存在しない」ことを示すのは世界中を見て回ってもなお難しいように、「江戸しぐさなんてものはなかった」と主張するのもそれなりに手間のかかる、非常に面倒くさいプロセスを必要とする。そうした仕事を本来果たすべき研究者も、そんなことをしても実績になるわけでもないし単なる手間であり、動機がない。著者の仕事には頭がさがるばかりだ。

ところでたとえばどんな内容がウソなのかといえば(基本的に全部だが)──江戸しぐさの中でも代表的なものとされる「傘かしげ」は、江戸しぐさの本では雨や雪の日相手も自分も傘を外側に傾けて共有の空間をつくりさっとすれ違うことで、こうしたことを江戸っ子は自然にやっていたのだという。が、当時の江戸では差して使う和傘の普及は京や大阪に比べて遅れており、贅沢品扱いで、江戸っ子たちは雨具としては頭にかぶる笠や蓑を用いていた。当然ながらウソ。また肩引きという江戸しぐさは混みあう道路で前方から人がきたときにお互いに右肩をひいて体全体を斜めにし、胸と胸を合わせる格好で、すれ違う見知らぬ人へも敵意がないことを表現するしぐさだというが……。

「NPO法人江戸しぐさ」では、『よみがえれ!江戸しぐさ』という学校教材用動画を制作している。
 その中には、男性二人による「肩引き」の実演も収められているのだが、体を斜めにして目配せしながらすれ違う様は、威嚇し合っているようにしか見えないのだ。

僕なんかはそもそも江戸しぐさなんてものを知らない状態で本書を読み始めたのでふ〜んそうなのか、アホみたいな創作をするなあですむ話ではあるが、何も知らずに「江戸のマナーで傘かしげってのがあるんですよ〜〜みなさんも道端ですれ違うときはそうした相手のことを考えたマナーを心がけましょうね」といわれたら「はあ、まあそうですね」としかいう他ないだろうと思う。そんなことがあってもおかしくないかなと思う程度のどうでもいい内容である。それを信じたからといって自分に何かマイナスがあるわけでもない、人を気遣おうという結論自体は正しいのだから。こうしてウソかどうかの検証もされずに、便利に広がっていくのかもしれない。

傑作なのが「なぜ最近まで江戸しぐさが知られていなかったのか」に対するNPO法人江戸しぐさの越川氏による回答だ。この問いかけに対して越川氏は、幕末・明治期に薩長勢力が行った「江戸っ子狩り」に求められると答えている。江戸っ子に江戸しぐさ規制を求めたとかではなく、本当に「狩り」だというのだから凄い。アメリカンネイティブのウーンデッド・ニーの殺戮にも匹敵するほどの血が流れたとする江戸っ子狩りはしかしどんな文献にも残っていない(ないんだから当たり前だ)、それも虐殺のため残っていないと主張するのだから凄い。そんなことを言い始めたらありとあらゆる歴史が捏造できてしまうではないか。

専門家は何をしていたのか

しかしそんな荒唐無稽な江戸しぐさが蔓延していく中、江戸の専門的な研究家たちは何をしていたのか。論文の実績にならないとはいっても、折にふれていろんな場所で発言をしたり、そこまで手間をかけなくても止められることがあったのではないかと思うが。本書でも多少それに触れられていて、考えていなかったなと思わされた部分は、江戸しぐさを広めようとする側は経済的利益や政治的意図のもの行っている人達であり、反対することによって個人攻撃じみた反論が発生する可能性がありえることだ。

また実際には反論も行われてきたんだろうが(オカルト検証本に収録されたりする形でも)、プラスの肯定的な内容よりも否定的な内容は人の反応を惹起しない為、生半可な反論じゃ拡散までは至らなかったのかもしれない。Twitterでもデマ発言があっという間に数万リツイート(発言内容の引用・拡散)された後に「すいません、さっきのアレ間違いでした」といった訂正が数百しかリツイートされないことがあり一度広がったデマを打ち消す難しさは日々痛感されるところである。

たかが個人から発生した歴史捏造が20〜30年の時を経て文部科学省に認知されるまで広がってしまう事例の一つとして、江戸しぐさへの単一的な反論本としてではなく普遍化して読める本でもあるだろう。江戸しぐさに関わらず、デマは多く経済的にも政治的にも利用のしがいがあり、それを打ち消すのは難しい。

江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書)

江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書)