基本読書

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ワセダ三畳青春記 (集英社文庫) by 高野秀行

謎の独立国家ソマリランド by 高野秀行 - 基本読書 

謎の独立国家ソマリランドはもうめちゃくちゃおもしろい本で、僕は「なんで今までこんな面白い作家を見逃していたんだ!?」とショックに襲われた。そして高野秀行さんの作品を買い漁り読み漁っているところなのだ。大半が集英社から文庫になっているので本屋に入ってタ行を探してゲットするという行為を繰り返していたのだがその中でもぴか一の出来がこの『ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)』だったので紹介したい。

早稲田大学門徒歩五分のところにある、野々村荘という場所を舞台にしたノンフィクション・エッセイ。タイトルにもある通り三畳で、氏が1989年から2000年まで、11年にも渡る青春を過ごした場所になる。年齢で言えば二十二歳から三十三歳、三十三って青春って歳かよ、と思ってしまうが……読んでしまえばさもありなん、これは青春そのものである。

青春とは年齢で区切られるものではないのだと本書を読んでいると思う。永遠に子どものように遊んでいたい、世間や規範にしばられずにやりたいことをやりたように生きたい──しかし周囲の圧力はそんな夢をなかなか許そうとはしない。青春とはそうした奇跡的な期間に成立するものではなかろうか。これは終わらないモラトリアムと、そんな自分を差し置いて勝手にどんどん変化してしまう周囲に引き裂かれる、「おっさんの青春記」である。

もうとにかくその内容は「破壊」的なありさまで、住んでいる人間は漫画のキャラクタよりもぶっ飛んでいて起こるエピソードはどれひとつとってもひっくり返りそうなものばかり。チョウセンアサガオを食ってみれば15時間意識不明でぶっ倒れプールにハマれば同年代の人間がみな朝からよるまであくせく働いている中毎日プールで泳ぎまくりはては大会に出る。三味線をはじめたかとおもえばそれを客引きとして占い屋台をはじめたり、やりたい放題である。

でもとんでもなく楽しそうなんだよなあ。とにかく毎日自分たちの好きなこと、楽しそうなことばかりする。一日の時間がすべて自分の為のものであり、なにをするのも自由だ(カネはないが)。そして何よりそれを一緒にやってくれる仲間たちがいる。

僕は別に早稲田に通っていたわけではないが、知人が多く在籍していてよく遊びに行ったものだ。早稲田というのは巨大な大学なので一般化するわけにはいかないが、一緒にアホをやってくれる人間を探すには素晴らしい場所であることは今でも変わりがないと思う。あのアホさの源泉はいったいなんなんだろうな。当時僕の周りに居たのは定職につかない人間ばかりだった。

正社員として勤めるのは僕はまったく悪いことだとは思わないし満足してはいる。しかしこうした生き方には「子供時代に戻りたい」と思わず漏らしてしまうようなくたびれたサラリーマンのように憧れをもってみてしまうものだ。一日の時間のほとんどを自分のために使え、世間様のルールに縛られず生きる生活も、それだけで素晴らしいものではないようだ。そうした哀愁が本書を傑作に押し上げている。

著者がスーツを着て大人になろうとするエピソードが秀逸だ。サラリーマンとして毎日電車に揺られ上司の命令を聞くような生活を、なんておぞましく、辛い人生なんだろう──と思っていたが、それが変化していく。友人たちが著者の部屋を訪ねてきて、かばんを投げ出しネクタイをゆるめ、「高野は自由でいいなあ」「やりたいことをやっている人は幸せだ」と羨ましそうに語る。

 そんなとき、私は正直言って、すごくいい気分になる。「いや、これでもいろいろたいへんなんだよ」と言いながら頬が緩んでしまう。あー、ほんとに勤め人にならなくてよかったと心から思えるひとときだ。話は尽きることがなく、寝るのは朝方になる。

会社員は当然ながら平日は毎日出社しなければいけないので、朝には出勤の準備をする。スーツを着こみ、家から出て行く。書類のチェックやタスクのチェックもするだろう。文句をいいながら毎日出社をするんだから偉いものだ。それも酒を飲んで睡眠不足の状態で。そして彼らが出て行った時には、著者は一人残っているのである。

 みんな大人になったのだなとつくづく思う。一緒に変な薬草を試していた連中、一緒にコンゴくんだりまで行き怪獣探しをした連中、「河童団」などと称して一緒にプールで遊んでいた連中、ここ野々村荘で大家のおばちゃんや変な住人たちと一緒に珍騒動を繰り広げていた連中、彼らはみな、「子ども」を卒業し、社会の一員となった。
 こちらはフリーライターを自称しながら、実質的にはフリーター同然の身だ。
 みんなして砂場で遊んでいたのに、気づいたら日が暮れて、ひとり、公園に取り残されたのに気づいて愕然とする子どもである。彼らが野々村荘や私を見て羨ましがるのは、公園の砂場やそこでいつまでも無心に遊んでいる子どもを羨ましがるのと心情的には変わらない。

かつてここまで遊び続ける子どもの心境と、いつのまにかとっくに大人になって世間ずれしてしまった周囲とのギャップを表現しきった文章があっただろうか。著者自身の「子ども」っぷりを表すエピソード群が突き抜けていることもあって、対照的なギャップが特に映える。毎日夢のような冒険をして、アホ極まりない話をしてきた相手が今ではスーツを着て電車にのって仕事にいく──。

「子ども」を卒業することは別に偉いわけじゃない。むしろそれはつまらない大人になっただけのことだ。会えば仕事の愚痴や身体の不調しかいわないような大人が偉いわけがない、そんな会話が楽しいわけがない。それでも周りがどんどんそういった方向に変化していくのに、自分だけがいつまでもとどまっているように感じるのは、なんて寂しいんだろうか。

実際には著者がその道を歩まなかった(歩めなかった)のは結果からわかってしまうところではあるものの。

著者にとっては三畳一間、家賃1万2千円の野々村荘は青春そのものだったのだろう。長い長い青春だったといえる。とうとう青春の象徴である野々村荘を出る、終わりのエピソードもまた圧巻の出来で、読んでいて悶える。年齢なんて関係がないのだ。世間ずれしていない、アタリマエのことにアタリマエに悩み、葛藤するのが青春だ。著者はそれを実に見事に料理してみせる。こんなに極上の青春料理は、なかなかお目にかかれない。

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)