- 作者: 神林長平
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/07
- メディア: 単行本
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すべては変わりゆく
だが恐れるな、友よ
何も失われていない
『意識とは何か』『自分とは何か』『認識とは何か』『現実とは何か』『世界とは何か』そして『神は誰だ』。以上が本書で主に扱われている問いです。雪風シリーズでは、常に人間とは何か、機械とは何か,が問われてきたわけですがここにきて問題はより拡散してきましたね。認識の問題とかまで来るともう何が何やら。
人間を人間たらしめているものは何か、という問いが出てきた時に、真っ先にあげられるのは『意識』です。意識がどうやって生まれたか、という問題については様々な議論があるようですが、本書では『他者および他の動物への行動予測が自分に向いた結果、意識が生まれた』となっています。生まれた意識が時間を生み、同時に観測につながります。物事を意識でもって読み取り、そこから解釈を加える。この解釈が曲者で、物ごとを認識した時に、みな自分なりの解釈をしているはずなのですが、それを他人に伝えることができない。つまり私たちは人それぞれ自分だけの解釈で世界を認識していることになります。
意識についてもう一つ重要なテーマとして、神林長平には御馴染みの『言葉』があります。我々が持っている『意識』は、実は意識として存在するだけでは何一つ意味を持っていない、しかし言語を操ることによって、無意識の思考にスポットライトを当てるように、思考内容を意味付けすることができる。だからこそ『意識とは言語である』のではないか、と本書では問いかけが行われます。文字が書けなくても言葉が喋ることが出来れば意識は照らし出されますが、言葉を知らないと獣同然になってしまうのは実例も含めて真実でしょう。
認識の問題
神林長平の凄いところは、普通の作家がOSとしてマックやウィンドウズを使って文章を書いているとしたらそのOS自体を自作してしまったところにある、と以前書いたことがあります。そういった意識を今回改めて強く感じさせられました。
この雪風専用の部隊であるフェアリィという世界は、地球における人間性、どろどろした部分というところを一切排除し、ただただ雪風などの戦闘機と異星体ジャムが戦うだけの場です。ドロドロとしたしがらみに縛られた『地球』とはまた別に、いわば何でもありのフェアリィ世界で神林長平は見事に『なんでも』やってみせたわけですね。それが『認識とは何か』という問題です。
本作アンブロークンアローは人間の視点がこれでもかというほど入れ替わり、思弁が長々と続き何がどうなっているのかよくわからなくなります。またそれだけではなく、中盤になると物語はさらに複雑性を増していきます。哲学的な問題になってしまいますが、本来私たち一人一人が見ている世界は全く別物かもしれない、という問いがあります。仮に<リアル>というものがあるとして、人間の数だけその見え方にも違いがあります。
自分とは何か、という問題について考えてみましょう。自分は自分だと認識していたとしても、それが自分である保証は何一つありません。そもそもほんとうの自分って何でしょうか? どこからどこまでが自分? 夜寝て朝起きて細胞が全部入れ替わってもまだ自分でしょうか? ひとつの人格を形づくっているのは多種多様な思想の集合体であって、『自分』とはっきり定義できるものは存在しません。
本書にはリアル世界説、といったとんでもな説が出てきます。解説すると、1.意識が現実を生み出している。2.しかし実は意識を持っている自分という存在も錯覚なのだ。文字にしてしまうと簡単ですが、難しい。現実があって意識があるわけではなく、意識があって現実があるのだけれども、その意識事態が錯覚なのではないか? ということですね。そしてもしその意識が錯覚だった場合に問題となるのは、『誰がその錯覚を見せているのか』です。ここでは便座的に誰かを神と呼称しています。
神との戦い
ジャムは雪風シリーズ全体を通して、コミュニケーションをとれないもの、謎に満ちたもの、実在を疑われるものとして書かれています。実際に零たちはジャムと戦うのですが、それらにはあまりに実態というものがなく常に捉えどころがない。人間の観念が生み出した存在であるかもしれない、とさえ言えるのです。上で書いたような<リアル世界>とは言ってしまえば、認識、解釈が存在しない世界。ただあるがままの、世界の真の姿です。観測者たる人間は、意識の変化によって観測内容も刻々と変化していきます。しかしもし仮に<リアル世界>というものがあるとすれば、それは絶対不変のものであるはずなのです。そこには時間もなく、意味もなく、変わることなく、ただそこにあるだけです。
意識自体が錯覚なのではないか? という問いに戻った時に、本書では零達は錯覚に次ぐ錯覚、幻視に次ぐ幻視に襲われます。現実があやふやになり、そこにあるのはただ見え方の違う様々な現実だけです。それを見せているのは神──ジャムであるのはいうまでもなく、つまりジャムとの戦いは神との戦いである、といえるでしょう。実際にジャムが神であるかどうかというのはこの際関係がなく、そういうことができる存在、つまり<リアル世界>のようなものとコネクト出来る存在が神であるといえます。
深井零の変化
非人間的である、と称された第1部の深井零とは、明らかに変化してきています。本書の最後で深井零は、おれは人間だ。とそう宣言し、それ以前にも繰り返し繰り返し人間であることを強調します。それは成長といえるかどうかはわかりませんが、明らかな変化です。
「人間というのは、自分一人では、自分自身のことが掴めないものだ」と准将が言った。「他人との関係が絶対に必要だ。コミュニケーションとは、ようするに、自分はなにを考えているのかを知ることにほかならない。相手の考えも自分のものに置き換えられるだろうから、コミュニケーションによって得られるのは、自分自身の無意識の内容、意識していなかった自分の本心というものだろう」
深井零は、このことを理解したのだと思います。同時に、地球などどうでもいいと言っていた過去から一点、地球などどうでもいいといえたのも、地球があってこそだという真実に気がつき、地球を守ろうとします。他人なんかどうだっていい、自分一人だけいればいい、というのは実際に他人がいなくならないという前提の元での発言であって、もし仮に、本当に一人ぼっちになってしまったら後に残るのは恐怖だけです。以上のようなことに気がついた深井零は確かに変化している。元々は雪風と一つになりたい、なんて変態的なことを言ってた気がしますがよく変わったものです。人に悩みを相談すると楽になる、そういった話はただの心理的な安堵感だけじゃなく、他者に話すことによって自分の中で整理がつくんです。
心理学
自分精神分析の方面の本はフロイトせんせーのしか読んだ事ないのですが、超自我とかそっち方面の話も盛りだくさんでした。学術的な話だけではなく、とにかくキャラクターが自分の心理を説明するわするわ。これこれこういう理由があって、こういった事実を踏まえて私はこう判断したのですがあなたはどう思いますか? 私はこれこれこういう理由でそれを違うと判断しますっていうものっすごい冷静な、段階を踏んだ会話が交わされるんですね。自分の行動一つとっても、何故私は顔をしかめたのか、とかそういう点をどこまでも追及する。町田康などととはまた違った意味で凄まじい作風だなと感じました。
もはや何でもあり
認識が自由な世界──。時間は入り乱れ、過去に飛び未来の記憶を持ち、はてには瞬間移動さえ可能──。さっきまで隣にいたと思っていた人間は次の瞬間には見えなくなっており代わりの人間が派遣される。そんな何が起こっているのか全く分からない、まるで夢のような(I have a dreamじゃないよ!)空間。読んでいて視点が目まぐるしく移り変わり何が何やら、しかしそれがパズルのようになっていて非常に面白い。零なんか、お空にむかって「雪風ー! 聞こえてんだろー!」とか叫んじゃうし、普通だったらデムパですよ、それか壮大なホラ話、ギャグ、だって小林泰三の世界じゃないですか、それは。しかし凄いんだな、真面目にやってしまう。何かをぐだぐだとここまで書いたような気がするのだけど、正直自分でも何が何だかよくわかってないんですよね。言語で表現されたものはすでにリアルではあり得ない、そんな感じです。
エピグラフはやはり素晴らしい。本書の全体を総括している、これ以上ないものといえる…。しかしこの『だが恐れるな、友よ』って誰から誰にあてたものですかね? 雪風から零へ? 疑問が湧いたのが今だったので何にも考えてなかった…。雪風に友とかいう概念があるのか非常に謎ですが、というか、無いんじゃない? 友とか言う関係性が出てくる…ブッカーと零…リンと零…。誰か特定の人物を指しているわけではない説。もう一度読み直すかなあ。ああ、読者へ向けて、ってのがあるか。『だが恐れるな、友(読者)よ』
そう、とにかく情報が多くて何が何なのかよくわからない。いったい上に何を書いたのか、書いた瞬間からわからなくなるぐらいわからない。ただひとつ確信を持って言える事は、だれもが同意することでしょうがラストシーンの美しさは異常である、ということだけです。
フェアリィと地球
先程フェアリィという空間は人間的なドロドロとした部分を取り除いた世界、といいましたが心理を全て説明するかのような冷静な口調はやはりフェアリィ特有のものでしょう。フェアリィという特殊な空間だからこそ、自分の心理を説明して相手に論理的解決を求める。ただしそこでは感情がうまく生き残れません。だからこそ『おれは人間だ。これが、人間だ。わかったか、ジャム』という認識を新たにした深井零が、同時に地球へと飛び出していくのは非人間的世界(フェアリィ)から人間の世界(地球)への転移という凄くわかりやすい形となって表れているのではないでしょうか。そしてだからこそこんなに感動するのです。