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テロと感染病の蔓延により、リアルに接触する機会が激減した未来を予言的に描き出したネビュラ賞受賞作──『新しい時代への歌』

この『新しい時代への歌』は、本邦では初紹介となる作家サラ・ピンスカーの長篇にして2020年度のネビュラ賞受賞作である。本作、日本でこうして邦訳作が刊行されるまえからすでにかなりの話題作となっていたが、その理由は、現在のコロナ禍を見通していたかのような本作の内容にある。本作が刊行されたのは2019年のことなのだけれども、その中で描き出していくのは、テロと感染症の影響によって、人々が大勢で集まることが禁止され、対面接触が極端に減少した少し未来の世界なのだ。

この世界では、健康な人間も一気に死に至る可能性のある感染病の蔓延とアメリカ全土の施設に向けた大規模な爆破テロがほぼ同時期に重なってしまい、それ以前と以後では「前時代(ビフォー)」、「後時代(アフター)」と呼称されるほど社会の在り方が異なってしまっている。アフターの世界では、数十人規模で集まる密集・集会が禁止され、夜間外出禁止令も州ごとに発令されている。夜道を歩いていると警察からきみぃ、こんな時間に何をやっているのかね、と声をかけられるような状態である。

そんな状況下なので、アフターの世界では昼間でも人々は非接触での生活が当たり前になっている。学校や仕事や買い物はすべてオンライン。クラブや美術館はすべて閉まり、物資の購入は通販で、輸送はドローンが担当している。多人数が集まる音楽のライブ会場も表向きには存在せず、かつてのようなライブを体験をしたい人たちは没入型の仮想世界にいくしかない。感染症が蔓延した世界というのはSFのテーマとしては珍しいものではないから、予言的だと騒ぎ立てるのもどうかと思うが、本作が描き出す日々の生活は、コロナ禍の中で我々が体験している状況とかなり近い。

なので、最初は「いま・ここ」と関わりの深い小説として興味を持ったのだけれども、読み始めて驚いたのは、本作がまず「音楽・バンド小説」としてシンプルにおもしろいという事実だった。感染症を超えて人の心を震わせる音楽と、リアルでライブをすること、またそれを体験することの喜びが十全に描き出されている。サラ・ピンスカー自身もインディーズで何作もアルバムを出しているアーティストでもあり、音楽の細かな描写については、自身の実体験から描いている部分もあるのだろう。
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前時代

物語はまず、まだ世界が前時代、後時代に分かれていない時代がはじまる。中心になっているのは『血とダイヤモンド』という曲がヒットしている女性アーティストのルースだ。彼女を含むバンドは各地をめぐるツアー中で、その日もライブを行おうとしているのだが、アメリカ全土に爆破予告があり、中止の可能性が浮上している。

アメリカ全土で爆破テロを起こすのは現実的ではなく、バンドメンバーも最初はそれを真剣に受け止めていたわけではなかったが、野球スタジアムのひとつが実際に爆破され多数の死傷者が出る。大統領は、できるかぎり公共の場に出ることはやめて自宅待機をするようにとの声明を出した。当然、ライブの可否を判断する必要がある。

レコード会社は保険をかけているから、ライブが仮に中止になっても、もっとマシな日に振り替えることもできる。普通に考えたら中止一択だし、そもそもほとんどの客は各地に爆破予告の出ている日にわざわざライブに来たりなんかしない。無理やり決行したところで、10人程度の集まってきた観客に気まずい思いをさせかねない。だが──とそこで思考を転換させるのがルースというアーティストだった。

 でもその十人は、音楽でそんなニュースは吹き飛ばし、今夜だからこそ気持ちを奮い立たせるためにライブを求めているかもしれない。そう考えるほうが理に適っている。「自宅待機するように」と命じられることに反発し、誰から脅されようが屈しはしないところを示したい人々もいるはずだ。その機会を与えることができるのに、わたしたちが勝手に取り上げていいの?何が正しいかなんて、たぶん誰にもわからない。
「おれを見るなよ」わたしが顔を向けるとヒューイットが言った。「きみがボスだ」

10人のためにライブの決行を決断するルースだが、後日、そんな決断を下したのはアメリカ全土で彼女だけだったことが判明し、そのライブが最後に行われた大規模なコンサートだったという記事が書かれることになる。テロの恐怖と、同時期に発生した感染病により、世界は前時代と後時代で分かれてしまうのだ。

後時代

ルースの話と交互に語られていくのは、世界が後時代に切り替わった後、プログラム修正などを行うヘルプ・センターの仕事を担当しているローズマリーの物語である。彼女の方はルースよりも若く、幼少期の頃に後時代への移り変わりを経験したので、人生をほぼ人との非接触を当然のものとして過ごしている。学校も、デートも、すべてはオンラインで進行し、何十人も集まる人混みに行くとパニックを起こすほどだ。

だが、ある時仮想世界上でのライブを体験したことで、そうしたオンラインライブを主催するスーパー・ホロ・ライブに転職を決意。もともと優秀だったこともあって、各地をまわってアーティストを発掘する営業部門に採用され、現地で行われている違法ライブにしのびこんでいくうちに、自前の箱で違法ライブを開催しているルースと出会うのであった──というのが、おおむね物語の30%ぐらいまでの展開である。

ルースはもともと前時代の人間で、自前の箱で違法なライブをやるぐらいだから、仮想世界よりも現実のライブを重視する人間である。一方のローズマリーは、人混みを前にして、「どうしてみんな平気でいられるんだろう、この中の誰かは強力な病原菌に侵されていて誰かのくしゃみがここにいる全員を危険に晒すかもしれないのに」と恐怖を覚えるような人物で、まるで異なる価値観を持った二人が、音楽、現実のライブを一緒に体験することで、ひとつに繋がっていくおもしろさがある。

「あの人たちはそのために来てるの? 繋がりのため?」
「あなたはどう。どこかからここに、いままで聴いたことのない音楽を探しにやって来た。曲を、とも言えるのかもしれないけど、ほんとうにそれだけならオンラインでも探せるはず。わたしたちと同じように、それ以上のもの、何かを生みだすきっかけを求めてここに来たんじゃないの」

本当にこのままでいいのか?

本作は人と人との接触が断たれてしまった世界を描き出しているが、同時にルースやローズマリーの行動を通して「本当にそれでいいのか?」という疑問を問いかけてくる。ルースが誰もがライブをためらった日にあえて決行を判断したように、たとえその意見が少数派だったとしても、間違っているのは世界の方なのではないか? と。

本作はただ非接触やオンラインライブを否定しているわけではなくて、この世界に慣れた人たちは世界はより安全になり、刑務所に入る人も減り、裕福な人達の居住地は分散して資産はより公平に分配されるようになったなど、肯定的な側面も語られていく。オンラインライブも、ローズマリーが最初感動したように、素晴らしいものだ。

だが──、それだけでいいのか? という問いかけもまた必要なものであり、ルースとローズマリーはそれぞれ別の立場からこの世界に向き合っていくことになる。今まさにすくすく育っている子供たちは、重要な価値観の形成期に本作のローズマリーのような体験をしており、同時にライブイベントを開催すべきだ、いや中止だという様々な議論が起こるいまこそ読んでおきたい、タイムリーな一冊だ。