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情動には客観的な指標は存在しない──『情動はこうしてつくられる 脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』

情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

怒り、悲しみ、苦しみ、驚きや幸福といった感情の動きは、どのような文化であっても普遍的なものに感じられる。たとえば、未開の部族みたいなものが仮にいたとしても、日本人やアメリカ人と同じように怒っている人の顔をみれば怒っているとわかるし、口と目を大きく見開いていれば、驚いているとわかるはずだ(と思ってしまう)。

情動には客観的な指標は存在しない

だが、近年の研究によって、情動には客観的な指標となりえるパターンは存在しないことがわかってきた。本書は、脳は都度外界と反応し、特別なパターンを情動として「作り出しているのだ」とする、構成主義的情動理論についての一冊なのだけれども、構成主義的情動理論と対比して、そうした「情動とは内から沸き起こってくる普遍的なパターンであり、理性はそうした情動をねじ伏せるものであるとする」考えを古典的情動理論と名付け、それがいかに社会の基本法則として用いられているか、またそれがいかに間違っていて、どのような問題が存在するのかを広く指摘していく。

古典的情動理論批判の重要な根拠になっているのは、情動は誰しも同じように現れ、表現される普遍的なもの”ではない”点にあるわけだが、これは広範な研究成果がその事実を支持しているように見える。たとえば、数百人の被験者に対して日常生活を送る上で感じた情動を報告してほしいと依頼した実験では、情動に関連する用語が、複数の被験者間で、同じ意味では使われていなかった。たとえば、「すばらしい気分」には細かく分割すれば幸福、満足、興奮、リラックス、喜び、希望、啓発、至福、感謝など無数の陰影があるわけだが、その全てを「幸福」にまとめてしまう人もいる。

それだけなら「いうて普遍的な反応をどう表現するかに能力の違いが現れているだけでは」という感じではあるのだけれども、じゃあその普遍的な反応って何なのよ、というのがそもそも定義不可能なのである。たとえば、顔面筋電図と呼ばれる、皮膚の表面に電極をとりつける技法がある。笑いなら笑い、悲しみなら悲しみでみなが同じ顔をするなら、顔面筋電図には感情ごとに特定のパターンが現れるはずだ。

だが、実際にはそんなパターンは現れず、被験者が怒っているのか悲しんでいるのか、個別の情動を予測する役には立たないことがわかるだけだった。情報のとり方が不十分なのでは? 怒っている時は心拍数が増したりといった他の基準が用いられるのでは? fMRIで脳波をとったら怒りの時には特定のニューロンや脳領域が発火するのでは──と様々な仮説が考えつくが、今のところそのどれもが否定されている。

 概して言えば、われわれはどの脳領域も、いかなる情動の指標も含まないことを発見した。しかも複数の脳領域の結合(脳のネットワーク)をまとめて考慮した場合でも、個々のニューロンに電気刺激を与えた場合でも、指標は見つかっていない。情動を司る神経回路を持つとされるサルやラットなどの動物を用いた実験でも、同じ結果が得られている。情動がニューロンの発火によって生じるのは確かだが、情動のみに関わっているニューロンは存在しない。

じゃあいったい情動ってなんなのよ

じゃあいったい情動って何なのよ、という話になってくるのだが、普遍的なパターンが存在しないということは、あらかじめ人間の内部にパターンとして組み込まれたものではなく、都度都度外界に応じて「内部で特殊に作り出されるもの」なのである。

たとえば尊い人命が失われたとあるスピーチを聞いた時、心臓の鼓動がはやまって、顔面は紅潮し、胃が収縮したとする。それを「悲しみ」と捉える文化圏で育っていれば、その人はそれを悲しみを表現するだろう。だが、まったく同じ症状が、結婚式のような異なる状況のもとでは「喜び」や「感謝」として表現されるのである。

情動は、さまざまな身体特性、環境に合わせて自身を配線する能力を持つ柔軟な脳、文化、養育の結合として生じる。情動は実在するが、「分子やニューロンは実在する」と言うときに込められている客観性という意味において実在するのではなく、「お金は現実のものだ」などと言うときの意味で現実なのであり、情動は幻覚ではなく、人々のあいだで得られた同意の産物なのだ。

と、本書では情動がいかにして生成されるのかについて、詳しい脳科学的な側面からの説明もあるのだが本稿ではそこまで深くは立ち入らない。重要なのは、こうしてわかってきた構成主義的情動理論によって古典的情動理論が否定され、古典的情動理論が前提としてきた法制度や思考の枠組みが見直しが迫られているという側面にある。

古典的情動理論を前提とした社会

どういうことか? たとえば、空港警備を担当する米国運輸保安局の職員は、顔や身体の動きに基づいて欺瞞をあばいたりリスクを評価したりする技術を教え込まれていた。自閉症スペクトラム障害や精神疾患を持つ子供は、他者とのコミュニケーション方法を会得するために、相貌から特定の情動を判別する訓練を受けている。だが、実際には相貌を「読んで」感情を推し量ることなどできない(のにそれを教えている)。

陪審制度では被告がいかに悲しみ、反省をしているのかというのが刑罰の重みに影響を与えるが、実際には「どれだけ悲しんでいるか」や「反省しているか」を示す客観的な指標はどこにも存在しない。裁判では時に、感情の爆発が理性で抑えきれずに反抗に至った事例で「激情」弁護といって自己の行動に関する責任が部分的に軽減されることがあるが、これもたった一つの普遍的な怒りの存在を前提としている。

それだけではなく、突発的な怒りは自己の内なる野獣が解き放たれたような、個人の自由意志では制御不可能なものであるかのように扱われるという前提もそこには存在しているが、実際にはこれも間違っているのである。つまり、精神疾患から法制度まで、広範に渡る常識を捉え直す必要があるということだ。

おわりに

本書では他にも、情動を表現する粒度を上げることでより精神的なストレスを軽減し、他者とのコミュニケーションが円滑に運ぶようになるという仮説や、情動粒度を上げるための手法を提示したり、医療面での構成主義的情動理論の応用可能性に触れていくことになる。非常に革新性の高い議論・研究成果であり、まだまだ議論の余地があることも確かだが、教育からメディアまで、古典的情動理論的常識がはばをきかせている領域は広く、現代社会を捉え直す上で外せない一冊だ。