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「思い通りにいかないこと」を前提として考える──『悲観する力』

悲観する力 (幻冬舎新書)

悲観する力 (幻冬舎新書)

「悲観」についての本である。著者は作家の森博嗣氏。この書名を見た時、「ああ、これは(森氏が書くのに)ぴったりだなあ」と思ったが、それは氏がいつも不測の事態に備えて締切の半年前には原稿を上げるような人で、もう何年も前から「自分がいつか死ぬし、それは近日中の可能性もある」ということを常に意識し、書かれてきた「悲観的な」人であるからだ。実際、これだけ悲観的な人はなかなかいないだろう。

世間一般的に重要だと思われているのは、悲観よりかは楽観の方だと思う。未来は明るく、自分の前途には素晴らしい世界が待ち受けている、自分が今からやろうとしていることはきっとうまくいくだろうと完全に楽観的に考え、行動することができればそれは素晴らしいことなのかもしれない。受験生の前で「落ちる」とかの言葉を口にするなどアホくさいことを未だに言う人もいるが、そうした考えも「悲観するな、楽観せよ」という価値観からくるものだろう。だが、それで常にうまくいくとは限らないし、結局のところ準備が不足しているのだから、実際のその時が近づくにつれて、「期待」「祈り」をすることになり、完全に不安を払拭できるわけではない。

『けれども、この逆に、あらゆるトラブルを想定し、悪い事態にならないよう考えうるかぎりの手を打つ、という姿勢が、成功には不可欠である。』というのが、本書でいうところの「悲観」の力である。受験生の前で「落ちる」ということで、受験生がナイーブになって実際に力が発揮できない──ということが決してないとは言わないが、そもそもそんなくだらないことで左右されないぐらいに最初から「悲観して」、勉強をしていればいいだけの話である。受験当日にインフルエンザにかかったり、雪で受験会場に行けなかったり、虫歯が痛かったりといったアクシデントもあるかもしれない。しかし、そのほとんどはあらかじめ予測──、「悲観」できることだ。

インフルは感染して引くのだから、そもそも外に出ない、人に会わない。交通状況を見越して、歩いてでも間に合う時間に家を出る。歩いてで行けない場所なら、前日から乗り込む。虫歯が痛くて集中できなかったなんてことにならないように、受験の半年前から歯医者にいっておけばいい。適切な「悲観」が出来る人は将来的な危機に対して事前に手を打てるのであって、「まあ、大丈夫だろう」と楽観している人よりもはるかに安全側にいる。「楽観」とは「考えない」ことだといえるだろう。

将来こんなことがあるかもしれないが、大丈夫だろう。負けるかもしれないし失敗するかもしれないが、まあ大丈夫だろう、と「楽観」してしまえば、特に事前に考えておいたり、手を打ったりする必要もないから、楽である。実際、杞憂に終わることの方が多いだろう。逆に、「悲観」するというのはコストがかかることだ。「楽観」しているときよりも多く勉強をしたり、準備をしたり、考えたりする必要がある。

だが、その見返りは大きい。たとえば、締切当日に作業を終える日程を組んでいるとする。風邪を引かず、突発的な葬式などが入らなければ終わるだろうし、実際ほとんどそんなことは起こらない。だが、いつかその時はくる。インフルにかかる時もあるし、事故にあって作業ができなくなるかもしれない。そういう時に、森氏のように半年前までに原稿を上げるようにしていれば、かなりの部分対処できるし、周りでインフルが流行っている、うつされたらどうしよう、と心配する必要もない。

プログラマは悲観する

僕は本職がプログラマということもあるだろうが、もともと悲観的な考え方をするほうだと思う(先に書いたような締切の話はまさに自分自身の今の状態・不安を表しているから、ぜんぜん完全じゃないんだけど……)。楽観していてはなかなかプログラミングで仕事をすることはできない。システムの設計時には、対象となる操作者がどんな操作をするか、複雑に絡み合ったプログラムがどのようなバグを起こし得るかを「悲観」して、通常ありえないようなケースまで想定し準備しなければならない。

そもそも、人間が操作をすると必ずミスをするという「悲観的な」前提から、できるかぎり作業を自動化しようとする。無論、そこで無限のリソースがあるわけではないから、そのへんは有限のリソースを「悲観」と「楽観」にどのように振り分けるのかというバランス調整的な要素が入ってくるわけだが、それは現実でも同じだろう。たとえば道端を歩いていたら隕石にあたって死ぬ可能性があるわけだが、だからといって常に核シェルターの中に引きこもっていられるかといえばそうではない。我々は悲観と楽観の間で揺れ動いているが、そのバランスをどこで取るかは人によって異なっている。本書を読んだ人はそのバランスが少しばかり「悲観」側に傾くことだろう。

悲観するとは考え続けること

悲観するというのは結局、様々なケース「推測」し、それに対する対策を「考え続ける」ということで、面倒臭くしんどいのは確かだが、それこそが人間の特別な能力の一つなのだから、活かすにこしたことはないだろう。この記事では悲観のメリットについて書いているが、本書ではなぜ楽観主義がこれだけ日本で蔓延しているのか、悲観とはどのようなプロセスを経て行われるものなのか、楽観の危険性、悲観的に問題を洗い出した後の「冷静」についての話などなど、幅広く私論を展開していく。

ちなみに、森氏は別に楽観は完全なる悪だと言っているわけではない。当たり前だが、すべてのケースに手をうつことはできないわけで、悲観をして問題点を出し切った後に、もうこれ以上はどうしようもないというところから先は「楽観」するという「悲観的楽観主義」とでもいうべき姿勢が語られている。