基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

時間はどこで生まれるのか/橋元淳一郎

感想 ネタバレ有

新書を選ぶ時、常にタイトルで選ぶ。これだったら時間はどこで生まれるのかが、気になったから選んだのだ。そしてその答えが知りたいから選んだのだ。だから、一行目にその答えを書いておいてほしい。これだったら、ページをペラっとめくったら 時間はどこで生まれるのか、それは〜〜〜である。今からそこに至る過程を説明しよう、という感じで始めてほしいのである。
なんという傲慢な態度。作者だったらコメント荒らしするレベルである。

ただ、本書には大満足である。しかし、理解度ていったら恐らく二割、理解出来ていたらいい方だろう。その二割でも十分に面白いと感じられた。

新書というのは手頃に頭が良くなった気分にさせてくれるものだなぁと読んでいて思った。良く考えてみたら、自分は時間の事なんて今まで全く勉強したことがなかった。多少知っている事といえば、生物の時間間隔というのは星の自転速度で決まる、という事ぐらいだ。これだってSFから得た知識で、正しいものかどうかすらわからない。

いわば知識0の状態から、10でも100でもどっちでもいいがこの本を読んだ事によって急激に知識があがったのである。こりゃ読んでいて頭がよくなったという錯覚に陥っても仕方あるまい。ただその場合気をつけなきゃいけないのが、一冊本を読んだ程度でその分野に自分は精通していると思い込むことだな。

自分も気を抜くと一冊しかその分野の本を読んでいないのに、それについて全てを知っているかのように思ってしまう事がある、利己的な遺伝子利己的な遺伝子と生物と無生物の間で何回も書いたが、あれがいい例である。全ての価値は比較する事によって生まれる、というような事が書いてあったのはどの本だったか、とりあえず一冊だけ読んでその価値を決めてしまうようじゃいかんよなぁ、というような自戒である。

そういういわゆる知ったかぶりの態度は恐らくかなり痛々しいものであろう。
特に自分、この本の事を二割しか理解していないと自負している(自負って使い方あってるのか?)

一見関係あるのかないのかわからないような、最初の方の記述がラスト付近、六章七章で一斉に回収されていくのはまるで伊坂幸太郎の伏線のようだった。というかラスト30ページは今までわからなかった事がなるほどおおおと声をあげてしまうほどに理解出来て、次々と頭の中で整理されていくのは純粋にうまいと感じた。いや、っていうか純粋におもしれえよ!

とりあえず、さっき自分が書いた、タイトルの答えがすぐに知りたい、というものをとりあえず自分だけは実践しよう。時間はどこで生まれるのか、それは意識というものが存在した瞬間に生まれるのである。

哲学的要素もふんだんに盛り込まれていた。特に、哲学の一番わかりやすくておもしろい部分である、見る人によって赤は違う色かもしれない、というようなところの話も面白い。色というのは電磁波で、人間が色として認識出来ない電磁波を、赤外線と紫外線と呼ぶとか。

モンシロチョウは紫外線が見えるから、モンシロチョウ同士にはお互いの羽に模様が見えるが人間は紫外線のレベルの電磁波は感知できないから見えないとか。

全体的にいっていることは非常に難しいというか、専門用語が多いというか、単純に自分の知識が足りてないだけなのだけれども・・・。それでも最後の方は本当にきれいにまとまってくるから凄い。ただやはりもうちょっと理解するためにちょっとずつ進んでいこう。

ミクロな世界じゃ何でもありなんだよ! というような話を何回も繰り返される。それも何でかよくわからない。たぶん量子論とか原子があまりにも小さいからとかそんなような理由なんだろう。

それから非常に重要な時間のA系列 B系列 C系列の事も忘れないように一応書いておこう。

A系列とは主観的な時間である。常に「現在」という視点に依存する時間のことをいう。

B系列とは歴史年表のような客観的な時間である。

C系列とはただの配列のことである。

最初はC系列の、ただの配列ということの意味が全く分からなかった。正直読み終わった今もわかっていないが、最後の方で一枚の絵にたとえられていたことから、恐らくただ並べてあるみたいな感じなのだろう。

二章でいきなり意味のわからない図を使った説明をされる。正直なところ、この図を使った説明、ぜんっぜん意味がわからなかった。というか空間と時間を相対的に考えるのがまず難しい。

時間が実数であり、空間が虚数であるというのはなんとなく理解できたが、何故今現在の私が干渉され、干渉する事が出来る絶対過去と絶対未来が円錐形をしているのかがいまいちわからない。

相対論の説明


 たとえば、高速道路を時速100キロで走る車があったとしよう。この時速100キロという速さは、歩道橋の上に立っている人から見た速さである。同じ高速道路を同じ方向に、時速70キロで走っている車から最初の車を見ると、時速30キロに見えるはずである。

この考え方を適用すると、光の速さというのは動いている人間の速度と相対して光の速さも変わってくる事になる。だが、光の速さは不変だという。その理由は動いている人の座標軸は時間軸だけじゃなく、空間軸もかたむくという、正直、意味がわからない。せめて自分がグラフなんて毎日もてあそんでるぜ?みたいな理系学生だったらもう少し理解度が期待できただろうが、しがない文系学生だった自分にはそんな次元の理解はとうてい無理なのである。空間軸が斜めになるというのは、光の速度がかわらない事を説明するには空間軸が斜めになるしかない、という事から導き出されているのだろうか。それプラス色々な要因から空間軸が斜めになるしかないと結論されたのか。しかしいきなり空間軸が斜めになるといわれたって、え?ななめって?どういうこと?地面が傾くの?というぐらいの感想しか持てない。

自分が今感じている現在というものが、グラフ状じゃ点としてあらわされるのではなく、広がりを持ってあらわされるというのは面白い話だ。確かに認識するために脳を情報が伝達する時間があるのだから、それが伝達している間をイマとして定義するならば現在は広がっているということになるのだろう。実際にあなたが今見ている風景は何秒前の風景です、みたいな話を読んだ事がある。でもその場合眼に取り込んだその瞬間を現在とするならば、現在というのは点になるのではないだろうか、よくわからんけれど。


 現在、「一秒は、セシウム一三三原子の基底状態の二つの超微細エネルギー準位の間の偏移に対応する放射の九一億二六三万一七七〇周期の継続時間」と厳密に定義されている。


わ、わけわからんちん。な、なに?日本語かなほんとに?超微細エネルギー準位ってなに?ギャグなの?

他に気になった場所は、時間という概念が人間にとってア・プリオリであるというところだ。ア・プリオリというのが何なのか、三割ぐらいしか理解していないがそれでも書くならば本能というか生存に必要なもの、というか元々知っていたものみたいな意味か?

犬や猫には未来という概念がないらしい、人間が未来という概念を知る事が出来たのは、それが必要だったからだろう。仮に時間という概念が無かったらどうなるのだろうか。きっと三時間後にはまたお腹が減るだろうから、今食べるのを我慢して三時間後のために残しておこう、というような事は出来なくなるだろう。過去という概念がないのはうまく想像できないが、過去の経験から学ぶ事が出来なくなるのだろうか。人間に時間という概念がなかったら今もウホウホ原始人のような生活をしないとならないだろうな。ここまで自分で考えたこと。


 もっとも、われわれの祖先は一万年ほど前までは、時間という概念を持っていなかったと思われる。彼らは他の生物同様、獲物や来襲者の「動き」といった刹那刹那に生きていたのであり、そこから時間概念が生まれるためには、もっと余裕のある生活(農耕など)が必要だったに違いない。それゆえ、時間は人間の理性が生み出した後発的な概念であり、よりプリミティブには、「動き」こそが生き延びる条件だったのである。

プリミティブってなんだ?調べていたら原始的なさま、というような意味らしい。それにしても時間という概念が後発的な、身につけた概念だとしたらア・プリオリの本能みたいな意味は違うってことになるのかな? それと概念っていうのは子孫に受け継がれるもんなのか?よくわからんな。
簡単な思考実験で時間や空間が実在ではないと示す事が出来るらしい。


 一個の光子の立場から考えてみよう。もし光子が意識を持っているとすると、それはどのような世界を体験するだろうか。相対論が正しいとすれば、光速に近づくにつれて、空間の縮と時間の遅れは極限に達するから、宇宙空間を飛んでいる光子は、一瞬のうちに宇宙の果てに到達する。つまり、光子にとって、宇宙の大きさは0であり、流れる時間もまた0である。つまり、光子にとっては時間も空間も存在しない。光子にとっては無であるような世界の中に、われわれは広大な空間と悠久の時間を見ているのである。


うーむ、ロマンだねぇ。光速で移動すると確か収束点がみえて、まわりはレインボーになるらしい、何でそんな事がわかるんだろうなぁ?体験したわけでもないのに。

一つよく理解出来たことといえば、量子論だろう。SFを読む以上量子論は避けては通れない道である。必然、量子論についてはSFだけでなくちゃんとした本も合わせそれなりに読んでいるので全くの無知ではない。ゆえに完全についていけなかったというのは二章だけで、あとは五割ぐらいの理解度で何とか付いていくことができたのである。

第四章、時間を逆行する反粒子だが、意味が全くわからない。何で時間逆行するんだ・・・?未来から過去へと行く反粒子があれば、すべての説明がつくのである! と書かれていたけれど、意味がわからないが・・・。まあいいか。

このあたりは難しすぎるなぁ、ファインマン図形とかいうの見ても何にも感想が湧いてこない。反物質とは全くの別物だよな・・。と思ったけど関係しているようだ。


 反粒子(はんりゅうし)とは、通常の粒子と比較すると、質量とスピンが等しく、電荷など正負の属性が逆の粒子を言う。電子の反粒子陽電子であり、同様に陽子には反陽子中性子には反中性子がある。(中性子は中性であるが反中性子は構成粒子であるそれぞれのクォーク反粒子であるため反粒子が存在する)反粒子が通常の粒子と衝突すると対消滅を起こし、すべての質量がエネルギーに変換される。逆に、粒子反粒子対の質量よりも大きなエネルギーを何らかの方法(粒子同士の衝突や光子などの相互作用)によって与えると、ある確率で粒子反粒子対を生成することができ、これを対生成と呼ぶ。


数学的取り扱いにおいては、粒子が時間軸を過去に向かって進んでいるものを反粒子である、と解釈することもできる。(CPT定理) (Wikipediaより)

対生成・・・?まず反粒子がなんなのかWikipediaを見てもよくわからんな。まぁ要するにどんなものにも反対のものがあってそれとぶつかるとすげえエネルギーになるのか。質量よりも大きなエネルギーを何らかの方法で与えるってのもよくわからんな、滅茶苦茶小さいだろうに。そしてそれがどうやって過去に向かって進んでいるのと関係しているのかがわからん。

第五章、マクロの世界を支配するエントロピーの法則は面白い上に分かりやすい。グラフとかわけのわからない図が出てこないからだろう。情けない話である。

生物と無生物のあいだよりよっぽどうまく生命というものを説明していた。この本のタイトルが生物と無生物のあいだでもいいぐらいだ(言いすぎ)

ただウィルスが生物なのか無生物なのかは、わからないが。

とりあえずここから先重要なエントロピー増大の法則についてのわかりやすい解説。


 たとえば、あなたの書斎がきれいに整頓されている場合、そこには「秩序」がある。このときあなたの書斎のエントロピーは小さい。しかし、あれこれ仕事があって整理がおぼつかないと、書斎は乱雑になってくる。秩序がなくなってくる。エントロピーが増大しているのである。エントロピーを小さくするためには、整理整頓という大仕事をつぎ込まなければならない。それが面倒で放っておけば、乱雑さはますますひどくなる。つまり、エントロピーはますます増大する。これが、きわめて不正確であるが、もっともわかりやすいエントロピー増大の法則である。

時間論を語る上でエントロピーの増大が、こんなに重大な意味を持っているとは知らなかった。というかそもそも、エントロピーの増大なんて言葉を知っていただけで、意味なんて全く知らなかったのだが。なんとなくエンゲル係数とにたような意味を持っていると勝手に思っていた。はずれもいいところである。

第五章はほとんどエントロピー増大の説明だった。第六章、主観的時間の創造から今までのまとめに入る。

エントロピー増大の法則によって、世界は基本的に崩壊に向かっていくという。まぁこれは当然の事、と考えられるのかもしれないが、何故それが当然なのか、というのが面白い。世界が崩壊から秩序の保たれた状態へ戻って行くという事が何故起こらないのか、まだその問いには答えられないらしいが、面白い問いだ。


 ここで悟ったようなことをいうが、われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには、空間的拡がりや、時間的経過というものはない。(省略)実在とは、時間や空間を超越した何かなのである。


確かに宇宙だけで見ればその通りだけれども、人間の自意識というものを通して宇宙を見るとそこに空間的拡がりと時間的経過が生まれるというのが面白いところだ。

ここで語られている意識というものがあるが、これを生物と無生物のあいだにでいっていることと基本的に同じだが、こちらの方がわかりやすい。基本的に物質はエントロピー増大の法則によって崩壊に向かっていっているのだが、生物はそのエントロピー増大の法則に逆らう。たとえば石は放っておけばただ崩れるだけである。もし仮に、石が意志をもっていて(ギャグである)崩れないように、自己増殖すればそれは自己複製する遺伝子だかなんだかの、生物と無生物による生命の定義と等しい。つまり言っている事は同じか。崩壊を食い止めようとする力が働けば、それは生物である、ということだろうか。


 生命とは秩序であり、かつ、その秩序を持続させる「意思」をもった存在である。

エントロピー増大に逆らうために生物というものが生まれたならば、エントロピーが次第に減少していく世界では生物は生まれないのか?という当然の疑問を持ったのだが、生まれないらしい。

 
 エントロピー減少が成立する世界では、世界全体がひとりでに秩序に向かうから、そこには自然選択というような進化の圧力が働く必然性がまったくないということである。


エントロピー減少の世界で、エントロピー減少を食い止めようとする意識が生まれない理由がよくわからないのだが。秩序も無秩序も結局人間が考え出したものなんだからあり得そうな話だが。秩序が世界が向かうべき当然の場所、というわけでもないだろうに、だったら秩序も無秩序も同義じゃないのだろうか。自然選択というものがいまいち分かっていないのに書くようなことじゃないんだが。

付録が思いのほか面白い。ただのおまけ的な要素なのに、いや、それだからこそ面白いのか。付録3、多元並行宇宙、俗にいうパラレルワールドである、について語ったところ。
 

 ぼくの意見では、並行宇宙は存在しない。その理由は、本文で展開した時間の創造の仕組みに関係している。 
 ひと言でいえば、並行宇宙が存在するとしたら、そのような宇宙では「意思」が進化するための自然選択の圧力がなくなるからである。確率的に可能なあらゆる事柄が、実際に起こるのだとすれば、そこには秩序を維持するために未来を決定するという「意思」が生まれてくるはずはない。


あーなるほど。並行宇宙なんてものがあるならば、そのどこかにはちゃんとした秩序を持った世界があるはず、だからわざわざ秩序をたもたせようという意思が生まれてくるはずがない、何故なら意思なんて生まれなくたって、無限に平行する可能性の中には意思なんてなくたって、どんなに確率が低くてもちゃんとした秩序が保たれている世界があるのだから、というような理屈か。

非常に面白いが非情である。今までパラレルワールドが数々の名作を生み出してきたというのに、それだけで夢を駆逐されたらたまらんのである。

パラレルワールドがなかったら量子論がおかしくならね?という問いにもちゃんと反論しているが意味がよくわからなかった。たとえばサイコロをふって、一が出る未来と六が出る未来、のように世界が分裂するのが量子論だと言われていたが、どうもサイコロがふって一が出たらそれはそれで確定で、他の未来などなく、量子論は関係していない、という理屈らしい、どうしてそうなるのかはよくわからん。

付録4 タイムマシン

あらかじめパラレルワールドが無いとしたうえで、もし仮に過去に人間がいったらそこは違う世界の過去であるとしている。何故なら現在にいたるまでの道のりはすでに確定している事で、それを変更する事は絶対にないから。

それから、矛盾を生じさせない、という点だけでいえば物質だけなら過去に送れるという話があったが、それも別の世界の過去に送れる、というだけであろう。ここまで書いて何だが、パラレルワールドというのを先に否定しているので暗にタイムマシンなんてありえないといっているのであろう。

永くなったがここで終わり・・。