基本読書

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家を見る目と意識を一変させてくれる、素晴らしいサイエンスノンフィクション──『家は生態系―あなたは20万種の生き物と暮らしている』

家には時折ゴキブリやクモなどの外部の生物が紛れ込んでくることがあるとはいえ、そうそういつも見かけるものではない。大抵の場合、家には自分とその家族しかいないように見える。だが、実際には家はそれ自体が一つの生態系といえるぐらいに大量の生物、細菌、微生物の巣になっている。それどころか、我々の身体はそうした身近な細菌たちの存在なしには立ち行かない存在なのだ──と、身近な生物の多様さとその意味に目を向けていくのが、本書『家は生態系』である。

僕も様々なサイエンス・ノンフィクションを読んでいくうちに、家や自分の身体がさまざまな細菌と微生物たちで溢れていることそれ自体はよく知っているつもりであったが、ここまでとは思わなかった。単純に数が多いだけでなく、希少性が高く他で見つからなかった種や、発見されていなかったような種が、いくらでも家の中から見つかるのだ。しかし考えてみればそれも当然なのかもしれない。家の中には、極めて冷たい低温環境もあれば、極めて熱い高温環境もある。世界中の環境が再現され、しかも比較的一定の温度で保たれていることと考えると、繁殖するには最適なのだ。

著者は食物の多様性が世界中から失われている現状を描き出した『世界からバナナがなくなるまえに』など数々の優れたサイエンスノンフィクションを残しているが、生物系の研究者で、まさに本書のテーマである「家にどれだけの生物が存在しているのか」を世界中からサンプルを集め研究している人物である。専門分野だけあって筆致も生き生きとして詳細だ。中には、家の中にこんなに細菌や微生物がいるなんて最悪だわ〜と思う人もいるかもしれないが、本書を読んだら彼らにむしろいてほしいと思うだろう。我々の健康に、家の生物多様性は密接に関わっているからだ。

PCR法

これまで家に注目をしてその生態系を調べた人間は多くなかったが、それには研究手法が追いついていなかった時代性も関係している。たとえば、これまでいくら家で細菌や微生物を集めても、必要とされる栄養物質や環境条件がわからないと、細菌を実験室内で増やすのは困難で、何の微生物がいるのか同定することができなかったのだ。だが、現代は培養せずとも調査対象の中にどんな微生物が存在するのかを同定できる、新しい手法が存在する。新型コロナ騒動でも使われているPCR法だ。

本書にはPCR法を使って培養不能な生物種をどう検出して同定するのか、その手順と簡単な歴史が書き記されている。これがおもしろいし、PCRが頻出単語になった今では、知っておく価値も高いと思うので具体的に紹介しよう。まず、ホコリなどのサンプルの採取を行い、その後、界面活性剤、酵素、ガラスビーズが入っている液体とチューブの中に入れ、加熱し、振動させてから遠心分離機にかける。そうすると、細菌などがいた場合は密度の低いDNAの鎖が一番上に浮遊するので、それを掬い取る。

掬い取ったDNAは断片なので、今度はDNAを構成する遺伝情報であるヌクレオチドを読み取れるまで増幅させる必要がある。だが、この工程が実は難しかった。DNAには二本鎖になっていて、これが分子のファスナーのようなもので繋がっている。この二本鎖をほどいて分離し、ポリメラーゼ(細胞がDNAを複製するために使う酵素)とプライマー(どの遺伝子を複製するのかをポリメラーゼに知らせるDNA断片)、ヌクレオチド(DNA鎖の材料)の3つを加えてやれば、DNAは複製することができる。

ここで問題になるのが、加熱すれば鎖を分離できるのだが、分離できるほどの熱は、複製に必要なポリメラーゼを破壊してしまうのだ。この問題を解決するために、最初は加熱する度に新たなポリメラーゼとプライマーを加えるという手段でやっていたのだが、あまりに時間がかかりかつ大変だったので、積極的に使われていたというわけでもないようだ。その状況を変えたのがテルムス・アクウァーティクスという細菌の発見で、増殖温度が40〜79℃と、細菌としては非常に高かった。このテルムス・アクウァーティクスのポリメラーゼは高温でもよく耐えたので、これを用いることで、DNAの鎖を加熱で分離させると同時に複製することもできるようになったのだ。

熱耐性を持つポリメラーゼを用いてDNAのを複製する方法は、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法と呼ばれるようになった。『PCR法と言われても、何やら抽象的で、科学のおまけ程度にしか思えないかもしれない。しかし、父子関係の判定にせよ、ホコリの中の細菌の調査にせよ、世界中で実施されている遺伝子検査のほぼすべての根幹をなしているのが、このPCR法なのだ。』

どれだけ存在しているのか

著者はPCR法で多数の微生物の調査ができるようになって、家の中を探してみることにした。最初に、40世帯に採取を依頼し、それをPCR法にかけてみると、合わせて8000種類近い細菌が見つかった。その後、全米1000世帯への調査を実施、次は世界中の家のサンプル採取を試みるなど、「家」調査を拡大していくことになる。

その成果は大きかった。『ところが、家の中を調べてみると、地球上でこれまでに知られている限りの、ほぼすべての門の細菌や古細菌が見つかったのである。一〇年前には、その存在すら知られていなかった門の生物たち、それが枕や冷蔵庫から発見されていった』。生物学者というと未開の地に飛んでいって調査をするイメージが強いし、実際著者も家なんか調べて何の意味があるんだとよく言われているようだが、身近にこれだけ未知の種が存在するのであればまず家から調査を始めても遅くはない。

著者らは、家の生態系の研究が知れ渡り、NASAへも協力することになる。NASAは宇宙を汚染したくないから、地球からはクリーンにロケットを打ち上げる。そして、宇宙ステーション(ISS)内は閉鎖空間だから、宇宙飛行士に害のある病原体が存在するかどうか調べたい。実際にISS内の環境はどの程度クリーンに保たれているのか、病原菌は存在するのか。そうしたもろもろの疑問があって、ISS内の微生物の存在を調査するのに、著者らが家を調査した時の手法が使われることになったのだ。

まだまだ調査段階だが、できるだけクリーンに荷物を打ち上げているので、さすがにISSの中には環境由来の細菌(森林や草原にいるようなやつ)は存在しなかった。しかし、それは細菌がいないということではなく、ISSの中もヒト由来の細菌で溢れかえっていた。宇宙にまで行っても、我々は細菌とは切っても切れない存在なのだ。

おわりに

本書は家の中にどれだけ豊かな生態系が存在するのか(ISSでさえも)を示していくのと同時に、それが失われると何が起こるのかも紹介していく。たとえば都市化の進む先進国では今軒並みアレルギーや喘息の患者が増えているが、これは我々がどんどん清潔な都市に住むようになり、免疫系の機能が正常に保てなくなっていることが関係している。抗生物質の過度な使用は身体の必要な細菌を殺し、これもまたアレルギー症状を引き起こす原因となる。我々は、適度な細菌にさらされるのが必要なのだ。

イヌと飼うと多くの細菌がもたらされ、アレルギー、湿疹、皮膚炎発症するリスクが低下する傾向にあることなど、近年判明した細菌にまつわる様々なトピックから、この記事ではまったく触れていないがゴキブリやカマドウマといった昆虫の話までが幅広く網羅されていく。目に見えないものを見えるようにしてくれる、素晴らしいサイエンスノンフィクションだ。