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擁護できないものを擁護する──不道徳教育まとめ

 ここは不道徳教育/ブロック.Wの内容まとめ記事です。

 簡単に忘れたくないなと思ったことをまとめていく。まず本書の姿勢としては、リバタリアニズム(自由原理主義者)としての考え方をもって物事にあたっていくということになる。自分は聞いたことがなく、無知を笑われるかと思ったが、意外と世界的に知られていない主義らしい。なのでまずリバタリアニズムとは何なのか、というところから始めたい。以下略

リバタリアニズムってなんじゃい。

 リバタリアニズムの基本は「だれの権利も侵害していない者に対する権利の侵害は正当化できない」ということだ。ここでいう権利の侵害とは、暴力の行使である。リバタリアンの思想は「人をいきなり殴りつけること」を批判しているのである。

 実例で考えてみると、徴税というのは国家が善良な市民に対して行う暴力であるといえる。我々は払った税金の見返りとして、さまざまなサービスを受けている。それはいいとしてもここで問題なのは、徴税を払ってサービスを受けるという流れが強制されていることだ。ここには自由がない。よってこれは暴力的な侵略である。といった風に。暴力が正当化されるのは、①正当防衛 ②先制攻撃への対応 ③先制攻撃への報復 である。本書では、これにより国家が行う、法によって人を裁く行為を正当化できないとしている。リバタリアンたちにとって、国家は基本的に必要とされないものである。国家が存在しなければ戦争も貿易不均衡も起こらず、年金制度も問題ではなくなる。

 国家をなくし、国家の介入がなくなり、自由になった「市場原理主義」によって人々に自由と幸福をもたらす。これがリバタリアンの主張であるという。

 リバタリアニズムは人生の哲学ではない。「人はいかに善く生きるべきか」について述べているのではない。善と悪、道徳と不道徳、適切と不適切のあいだに境界線を引いてくれるわけでもない。

 うむ、ここで語られているのは徹底して「人をいきなり殴りつけたか?」という問いかけをしつづけた結果だけである。それによって多くのことが見えてくる。とりあえずリバタリアニズムに対する説明はこれぐらいで。

1.女性差別主義者

 つい先日、「フェミニズム入門」と言った本を読んだが正直何が何やらわからなかった。しかしここを読んで少しわかったような気がする。ここで語られているのは決して女性解放運動が間違っている、などといったことではない。ただ「女性の権利」と聞いただけで諸手を挙げて賛同したりするのではなく、目的や動機、戦略に応じて正しく評価する必要があるといっている。女性の権利を守る運動は四つのカテゴリーに分類できるとしている。一応全部紹介したい。

 1.レイプ犯に極刑を求める人たち
 レイプ犯に対する法律の対処がひどいっていうか間違ってるよー。といった話。たとえば夫が妻を無理やりおかしても、大抵は違法とみなされない。強姦者と被害者が以前付き合っていたならば、裁判所は「それは恋人同士の諍いにすぎない」という。これによって国家は女性に対する暴力行為を暗黙のうちに容認しているという。ここでの話の流れがちょっとわかりづらいのだが、国家が悪い! 自由な市場ならば、例えば店で女性が襲われていたら、社の利益のために店の人間が女性を助ける。しかし公共の場所だと、わざわざ助けようとする積極的な動機がない。ということらしい。仮に公共の場所(道路とか、公園とか)が無くなって全ての場所に人の利益が絡むようになる。するとそういった場所でレイプが起こると評判が下がるので、民衆は自分の利益のために、レイプを防止するようになる。

 2.セクハラに反対する人たち
 道を歩く女性に対して卑猥な言葉を叫ぶのは、「言論の自由」があるため、ありだ。我々には言いたいことをいう権利があるのである。次に、上司が胸や尻をいやらしい目つきで眺めまわしてきた場合である。この場合経済学でいう「補填格差」を使って検証している。補填格差とは「職務に付随する心理的な損失を埋め合わせるのに必要な金額」と定義できる。

 つまりセクハラをする上司は競争にさらされた自由主義経済上では、セクハラをする相手に埋め合わせ分の高い給料を払わねばならないのだ。そうでないと相手はすぐにやめてしまうだろうと。ポケットマネーを支払わねばならないうえに、部下に愛想をつかされて会社は競争に生き残れなくなってリストラされるという。ここがおかしいのだが、そんなにうまくいかないよなと。大抵は就職困難なのだからセクハラされても、補填格差によって経済援助をされなくても、何もできないかもしれない。上の例はいくらなんでも都合がよすぎる。反対に公務員は全部自分の金じゃないしクビになることもないんだからセクハラをやめる理由がないとしている。正直この辺は暴論で国家を攻撃しているようにしか読めない。がまあわからんでもない。

 3.男女雇用機会均等法を推進する人たち
 まず平等が何かといったところから始めなければならない。平等な労働とは「短期的にも長期的にも二人の従業員の生産性がまったく同じ」ということだ。ここで仮に女性差別のある会社を想定してみよう。そこでは同じ仕事をしているにもかかわらず、男の方が給料が高く、女の方が低い。その場合経営者は、同じ仕事をしているのならば給料が高い男をリストラし、女性社員を採用する。男性の需要は減って給料が下がり、女性の需要が増えて給料があがる。しかし残念なことに、平等をしきりに叫ぶ人たちはそのあたりのことがわかっていないようである。

 女性が子育てを行うという慣習が広く共有された社会では、形式上は同一の男女の新入社員がいたとしても長期的には男性社員のほうがより多く稼ぎ、経営者にとってより大きな価値を持つことになるだろう。

 男女の生産性が明らかに異なっているにもかかわらず、法によって同一の賃金を払うことを強制される社会では女性をクビにせざるを得ない。よって、労働基準法男女雇用機会均等法のない自由な市場でしか平等は起こり得ないのである。生産性が異なる→女性は賃金が安くなる→結果女性ばかりになる→給料があがる。この流れにもっていけないから、である。

 4.全ての女性差別に反対する人たち
 ニューヨーク州に「反差別法」が施行された。これによって女性客を受け入れていなかったバーで、女性を受け入れざるを得なくなった。顧客を性別で判断してはいけないという反差別法の中身のせいでだ。しかしここには重大な欠陥があると著者は指摘する。

 もしこの平等思想を言うのならば、女性用トイレを男性が使用できないのは差別だ。学校の寄宿舎を男女別に分けるのも差別だ。とにかくすべてのものが差別になってしまう。それもそのはずで、人間の行動とは差別の連続なのだ。付き合う相手を選ぶのも差別、どの店で飯を食うのかも差別、私たちは常に何かを選択し、選びとって生きているわけだがそれらの行為はすべて差別なのである。ツーカ長くなったな・・・。とりあえずここらで。

2.麻薬密売人、シャブ中

 シャブ中はなぜ犯罪者となるのか。現在日本では当然のように思えるが、麻薬は禁止されている。そのせいでかつて禁酒法が制定された時と同じように、影で人々は麻薬を吸い、また法律で規制されているが故に異常に高い。中毒者は少なくとも一日に一万円は麻薬の購入に使わざるを得ず、年間四百万もの金を必要としている。基本的に麻薬に手を出すのはお金のない無知な若者なので、その金を必要とするために犯罪に手を伸ばす。手に出来なければ死ぬしかない。そういった若者は非常に嫌悪され、ついでに麻薬もそれを引き起こしたものとして悪いものとされる。しかし本当にそうだろうか?

 そもそも犯罪を起こさざるを得ないのは、麻薬が法外な値段で取引されているからである。そしてその原因は覚せい剤取締法である。じゃあもしこの取締法がなかったら? 年間四百万も使う必要がなくなる。犯罪に手を伸ばす必要もなくなる。若者を犯罪者にしたてあげるのは覚せい剤取締法のせいなのだ。

 中毒者事態を非難する向きもある。覚せい剤の悪影響のトップとして挙げられるのは、本人の寿命を短くするということだ。これには用意に反論できる。タバコなどもそうだが、人がどんな人生を選ぼうが、その人の勝手である。楽しいことをいっぱいして短く死にたい人もいれば我慢して長く生きたい人もいるだろう。

 次に責任能力を失わせるというものだ。確かに責任能力は失われるかもしれない。しかし世の中には、責任能力を失わせるものが大量に溢れかえっている。飲酒はもちろん、パチンコ・パチスロなどのギャンブル。それから死んでしまえば責任の果たしようのない車の運転など。登山もスキューバダイビングも。でもそんなのバカげてっからシャブを規制する理由にもなんねーよなという話。

 そんでもって次にシャブ中は生産性を低下させるからシャブはダメだということに対抗している。もしかりにある素晴らしい発明によって、生産性が二倍に向上した場合これまでと同じように働けば二倍の報酬が得られる。しかし人々が今までの生活を維持するために、今までの半分しか働かず半分を遊んでいると人々は全く豊になっていない。覚せい剤中毒者が生産性の低下につながるとすれば、世の中で生産をしないで遊んでいる行為はすべて反対しなければならない。

 という屁理屈もあるけれど、実際問題シャブ中だとしても仕事ちゃんと出来るよ。などということもいっている。何にしろ覚せい剤が合法になったらその分色々おこるだろーけど今だって充分ひどいよといっているのである。あと法で禁止しているのは明らかに個人の権利を侵害しているよねといって締め。

3.「2ちゃんねらー」は自由の防波堤

 われわれは、ネット上で匿名の誹謗中傷を行う人々の言論の自由をこそ、熱烈に支持しなければならない。

 充分な理由もなしに評判を貶めることは許されないと多くの人は言う。まるで名誉棄損が許し難い罪であるかのようではないか。そんなことをいったら少しでも評判を貶めそうな批評は何一つ行えなくなる。個人の名声は常に守られているわけではない。しかし、理由もなく批判することはダメだという。

 しかし評判などといったものは誰かの所有物などではなく、貶められたからといって当人が起こるのは筋違いである。よって誹謗中傷もまた言論の自由の一部である。

 逆説的にいえば、名声や評判は誹謗中傷を禁じない方が安全だ、と本書では書いている。現在の法律でいえば虚偽に基づく名誉棄損を禁じているが、そのせいで大衆はゴシップ雑誌などに書いてあることをすべて信じてしまう。2ちゃんねるなどにしても規制が厳しくなるほどに投稿の信用度はあがっていく。しかし誹謗中傷が禁じられいなければ、世の中にはウソがまみれて結果的にどれが本当でどれがウソかわからなくなる。よって誹謗中傷も、余程の強度を持った情報しか生き残らない。