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動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 2001年出版なので内容が古い。というのもすでに「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」という新たな時代に対応した新バージョンのポストモダン的オタク論が出ていて、すでにそれを読んだ身からしてみれば古い、というわけです。先に2から読んでしまった個人的な邪道さのせいであまり面白くなかったですけれど、論自体は今でも通用するほど面白いです。基本的な流れとしては「ポストモダンという視点からオタク系文化の現状を分析する」あるいは反対に「オタク系文化の分析を通してポストモダンの本質を探る」、この二つを主軸としています。

 ポストモダンとは何かと言えば、「ポスト」の意味は「後から来るもの」を、「モダン」とは「近代」を意味するので「近代の後に来るもの」と直接的に訳せばそうなります。時期的に言えばだいたい七十年代以降のことをポストモダン時代と言っているようです。そして近代がどんな時代だったかといえば、「大きな物語」に支配された時代だったといえます。「大きな物語」とは基本的にはシステムのことで、人間の理性や理念、政治的な思想、イデオロギー、経済的には成長し続けるモデルを示し続ける、そういう一種の共通幻想ですね。「みんなが共通して持っている幻想」が大きな物語で、それに支配されていました。「大きな物語」に支配されていた「近代」ですが、まあ何か色々あって崩壊してしまい「ポストモダン」の時代がやってきます。それがどんな時代かといえば、「大きな物語が崩壊した後、それを何らかの形で必死に埋め合わせようとしている時代」といえるかもしれません。オタクたちの「萌え」的な消費を求める行動は、上に描いたような状況と対応していると東浩紀はいいます。

 以上をふまえて本書の大きな疑問を二つに絞っています。その二つとは簡単にまとめてしまえば(1)シミュラークル(オリジナルとコピーの区別が消滅した空間)が増加する。ではどのように増加するか? 近代ではオリジナルを生みだすのは「作家」だったが、ポストモダンシミュラークルを生みだすのはなにものか? (2)ポストモダンでは大きな物語が無くなるが、その世界で人間はどのように生きていくのか? 近代では大きな物語としての宗教や教育機関が担っていた人間性の保証という概念が消失したあと、人間の人間性はどうなっていくのか?

 正直いってこの二つの問いは複雑でいみわからんなーっていうかシミュラークルをだれが生み出そうがまじどーだっていいぜ! ってな気分なのですが簡単に答えてしまいます。シミュラークルが増加するのには作品のデータベース化が深く絡んでいます。作品のデータベース化とは要するに「萌え要素」であり、製作者側は数々の萌え要素ツンデレ、ねこみみ、そういったもろもろの属性))を組み合わせてキャラクターを作り、さらにそうやって作り上げたキャラクターを数々の小さな物語に配置して消費を促します(エヴァンゲリオンの映画と、綾波育成ゲームみたいな。両者の相関はキャラが同じという事しかない)。すべては萌え要素からなるデータベースから始まっているのですね。ゆえにポストモダンシミュラークルを生みだすのは何か? という問いへの答えは「萌え要素からなるデータベース」となるわけです。

 もうひとつの問いである「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのか」は一から説明しようとするとスノビズムとかシニシズムとかわけわかんねー用語を使わないといかんので壮絶にはしょっちゃいます。近代の人間は物語動物であって、「生きる意味」とかいったまあ要するに個人の物語ですから、小さな物語ですよね。で、そういったものを「大きな物語」、つまりは社会とか政治理念とかとまったく同一視して満足していたわけです。しかしポストモダンの人間は「生きることの意味」をもはや国の理念やなんかとは違うものとして捉えるしかないので、生きる意味を共通幻想でみたせないんですね。そんでどーするかってーとひたすら動物的に情報を求めるわけです。「こんな女の子が欲しい」と思ったら即座に「萌え要素からなるデータベースを検索」して、浮き上がってきたもので欲望を一時的に充足させる孤独な状態がポストモダンの人間性だそうです。うーんなんかよくわかんないですねやっぱり。