基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

高野秀行の新たなる代表作といえる、イラクのカオスな湿地帯を舟を造るために奔走する傑作ノンフィクション──『イラク水滸伝』

この『イラク水滸伝』は、『独立国家ソマリランド』などで知られるノンフィクション作家・高野秀行の最新作だ。間にコロナ禍を挟んだこともあって取材・執筆に6年がかかったという大作で、事前の期待は大。家に届いた瞬間からいてもたってもいられずに読み始めたが、おもしろすぎて当日中に最後まで読み切ってしまった。

今回のテーマはイラクとイランの国境近くにある「湿地帯」。ティグリス川とユーフラテス川の合流点付近には、最大時には日本の四国を上回るほどの大きさの湿地帯が存在し、そこには30〜40万人の水の民が暮らしているという。そこで暮らしているのは、アラビア語を話すアラブ人ながらも、生活スタイルや文化が陸上の民とはまるで異なる人々であるという。しかも、道路もなく隠れやすいので、戦争に負けた者や迫害されたマイノリティが逃げ込む場所で──と、それはまるで「水滸伝」の梁山泊じゃないか! といって本書では一貫して湿地帯=梁山泊として話が進行していく。

amazonページより引用(https://www.amazon.co.jp/dp/4163917292

日本のほとんど誰も行ったことがない場所に自分なりのテーマを持って挑みかかり、現地の人との人脈作りや、新たなテーマの発掘をその場のライブ感でこなしていく。道中数々のピンチに襲われながらも、現地で募った個性豊かな協力者たちや持ち前の機転と運と根性で乗り越えていく──と、それが高野秀行冒険ノンフィクションに求めているものなわけだが、本作はしょっぱなから「うお〜これこれ〜こういうのが読みたいんだよ〜」と、期待通りのものを読ませてもらった満足感に満ちている。

高野さんも50代なかばを超え、体力的に昔と同じようなやり方ではやっていられないだろうが、デビュー作の『幻獣ムベンベを追え』(改題後)の時のような冒険心を未だに感じられたのも嬉しかった。そのうえ今は数々の経験を経てきているので、要所で「この文化は◯◯と共通している/反している」など、比較文化論のような視点まで獲得している。ページ数は460ページ超えと分厚いが、写真も多くページあたりの文字数はそう多くないので、サクッと読めるだろう。たいへんおすすめな一冊だ。

冒険の目的

高野さんの冒険系ノンフィクションが好きな理由・箇所はいくつもあるが、ひとつは「手さぐり感」にある。一体何をどうしたらいいのかわからない五里霧中の状態から始まって、少しずつ協力者やルートを確保し、前に進んでいく。今回で言えば、イラクの湿地帯に行きたいです! といってもすぐに行けるわけではない。アラビア語もわからなかったらいざという時に地元の人とコミュニケーションもとれない。

最初にアラビア語のイラク方言の勉強からはじめ、そのためにイラク人を探し、文化や伝統、言語を教えてもらい──とひとつひとつ進めていく。そうした人々によると、どうやら湿地帯の人々は湿地の外に住む人々からすると評判が悪いらしい。すぐに物を盗むとか、水牛をとりあって争いばかりしているとか、教育水準が低いとか、悪い噂ばかりを教えられる。湿地帯なので道もなければでかい村のようなものもなく、点々とした人々にどうアプローチするべきなのか? と悩みは尽きない。

もう一つ冒険系ノンフィクションで欠かせないのは、「目標」だ。わかりやすく、同時に達成困難な目標があってこそ冒険は輝く。今回は、湿地帯の動画を見ていた時に映っていた舟に着想を得て、これを旅の目標のひとつにしようと決意している。湿地帯では舟は必需品。田舎で軽トラがパスポート(軽トラに乗っていればどこにいっても警戒されない)であるように、現地住民に舟で親近感をわかせようというのだ。

 そうだ、湿地帯で舟大工を探して、舟を造ってもらえばいいんだ! 地元の舟大工、とくに「名人」と呼ばれるような人の造った舟に乗っていたら、誰もが一目置いてくれるだろう。それに舟大工なら多くの氏族と取引があり、湿地帯で最も顔のきく人にちがいない。

完全に机上の空論なのだが、こうやって仮説を立て、実行し、間違っている(あっていることもあるが)のを確認するのも未知の領域への旅・目標設定の楽しさだ。そして旅がはじまるのである。

湿地帯の人々の生活

道中のおもしろかったエピソードのひとつに、高野さんとその同行者の山田高司(隊長と仲間から呼ばれる探検家・冒険家)さんが、イラクではバクダード市内でも地方でいく街道沿いでもチェックポイントで金を要求されたことがないので、「アフリカより(秩序だっていて)良いね」といったら、「アフリカと比べないでくれ。アメリカや日本と比べてくれ」と声を荒らげて言い返されたというのがある。

 返す言葉もなかった。
 日本で見聞きするイラクのニュースはよくないことばかりだ。実際に現地へ行ってみれば決してそんなことはないだろうと私は自分の経験から確信していたものの、それでもイラクを「なめていた」のは否めない。

イラク現地の人の感覚・感情が伝わってくる良いエピソードなのだけど、それとは違う意味で、湿地帯の人々の生活は日本的な感覚からはかけ離れている。たとえば湿地帯といっても家は地面の上に立ってるんでしょ? と思うかもしれないし、実際川の周辺に住んでいる人もいるのだが、かなりの人が川中の葦をなぎ倒して家を造っている。浮島と呼ばれる居住地は葦で作られ、場合によっては粘土で補強される。

amazonページより引用(https://www.amazon.co.jp/dp/4163917292

船着き場から上陸すると、下も上も、どこを見ても葦の世界。積み重ねられた葦の上を歩き、葦の家と葦の水牛小屋の間をすり抜ける。すべて葦簀でできた庭付き一戸建てを想像してもらってもいい。

水上の小さな葦の家なので、当然電気もガスも水道も来ていない。目と鼻の先にある陸地の街にはすべてあるのに。便所もないので敷地の端っこでする。まるで古代メソポタミアの生活か、古代メソポタミアのほうがまだ文明的かもしれない。現代の湿地帯の住民はなぜか識字率すらも低く、古代の時代の方が文明が進歩している「逆タイムマシン」状態なのだ。そのせいで、本書では滞在しているうちに徐々に時間感覚がおかしくなっていく様子が描き出されている。『イラクの水滸伝エリアでは時間の流れがおかしい。というより、時間とは一体何なのだろう。』

小ネタ

小ネタは相変わらずどれもおもしろい。クライスラーのセダン(車)がイラクで「オバマ」と呼ばれていて、エンジントラブルを起こすと「こいつはオバマじゃないどころかトランプだ」と悪態をつくとか、湿地帯で取材中に似顔絵を描いていると、16、7歳ぐらいの年頃の娘が本来禁忌の(親族以外への)顔見せをしたせいで主と険悪な空気になり、襲われないために、「電気漁で魚だけでなく漁師も感電して痺れる」という一人コントをして命がけで場を和ませたり、愉快なエピソードだらけだ。

おわりに

湿地帯で作られている謎の紋様の布の話など、ここでは紹介しきれないほどたくさんの探検要素があるので、はたして高野一行は舟を造って湿地帯での旅が完遂できるのか!? のオチも含めて、興味がある人は読んでもらいたい。年間ベスト級の一冊である。年によって水量が異なるので、ある年は一面乾燥地帯だった場所が翌年は湖になっている。湿地帯は常に移り変わる、摩訶不思議で魅力的な場所なのだ。