基本読書

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中国から発生した未知の病が人々をゾンビ化させる、予言的終末ロードノベル──『断絶』

断絶 (エクス・リブリス)

断絶 (エクス・リブリス)

この『断絶』は、中国が発生源となる未知の病シェン熱が世界に蔓延し、文明が崩壊していくアメリカを描き出す終末ロードノベルだ。語り手は6歳の時に中国からアメリカへやってきた移民の女性で、長くニューヨークで暮らしていたが、徐々に崩壊していくその都市の写真をブログにアップし、崩壊の過程を記録していく。

いろいろとおもしろいところがあるけれど、まず目につくのは中国の深セン発の未知の病が世界中に広がっていく──という、今日の新型コロナの状況を彷彿させる世界観だろう。原書刊行は2018年だから、新型コロナ後に書かれたわけではない。

とはいえ、SARSからエボラまで致死的な感染症は溢れてきていたし、世界中の交通網が密になり、さらには家畜を密集させて少しでも効率をあげる手法や、抗生剤の乱用によってヤバい病気の蔓延は、いつ起こってもおかしくない状況である(新型コロナで最後なんてこともないわけである)。なので、刊行が新型コロナ以前であっても、そうした世界を構築すること自体は、珍しいわけでも凄いことでもない。

あらすじとか読みどころとか

本作で個人的におもしろかったのは、そうした予言的な性質よりも、徐々に崩壊していくニューヨークの姿を描き出しているところだ。物語は、アメリカから人がいなくなった世界を9人の生き残りが安全な場所と食料を求めて旅をするロード・ノベルパートと、なぜそのような世界に至ったのかを描き出す過去パートで構成されている。

人間は、未知の病気が蔓延したからといって一気に都市からいなくなったりしない。新型コロナウイルスをほとんどの日本人が最初は中国で起こっている対岸の火事としか認識しておらず、日本に上陸して数人の感染者が出たタイミングでも「いうてただの風邪よりもちょっとひどくなるぐらいでしょ」と認識していたように、危機感も一気に伝わるわけではない。少しずつ脅威が知れ渡って、危険度に伴って、人も消えていくものだ。そうした、都市が荒廃していく過程が、過去パートでは入念に描きこまれている。そして、その過程は、驚くほど新型コロナをめぐる状況と似ている。

対岸の火事として始まり、次第にシェン熱が広がっていることを信じる人が増えていく。中国の全人口の3分の1がかかっている人もいるといえば、もしそれが本当ならもっとニュースに出ているはずと言う人がいる。それにたいして、中国の国営メディアが情報を操作しているから、本当の数字はわからないと返す人がいて、それって陰謀論っぽいと返す人がいる。次第にNYに残る人の数は減り、閉店する店が増え、身近な人間も次々と仕事をやめて去っていく。語り手キャンディス・チェンは、最後までNYに残った一人であり、「なぜ彼女は同僚どころかビルのメンテナンス要員、仕事を報告する相手さえもいなくなっても仕事をやめなかったのか」「彼女にとって都市、NYとは何なのか」も、物語が進むにつれて深堀りされていくことになる。

 窓の外を見た。初めて、タイムズ・スクエアが完全に無人だということに気づいた。観光客も、屋台も、パトロールカーも見当たらない。誰もいない。不気味な静けさだった。クリスマスの朝ででもあるかのように。気づかないうちにこうなっていたのだろうか。私はオフィスの端を歩き回ってみて、表に消防車か警察の車あたりが停まっていないか、遠くでサイレンが聞こえないか、なにかないかと探した。

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』には、『おそらく世界は破壊されたときに初めてそれがどう作られているかが遂に見えるのだろう。』という一節があるが、崩壊していく都市を通して初めて見えてくるものがあると、これを読むとよくわかる。

そうしたパンデミックが広がっていくパートは、最初は何でもない状況から始まっているがゆえに、お仕事小説的にも楽しませてくれる。キャンディスは出版制作の聖書部門に採用され、革の装幀など特別な聖書を企画・マネージメントする仕事につくことになる。どのような革で作るのか、どうやって特別感を出すのかという企画。

中国出身であり中国語が日常会話程度ならできることから、中国との交渉も担当し、自身の中国との文化的な断絶を感じながら過ごしていくうちに、中国との連絡が途絶えはじめる──と自然な形で、世界の崩壊と、移民である彼女の文化的な孤独感や親世代との価値観のズレが描き出されていく。やけにこのパートがおもしろかったが、著者のリン・マーは1983年に中国に生まれ、その後同じく幼少期に家族とともに渡米したという、語り手キャンディス・チェンと同様の経歴の持ち主であった。

シェン熱と日常のルーチン

シェン熱の特性も本作のおもしろいポイントの一つ。この病は初期段階としては記憶の空白、頭痛、方向感覚の消失などがあり、人から人への感染こそないものの、真菌の胞子によって容易く蔓延していく。症状が深刻化すると衛生状態の悪化、栄養失調、身体運動機能の不調が生じ、最終的には死に至るのだが、感染者たちは死に至る前に、習慣的行動を繰り返す。マウスを動かしたり、皿洗い機を動かしたり、本を読んでいるような動作をしたり。動作だけをみれば、元気に生きているようにみえる。

シェン熱の感染者は人を襲ったりしないので、いわゆる死のメタファーであるゾンビとは似て非なる存在だ。終末を迎えた世界で旅をする非感染者たちは、その道中で家に入って食料などを調達し、習慣的行動を繰り返す生きた死者たちを撃ち殺していく。しかし、まるで生きているように日々の習慣を繰り返す感染者らと、同じ行動を繰り返す自分たち、そして過去の仕事をしてきたキャンディスの間に、何か違い──「断絶」はあるのだろうか、という問いかけも、また挟まれていくことになる。

おもしろいのが、こうした「習慣の繰り返し」が乗り越えるべき、否定すべきものとして語られるだけではないことで、たとえば次のような一節がある。

 いかにも日常の行動が無限ループになって繰り返されると、思わず見入ってしまうことがある。繰り返しや決まった手順は熱病の症状だ。でも、意外にも、そうした手順がまったく同じように繰り返されるとはかぎらない。ちょっと気をつけてみれば、細かなちがいが見えてくる。たとえば、その母親が皿を並べる順番が狂う。あるいは、テーブルのまわりを時計回りに動くときもあれば、反時計回りに動くときもある。
 そのちがいに、私は夢中になった

「過去の記憶にとらわれ、先へ進むことができない人々」のメタファーとしてシェン熱の感染者を見ることもできるし、こうした新しいかたちのゾンビをどのようなメタファーとして捉えるのかも、また読んでいておもしろいところだろう。カズオ・イシグロ、特に『日の名残り』に影響を受けたと著者は語っているが、静かで無駄がなく暖かな筆致は、たしかにその影響を感じさせる。読みやすくもあり、オススメだ。