基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

なぜ経済学者は信用されないのか?──『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』

2019年にノーベル経済学賞を受賞したバナジー・アビジット・Vとデュフロ・エステルによって書かれた「現代の経済学の信頼性を回復」させようとするノンフィクションである。先日発表されたビル・ゲイツによる「この夏おすすめの5冊」にも選ばれていた一冊でもあり、読んでみたのだけれども、これが非常におもしろい。

今の経済学というのは市民に対する信頼性を欠いていて、市民は経済学者のことなど信じていない、という問題設定のところからして「たしかに」と笑いながら納得してしまう。実際、イギリスのEU離脱に伴う国民投票において、イギリスの経済学者たちはこれがいかに不利益をもたらすかを説明し続けたが、ほとんどの人はいうことに耳を貸さなかった。2017年に行われた世論調査では、「以下の職業の人達が自分の専門分野についての意見を述べた場合、あなたは誰の意見をいちばん信用するか」と問うたが、最下位は政治家(5%)で、経済学者は下から二番目だった(25%)。

なぜ経済学者の意見は受け入れられないのか?

では、なぜ経済学者はこれほどまでに信用されていないのか? ひとつには、経済学者の一致した意見が、一般の人々の意見とかけ離れていることが原因だという。

たとえば、アメリカが鉄鋼とアルミに追加関税を課せばアメリカ人の生活は向上すると思いますかという質問に、経済学者は全員がノーと答えたが、一般回答者でノーと答えたのは3分の1を上回る程度だった。しかも、経済に関する問いに答える前に、経済学者の見方を知らされても、自分の見方を変えないことを示す研究もある。

経済学者が信用されない理由の二つ目は、「エコノミスト」を自称する経済学者でもなんでもないがそれに類するものとみなされる人間が、適当なことをいうということだ。自称エコノミストは多くは会社に所属していて、自社の経済的利益を代表して発言しているから、不都合なエビデンスは無視してもよいと考えがちだ。たとえば飲食店経営に関わっているのであれば、自粛ムードに最もらしい理屈を掲げて反対するのは当然で、しかもそれを押し通すために過度に楽観的になる傾向がある。

経済学者に対する不信の三つ目の原因は、経済学者側にある。『アカデミックな経済学者は、断定を避けあれこれ含みを残した結論を出すうえに、その結論にいたった複雑な過程を説明する時間を惜しむことにある。』『最良の経済学は多くの場合に非常に控えめだと私たちは感じている。世界はすでに複雑で不確実すぎる。』

著者らが本書で試みていくのは、そうした複雑な経済について、貿易の未来はどうなるのか。貿易は不平等にどのような影響をもたらすのか。市場から見捨てられた人々を社会はどうやって救うのか。AIの台頭は歓迎すべきなのか。そうした、多くの市民がきになっている・誤解している件について、その面倒くさい過程をしっかりと説明し、わかっていないこととわかっていることの仕分けを行うことである。

移民の問題

最初に取り上げられるのは移民の問題だ。移民は多くの国で重大な政治問題となっている。移民を嫌う人は大勢いる。低スキルの移民が入ってくることで仕事がなくなり、犯罪が増える、国には分断がおきるなど。だが、それはどこまでが本当か?

イタリアでは、移民が総人口に占める比率は10%だが、調査に答えた人々の平均は26%だった。2017年のフランスの大統領選挙で、ルペンは「移民の99%が成人男性であり」「フランスに定住する移民の95%は働かずに国に世話をしてもらう」といったが、どちらも誤りである。前者は58%、後者は55%がちゃんと働いている。

なぜこんな嘘がまかりとおるのかといえば、それが多くの人の「イメージ」に合致するからなのだろう。事実を知れば意見を変えるでしょう? と思うかもしれないが、間違った主張を繰り返し聞かされた被験者は、事実誤認を聞かされても意見を変えないことがわかっている。これには、先に書いたような「自分たちの賃金水準が大きく低下する」という、ある意味では合理的な推測が関連しているのかもしれない。

だけど、実際にはそれは違うんですよ、というのが丁寧に説明していく部分だ。たとえば、どれだけ国内の経済状況が悪化したり紛争が起こっても人は移動しないことがわかっている。ギリシャでは、経済危機が深刻化した2010〜15年に35万人が移住したと推定されている。すごく大きいようにみえるが、総人口の3%にすぎず、13年と14年の失業率は27%にも達しており、EU加盟国であるがゆえにEU域内を自由に移動して働くことができる状態で35万と考えると、少ないといえるのではないか。

また、移民流入によって教育水準の低い層の賃金と雇用の変化を比較した研究では、いずれも低技能移民の流入が受入国の既存労働者の賃金と雇用を押し下げることはない、と結論が出ている。現在、特にアメリカでは怒りが移民に向かうことが多いが、そうした断絶が「移民はあなたの仕事を奪うわけではないし、そもそも移民はたくさんはやってこない」ことを伝えることで解消されるかもしれない。

たとえば、多くの企業がアイダホ州のボイシから撤退して繁栄するシアトルに拠点をうつした時、多くの労働者は移動しなかった。物価の高いシアトルにすぐに移れるわけでもないし、故郷や友人たち、愛着の湧いた土地から移動したいと思っていない。だから彼らはボイシにとどまったが、仕事はなくなっていく。この選択はまちがいだったと気づいた時、この人達は絶望をするか、怒りをどこか別の場所にぶつける。

『経済成長が止まってしまうとか、成長しても平均的な人間には利益が回ってこないという状況では、スケープゴートが必要になる。』これが、世界に二極化を招いている。

こうした現象が、東ドイツでも、フランスの大都市圏周辺でも、ブレグジット賛成派の多いイングランド中心部でも起きているし、アメリカのレッド・ステートでも、ブラジルやメキシコの多くの地域でも起きているのである。富裕で才能に恵まれた人たちはあっという間に経済的成功の階段を駆け上がるが、それ以外の大勢の人々は取り残されたままだ。アメリカ大統領にドナルド・トランプを、ブラジル大統領にジャイル・ボルソナロを、イギリスにEU離脱を選んだのはこうした世界であり、いま何も手を打たなければ、もっと多くの災厄を生むことになるだろう。

おわりに

移民の周りの話しか紹介できなかったが、他にもベーシック・インカムについての議論であったり(肯定的に紹介されている)自由貿易は本当に善か? という話であったり、現代の経済学で話題に上がるが一通り網羅されているので、現代経済学を概観したい人にもおすすめだ。個人的に何より重要なのは、「世界がいかに不平等なのか」という話の先の、「こぼれおちてしまった市民の尊厳を、いかに尊重した政策を設計するのか」という、「個人の尊厳」を重視して経済を語っているところだと思う。

今日のような不安と不安定の時代における社会政策は、人々の生活を脅かす要因をできるだけ緩和しつつ、生活困難に陥った人々の尊厳を守ることを目標としなければならない。だが残念ながら、現在の社会政策はそうはなっていない。

人がなかなか生まれ持った土地を移動しないことも、自身が貧困に転落して怒りや絶望(アメリカでは白人の寿命が近年、年々短くなっている)をつのらせることも、移民や貿易に対する悪意がむきだしになることも、経済合理性ではなく一人の人間としてみることで理由がみえてくる。そうした層を支援する際に、落ちぶれたものとして見下す視線ではなく、敬意を払い、受け取る側が負い目を感じないですむ方法もあるはずだ。「誰もが希望を持てるような状況をつくること」、それを実現するための経済学の活用方法とはなにか、が本書では模索されているのである。

「いま・ここ」で起こっている経済の危機とその対策はなにか!? 緊急出版されたコロナ経済本──『コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画』

『なぜローカル経済から日本は甦るのか 』や『AI経営で会社は甦る』といった著作、名だたる企業の社外取締役で名をはせている冨山和彦による、コロナショックにぶちあたった日本経済についての本である。いくらなんでも刊行が早すぎないか? と思うかもしれないが、そこまでの分量ではなく(文字数的には4〜5万文字ぐらいか?)、4月から4月半ば頃にかけて、1週間でガーッと書き上げられたという。

要するに書き飛ばされた本でではあるのだけれども、事態が一週間ごとに急速に移り変わっている現状このスピード感は利点だ。ワクチンがいつできるのか、緊急事態宣言がいつまで続くのか、経済は大丈夫なのか、無数の危機に対して見通しが立っていない暗中の中で経済の行末を考察し、このような状況下にあって中小企業、大企業の経営陣はどのような決断をすべきかを論じた本であり、まさに今読むべき本である。

ただ、このような危機的状況家において何をすべきなのか、どのような企業が生き残るのかを論じたパートについては、コロナ以外のすべての危機に共通していて、冨山和彦論の総まとめ感もある。前後編にわかれていて、次は6月に後編をだすという。

コロナショック

さて、今回のコロナショックが医療的、人類の健康的に大きな痛手であるのは間違いないが同様に問題になっているのが経済である。人命を守るために外に出ない、営業を自粛するのはもちろん素晴らしいことだが、一方で自粛が続きすぎれば今度は経済が回らなくなって、生活に必要なお金が得られない人間が続出しそれによる命の犠牲が出ることになるだろう。経済が回らないのも結局人の命を奪うのである。

経済が回らないと言ってもそこには企業差がある。まず現状いちばん目立ってやばいのは、観光業や飲食店のローカル経済だ。ローカル経済は日本のGDPの約7割を占める基幹産業であり、その多くがフリーターや非正規社員を主戦力とする中小企業によって運営されているから、今回の危機のあおりをもろにうける。運転資金としてのキャッシュを溜め込んでいる企業もそう多くないから、営業再開や自粛ムードが長引けば長引くほどたちいかなくなる企業は増え、失業者も増加することになる。

リモートワークやネット宅配の市場が伸びているから何とかなる、みたいなことを言っているお気楽な連中がいるが、リアルなローカルサービス産業が吸収している雇用はまさに膨大で、おそらく二桁くらい違うオーダーの世界を比較して代替を期待する議論はナンセンスである。実はこのようなL型経済圏がGDPや雇用の大半を支える構造は欧米も共通であり、まさに先進国共通のグローバルなメガクライシスなのである。

このへんの危機はわずかに街を歩いただけでみな実感するところだろう。飲食店の客は少なく、ラーメン屋でさえももtake outを始めている。区と協力して出前のwebシステムを構築しているところも出てきているが、キャッシュ不足は深刻である。

そうしたローカル経済圏が破壊された後にくるのはグローバルクライシスだ。自分の生命や生活がリアルにおびやかされることによる消費の冷え込みがたたって、売上が世界的に大きく消滅する可能性が高い。一部の国のことだけではなく、今の状況は世界的なものなので、グローバルに展開している企業ほどその打撃を強く受ける。

先述のANAなど、エアライン産業が既に危機的状況になっていることに加え、自動車、電機、機械、総合商社など、多くのグローバル企業が業績予測の下方修正や3月期決算発表の延期、来期予想数字の発表取りやめなどを表明している。第二波はすでに押し寄せつつあり、世界スケールのパンデミックが長期化するほど、そのマグニチュードは巨大化する。

第三波として装丁されているのはファイナンシャルクライシス、大規模な金融危機である。タイミングの悪いことにオイルマネーの暴落も合わさっていて、重要なのはこれから本格化するグローバルクライシスをどう受け止めるのか、そしてそれを受け止めそこねた先に訪れる可能性が高い全世界的な経済不況をどう迎えるのかである。

修羅場の経営の心得

と、ここからはこうした危機的状況家における修羅場の経営の心得が語られていくのだけど、このへんは経営者だけでなく企業幹部にとっては非常に有益な内容だろう。最悪の想定を置き、最善の準備をせよ、bad newsをあきらかにし、信用毀損を恐れるな、短期的なPL目標は捨てて、日繰りのキャッシュ管理がすべてだと、コロナに限った話ではない「サバイブの仕方」が、経営共創基盤代表取締役として様々な企業の再生・コンサルタントに関わってきた著者の実体験とあわせて語られていく。

特にこのような状況下においては(今に限った話ではないと思うが)、日繰りのキャッシュ管理がすべて、というのは日夜資金繰りに追われているような経営者は身にしみて実感しているのではなかろうか。とにかく銀行から借りられる金は早め早めに、事態が悪化する前に徹底的に借りておくなど、非常に実際的な助言にあふれている。『恥も外聞もなく、使えるものは親でも国でも何でも使え。古今東西、危機の経営にとって絶対の経営格言はCash is King!なのである。』

おわりに

おそらく100ページぐらいの本で内容を書きすぎるのもあれなのでここらで収拾に入るが、このような先行き不鮮明の状態だからこそ、必要なのは奇策ではなく王道を行くことなのだろう。本当に必要な事業に力を集中し、とにかく借りられる金は借りて、薄っぺらな情けをかけずに合理的な判断を重視し、楽観的・情熱的に実行する。

経済危機時には同じ業種でもよりダメージを受けるのは、生産性が低く財務体質の悪い企業であるから、経済危機とそこからの回復期は低生産性企業が再編し、より生産性が高い企業に事業や働き手がシフトされるチャンスでもある。もちろん現状は危機的な状況ではあるが、『破壊的危機の終わりは破壊的イノベーションとの戦いの再開を意味する。』というようにチャンスの側面もある。

これから先、コロナに限らない経済危機に強い業態とはどのようなものなのか。また、国の支援はどのような形であるべきかなど、短いながらも非常に多角的に論じられている。今のところ電子書籍版の先行販売で、紙の本はGW明けに出るようだ。

ペストから新型コロナまで──『人類と病-国際政治から見る感染症と健康格差』

4月18日頃刊行の新書なのでなんともタイムリーな……と読み始めてみたが、コロナ騒動が持ち上がってから書き飛ばされたような新書ではなく、数年にわたって書き続けてきた本がこのタイミングで刊行となったようだ。タイミングがよすぎるが、人類の歴史は感染症との戦いの歴史でもあって、そこまで「偶然の一致」というわけではないのかもしれない。歴史を振り返れば戦いは常にあったのだから。

というわけでこの『人類と病』は、主に感染症にたいして人類は国際政治という観点からどのように戦ってきたのか、その戦うためのスタイル──保健協力の体制を、どのように作り上げてきたのかをまとめた一冊になる。あまり分量的には多くはないが、現在蔓延している新型コロナについての記述も各章に散りばめられている。

感染症は、一国の中で収束するものではなく国境を超えていくので、国際的な協力が必要不可欠だ。今でこそこうした世界的な感染症についての対策をするWHO(World Health Organization)という機関があるが(政治的な問題で分裂しかかっているが)、当然ながら過去には存在していなかったわけで、どのような流れの中でWHOが生まれることになったのか。その失敗と苦闘の歴史がコンパクトにまとまっている。このような混乱状態にあるときこそ、「そもそもなぜWHOは設立されたのか、そしてなぜ今このような状態になっているのか」という過程を理解することは重要だ。

感染症との闘い

感染症との闘いとしてまず真っ先に上がるのはペスト(黒死病)だろう。これはペスト菌に由来した感染症で、1347年から52年にかけては人口の3分の1が犠牲になったといわれている。14世紀のことなので治療法どころか感染のメカニズムもわかっておらず、とにかくバタバタと人が倒れていく。その後何度も流行を繰り返し、17世紀ロンドンに至っても混迷した市民たちは占い師を頼り、自称魔法師や妖術者が現れた。

17世紀でさえも予防ワクチンも感染メカニズムもわからないので、とりえる手段は隔離であった。患者発生の家は1ヶ月、患者を訪問したものも一定期間自宅監禁されたが、これは市民のヒステリーを引き起こして逃亡を企てるものが続出したという。

フランスの作家アルベール・カミュは一九四七年に発表した『ペスト』のなかで、ペストに襲われ、閉鎖された都市の様子を描いている。幾何級数的に増えていく患者の収容が追いつかず、患者の出た家は閉鎖され、しまいに都市全体が外部と遮断される。食料の補給と電気の供給は制限され、ガソリンは割当制となる。ライフラインを絶たれ、絶望のなかで葛藤する人々の姿は、第二次世界大戦中、ドイツ軍占領下のフランスの様子と重ね合わせられている。「ペストがわが市民にもたらした最初のものは、つまり追放の状態であった」(カミュ、一〇二頁)という一文は、感染症が戦争と同じく、市民社会を包囲し、極限に追い込みうるものであることを示している。

今日のような状況は、何も未曾有の事態ではなく、繰り返されているのである。

対処の進歩

で、人類は感染症に完全勝利しているわけではないので、未だにその威力は我々にかなりのダメージを与える。だが、対処が後退しているわけではない。ペストと並んで極悪な感染症である一九世紀に爆発的に蔓延したコレラは、はっきりとした感染メカニズムは不明ながらも不衛生な環境が関係していると判明し、公衆衛生設備が次第に発展していった。だが、一国がそうやって対処をしても感染症は国境を超えてくるから、その時はじめて国際的な感染症対策の会議が必要とされることになる。

そのはじまりとして、一八五一年にフランスの主催で最初の国際衛生会議が開催された。そこではろくなことが決まらなかったが、エジプト、マルセイユでもコレラが蔓延し(どちらもイギリスが持ち込んだ)、今度こそ国際的な合意を形成しようと一八八五年にローマで国際衛生会議が実施。統一した国際検疫システムの運用が目指されたが、経済への影響を懸念したイギリスの反対によって合意形成には至らなかった。人の行き来が少なくなると経済は息詰まる。一方、感染症が蔓延してもそれは同じだ。国際衛生協定が結ばれたのはそこから二〇年近く経った一九〇三年のことになる。

もっとも、この国際衛生協定はコレラ、ペスト、黄熱病に限定されていて、第一次世界大戦時に猛威を奮ったインフルエンザ、マラリアは対象外であった。その時(第一次世界大戦後だが)に立ち上がった/活躍したのが、人類史上初の普遍的国際機関である国際連盟である。国際連盟規約は第二三条で、病気の予防と撲滅に取り組むことを規定していて、これで感染症への対策が国際連盟の管轄事項となった。この時に国際連盟保健機関が設立され、第二次世界大戦&国際連盟の消滅&国際連合の設立を経て、「再度国際的な保健機関を作ろう」という声かけがあがり、世界保健機関の設立へとつながっていくことになる。とはいえ、そこも一筋縄ではいかなかった。

まず敗戦国の加盟を認めるのかという論点があり(イギリスは慎重派だったが、アメリカはすべての国に開かれたものであるべきとしして受け入れられた)、冷戦の影響があって国連が安全保障以外の問題を扱うことに否定的なソ連との確執など、WHOがたびたび(今もそうであるように)国際政治の影響を受けてきたのがよくわかる。

おわりに

現代の感染症対策には国際政治と連動した動きも目立つ(米、英がWHOへの拠出金を止めたり、武漢ウイルスと呼んで敵対を煽っていたり)。ただでさえ移動・経済に影響が大きい上に、感染症が蔓延すると軍事行動に影響が出、安全保障に大きな影響を与えることもあって、政治の介入する余地は年々大きくなっている。『新型コロナウイルスへの対応をめぐっては、WHOは分担負担率の多い中国やアメリカの意向を踏まえざるをえないし、核開発をめぐるアメリカとイランの対立、貿易をめぐる米中対立や中台の緊張関係等が反映されているのは、そのような特徴によるものである。』

歴史的にみると実は感染症への対策は、協力することで双方ともにが利益を得やすい構造から、国際社会における「共通の敵」として機能し、協力を深めるいい機会になることも多い。冷戦時代にポリオワクチンのために協力したソ連と米国、国産連盟を脱した後も国際連盟保健機関と協力をした日本のように。が、現状をみるとむしろ対立が深まる方向へと進んでいるのが残念でならない。

ざっと紹介してきたが、他にもWHOがどのような具体策を打って天然痘を根絶させたのか、マラリア対策での悪手、また、目指すべき健康を「身体的、精神的、社会的に完全な良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」と定義するWHOが行う「生活習慣病対策」の難しさなど、幅広くWHOの役割についてみていっているので、特にこのような状況下では一度読んでおくことをおすすめする。

CEOに就任して15年で時価総額を5倍に、ピクサーにマーベルといった超大型買収を次々成し遂げた凄い男の回想録──『ディズニーCEOが実践する10の原則』

ディズニーCEOが実践する10の原則

ディズニーCEOが実践する10の原則

ロバート・アイガーは本当に凄い男だ。ディズニーCEOに2005年から君臨し、当時ヒットする映画を全く生み出せず低調だった組織体制を再編し、コンテンツ重視の質を重視する組織に生まれ変わらせた。その端緒としてピクサーを買収、マーベルを買収、スターウォーズを手に入れ、21世紀フォックスを買収し、そのいずれもで凄まじいまでの興行収入を記録。15年で目覚ましいエンタメの帝国を作り上げた。

今ではマーベルの作品もスターウォーズもアバターなどの作品もぜんぶ「ディズニー」なのだ。この好調を思うとほんの15年まえにディズニーが落ち目だったことを思い出すのは難しいが、確かに当時ディズニーの出す映画はどれもぱっとせず、莫大な投資をしているにも関わらずなかずとばずで苦しい状態にあった。そうした状態から持ち直して今のような状態にまで持っていくのは並大抵のことではない。

すごいのは、そうした圧倒的成功体験を今まさに築き上げているさなかに何度も引退を打診していて、巨大買収が落ち着いたタイミングでようやく引退(今年のはじめに)を成し遂げたという「引き際の見事さ」もある。いったいそんなことをどうやったら成し遂げられるのか、気になるに決まっている。だからそんな彼が出したこの本には出る前から相当に期待していたのだけどいやはや、これがおもしろい。

10の原則とめちゃくちゃ自己啓発っぽくついているが、本のほとんどは彼の仕事人生を振り返るビジネス回想録であり、その時々で彼がどのように悩み、決断していったのか。ピクサーのジョブズやマーベルの買収の時にどのような判断があったのか、といったことが語られていく、そうした彼自身のストーリーが抜群に魅力的なのだ。

どのような人間なのか

ロバート・アイガーがそのキャリアを本格的にスタートさせたのは全米ネットワークテレビ局のABCに入った1974年のこと。スタジオ管理者という名前は勇ましいが実際はただのスーパー雑用係という大したことのない役職からのスタートだった。

北朝鮮で行われた世界卓球の中継を契約するなど(経済制裁中で北朝鮮との契約が一切禁止されていてアメリカ内務省から警告が入るなど困難があった)大きな仕事をこなして着実に社内での評価を上げていった結果、1985年、34歳でABCスポーツのバイスプレジデントに就任。1989年にはオリンピック番組の成功などを受けてこんどはABCエンターテイメントのトップに就任と、テレビ業界で上にのぼっていくことになる。ABCエンターテイメントはドラマなどを手掛ける部門で、スポーツ畑出身、エンターテイメント業界出身ではない人間がそのトップに立つのは初の試みだった。

この時期の注目すべき仕事の一つはデヴィッド・リンチ製作総指揮の『ツイン・ピークス』だろう。攻めた内容で話題になったドラマで、こんな作品をやってくれるなら……とスピルバーグやルーカスから電話がかかってきたという。ここでのやりとりがのちのルーカス・フィルム買収に寄与することになるのだが……それはそれとして、1994年にそうした功績が評価されて今度はABCの親会社であるCapital Cities /ABCの社長兼最高執行責任者に抜擢されることになる。ディズニーが出現するのはその2年後、1996年に(ディズニーが)Capital Cities/ABCを買収してからだ。

アイガーがディズニーのCEOになるのは2005年のこと。当時のディズニーは先に書いたように大量の問題をかかえていた。長年ナンバー2としてディズニーで仕事をしていたこともあって、次期CEOとしては社内唯一の候補だったが、同時に現在の状態に寄与した人間として旗色は悪かった。だが、15回もの面接を経てCEOに選出され、アイガーは事前に立てていた3つの戦略的課題に向けて動き出すことになる。

1つは、良質なオリジナルコンテンツを作り出すことにほとんどの時間とお金を費やすこと。2つ目に、テクノロジーを最大限に活用すること。3つ目に真のグローバル企業になること。言っていること自体はもっともだが、重要なのはそれをどう実行するかだが───、その初手がピクサーの買収なのがすごかった。制作体制を立て直すために、自分たちでやるのではなく、ピクサー流を持ち込もうとしたわけだが、誰もがそんなことは不可能だと言っていたし、実際もともとはダメ元に近かったのだろう。

数々の巨大な買収

その話をジョブズに持ちかけた時のエピソードがかなりおもしろい。ビデオiPodの発表を10日後に控え(ディズニーが番組提供をしていたので)、そのことについて話した後、「もうひとつ別にとんでもないアイデアがあるんだが話に行っていいか?」とアイガーが切り出したところ、「今教えてくれ」と返されたという。

 電話をつないだまま、自宅前に車を停めた。それは一〇月の暖かい夜で、エンジンを切ったものの、暑さと緊張で汗が吹き出した。妻のアドバイスを心の中で唱えた。ドンといけ。その場で断られる可能性は高い。上から目線だと思われて、腹を立てられてもおかしくない。ピクサーを軽々しく買収できると思うなんて、ずうずうしいにもほどがあるのかもしれない。ふざけるなと言われて電話を切られて終わっても、元に戻るだけだ。失うものは何もない。「お互いの未来について、しばらく考えていたんだ」そう切り出した。「ディズニーがピクサーを買収するっていうのはどうだろう?」スティーブが電話を切るか、吹き出すか、待っていた。その一瞬が、私には永遠に思えた。
 私の予想を裏切って、スティーブはこう言った。「あぁ、それならとんでもないってこともないな」

その後アイガー率いるディズニーはマーベルを買収し、ルーカス・フィルムを買収するのだけれども、こうした数兆円規模のビッグディールでも結局重要なのは人と人との関係性とか信頼の構築なんだなと思う。ジョージ・ルーカスとの交渉の中で、ルーカスは売るとしたら君以外にいないといい、その理由として、ルーカスがABCでやっていた『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』が視聴率がふるわなかった時に、アイガーが助けを出し、シーズン継続の許可を与えたことへの感謝を語ったのだ。

相手に敬意を払うこと

本書を通して一番印象に残っているのは「他者への敬意」だ。アイガーは本書の中で決して他者を悪く言わない。こういういざこざや言い争いがあった、と事実は書くが、相手を必ず認めた上でのことが十分わかるように配慮されている。

そうした言動はディズニーのような超巨大企業のCEOにおいては当然のものともいえ、嘘くささも感じるが、多くの関係者がアイガーのそうした態度をたたえていることもあって、少なくとも表向きには彼のその態度は真実のものなのだろう。

 ほんの少し敬意を払うだけで、信じられないようないいことが起きる。逆に、敬意を欠くと大きな損をする。その後の数年のあいだに、私たちはディズニーを生き返らせ、その姿を変えていくような大型買収を手がけることになる。その中で、「敬意を払う」という、一見些細でつまらないことが、どんなデータ分析にも負けず劣らず大切な決め手になった。敬意と共感を持って人に働きかけ、人を巻き込めば、不可能に思えることも現実になるのだ。

目先の利益を無駄にしてでも、相手に対する敬意を優先させたほうがいいこともある。感情を傷つけることで底なしの闘いに巻き込まれるかもしれないし、それ以上に敬意を払うことで相手が協力的になってくれるという巨大な利益が見込めるのだ。アイガーのキャリアをみていくと、たしかにそうした現実がみえてくる。

もちろん時の運に支えられた面も多くあるが、アイガーという凄まじい経営者の手腕が垣間見えるいい本であった。

未来を考えるうえでもっとも重要な「世界人口の減少」というテーマ──『2050年 世界人口大減少』

数十年後の世界人口がどうなっているのかというのは、最重要のトピックだ。何しろ、環境問題の悪化も、経済の状況も、文化も、都市化も、今世界で問題になっているすべてのことが人口に関係しているからだ。極端な話世界人口が10億人しかいないのであれば、少なくとも炭素排出量で大慌てする必要などまったくないのである。

そして、日本を見てもらえればわかるように、今どんどん出生率は下がり、結果的に人口の数は長期に渡って下がり続けていくと予測されている。この流れは日本だけでなく、中国でも韓国でも、東欧でもまったくかわらない。アフリカなど依然として出生率が高い国があるおかげで世界人口自体はまだ伸びているが、これが永遠に伸び続けていくと予測しする人はどこにもいない。だから、「世界人口が減少に向かう」こと自体には広く合意がとれている。問題は、「いつそれが起こるか」である。

本書は書名にも入っているように、実はそうした人口の減少が国連などが予測しているよりもずっと早く、30年後にはもうやってくるのではないか、と主張する本である。一度減り始めた人口は、特別なことが起こり得ない限り(精子を提供するだけで勝手に産まれて育つような仕組みとか)増加することなく減り続ける。『我々の目前にあるのは人口爆発ではなく人口壊滅なのだ。種としての人類は、何世代もかけて、情け容赦なく間引かれていく。人類はそのような経験をしたことは一度もない。』

「そんなことないでしょ。多くの子供を持つような政策をとれば子供は増える! 結局は政権の態度の問題」と考える人もいるだろうし、確かに金をかけて子供を産むことを積極的に支援すれば出生率に改善がみられることがわかっている。だが、人口が増えるためには人口を維持するだけの水準で生み続けなければならない。現在の日本の人口置換水準は2.07だが、どれほど支援策を出してもここを超えるのは難しい。本書では、そうした対策の数々となぜ難しいのか、といったことも語られていく。

なぜ出生率は下がっているのか?

なぜ世界的に出生率が下がっているのか? と疑問に思うかもしれない。ただ、これは日本で生きて暮らしている人ならばすでに言われなくてもわかっているのではないか。現状で日本で子供を産むというのはあまりにも大変なのだ。まず、単純に子供を産むという行為が母体にとって非常にリスキィであることはいうまでもない。また、まだまだ男女平等にはほど遠いが、女性の権利も尊重されるようになり、同時に働きに出て男性と同じようにキャリアを積み上げることも増えてきた。

そんな状態で、子供を3人も4人も産むことのリスクと代償は大きい。産む体力、育てるための体力時間、教育のための資産、仕事に復帰できる目処もたたない。中世ヨーロッパの社会では人口の90%が農業で暮らしていた。その時は、子供は「投資」になった。畑を耕す労働力が増えるからだ。だが、都市では子供は「負債」になる。金を稼ぐ労働力にはならず、むしろ現代の高水準化した労働環境に適用させるために20年以上に渡って教育を施す必要もあり、その教育費用は莫大だ。

つまり、人々は都市に住むと自然と子供の数を減らすようになる。そして、もうひとつ大きな要因とされているのは「女性に対する教育」である。ある女性が受ける教育の水準が上がれば上がるほど、女性に権利面、知識面での力が与えられ、その女性が産むであろう子供の数は減っていく。これが今、先進国だけではなく発展途上国でも起こりつつあり、世界中で出生率低下、もしくはその兆候がみられる要因だ。

施策でなんとかならないのか?

助成金を出したらどうなのだろうか? この分野で知られるのはスウェーデンで、数十年にわたり手厚い出産支援を行ってきた。たとえば、保育サービスの時間延長、男性も育児と家事を分担するキャンペーン、育児休暇は480日、ほぼ全期間で収入の80%が補償。子供がひとり増えるごとに手当が追加される手厚い家族手当、ベビーカーを押している親は公共交通機関が無料など、幅広い取り組みが行われている。

そこまでやってもスウェーデンの出生率は1.9で、人口を維持するのに足りないのである。しかも、そうした施策には莫大な費用がかかるので、不況に突入し手当が縮小すると、あっというまに出生率も下がってしまう。景気が回復し都市化が進むと出生率が下がり、景気が悪化しても手当が縮小されても出生率が下がるので、きつい状態であると言える。『良い条件が出生率を下げ、悪い条件も出生率を下げるのだ。』

日本は?

いうまでもなく日本は少子高齢化社会である。あまりにもその出生率の下がり方が急なので、本書でもまるっと一章割かれている。20歳の女性より30歳の女性の方が多く、30歳の女性より40歳の女性の方が多いのが今の社会だ。妊娠可能年齢の女性は1年毎に前年より減っていくので、もう何をどうかんばろうが増えることはない。

こうした出生率が低下していく状態の思考様式を、人口統計学者は「低出生率の罠」と呼ぶ。『「就業パターンが変わり、幼児保育施設や学校が減り、家族と子供を中心とした社会から個人を中心とした社会へのシフトが起きる。そして子供は、個人の自己実現や幸福のための一要素となる」』どういうこというと、もはや子供を持つことは社会や神に対する義務ではなく、単純にどこで暮らすとか、どこに旅行をするかのような「自己実現」のための要素と同じになってしまっているということである。

どうしたらいいのか?

このままだと、日本は2065年頃には人口が8800万人にまで減る。これはピーク時の2010年の3分の2強なので、これまで国内の需要で操業していけていた企業も、もう国内需要だけでは成り立たなくなってくるだろう。超高齢社会でもあるので、若い世代が上の世代の分を供給する年金制度や、各種税金のバランスも最悪に近くなる。

じゃあどうしたらいいんだ、となってくるが、著者らの結論は基本的には「移民を入れろ」というところに落ち着いている。移民を積極的に受け入れることで、減った分の人口の代替とするのだ。『だが日本人全体が今、ひとつの選択を迫られている。日本社会に移民を受け入れるか、それとも小国として生きるすべを学ぶか、そのどちらかしかない。おそらく日本人は後者を選ぶのではないだろうか。』

無論、そう簡単な話ではない。移民を受け入れるには受け入れ国の開放的な文化が必要だし、これから先世界人口が減って、その前提として最貧国でさえも教育や環境の整備が行われていくという前提があるので、人はますます移動しなくなる(統計的にもその結果が現れている)。もはや移民は奪い合いの時代であり、門戸を開いたからと言って大挙して押し寄せてくるような状態ではないだろう。

おわりに

別に、小国として生きていけばいいという話でもある。税金など数々の面で問題が噴出し多くの高齢者が医療が受けられなくなったり生活が続けられなくなって死亡率が増えるかもしれないが、それを受け入れる覚悟を決めればいいだけの話である。人口減少が続けば環境問題の悪化も食い止められ、小国となった方が最終的には統制がとりやすくなるなど、数十年後には良い側面もある。

本書では、その後中国やブラジル、インドでさえも人口が減っていくことを詳細なデータで追いつつ、アメリカがこれからも世界一の国であることを移民の受け入れ率などから論証していったりと非常に読み応えがある構成になっている。とにかく、未来を考えるうえで最も重要な一冊であるといっていい。文藝春秋からは昨年も『人口で語る世界史』という名著が出ているので、こちらと合わせて楽しんでもらいたい。

人口で語る世界史

人口で語る世界史

再生可能エネルギーを前提とした分散型インフラへと大転換するために──『グローバル・グリーン・ニューディール: 2028年までに化石燃料文明は崩壊、大胆な経済プランが地球上の生命を救う』

『第三次産業革命』、『限界費用ゼロ社会』などの著作でこれから先のエネルギー・インフラについて提言を行ってきたジェレミー・リフキンによるこの新作は、化石燃料文明の崩壊が間近に迫った現状の解説と、再生可能エネルギーを主軸にした新しいインフラを今こそ整備するときであるとする、これからについての提言の書である。

本書のサブタイトルに入っている「2028年までに化石燃料文明は崩壊」は、何も化石がなくなって文明が終わるといっているのではない。2028年頃には再生可能エネルギーのコストが下がりつづけることで化石燃料の資産価値が大きく下がり、座礁資産と化し、カーボンバブルの崩壊による経済危機。さらには急落した資産を売り抜けようと地下や海底に眠る石油資源をギリギリまで採掘しようとして温室効果ガスの排出量が壊滅的に増加する状況のことをさしている。そうした状況を回避するためにも、早め早めの転換が求められる、というのが大まかな主張なのである。

ではどうすればいいのかというと、一つには化石燃料由来の温室効果ガスを抑制するため、エネルギー源を再生可能エネルギー中心にし、脱炭素化することである。今、EUや中国を中心に、そうした脱炭素化へのシフトが起こっている。アメリカもまた、ニューディール政策にちなんだグリーン・ニューディールを実現するための特別委員会を設置。2019年2月には2030年までにエネルギー需要の100%を再生可能エネルギーでまかなう目標数値を掲げたグリーン・ニューディール決議案が議会に提出され、これに民主党の大統領候補はすべて賛同する(が、そんなん無理やろと盛大に批判がとんだ)、2020年の国政選挙に向けて争点となりつつある状況のようだ。

気候変動が問題なのは多くの人が賛同するし、その手段として再生可能エネルギーに注目が集まるのもわかる。だが、競争力のないエネルギー源に手を出したらより大きな競争には負けてしまう。再生可能エネルギーに大転換するには何兆ドルもかかる見通しであり、そんな金がどこにあるんだ、という批判が出るのはもっともである。

だが、そうした状況に今「大転換」が起こりつつある、というのが本書の主張である。EUが先導をきり、中国がその後を追い、再生可能エネルギーに関する技術開発が進んだ結果、石油よりも太陽・風力エネルギーを利用したほうが安くなり、市場が主導する形でゼロ炭素に向かうことができる未来も開けているというのだ。

著者はこれまで欧州委員会委員長、メルケル独首相などEUの中枢のアドバイザーをつとめ、中国のこうした脱炭素化の運動にも関わっていたりと、この分野の専門家にして中心となってこの状況を推し進めてきた人間である。そのため、再生可能エネルギー楽観論には利害関係者としてのポジショントーク感があるわけだが(アメリカで今グリーン・ニューディールが攻撃にさらされていることもあり)、いずれエネルギー源としては環境側面以外にコスト的な意味でも、そちらにシフトしていくという流れそれ自体には間違いがないだろう。専門家による、読み応えのある一冊だ。

EUは何をやっているのか?

さて、では流れの一つとしてあげられているEUは何をやっているのか。EUは今も「脱炭素社会」に向けて一貫して舵を取り続けている。2019年末に欧州委員会は50年までに排出実質ゼロを達成する世界初の大陸になるという指針を再度明確に示し、あらゆる政策分野に気候と環境からの視点を介入させ、同様の規制を尊重しない外国企業の製品の輸入に課税する仕組みを入れるなど、「本気」の姿勢が感じられる。

EUにおけるそうした大きな動き自体は10年以上前からはじまっている。たとえば2007年から2008年にかけて、EUはエコロジカル時代の実現に向けてすべての加盟国に、2020年までにエネルギー効率を20%高め、温室効果ガスの排出を1990年対比20%削減。さらには再生可能エネルギーによる発電量を20%にまで増大することを義務付ける、20-20-20目標を決定。ドイツでは水力を除く再生可能エネルギーだけで27.7%を達成するなど、地道な前進を続けている状況である。

こうした状況を推進するにあたって、著者が提言する方法は5つの大きな柱に絞られる。第一に、建造物を改良し、太陽光発電設備を設置・送電しやすくすること。第二に、再生可能エネルギーで化石燃料を置き換えるにあたって、野心的な数値目標を設定すること。第三に、電気を貯蔵するための装置を地域の発電所や送電網に組み込むこと。第四に、すべての建造物にメーターなどのデジタル装置を設置し、送電網をデジタル接続に変更すること。これにより、地域内の複数の場所で発電された自然エネルギーによる電気を送電網に流すことができる。第五に、電気を逆に送電網に送り込むことで収益化もできる駐車場の充電スタンドと電気自動車を用意することがある。

つまるところ、著者が推進しているのは単に再生可能エネルギーですべて置き換えることではなく、都市まるごとを作り変えるようなインフラの大転換である。これらを一度におこなうことで、エネルギーは中央から一方的に送られてくるものではなく、分散型になったエネルギーのインターネットともいえる状況が現れることになる。

 再生可能エネルギーのインターネットのプラットフォームを構成する五つの柱を導入し、統合することで、送電網は中央集権型から分散型へ、発電は化石燃料と原子力から再生可能エネルギーへと変換できる。新しいシステムにおいては、あらゆる企業、地域、住宅所有者は電気の潜在的生産者となり、余剰の電気をエネルギーのインターネットを通じて他者と分かちあうことができるようになる。

中国は?

こうした動きに乗っているのは中国もだ。2018年の再生可能エネルギー投資額でも、EU全体の745億ドル、米国の642億ドルにたいし、中国は1001億ドル。世界の総投資額は3321億ドルだから、中国だけで約3分の1を占めている。また、中国における総発電電力量に占める再生可能エネルギー比率は25%と極めて高い。

経緯としては、2012年、中国の李克強首相が著者の『第三次産業革命』を読んでそのヴィジョンの検討に当たらせ、習近平時代になってもその流れは変わらず、2030年までに一次エネルギー消費に占める非化石燃料の比率を20%に引き上げる方針を実施しつづけている。エネルギー調査会社の試算によれば、中国は2050年までに電力供給の62%を再生可能エネルギーが占めるという。『このことは近い将来、中国経済に動力を提供するエネルギーの大半が限界費用ほぼゼロで発電され、中国とEUが世界でも最も生産的で競争力のある商業地域となることを意味している。』

おわりに

こうした動きが起こると、技術的な革新も起きてどんどんコストが下がり、これまでは不可能だったことも可能になる。たとえば、再生可能エネルギーには安定性がなく(曇りが続く日などもあるから)、必ず予備の電力施設が必要とされるという批判についても、蓄電技術が向上しているからそんなことはないと反論している。

無論、そのインフラの転換には4000億ドル以上の費用がかさむとみられているが、その経済効果は1兆ドル以上とも言われており、そもそもそれだけの費用をどこから捻出するのか──といった政策レベルの提言も本書後半ではじっくり練られていくので、絵空事だろうなどとおもわず、ぜひ(気候変動とエネルギーの未来について興味のある人は)手にとっていただきたい。

格差から経済の長期停滞まで、現代経済の様相の原因を無形資産で説明する──『無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体』

無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体

無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体

無形資産とは、文字通り「無形」、つまり形がない資産のことである。ゲームやwebサイトに代表されるようなソフトウェアは無形資産の最たるものだが、たとえば店舗のある販売型ビジネス(スターバックスとか)でも、販売の効率化、仕組み化、教育などを行っている場合、それらも(本書においては)無形資産のうちに数えられる。

本書は、そうした無形資産が経済を支配するほどに大きな存在になってきた現代の解説の書である。とはいえ、無形資産代表格であるソフトウェアが40年伸びているわけで、今さらそれが経済を支配するとか言われても当たり前じゃね?? と疑問を抱えながら読み始めていたのだけれども、いやはやこれがどうしておもしろい。無形資産を明確に定義し、その性質をあげて「有形主体の経済とどのようなふるまいの違いをみせるのか」を導き出していて、おおそうなんだ! と納得してしまった。

また、「なぜ現代社会ではこれほどまでに経済格差・自尊心格差が広がっているのか?」「いくら金利を下げても投資が活発化せず、長期停滞を招いているのはなぜなのか?」など、いくつもの現代の経済様相を無形投資の増大から(すべてではなく、一部が)説明ができるのではないかと数値を細かくあげながら試みていく。この説明を通すと現代経済の見通しが、たしかにぐっとよくなるのだ。

無形投資って増えているの?

本書の第一部では「無形投資や資産って増えているの?」という基本的なところをおさえていく。無形投資はソフトウェア、研究開発、鉱物探索、娯楽・芸術の創造、デザイン・設計、市場リサーチや研修、教育などがあたる。これについては正直、今やあらゆる小売店がインターネットと繋がっていて裏側で巨大なデータベースでの商品管理などが行われている現状、実感レベルでも増えていることはわかるだろう。

アメリカの有形投資と無形投資の産出額に占める比率の推移をみると、1993年頃を境にして無形投資が有形投資を上回りつづけている他、イギリスも1999年頃を境に無形投資が上回っている。こうした各種グラフをみていくことで、一部の先進国で無形投資が有形投資を上回っていること。有形投資の方が上回っている国においても、有形投資は着実に減りつつあり、逆に無形投資は増え続けていることがわかる。

無形資産の4つのS

といったところで基盤を固めて、無形資産の4つの特徴をみていくことになる。これは、「言われんでもわかるわ」みたいなところもあるが、あらためてその特徴をあげてそれがもたらす帰結を考えると、なかなかおもしろく感じられるだろう。

特徴とはたとえば、スターバックスが適切な従業員マニュアルを一回作れば、あとはそれを中国語などに翻訳する僅かなコストで世界中で使うことができる、「スケーラビリティ」。TwitterやFacebookや各種ゲームもそうだ。次に、「サンク性」。家などの有形資産であれば比較的転売が容易であるのにたいして、まったくヒットしなかったソーシャルゲームを終了しようとした時、それは通常、買い手がつかないか買い叩かれる。スタバのマニュアルなども、スタバ独自のものになっていて、別のコーヒーチェーンでは通常利用できない。つまり、無形資産は簡単には売却できない。

3つめがアイデアが派生していく「スピルオーバー」だ。これは他の企業が他人の無形投資を活用するのが比較的容易であることである。有形資産は鍵などをかけることで盗むのが難しいが、アップルがiPhoneが出たらすぐにAndroidが出てきたり、ヒットしたゲームがでると、すぐにそのコピーゲームが出回るように、アイデアは容易く盗むことができる。最後はシナジーだ。軍事情報技術が電子レンジを生み出したように、時に無形投資は予想もつかないほうこうとシナジーをして価値を生み出す。それは生物学的進化のようなもので、どのように転ぶかの予測が非常に困難である。

この4つの特徴から、また別の特徴が派生する。一つは不確実性で、無形資産がもたらすシナジーが予測できないのに加え、スピルオーバーによって競合が出てきた時にどのような収益があがるのか予測できず、失敗した時に売却が難しいのでリスクが大きいからだ。また、スピルオーバーによる競合を防ぐため無形資産企業は知的財産法で守ろうとするが、それではシナジーが生まれにくくなるというジレンマがある。

長期停滞と格差について

こうした無形資産の特徴が、現代の経済で要因のわかっていない問題を説明してくれるのが続いておもしろいところだ。たとえば、現代ではイギリス、アメリカなどで低金利なのに低投資状態で、それにも関わらずアメリカその他の企業利潤は過去数十年で最高の水準な状況が続いている。また、収益性の面でトップ企業とそれ以外によって大きな差が開いているなどの状況があるが、そのうちのいくらかは、無形資産の増大と関連して説明することが出来る。

たとえば、投資が少なすぎるようにみえるのは、無形投資が完全には計測されていないからだ。無形資産はスケーラブルなので先進企業は追随企業を引き離してしまえる(から企業間格差が広まる)。さらにはスピルオーバーやシナジーの利益を享受できるのも潤沢に資産があり、不確実性や回収不可能性を許容できる先進企業なので、先進企業と後塵企業の差を拡大し、後塵企業の投資インセンティブを下げるなど。

それらを関連した格差についての話も興味深い。無形投資の多い世界では、不確実性が高まるから、企業は才能ある従業員を雇うことでその不確実性を乗り越えようとする。ただし、人間は根本的帰属性の誤謬と呼ばれる、何が良い結果があった時にそれは何らかの要因のおかげ(CEOの技能)であって、ツキや偶然ではないと思ってしまうので、因果関係がないままに一部の人間の給料が青天丼であがっていく。

また、格差は所得だけでなく富の問題でもあることを知らしめたピケティの『21世紀の資本』への批判で、アメリカの最富裕層の富の増大は、彼らが元から持っていた所有物件価値上昇からきているだけだというものがあるが、実はこれも無形資産の特徴である「スピルオーバー」と「シナジー」を最大化させるために企業および従業員が都市に一極集中して土地や家の価値が上がり続けているからなど、無数の側面から格差と無形資産の増大を絡めつつ論じていくことになる。

おわりに

不確実性の高い無形投資をどのように活発化させていくべきなのか。公共政策の役割について、有形資産から無形資産へと移り変わっていく中で、インフラはどのような変化を迫られるかなど、本書の後半ではここで紹介した内容に対する「では、どうしたらいいのか」が語られていくので、ぜひ読んでもらいたい。現代の経済の様相がかなりの部分把握できる良書である。

持続可能なコーヒー栽培を目指して──『世界からコーヒーがなくなるまえに』

コーヒーを日常的に飲む国が増えたこともあって、世界のコーヒー需要は年々あがっている。一方で、大量生産と安価な供給を目指し大規模に工業化されたコーヒーの栽培、育成が大地に与える悪影響。また、全世界的な気候変動が伴って㉚年後には今のようにコーヒーを楽しむことはできないという研究者もいる。

『世界からコーヒーがなくなるまえに』は、そんなコーヒー終了のお知らせの最中にいる現代にあって、持続可能なコーヒー栽培がいかにして行われえるのか、その可能性を追求する農家への取材をメインに構成されたコーヒーノンフィクションである。

もし私たちが美味しいものを味わい続けたいのなら、コーヒーとの関係も変わるべきだ。どこから豆が来ているのか知るべきだし、栽培環境やサステナビリティも忘れてはならない。量より質、つまり大量にコーヒーを淹れて飲み残しを捨てるのではなく、少なく、大切に、美味しい豆を轢いて淹れるべきだ。

僕自身、毎日家で安いインスタントコーヒーに牛乳をダバダバ入れながら読んでいるのだけれども、本書を読むことで世界でどのようにコーヒーが栽培されていて、それがどのように味に影響を与えているのか、安価なインスタントコーヒーが日本までどのように運ばれてくるのか、きっちりとおいしいコーヒーとは何なのかといったことについて大変勉強になった。

コーヒー豆栽培の困難さ

コーヒーというのはそもそも簡単には育たない作物なのだという。かなりの水分を必要とするし、土壌の養分を根から吸い上げるのでただでさえ長期的な栽培は難しい。効率の良い栽培をするためにはかなりの作地面積を必要として、それが平らである必要もあるから大量の木が切り倒され、木陰もなくなるせいで不足した分の水分をさらに注ぎ込む必要が出てくる。

土は時折休耕させねばならないが、ブラジルのように温暖な気候の場所では常に土壌から何かが芽吹いてフル回転で使われてしまうために、自然の回復力だけでは追いつかない。それをなんとかしようと化学物質を投入するわけだが、雑草や害虫の除去に毒性の強いものを使うこともあって、土壌は汚染され、微生物群も死滅してしまう。さらには虫には毒への耐性もついていき──と、そうした負のスパイラルに陥っているのが現状のコーヒー栽培なのである。

持続可能なコーヒー栽培

本書で中心となって取り上げられていくのは、ブラジルで作物だけでなく従業員まで含めてきちんと健康的で持続的な栽培・労働ができるように取り組んでいる農場の運営者シゥヴィア・バヘット、マルコス・クロシェの二人だが、シゥヴィアとマルコスはこうした環境破壊的な大量生産から距離をとっている。まず彼らは、作物を畝に沿って植え、その間にバナナやアボガド、豆類、多年草と一年草を交互に植える。これによって一年草が枯れることで肥料になるのだ。

雑草を抜いたりも手作業でやらないといけないし、収穫についても一個一個完熟度合いを確かめての手摘みになるので、当然こうしたオーガニックな方法での栽培は大規模な工業的手法と比べると効率が悪くなる。たとえば、鉱業型農場では1haあたり3トンの収穫量が見込めるが、良く機能しているオーガニック農場では1haあたり1.5トンと半分に過ぎない。つまるところオーガニックでいこうとした場合工業的手法と比較して相応の値段で売らないといけないわけだけれども、シゥヴィアとマルコスの凄いところは、きちんと自分たちの栽培の物語と品質の良さを伝えて、高く買ってくれる顧客を開拓することに成功しているところだ。

ただ、これについては他の農家が「そもそも高く売れるものを、無知であるがゆえに大手焙煎所に安く買い叩かれている」という側面もあるらしい。たとえば、アメリカのリーハイ大学の助教授によるとウガンダのコーヒー豆生産者達に取材した結果、そのうちの半分しか自分たちが栽培しているものが飲み物になると知らなかったという。彼らは自分たちが作物か パンを作るものだと思っていた。それぐらいに無知であると、高く売るどころの話ではない。

ウガンダに限った話ではないが、大手焙煎所は市場価格から数%低めの価格で買い取る代わりに、生産者の収穫全部を買い取ると約束することがある。この時に、生産者側が自分たちが高品質な豆を作っているにも関わらずその価値がわからないと、ただただ買い叩かれてしまうのだ。

マルコスはコーヒーの味わい方を教えるワークショップを開催し、うまいコーヒーとまずいコーヒーの違いを教え、さらにそれをどう栽培すればいいのかを教え、バイヤーに紹介することで周囲の生産者たちの暮らし向きがよくなるように行動を続けている。ただ品質を上げるだけでなく、きちんとした値段で売ることで生産者ら自身の生活も向上させ、土壌だけでなく生産者まで含めた持続可能な経済圏を築き上げているのだ。

おわりに

「コーヒーみたいに身近なものが認識を深め、世界を変えることができる。この美しい地球に生まれる人間皆が楽しんで、自分の必要性を満たし、そして自らこの世を去るときに次の世代にもっといい場所として残していく。いいことをしたと分かっていれば、去るときも自分にしてもずっと気分がいいだろう」彼は諭すように言う。

コーヒーについての話ではあるけれども、大規模な気候変動に備えて持続的な食糧生産が可能な体制へと移行していかなければならない、という大きな流れの中にある話であり、国連食糧農業機関による、土壌の劣化によって作物の生産能力は毎年約0.5%ずつ劣化しているという試算もある。コーヒーという身近なものからはじまって、文明の土台である食糧生産について考え始めるきっかけとなる一冊だ。

関連として、デイビッド・モンゴメリーの『土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話』も近著としてはおすすめである。

土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話

土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話

汚職についての詳細なメカニズムを解き明かしていく一冊──『コラプション:なぜ汚職は起こるのか』

コラプション:なぜ汚職は起こるのか
いったいなぜ汚職が起こるのか、と言われても、それが発生する人間心理についてはそう不可思議な点はない。乱用できる権力があり、さらにそれを振りかざすことで利益が手に入るのであれば、そうすることもあるだろう、と容易く想像できてしまう。

「やるだろうな」と想像できる一方で、賄賂を受け取ることによるリスクがある時、賄賂をためらうこともある。たとえば、日本で交通違反で止められたからといって警官に賄賂を渡して見逃してもらおうとする人は多くはない。それは、少なくとも日本においてはそうした汚職を実行することで自分がまずい状況に陥ることが想像できるからだ。汚職に手を出すかどうかには、リスクと利益の均衡が関わってくる。

本書は、そうした汚職についてのより詳細なメカニズムを解き明かしていく一冊である。取り上げられていく話題としては、たとえば、民主主義の国と専制主義の国では、汚職の割合が高いのどちらか? 公務員の給料をあげれば、汚職の割合は減るか? 汚職が存在することは、本当に国家、国民にとってよくないことなのか? などいくつもの疑問に一定の答えが出されるだけではなく、汚職を減らすためにはどうしたらいいのか、という思考の枠組みも提供される。これがおもしろい。

そもそも汚職って悪いことなの?

そもそも汚職は本質的に悪いことなのだろうか? 規制を逃れたり、金を払って特別な融通をきかせてもらうことは、実は社会の流れを円滑にしているのではないか? 

そんなバカなと思うかもしれないが、半世紀前まではこうした考えを示す、「効率的汚職」という見解が存在していた。が、この考えについては、今では様々な事例研究とミクロ経済学的な証拠によって完全に反論されている。たとえば、守るに値しない規制をすり抜け効率的にすることも賄賂の役割だ、というのは効率的汚職派の主要な言い分だったが、実際には賄賂が存在するから規制が増えている側面もある。

汚職が決定的に人命を損なっていることを示す研究もある。たとえば、政治的人脈が豊富な重役がいる会社ほど、人脈の利用や贈賄によって安全規制を逃れているのではないか? という仮説がある。言われてみればそうかもなと言う感じだ。そこで、労働環境の安全が重要な業界(建築、鉱業、化学)276社についてデータを収集し、人脈を持たない企業の、労災死亡の比率を比較した。すると『最も控えめに見積もっても、労災による死亡率は政治的人脈を持つ企業のほうが2倍以上高かったのだ。』

これよりも最悪な汚職もある。天然資源が汚職で取引に用いられてしまうケースだ。国際社会は熱帯雨林の消失を懸念しているから、大抵の場合樹木の伐採は厳しく規制されている。だが、そこで規制当局が賄賂を受け取ってしまうと、汚職が急速な環境破壊を促すことになる。カメルーンの官僚は、違法な伐採業者から受け取る賄賂で、給料と同じくらいの金額を稼いでいるという。こいつの汚職で、地球がやばい。

どのような傾向の国で汚職が起こりやすいの?

意外ではないが、国家レベルの富と汚職には相関がある。たとえば1人当たりGDPと、トランスペアレンシー・インターナショナルの腐敗認識指数との散布図をみると、最も腐敗していない国はフィンランド(1人当たりGDPは5万$)、デンマーク(6万$)、ニュージーランド(4万$)。一方で腐敗が激しいのはアフガニスタン(659$)、スーダン(1876$)とその結果は明白だ。高所得国は全般的に腐敗度が低い。

高所得の何が腐敗を減らしているのだろうか? いくつかあるが、まず一つは十分な給料をもらっていればリスクをおかして賄賂を受け取る必要がなくなる、という単純な考えがある。アメリカでは1820年ー1900年の間に国民1人当たり所得が7倍に増加したが、増大した中産階級が票の買収に応じなくなった。さらに、経済的に繁栄した国では、監視カメラや経理の増員、チェック機構などによって、汚職を減らすためのテクノロジー、仕組みにお金を費やすことができるようになる。

とはいえ、汚職というのは金をかけたからといってそう簡単になくなるものでもない。その理由の一つは、汚職には密接にその国や都市の文化と関わっているからだ。たとえば、冒頭でも紹介したスピード違反で停止を命じられた運転手のケースで考えると、賄賂を支払って見逃してもらえるかどうかは警官個人の性質の問題ではなく、運転手が住んでいるのが腐敗度の高い国か否かにかかっている。賄賂が常習化している国ならば賄賂を渡せば見逃してもらえる可能性が高いが、その逆も然りである。

周囲がみんな当たり前のように賄賂を渡す社会で、汚職は良くないことだと思っていても、自分だけは渡さない/受け取らないという選択をするのは難しい。『もし汚職文化を社会的均衡と考え、他人がどうふるまうかについての相互に一貫した信念だとするなら、自分が汚職に賛成か反対かはどうでもいい。自分の行動は、他のみんながどうふるまうかに依存する』本書でもニューヨーク市警察で汚職に手を出すことを拒否し、上層部に上申した男が仲間の不興を買い殺された事件が紹介されている。

つまるところ、汚職をなんとかしたければ一人がどうこうするというよりかは、全員の相互の期待、信念を一気に変えなくてはならないのである。これが難しい。

どうやって汚職をなくしていけばいいのか。

みんなの期待を変えるったってどうすりゃいいのよ、というのが正直なところだが、本書ではいくつもの手法が検討されていく(公務員の給料を上げるとか。公務員給与と汚職の相関はマイナス。)ので、そのへんは読んで確かめてみてもらいたいところ。

ただ、銀の弾丸があるはずもなく、政府支出の監視、署名活動、継続的なデモなどの地道な活動と、1人当たりGDPの増加を目指していく他ない。それでも、本書は「どんな地道な活動が効果をあげるのか」「どのようにして汚職は起こるのか」について実証的な研究を多くあげ、均衡の観点から解説しているので、オススメである。

BIを導入したら本当に人は働かなくなるのか?──『みんなにお金を配ったら──ベーシックインカムは世界でどう議論されているか?』

みんなにお金を配ったらー―ベーシックインカムは世界でどう議論されているか?

みんなにお金を配ったらー―ベーシックインカムは世界でどう議論されているか?

ベーシックインカムという、最低限所得保障の考え方がこの世に存在する。簡単に説明すれば、一月3万なり10万なりを、制限をつけず全国民に配布しちゃいましょう、という考え方である。「え、毎月10万貰えたらメッチャ嬉しい、やったー!」と気分が沸いてくるが、実際には利点に関しても欠点に関しても様々な議論がある。

BIの想定される利点と欠点

たとえば、そもそも財源をどうするんだ、という問題がある。また、全国民に配分するということは、金持ちにも同様に配るわけなので、貧困者を狙い撃ちにしたほうがもっと効果的なんじゃない? 説もある。他にも、毎月10万も(仮に)もらえたとしたら、人々は働かなくなるのではないか。勤労精神を失った人間は堕落していくのではないか、という考えもある。まあ、どれも反論としてはもっともな話である。

一方でそれら想定される不利益を上回る利点も当然存在する。たとえば、現状我々の社会で叫ばれまくっているAIやロボットの活躍で人間の労働が置き換えられて、労働者それ自体がいらなくなるのではないか、という技術的失業への対策である。労働者がいらなくなるのであれば、働かなくても(最低限は)生きていけるようにすればいいじゃない、ということだ。もうひとつ、今高所得国で大きな問題になっていることのひとつに、深刻な格差がある。経済成長をしても富めるのはすでに資産を持っている人たちで、着の身着のままの労働者たちには、ほぼその恩恵が与えられない。

だが、もしBIが導入されて毎月確実に10万が手に入るのであれば、低い時給で重労働の劣悪な仕事につく必要がない直接的な恩恵が即座に現れる。我々はクソッタレな仕事にノーを突きつけることができるようになり、そうした仕事の賃金は新たな適正値まで上昇せざるを得ない。また先進国であっても、貯金も何もなく、余裕のない生活を送っている人は何万人も存在していて、突然の病気や突然の失職から、なし崩し的に極貧生活に突入するようなリスクを毎月10万円のBIは低減してくれる。

保障を受けるときに必要な長ったらしい書類、審査といったものも、それらがすべてBIに集約されることで簡略化され「保障を受ける」という負い目もなく(だって、すべての人間が受け取るのだから)ただ受け取ることができるようになる。

と、そうした利点があるわけなのである。本書『みんなにお金を配ったら』は、こうしたベーシックインカムについて、すでに世界の各地で大なり小なりの実験が行われているので、そこで得られた知見などを元に、上記で取り上げた利点や欠点を、BIは乗り越え、本当に利益をもたらすことができるのか──を確認していく一冊である。ちなみに、結論自体は最初の段階で既に出ている。圧倒的な肯定だ。

 こうしたプロセスを経て、今のわたしは確信している。UBIは、政策としての実現性が問われる具体的な提案であると同時に、一つの価値理念でもあるのだ。この構想は、全員一律、無条件、インクルージョン、シンプルさといった原則を掲げながら、すべての人間は経済への参加と、選択の自由と、困窮に苦しまない人生を享受するに値する存在なのだと訴えている。政府にはそれらを享受させる力があるし、実際にそう選択していくべきなのだ──月額1000ドルの給付という形になるにせよ、ならないにせよ。

働かなくなるんじゃないの?

BI絡みで目にする機会が多い反論はこの「働かなくなるんじゃないの?」というものだ。10万も与えたら、それだけで生活するのは難しいにしても、これまで普通に働いていた人がほとんど働かなくなって社会が回らなくなるんじゃないの? というわけである。もっともな話に思えるが、実際には異なった結果が出ている。

たとえば、2010年、イラン政府は石油や食糧に関する補助を打ち切って、市民に直接お金を送るプログラムをスタートさせた。この時も労働をしない物乞いを育てるのではないか、などの議論がおこったが、2人の経済学者が納税記録などのデータを包括的に調査したところ、1.貧困が軽減し、2.不平等が緩和され、3.労働供給料を削減したエビデンスは確認されなかった という。これと同じ結論は、北米で行われている無条件現金給付プログラムのデータ、アラスカでのデータ(アラスカの石油排出の利益が市民に無条件に配られる)でも同様の結論が導き出されている。

とはいえ、いき過ぎると働かなくなるようだ。サウジアラビアの王族たちは小学校にあまり通わず、運動もしないという。ミネソタのネイティブアメリカンの部族は、実入りの良いカジノを運営していて、カジノの利益から住民に分配がなされているが、12年に報じられた時点でその金額は毎月8万4000ドル。部族の代表者は、「ここでは99.2%が無職です」と語っている。そら8万4000ドルももらったら働かんわ。

BIは人を自由にする。

本書ではこのあと、実際のBI導入事例を紹介していくが、そこで導き出されていく結論は概ねポジティブな物だ。BIは技術的失業への対策になりえるし、「BIが導入されることで、人は自分がやりたくない仕事をやらなくていいんだ」と思えるようになる。そうした思想的なパラダイムシフトも大きいが、重要なのは抜本的で「平等」な貧困層の底上げになる点。貧困層を狙い撃ちにする保障は、「誰が貧困層で、誰が貧困層でないのか」という峻別が必要とされるが、この正確な判定は困難だ。

本書でもアメリカの貧困層を例にとって、障害を認めてもらず、手続きもうまくいかず、なし崩し的にホームレス状態になってそこから這い上がることができなくなってしまった人などが紹介されていく。アメリカには様々な保障がある──非のない理由で働き口を失った人は失業保険が、赤ん坊に栄養を与えることが難しい親には女性・乳児・小児のためのプログラムが──それぞれ存在しているが、身体が健康で、扶養児童のいない大人は多くの州で何も手当がもらえない。大きな穴が空いている。

そういう人たちであってもたやすく──何らかの依存症になる、地元の経済が破綻する、泥棒にあう、大きな怪我をする──極度の貧困にはまりこむのだが、そうなったとき支援を得られないのである。また、これはアメリカで顕著な例だが、人種差別の問題がある。ヨーロッパ諸国のほとんどで19世紀か20世紀には国民全員をカバーする医療保険制度が構築されていたのに対して、アメリカでその整備が進まなかったのは多くの人が人種を分離する既存の仕組みを強化する方に力を入れてきたからだ。

その結果は人種別の主要な病気の罹患率、寿命と死亡率の差を見れば明らかだ。そうした差別は医療保険制度だけでなく福祉の給付受給にも及んでいる。ようは福祉における人種差別の廃絶にもBIは有効といえる、ということだ。

おわりに

そもそも財源はどうすんねんとかの話も本書ではしっかりとされていくので、細かいところは読んで確かめてもらいたい。よく、AIやロボットで失業者が増える、どうしたらいいんだみたいな議論がなされることもあるが、僕はそれ自体は自動化税を導入すれば済む話だろうと思っている。(自動化税だけに限らないが)問題はその配分方法で、ベーシックインカムは確かにその一つの選択肢であるように思える。

机上の空論ではない証拠に、今各所で実験的にBIを導入する都市が増えてきている。サンフランシスコから内陸側の都市ストックトンが住民に月500ドルを無条件で支給するとし、ハワイ州も導入の道を探り始めた。僕は最終的に人が誰も働かなくていい世界が実現することを望んでいるので、元よりBIには肯定的なのだけれども、批判的な人が読んでも(丁寧に反論しているので)おもしろい一冊であると思う。

人間集団の大きな流れの物語──『人口で語る世界史』

人口で語る世界史 (文春e-book)

人口で語る世界史 (文春e-book)

人口については、日本においては最重要検討事項のひとつだろう。日本の年齢の中央値は現在46歳。世界で最も高い部類で、米国より9歳も高い。1950年に20人に1人だった65歳以上の人数は、2005年には5人に1人。出生率は世界的にみても最低レベルで、どんどん人口減少と高齢化が進む、世界でも有数の先駆者だからである。

で、本書はそうした人口的な観点から世界史を捉え直していく一冊である。人口は戦力的にも経済的にも重要だから、その変動をおうことで文明の発展、個人の生活の変化について、多くの部分の理由を説明することができるし、これがおもしろい。たとえばバラク・オバマの当選については、アメリカが非白人社会に向かっていなければ実現しないことだった。逆に、トランプの当選には白人票(白人の58%が投票した)が重要だったわけだが、21世紀の半ばにはアメリカの白人は全人口の50%未満となり、白人層人気で非白人層の不人気を埋め合わせるには厳しい時代を迎えつつある。

また、より広い視点としては、この200年〜300年ばかりの間で、10億にも満たなかった世界人口が70億を超え、わずか30歳ちょっとだった寿命が80を超えるまでになった国も出てきて──と、世界人口の変貌ぶりには驚くべきものがある。

ますます速くなる人口動向の大変化という嵐が、地球上のある地域から別の地域へと吹き荒れ、古い生活形態を根こそぎにして、新しいものが取って代わる。本書はあちらで増えてはこちらで減る人口の潮流、人間集団の大きな流れの物語である。そしてその見落とされ軽視されてきた潮流が、歴史の流れにどれほど大きな影響を与えてきたかを語るものだ。

200年足らずの間に起こったのは一気に増えただけではなく、一気に減ることでもある。たとえばタイの女性が生む子どもの数は1960年代の後半に比べて4人少なく、現在の世界の人口増加率は1970年代初頭の半分である。まだまだ人口は(アフリカなどを中心として)増え続けているが、それも21世紀中には終わり、その後は世界的な人口減少が続くことがほぼ確定している。なぜ未来の人口の増減が把握できるのか? といったことも、本書で取り上げられる話題のひとつである。

全体的な構成など

さて、その人口の世界史は、具体的にどの年代から語られるのか──といえば、意外かもしれないがわりと最近で、1800年からはじまる。これには正当な理由があって、それ以前の世界全体の人口増加については緩やかで、黒死病みたいなものが発生した時は後退するなどするが、それは一時的な傾向にすぎないからである。人口動向に大きな変化が起こるのは、1800年以降であり、それゆえ本書はそこから始まる。

1800年頃を境として、まずヨーロッパを中心に人口が爆発的に増え始めるのだが、人口が増える理由は3つしかない。出生率が増えること、死亡率が減ること、移民が増えることである。当時はだから、産業革命をきっかけとしてこれらのことが同時に進行していたのである。本書ではそうした状況を、まずは英国を中心に語り、その後ドイツ、アメリカ、ロシア、日本、中国、東南アジア、そして最後に現状まだまだ増え続けているアフリカの順番で語っていくことになる。

人口動向について、未来に確実に起こること

日本、中国、韓国などのアジア諸国も、おおむね英国と同じ経路で人口が増え続け、減り始めた。基本的に、女性が教育を受けるようになると、出生率は下がる。『教育を受けた女性が六人や八人の子を生むことは、個々のケースではあっても、社会全体のレベルでは起こらない。』また、女性が教育を受けられる社会ではインフラの整備も進んでいるので死亡率が下がって平均年齢が上がり、少子高齢化が進行する。

ヨーロッパの国の多くではすでに人口減少がはじまっていて、ブルガリアとモルドバは21世紀末には現在の人口の半分、ドイツは10%減、イタリアは20%減とみられている。それにより白人率の低下が起こり、民族間の対立がさらに激しくなっていくかもしれない。一方で、過去40年で全世界で年間2%だった人口増加率が、1%前後にまで低下しているので、環境に優しい社会へと移行するチャンスでもある。

日本からブルガリアまで、人口が減り始めたところでは、急速に自然が取り戻される。アフリカの出生率の低下速度が予想よりも遅かったために、国連の現在の予測では世界の人口は今世紀末まで百十億を超えて増加し続ける。しかし増加速度は現在の十分の一、一九六〇年代から一九七〇年代前半までの二十分の一で、そのころには人口も安定し始めているはずだ。前に使った比喩をもう一度使えば、人口は最初はゆっくり走っていて、やがて猛烈なスピードで走り出す車のようなものだ。しかし最近は大幅に減速しているので、今世紀の終わりまでに止まる可能性が高い。

人口減少は高齢化とセットでもあり、高齢化に伴って年金と介護の問題がこれから世界的な問題になるだろう(日本は一足先になっているが)。同時に、若者と犯罪率の高さには相関があるので、どちらかといえば平和な世界になるのかもしれない。

おわりに

ここでいうところの予測は現在の技術水準からの予測なので、デザイナー・ベビーの普及や平均寿命の飛躍的な向上のようなことが起こりえれば人口動向に対する大きなインパクト足り得る。うーん、でも個人的にはそういうことにはならないんじゃないかな、と思う。100年、200年の単位で起こるのは人口減少でしょうね。

本書はそうした起こりうる未来へのショックについてなにかの解決策を示してくれるものでもないが、今世界で何が起こっているのか、そしてこれから何が起こるのかの大きな物語について、かなり精度の高い予測を提供してくれているので、ぜひ読んでもらいたいところだ。

自分を支配するアルゴリズムとどう付き合っていくべきか──『Uberland ウーバーランド アルゴリズムはいかに働き方を変えているか』

Uberland  ウーバーランド  ―アルゴリズムはいかに働き方を変えているか―

Uberland ウーバーランド ―アルゴリズムはいかに働き方を変えているか―

  • 作者: アレックス・ローゼンブラット,飯嶋貴子
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2019/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ウーバーランドとは日本の有名な六人組ロックバンドの弟分──ではなく、Uberという配車アプリを提供する企業と、そのアルゴリズムがもたらす新しい経済圏のことである。Uberは、日本では法的な面で規制されていて広く使われているわけではないが(uber eatsは別として)、世界65カ国に導入されており、海外旅行に行った時にタクシーの代わりとして使ったことあるわ、という人も多いのではないか。

Uberのウリは便利なタクシーの配車というよりかは(普通のタクシーより安くて、アプリで目的地の指定も支払いもできるし、便利だけど)、本人確認が通って車さえ持っていれば、誰でもUberの運転手として個人事業主的に働くことができる手軽さにある。そのおかげで、プロの運転手でなくても日中は別の仕事をして、夜数時間だけ働くとか、セカンドワーク的に金を稼ぐこともできるし、一日好きな時間だけ働くメインの仕事として稼ぐこともできる、それも営業など一切せず、アプリからの通知、アルゴリズムに従って客をとってくるだけで、確実に仕事があり、振り込みがある。

そういう点で、ありがたいアプリ、サービスであることは疑いないことではあるのだけれども、いい話ばかりでもない。本書『Uberland ウーバーランド アルゴリズムはいかに働き方を変えているか』は、ニューヨーク大学の研究機関に身を置く著者が、125人ものドライバーたちにインタビューを行い、4年の歳月をかけてUberのアルゴリズムと、翻弄されるドライバーたちの有り様を描き出していく一冊だ。

アルゴリズム上司とどう付き合っていくべきなのか

そんなUberの実態だが、結論からいえばUber(と、その裏側で動いているアルゴリズム)は決して善というわけではなく、気まぐれで実験的で、ドライバーたちの都合は必ずしも考慮されず、ま、簡単に表現すると「けっこう悪い」ことをやっている、側面もある。では、実際問題Uberのアルゴリズムはどのようなことをやっているのか、何がドライバーたちを苦しめて(いるばかりでもないが)いるのか──といったことについて、本書は実地の言葉を通して取り上げていってくれる。

日本にはUber自体はほぼ上陸していないとはいえ、フードデリバリーを行うUberEatsの方では働いている人が多くいるから(渋谷を歩いていると特徴的なUber eatsのマークをつけている自転車をよく見かける)この件については他人事ではないし、そもそもアルゴリズムが労働者の実質的な上司や先導者となって、我々はそれといい感じに付き合っていかないといけないという点では、もはやUberに限った話ではないんだよね。アルゴリズム上司は今後どんどん増えていくんだから。

良い点悪い点

Uberから仕事を受ける側には無論、いい面がある。副業として、特に何もやることがない暇な時にちょっと稼ぐ、しかも人付き合いが好きで、新しい人と出会うのがとても、車の運転(uber eatsなら自転車)も好きだ──という人には絶好のお金稼ぎにして趣味になりえるだろう。専業でそれをやろうという人にとっても、自分で働く時間を完全に決める権利があり、実質的には起業家なのだ、とUberは煽り立てる。

実際、自由を感じるUberドライバーもいるが、実態は自由とは程遠い。Uber(ウーバー・テクノロジーズ)は、人間の管理職の代替としてアプリのアルゴリズムを通して労働者の行動を管理しようとする。たとえば、Uberは、ある場所の顧客に対して車の供給が少ないなどして需給のバランスが崩れると仕事に追加報酬を自動で設定するが、これは実質的なシフト業務として機能する。この特別割増を狙って、あえてピックアップしないなどの行動をとるとサージ操作といってペナルティを喰らうこともあるが、これも完全にアルゴリズムの采配によるものだ。乗客を拒否すると減点されるのに、今通知がきている顧客がどこにいくのか、どんな人物なのかといった情報はドライバーに対して与えられないから、不完全な情報で判断を迫られる。

ドライバーは5つ星で管理されているが、たまたま載せた客が暴言を吐く、暴力をふるう、ハラスメントを行うといった行為で下ろし、レビューで悪口を書かれても対応してくれるわけではない。「それがあなたの評価なのだ」というわけだ。だから実際には下ろしたくとも、文句を言いたくても、評定を落としたくないがためにじっと我慢して愛想よくふるまうことを求められる。どのように行動するのも自由とはいえ、最終的な価格決定権も、アカウントの停止の判断もすべて会社側に握られているのだから、単純な個人事業主といえないことは(コンビニオーナー等と同じく)明らかだ。

こうしたアルゴリズムの上司によって施行されているUberのルールは、彼らに開かれているはずの起業家精神にあふれた意思決定の機会をとてつもなく制限してしまっているのだ。ドライバーは自由という公約と、それを蝕むアルゴリズム的マネジメントという現実との間の緊張関係に気づいている。実際、この緊張関係が、ドライバーは個人事業主として分類されるべきではないという法的主張の根拠となっているのだ。

Uberドライバーを個人事業主として分類するのはおかしいと集団訴訟も起きているのだが、Uber側の返答も過激で、彼らは「Uberのドライバーは、ソフトウェアの顧客である」「顧客に対してソフトウェアのライセンスを与え、その手数料を受け取っている」だけだと返答している。その主張がまかりとおれば、どれほどドライバーが増えようがこの会社には労働者はおらず、労働者問題も抱えていないことになる。

おわりに

と、Uberの事例を通して、いかにアルゴリズム上司が労働者を支配的にコントロールしているのか──といったことが描き出されていく。アルゴリズムによる高速マッチング、適正な価格への調整などは、決して悪いことばかりではない。しかし、それとどう付き合っていくべきなのかは、その正体を知った上で、個々人が判断するしかないことだろう(そもそも、現時点ではまだそこんにすら到達できていないのだけれども)。「こういう世界・会社があるのだ」と知っておくためにも重要な一冊だ。