基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

白痴/坂口安吾

あーなんか最近真面目な事書きすぎてもうバカな事書きたいなぁ。3の倍数の日付の日記だけバカになって書くとか。

あらすじ
戦争 と 男 と 女

感想 ネタバレ無

7つの短編が入っていて、最初の4つの短編は、読み方がわからずに意味がわからなかった。というよりも、前知識もなしに突然読み始めたので、どういうタイプの作家なのか読めずに、どこに集中して読めばいいのかわからなかったという事もあるが、ラスト3つを読んでいるときは、突然道が目の前に開けたように、読み方がわかったというのだろうか、まるでピコーン、俺は閃いた!とでもいうように、突然この本の素晴らしさが理解出来たような気がする。思わず最初から読みなおそうかという衝動に駆られたが、俺を待っているたくさんの書物に申し訳なくて読みなおす気分になれなかった。

あらすじでも書いたように、特別な事柄なんて何一つなく、あるのは全編にわたって戦争と、男と女だけである。さまざまな考え方を持った語り手の一人称、確か全部女の人だったかな?どの人も、迷いがない。一貫している。およそ人間的な揺らぎというものが感じられない。悩みがある事からストーリーが始まる、というような形式がよくあるようにぼんやりと考えていたが、そもそもこの短編たちにはストーリー、物語性というものがあまり感じられなかったように思う。人生の一遍を切り取って見せてもらったような、あるがままの姿勢を感じる。

一番好きだったのは、青鬼の褌を洗う女だろうか。語り手の女の流されるままに生きていく、というのが昔自分の考えたことと全く同じ誓いで、自分は今もその生き方をやめたつもりはないが、ここまで徹底して、何の迷いも逡巡もなく流されるままに生きていくを実践するのは、自分には出来ない、というのが正直な感想であって。
本当なら、自分と似たようなものを見ると、尊敬よりも嫌悪が先立つものだが、この場合自分と同じというよりも、自分と同じ道を歩いているが、ずっと先をいっている、突き抜けているので嫌悪を通り越して尊敬の念しかいだけない。

最初の4つの短編については、普通の、いわゆる何か問題がおきてそれを解決するために動く、というような基本的な話だと勝手に想像して読んでいたため作品の機微に全く気付かなかったため、あとに書く事はかなりとんちんかんな事になるかもしれない。ラスト3つについてもわかったなんて言えるはずもないが、それでも面白かったといえるぐらいには読む事が出来たように思う。

解説がついていたが、何を書いているのかさっぱりわからなかった。というか、ぱっとみてあまりにも難しいことを書いているような気がしたのでろくによんでいない。坂口安吾は精神と肉体との対立という昔ながらの主題を追求している、という部分ぐらいは読んだが、ふーん、そうだったんだ、いわれてみれば、という感想ぐらいしかない

ネタバレ有


いずこへ

いずこへ、というのは、結局自分がどこへ行くのかわからない、という意味だったんだな。私は自分の虚しさに寒々とする、という一文があったが、だれであれ自分について冷静に、客観的な目で見ると自分というものはなんと醜い人間だろうと思うんじゃないかと最近考えている。一日に自分がやった行動について、いちいち理由付けをしていくという行為を、何日もやったことがあるが、うすら寒くなるような行為だった。結局のところ利己的な意思しか持ってないのか、と問いかけたくなるような。ほとんど無意識でやっているような行為が、見栄とか虚栄心とかそんなものに直結していく。そういった行為を憎んでいたとしても、そう簡単に逃れられるようなものではないと思う。

白痴

残念ながら記憶に何も残っていない。本当に読んだのか?と疑問符がついてしまいそうだ。ただ、白痴の女と男が逃げた、というストーリーがぼにゃりと頭に残っているだけだ。これ、読んだって言えますかね?

ただ印象に残っている言葉が

 人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。

意味はよくわからんのだよねー。捨てるだけの張り合いってなんだろ?捨てたら、捨てる意味ぐらい欲しいって事か。捨てるだけの潔癖ってのが意味がわからんのだよね。捨てるぐらい潔癖的意識が低いって事?それとも潔癖だから捨てるって事?ちょっとわからんぬあー

私は海を抱きしめていたい

 私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私ははじめから地獄の門をめざして出かける時でも、神様の国へ行こうという事を忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、バカのようにたわいもなく落ち着いていられるくせに、神様の国を忘れる事が出来ないという人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツケられて、叩きのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして真っ逆さまに落とされてしまう時があると考えていた。

この短編の冒頭の文である。個人的に夏目漱石のなんだったかな?行人だかなんだかの本に、これを超える冒頭の文はないだろうな・・・と圧倒された文章があったんだが、それに匹敵しうる文だと思った。およそ人間というものを表しているのに、わかりやすい、一瞬で伝わってくる文章だと思った。このあとに、神様にも悪魔にもボコボコにされるだろうが、その時は精一杯抵抗してそれでもやられよう、と書いている。要するに、自分は何か酷い目にあって死ぬであろう事を、すでに覚悟しているのだろう。

 私は悪人です、と言うのは、私は善人ですということよりもずるい。

これもそう思う。悪人です、と先に言っておけば、そのあと何をしたって、だって私は悪人ですから、の一言で全てが片付いてしまう。それは、ずるい。

 「自分のことは、自分でする以外に仕方がないものだ。僕は僕の事だけで、いっぱいだよ。君は君のことだけで、いっぱいになるがいいじゃないか」

なんかこのいっぱいになるがいいじゃないか、っていうセリフがいい。いや、言っている事も全くその通りだと思うのだが。悩み事とかを相談されても、結局決めるのは自分なのだから相談なんてしないで全部自分で勝手に決めればいいじゃないか、と思う反面、相談する気持ちも、もちろんわかるつもりではある。安心が欲しいのだろう、と他人に自分の意見にプラスしてもらって、2にしたいのだ。そうすれば、そのプラスされた他人の意見がたとえ実際には無意味なものであったとしても、目に見えない安心として自信を与えてくれるだろう。自分はひねくれものだから無意味なんて書いているけれども、神やなんかと同じようなもので、信じているものにはそれは実際にはあるのだ。信じている人にとってみれば、他人に相談するというのはこれ以上ない意味のある行為になるのだろう。

 私は谷底のような大きな暗緑色のくぼみを深めてわき起り、一瞬にしぶきの奥に女を隠した水のたわむれの大きさに目を打たれた。女の無感動な、ただ柔軟な肉体よりも、もっと無慈悲な、もっと無感動な、もっと柔軟な肉体を見た。海という肉体だった。ひろびろと、なんと壮大なたわむれだろうと私は思った。
 私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい。あの波にうたれて、くぐりたいと思った。私は海を抱きしめて、私の肉慾がみたされてくれればよいと思った。私は肉慾の小ささが悲しかった。

海というのは女の体のことであったか。ここで重要なのは、決して女の体だけであって、精神的なものまで含んではいない、という事だろうか。ここで上のほうで書いた、精神と肉体の対立というのが表れているのか?ここでは明らかに、体だけに比重を置いていたように思う。

肉慾自体が、喜びではないと気づいた、という一文があったが、どういうことだろうか。ちょっとわからないな。

戦争と一人の女

戦争の恋人だった女の話。確かに戦争の悲惨さによって、何かに満たされているような、そんな女の書かれ方だった。

 私は人並みの後悔も感傷も知らず、人にほめられたいなどと考えた事もなく、男に愛されたいとも思わなかった。私は男をだますために愛されたいと思ったが、愛すために愛されたいとも思わなかった。私は永遠の愛情などはてんで信じていなかった。私はどうして人間が戦争をにくみ、平和を愛さねばならないのだか、疑った。
つまりこういう女だからにして、常に危険が、命をかけるような、危険が欲しかったというか、これもあくまで精神と肉体の対立のようなものか。ある意味、体がどうなろうが、どうだっていいと言っているようなものだ。あるいみ行きついちゃったマゾというかなんというか。精神と肉体の対立というテーマからこの短編を見たら、肉体に比重を置かない人間はいったいどういう生き方をとるのか、というのが興味の対象になるのではないかとかなんとか書いちゃって見たりして

青鬼の褌を洗う女

なすがままに、流されるがままに生きるというのはそれはそれで大変なものに思うかもしれないが、実際、何事にも動揺しないという訓練さえ積めば、割と簡単にいくものだ。ようするにあるがままに、受け入れればいいのだ。雨が降ろうが人に裏切られようが、金が全部なくなろうが家がなくなろうが服がなくなろうが、それはそういうものなのだと、全部受け入れるというのが、流されるがままに生きるということなのだと思う。その点でいえば、この短編の語り手は全て満たしているといっていい。何が起ころうが、なんとかなっている。その一点で非常に凄い。

語り手の母親は全く客観的に見ても、最悪な人間であるが、語り手にそれを憎むような調子はあまり見られない。それ自体も、受け入れているのだろうか
こういう作品を読むといつも思うのだが、家族というのは、本当に大切にすべきものであるのかどうかという微妙な考えが。
確かに血が繋がってたり、すると唯一無二のかけがえのない人間ということになるだろう。さらに愛しているならば、それはもう凄い、いいことであるといえるかもしれないが。
それでも人間として嫌い、というのはどうしようもないように思う。この短編のように、いくら愛してもらっていても、人間自体がどうしようもない人間だと、その愛に何か意味はあるのですか?と言いたくなる。ってあーまとまってないな。何が言いたいんだろう?

つまり、家族だから無条件に許すとか、家族で、愛があればその家族は幸せなのか?という事が書きたかったのだ。幸せなんて人それぞれだし家族の在り方も人それぞれなのかもしれんなー。

ただひとつ核心できるのは、一方通行の愛なんてなんの意味もないという事だろうか。

人間的に信用、尊敬できない親に愛されて、果たして嬉しいだろうか、それでも育ててくれた事に感謝して生きていかなければならないのか。生き方が違う、というだけならまだいい、それぐらいいくらでもある。お互いにそれを認めて、生きていければいいだろうが、生き方が違う以前に、生き方を認められない場合は決別しかないのか。それとも、認められなくても、親というのは唯一無二の存在だと受け入れるのがいい事なのか。

んー?なんかよくわからん感じになってきた。ここらでやめとこう白痴/坂口安吾