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孤独な少女の人生を描く、全米500万部の話題に劣らぬ内容を伴った超ベストセラー──『ザリガニの鳴くところ』

ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ

この『ザリガニの鳴くところ』は著者ディーリア・オーエンズが70歳になってはじめて執筆小説であると同時に、またたく間に全米500万部、2019年のアメリカでもっとも売れた作品となった、湿地の少女を描く文学・ミステリィ小説である。

正直言って売上がどれだけ凄かろうがまったくおもしろみを感じない、というケースは往々にしてあるわけで、売上がなんぼのもんじゃい!! と(売上何万部と帯とかに書いてある本については)謎の気炎を上げながら読むのだが、本作に関してはよくもまあこんな作品がそんだけ売れてくれたなあ、と感謝をしたくなるような本である。端的にいって、とても美しく残酷な風景が描かれていて、とてつもなくおもしろい。

湿地で一人孤独に住まう少女の人生を追いながら、そこで起こった殺人事件の犯人をめぐるミステリィも並行して進行する、わりと地味な作品といってもいいと思うのだが、ただそれだけのこと=少女の感情のゆらめきが、なぜかどうしても目を離せない、切実なこととして(こちらに)感じられるのである。読むのを中断するポイントが見つからず、ほとんど最後まで一気に読み切ってしまったし、500万部も納得だ。

あらすじとか

物語のプロローグは1969年。アメリカの南部ノース・カロライナ州の湿地帯で、チェイス・アンドルーズという男性の死体が発見されるところから幕を上げる。その時点ではこの人物が誰で、どういう人物か、まるで検討もつかない。その後の章では1952年に時代をうつし、崩壊状況にある、一家の状況が語られていくことになる。

一家は同じ湿地帯の中で、ウサギ小屋のような家で暮らしているが、父親の酒癖の悪さ、暴力癖によってまず母親が家を出てしまう。残された5人の兄弟姉妹もその状況に耐えられなくなり、だんだん離脱していく。だが、当時まだ6歳だった少女のカイアはただ一人取り残され、悪夢的な父親との二人だけの共同生活を強いられる。5人中年長の3人については何も言わずに消えていったが、カイアがいちばん年が近かったジョディだけは去ることを伝えて出ていくのだが、その時の描写がまた切ない。

「もう少し大きくなれば、おまえもわかってくれるだろう」ジョディが言った。カイアは叫びたかった。自分は幼いかもしれないが、馬鹿じゃない。みんなが去っていくのは父さんのせいだとわかっている。わからないのは、なぜ誰も、いっしょに行こうと言ってくれないのかということだった。カイアも出ていくことを考えなかったわけではない。でも、自分だけでは行く当てもないし、バス代さえもなかった。

実際には、6歳の幼い少女を養いながら生きていくには、子どもたちも力が足りなかったということなのだろう。とにかく、学校にも通わないこの幼少期のときから母親と兄弟姉妹に見捨てられ、唯一頼りにするべき父親はその諸悪の根源、家にろくに戻ってくることもない最悪に近い状況からカイアの人生はリスタートすることになる。

父親は傷をおった元軍人であり、わずかな障害者手当だけを頼りに生活を送っている。当然満足に物も食べられず、世話もされていないから、勉強もできない。一度学校かの先生から通うよう説得されズタボロのまま赴くも、DOGのつづりすら言うことができずに、「沼地のネズミ」としていじめられる。そこで彼女を救うものは一人もおらず、その後学校にいくこともなくなって、彼女は自分の沼地に引っ込むのだ。

 それから数ヶ月がすぎると、その土地にも南部らしい穏やかな冬がやって来た。太陽は毛布のように暖かな日差しでカイアの肩を包み、湿地の奥深くへと彼女をいざなった。ときおり、夜中に招待のわからない音を聞いたり、近すぎる稲妻に跳び上がったりすることはあったが、身がすくんでしまったカイアをいつも抱き留めてくれるのも、やはり湿地だった。そのうちに、いつしか心の痛みは砂に滲み込む水のように薄れていった。消えはしなくても、深いところに沈んでいったのだ。カイアは水を含んで息づく大地に手を置いた。湿地は、彼女の母親になった。

彼女にとっては、湿地で暮らすことは幸運でもあった。湿地で貝をとって売ることで食事を確保し、次第にそこで男の子と出会い、文字を教えてもらい、読書と詩に目覚め、恋をして、次第に誰にも負けぬ湿地の専門家になり──と20年近くにわたるその人生が淡々とつむがれていくことになる。ただし、1969年に彼女は冒頭で明かされたチェイス殺人事件の筆頭容疑者として裁判を起こされてしまうのだ。カイアは本当にやったのか!? という部分が、本作のミステリィ的な部分として展開していく。

湿地の解像度の高さ

本作の読みどころの一つは、そうしたほとんど他者と関わりを持たず、家族からも捨てられた少女の孤独や、後半の法廷劇パートを描くのと同時に、湿地とそこに住まう生物たちの情景が描かれていくところにある。著者は小説としてはこれが第一作になるが、動物学者であり、これまでに共著でノンフィクションを3冊刊行している。本作の描写の密度の高さは、明らかにそうした著者の知見によって裏打ちされている。

何しろ、プロローグからして湿地と沼地の違いについてから始まるのだ。『湿地は、沼地とは違う。湿地には光が溢れ、水が草を育み、水蒸気が空に立ち昇っていく。緩やかに流れる川は曲がりくねって進み、その水面に陽光の輝きを乗せて海へと至る。いっせいに鳴きだした無数のハクガンの声に驚いて、脚の長い鳥たちが──まるで飛ぶことは苦手だとでもいうように──ゆったりとした優雅な動きで舞い上がる。』

カイアはずっとそこで暮らしているから、彼女の視点から湿地をみると、普通の人では捉えることのできない情報量を堪能することができる。たとえば、湿地にすまうガンたちは冬のあいだどこへ行くのか。その歌声にはどんな意味があるのか。雑草のようにみえるなんてことのない草にも、小さなきれいな花が咲くこともある。

それらは、カイアのように知識を持っていれば引き出せる美しさや意義深さだが、知識もなく、世界を見ない人間にとっては、ただの雑草であり何だかよくわからない鳴き声にすぎない。『それらは、学校では決して習えなかったであろう、驚きに満ちた生きた知識だった。誰もが知るべきで、見渡せばどこでにでも発見できるはずなのに、どういうわけかまるで種子のように覆い隠されたままの真実だ。』

おわりに

「ザリガニの鳴くところ」とは、作中の会話によると生き物が自然のままに生きる場所のことだ。それは何も美しい世界というばかりではなく、善意もなければ悪意もなく、あるのはただ脈動する命だけ、という場所だ。彼女はわずかばかりの人間との関わりの中で裏切られ、ひどく傷つくこともあるが、そこに人間の動物としての側面、自然の摂理を見出していく。表紙の風景のように本作の描写には静けさが漂っているが、多層的で深みのある作品だ。美しい本なので、ぜひ一度手にとってもらいたい。