感想 ネタバレ有
ついにここまで辿り着いた。二十巻目の極致である。ついでに水滸伝全十九巻を振り返ってみようと思う。
まず最初に気に喰わなかったところである。原本から比べて、圧倒的に現実感が増したのは、原本を読んでいないからわからないのだが、解説などを読む限りではかなり確実性のある話だろう。なにしろ原本じゃ、妖術が乱れ飛ぶ摩訶不思議な話だったそうだから。それでもおかしいな、と感じるところは、北方水滸伝にも多数あった。
それは全十九巻にまで及ぶ話なのだ、おかしなところが出てくるのも、当然だという気もする。たとえば替天行道の中身が書かれていないところだ。ただこれは自分の中では、しょうがないと納得出来るだけの理由もある。だれしもがこの書を読んで、心を突き動かされるような感情を持たされているところだ。この世に、誰ひとり例外なく感動させられる話があるだろうか。たぶん、無いだろう。
森博嗣の言葉を引用すると
大砲の弾が落ちた場所(作品の価値)は、そのまま動かない。永遠にそこにある。しかし、人の位置は常に変わる。自分も変わるし、大勢の人たちもそれぞれに変わる。ようするに、大勢の人がいる方へ自分が動こうとしていれば、人の評価を聞いて、作品に関する自分の評価を変更する、という行動になるわけだ。すなわち、違っているのは、自分がどこへ向かいたいのか(そもそも動きたいのか)、という方向性なのかもしれない。
一人一人立ち位置が違うのであって、その位置が違う全員に感動を味あわせる物語がいわゆる王道であろう。恐らくいろんな人間がいる中の中心的位置にある物語の事を王道的展開、といって万人受けする話として受け入れられるのだろうと思う。だから誰しもが同じ感情を持つ本なんていうのはまず書くのは不可能だろう。替天行道というものを、最初から出さないか、それとも中身をもっと普通のものにしてしまうしか書く方法はなかったのだ。
不満点といえばそこだ。何故かけない、存在しないものを主軸にしてしまったのか、という事だ。それによって書かれない宋江の根本というものが見えなくなってしまった。
他の不満点といえば、童貫がなかなか出てこない理由がしょぼかったり兵站があまり書かれていないなどという細かい点があるが、全体を俯瞰してみるとほとんど気にならない点である。という事はたった一つ替天行道の事がひっかかるということになるが、これも仕方がないことだと受け入れている。つまり水滸伝サイコー!という事で。
水滸伝、108人の英雄達の名前を一人一人書いていって、それぞれ思い出を語ってもいいぐらいだ。たださすがにやめておこう。読み返さない気がする。
不満点しか書いてないが、文字数の関係上これ以上書くわけにはいかない。いや、というか水滸伝については良く考えたらもう今まで充分すぎるほど書いてきたのである。これ以上書くというのは、正直蛇足であろう。ここでやめておけば替天行道からそれていない。
替天行道の話に戻ろう。
面白かった部分と、面白くなかった部分の差が激しい。面白かった部分は、担当編集者山田が出てくるところ全般と、北方謙三が一人で語っているところ全般。他には、文庫版で解説を担当していた人たちと北方謙三の対談だったり、文庫版の解説とほとんど同じ内容が書かれているだけである。その部分はほとんど焼きなおしといっていいぐらいで、読み飛ばしてもいいレベルの話ばかりだった。何しろ繰り返しが多すぎる。どいつもこいつも同じ話しかしない。北方謙三は凄い!何故ならあれほど滅茶苦茶だった原典水滸伝を徹底的に解体して自分流に作り直したからだ!この一文から北方水滸伝を褒める解説が並ぶ。全員そんな感じだ。一人ならまだしも何人も同じ話をさせられると、意味がない。と感じる。
自分がやりたいのは、あのシーンのあのキャラクターは最高にかっこいい!と諸手をあげて喝采を叫ぶ!といったそういうノリのいい話なのだ。決して読み終わった瞬間に、あそこはどうなっていてあそこと関連していて、この物語は何を象徴している、なんてアホな話を聞きたいわけではないのである。ただ自分と同じ感想を持っている人間を探していて、同じ感想を持っている人間と面白かったなぁ!と叫び合いたいだけなのだ。それ以外は決して求めていない。
原典水滸伝がどれほど滅茶苦茶な物語だったのかなんてのはどうでもいいことで、いま自分が読んだ北方水滸伝がどれほど凄かったのか、というのを比較して語るのではなく北方水滸伝だけを単体で話し合いたいのだ。
これは何もこの作品に限ったことではない。すべての作品に共通する事だ。解説というと必ず何かと比較する。それが非常に煩わしい。
山田という担当編集者の事は全く知らなかったが、物凄い面白い人間だな。いちいち手紙が面白すぎる。
童威と童猛は区別がつかんので、どちらかを殺してしまいましょう。
編集者が言うことなのか・・・!?いや、作品に対する意見を言うとしては正しいのだろう。ただ、そんな事でいいのか、紛らわしいから殺すとか。まぁ確かに印象に残っていないぐらい影の薄い兄弟ではあったが。
元気のいい植物を残す、みたいなやり方でどんどん削っていったんだろうか。
ところで、鄭天寿、いい味を出しました。小者に急に正確づけが始まると末期も近いという読み方のいやらしさ。七人目の犠牲者であります。小説史上に残る犬死にであります。
確かに自分もこれを読んでいた時なんという犬死、と思ったけれど、なんとか補正をかけて意味のある死だったと思ったのだが、それというのも楊令伝という存在をすでに知っている未来を見ているからであって、楊令伝を想定していない時ならば鄭天寿、完全なる犬死である。
燕青が、楊令を初めて見て、若き日の盧俊義にそっくりなのにぶったまげたりして。
ってどういうことだ?ひょっとして楊令の父親って盧俊義なのか?っていうかこの文を読むとそうとしか考えられないのだが山田という人間がいまいちつかみきれないのでこれも冗談なのだろうか。本気か冗談かいまいち区別がつきかねる。まぁ盧俊義がオヤジというのも微妙にあり得る話なのかもしれんが・・・。いやでもないだろ。
でも文学ではなく、小説、物語という言葉でいいたい。読んで難しいことなんか考えなくてもいい、読んでいる時間だけ楽しんでもらえればいい。酒みたいなもので、栄養にはならないかもしれないけれど、酔っていい気分にはなれる。だから、美味くて心地よく酔える酒をどうやって作ろうかという事だけ考えているんですよ。
これは面白い。というか自分の小説の読み方そのものである。ただこういうのって、読者の心構えであって、作者の心構えじゃないんじゃないかなぁ?
正直いってただのエンターテイメント小説なんて、基本的に言ってる事はあまり幅が広くない。知識を増やそうなんていう目的で本を読むならもっと学術書かなんか読めばいい話で、エンターテイメント小説をいくら読んだって別に頭がよくなったりしない。本を一か月に百冊読んだからと言って、本を一か月に百冊読んだ、という称号以外に付随してくるものはない、と思う。
気になったのは、北方謙三が小説のキャラクターが勝手に動き出す、といったたぐいの発言をしている事だ。自分は別に小説を書いた事が無いからそれがいい事なのか悪いことなのか、まったくわからないが、それは作家としてはどうなのだろう。作品を制御する力が無いという事にならないのだろうか?
完全に作品を自分の制御下において、最初から最後まで自分の思惑通りに書ききる作家と、キャラクターが勝手にうごきだし、計算外の動きをしてもそれをそのまま書ききる作家、どちらが優れているのだろうか。あるいはただのタイプの違いなのだろうか。そういう気もする。
それにしても山田面白いなぁ。特に中国にいったときの話と、山田と北方と大沢三人の対談のところでは山田、面白すぎる。もはや山田のための替天行道であるといってもいいぐらいだ。それだけに、他の部分、かつての解説をした人間との対談などなど他のところが、ほとんどページ数の水増しといってもいいような目的のために使われているのが残念ではある。
とにかくYは、これは自分のものとなんでも囲い込む。かわいそうな男なのだ。うまいものは、常に段階の世代に取り上げられ、残りものを食って大きくなった事が、トラウマになっている。
この北方謙三と山田のやりとりは面白い。特に両者がほぼ同時期になんのしめしあわせもなしに、団塊世代に対するまるで正反対の話を書いているところなど面白すぎるのである。
私が食べすぎていると、Yが非難しはじめる。帰国したら奥さんに言いつけるからね、と反則技まで出した。しかし、私は食いすぎていない。そう見えるだけなのである。たとえば、魚が一尾出てきたとする。私は、頭をごっそり取る。負けじと、Yが身をごっそり取る。頭には、実は身は少ない。食うのに時間もかかり、皿には骨が大量に残る。Yの皿はきれいだが、それはすべて腹に収めているからだ。愚かな男なのである。減量中の私が、戦術転換をしたことに気付かず、ひたすら最初に皿に取った量にこだわっている。Yの顔も腹も丸くなり、私は変わらない。大艦巨砲主義の、旧帝国海軍の発想から、Yはぬけられないのであった。
ひどい言い草である。かわいそうな男である、とか愚かな男なのである、とか山田という人間をこき下ろすために人生を尽くしているかのような表現である。
ウンコの処理を気にする霹靂火・秦明のリアリズム。
その細密描写はしない北方謙三のアンチ・リアリズム。
思えば自分がひっかかっている描写の差異というのは全て上から来ているのだという事にこの文を読んで気づいた。ちゃかしたような文章だがひどく的を射ている、と感じた。ウンコの処理を気にしながらも、重要だ重要だと叫びながらもそれ以外の事をしない、兵站が重要だ重要だと叫びながらもそれ以上書かない、そういった踏み込まないところが、全てにおいてひっかかっていたのだ。ひっかかっていながらも、何にひっかかっているのか気になって気に喰わない気分になっていただけで、何にひっかかっていたかさえ理解できれば特に追及しようという気分にはならないのであるが。
なんというかこんなところで終わると非常に、なんというかまだまだ書き足りない。水滸伝について、もっと語りたい。書きたい。だがそれは本当に意味のないことなのだろう。何しろ今まで充分に書いてきた。もう改めてここに新しく書きなおす意味はないのである。だからここですっぱり水滸伝は終わりである。自分の中でも。さよならである。さらば、水滸伝。