定本コロコロ爆伝!! 1977-2009 ~ 「コロコロコミック」全史
- 作者: 渋谷直角
- 出版社/メーカー: 飛鳥新社
- 発売日: 2009/05/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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公園といったのは、コロコロが根本的なところでは変わっていないからだ。今はコロコロをまったく読んでいないけれど、本書を読んでいればそれがよくわかる。そして驚くほど変わってしまった他の雑誌(ジャンプとかサンデーとかマガジンとか)と対比しても、この変わらなさは凄いな、と思う。話は変わるけれど、イチローの凄さはよく「習慣力」だと言われる。普通打てなくなったら普段している習慣を変えようとするだろう。恐らく、自分の正しさに確信を持てていないとそこで潰れてしまう。というか、実際間違っているのかもしれないのだから変えようとするのは間違いじゃないのかもしれない。ただ絶対に正しいと信じたものがあるのならば、それは変えるべきではないと思う。コロコロのコンセプトは幼稚園あたりから、小学生高学年あたりまでと共にある雑誌だという。中学生は対象外、そこから先はジャンプを読んでくれ。そういった明確な姿勢を打ち出し、その路線から決してブレずに全体の構成を整える。僕はそこにイチロー的な習慣、変わらないことの強さをみた。
で、このコロコロ爆伝なんだけど、数10人(数えるのめんどくさい)へのインタビューがまず凄くて、それがすべてといってもいい。とにかく関わった人間の思い出話で構成されているわけであって、色々な人のコロコロ観が読めて非常に面白いです。中でも多くのページ数を割かれているのは「ドラえもん」について。というよりかは、藤子・F・不二雄氏についての話だ。やっぱりというかなんというか、「ドラえもん」とコロコロは密接に関係し合っているわけで、もう言ってしまえばコロコロがドラえもんであり、ドラえもんがコロコロなのだというぐらいなのだ。たとえば本書の最後に収録されているジャンプの元編集長鳥嶋氏のインタビューの中で、こう語っている。
みんな手塚治虫さんを「天才だ」って言うけど、たしかに手塚さんは今のマンガの土壌を作った天才。それに比べ、藤子さんは進化しない天才だね。どういうことかというと、つねに子供に寄り添いつづけている。作家というのは、自分が描きたいものを描きたい。それは自分の年齢が上がると、それに合わせてテーマも変わっていくわけ。これは手塚さんだよね。藤子さんは「自分が読者になにを訴えられるか」であって、つねにそれを描きつづける。描きたいものを描くってことじゃない。自分の年齢とともに進化させることをやらなかった。あの人は同じテーマだけを描きつづけた。
さっきも書いたように、この「読者に添い続ける姿勢」がコロコロの根本だと勝手に思っているわけだけれども、その体現者が藤子さんなのだ。とか思ったりする。小林よしのり(ゴーマニズム宣言とかの)さんも「ドラえもん」があるから「おぼっちゃまくん」のような応用編に持っていける、と言っている。ドラえもんは子供たちにとってのマンガの基礎なのだ。マンガとは基本はこういうものであり、ちゃんと面白いものだというのを知るのがドラえもんの役割なのだ。ひいてはコロコロの役割でもあるのかもしれない。そんな作品を生み出せた藤子・F・不二雄はいったいどんな人間なのだ、と気になるだろう。このエピソードとか結構良かった。
これは先生から聞いた話だけど、高校卒業した後、会社に勤めてすぐ、右手を怪我したらしいんです。マンガ家になろうと思ってたから、ペンを持つ右手は特に大事。医者に行って治療を受けてる時に、「平山さん、その時僕が何を考えてたかっていうとね、『急いで家に帰って、左手で絵を描く練習をしなきゃ』って思ってた」って(笑)。
なんだろう、マンガを描くことに対して、普通の『好き』だったら多分絶望するんじゃないかなーと思うんですね。ていうか普通はこんなことになったら悲劇じゃないですか。絶望にくれて、そのあと指導者として生きていくとか編集者として生きていくとか道を変えようとするのが普通の『好き』だと思います。藤子さんのは…なんだろ、本気の好き? 本当に好きな物があったら、その人と好きな物の間に障害なんて無いのかもしれないです。そしてやっぱり、そんな人だからこそドラえもんが描けるんだなーと。いやいやあっぱれ!