基本読書

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臓器が別の臓器に変質する感染症が広がった近未来を、臓器移植や気候変動など多様なテーマで切り取っていくSF長篇──『闇の中をどこまで高く』

この『闇の中をどこまで高く』は、アーシュラ・K・ル=グイン賞特別賞受賞作にして1982年生まれのアメリカ作家セコイア・ナガマツによる第一長篇だ。

北極病と呼ばれる感染症が世界にまん延し、重い空気が漂う未来の社会を、連作短篇のように断片的な人々のストーリーで描き出していく。いわゆるパンデミックSFに分類できるが、そこから安楽死をめぐる議論や気候変動対策、臓器移植用に育てられた豚への倫理的な問題など多様なテーマに繋がっていき、それぞれテイストの異なる話をうまくまとめあげている。先日紹介した同じく東京創元社のラヴィ・ティドハー『ロボットの夢の都市』と並んで、3月にしてすでに今年ベスト級の海外SFだ。

著者はルーツを日本に持つ作家で、2年間新潟にいたこともあるという。そのため、本作には日本が舞台になる話や日本のアニメ・漫画モチーフの名称も多々ある。日本の読者にとっても親近感を持って読み進められるだろう。

序盤のあらすじについて

最初の物語の舞台は北の大地、シベリア。そこで研究者たちは古代の動物の研究を行っていたのだが、ある時洞窟で凍っていた3万年前の少女の死体を発見する。それだけならば世紀の発見ですむ話だが、その死体と共に太古のウイルスも見つかり、研究者たちはその地でウイルスの安全性が保証されるまで隔離されることになる。

本作はパンデミックSFなのでそのウイルスが危険なものであることはのちに確定してしまうのだが、ここでこの感染症の誕生と共に語られていくのは、死に別れてしまった父娘の物語だ。3万年前の少女を発見した研究者であるクララは太古の北極圏の生態系の理解と再現を目的としていて、その研究のために娘の側を長い間離れていた。

夫も死亡しているので娘の世話はクララ自身の両親に任せていて、クララの父親はその状態に苦い気持ちを抱いている。北極圏での研究はそこまで重要か。娘のそばにいてやることはできないのかと。クララの父親自身も考古学と進化遺伝学の研究者であるが、大学で教鞭をとっているので、自分と同じようにしてほしいのだ。

一方、クララにしてもまた別の言い分がある。手をこまねいていれば気候変動は続き、水面は上昇し、多くの都市が水没してしまう。乾燥が激しくなれば山火事も頻発する。ようは、未来の娘のためにやっているのだと。

「どの時代にも大変なことはある」わたしは、クララが開いているノートの、惨事がびっしりと記されたページを見た。「それでも、わたしたちは自分の人生を生きなきゃならないんだ」p13

両者の言い分は平行線で交わることはないが、クララの父親は娘の死後、3万年前の少女を調査するためにシベリアの地を訪れ、そこでクララのノートを読むことで、溝を一歩ずつ埋めていくことになる。『クララには計画があったし、ユミがもっと大きくなったらうちに戻って、自分は世界をよりよくするためにささやかな役割をはたしているのだと説明するつもりだったようだ。(p26)』

多様なテーマがひとつにまとまっていく

結局、発見されたウイルスは人間に感染する上に、臓器が別の臓器に変質する致命的な症状をもたらすことがわかり、世界にはまたたくまにこの病が広がって、後に「北極病」と名付けられることになる。それは世界に決定的な変質を迫るものであり、物語はその後、この変化した社会で生きる人々の姿をオムニバス的に描き出していく。

プロローグにあたる章が「物語の状況のセットアップ(北極病の発見と拡散)」と同時に「父娘の確執と和解」、「気候変動への危機感」と複数のテーマを扱っていたように、そのほかの章もどれも複数の現代的なテーマを扱っているのが本作の魅力的なポイントだ。たとえばプロローグに続く章「笑いの街」では、北極病がアメリカに来襲し、主に子どもと弱者が感染し大量死を生み出した結果、子どもたちに安らかな最期を迎えさせるアミューズメントパークが建設された社会を描き出している。

感染者は増え病院は逼迫し、人が死にすぎて葬儀場も順番待ちになっている。治療法も存在せず、せめて苦しみのない死を──というわけだ。スタッフにはコメディアンらを取り揃え、自力で移動するのも困難な子どもたちを遊園地でもてなしてやり、最期に凄まじいGのかかるジェットコースターに乗せることでその命を絶つ。当然親にとっても子にとっても、彼らを送り出すコメディアンにとってもつらい時間、仕事であり、それでも最期を笑顔で過ごさせるために全力を賭ける日々が描かれていく。

個人的におもしろかったのは、臓器移植をテーマにした「豚息子」の章。北極病は臓器が別の臓器に変質する病気だが、それはつまり変質しかけた臓器を次々置き換えていけば延命はできるということである。そのためにこの世界で有望とみられているのが、遺伝子組み換えを行うことで、人間に移植できる臓器を持った豚の育成だ。これが普及すれば、人間が豚肉を日々食べるように日常的に移植することもできる。

この章では、ドナー豚を育成しているうちに、人語を理解する豚が研究室で生まれてしまった悲劇的な状況が描き出されていく。最初は「ドオクタア」など簡単な単語を発するだけだが、次第に意図的な言葉の運用をはじめ(「リンゴ」「お願い」など)、自分のことを「寂しい豚」というようになる。研究者はそのスノートリアスと名付けられた豚を移植用に出荷せず、周囲からも秘匿して、言葉を教え始める。

彼がしゃべるのをはじめて聞いたとき、富や名声が目の前をちらつかなかったわけでもない。だが、毎晩読み聞かせをしてやり、毎日少しずつスノートリアスのことがわかってきた結果、すべてが変わった。スノートリアスはお腹をなででもらうことと、耳の裏をかいてもらうのが好きだ。『スター・ウォーズ』よりも『スター・トレック』のほうを好んでいる。そして研究所の裏にある小さな日本庭園に連れていったとき、スノートリアスはわたしに、空について質問した。スノートリアスが感嘆の目で空を見上げているのを見たときは、胸に歓喜がこみあげた。(p100)

スノートリアスはどんどん言葉が上達し人間に近い受け答えをするようになっていくが、無論いつまでも隠し通せるわけではない。はたしてこの喋る豚をどうすべきなのか──最終的に移植用として処分するとして、その事実をスノートリアスに伝えるべきか、否か。臓器移植用の豚は現代でもすでにほぼ実用段階にあるが、気候変動や安楽死など、現代の諸問題を見事に感染症と絡めて本作は描き出している。
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日本もたくさん出てくるよ

最初に書いたように、日本が舞台の話もいくつもある。たとえばロボドッグがいかに人にとって希望となりえるのか。そこに魂が宿っていないとしても親愛を覚える人々の姿を描いた「吠えろ、とってこい、愛してると言え」は日本が舞台の話(日本のソニーが世界初のロボット犬を作っているからだろう)だし、東京のバーチャルカフェ(VRを利用できるネカフェ)に滞在しながらVRでゲームをする非正規雇用者の日々が描かれる「東京バーチャルカフェの憂鬱な夜」はオウム真理教の話から終末思想のカルト宗教の話になったりと単に舞台にするだけでなく、日本文化を深く描き出している。

おわりに

紹介した部分だと近未来をテーマにした海外文学の趣きだが、終盤の方になると感染症から飛躍して、よりSF的な要素も出てくる──公式のあらすじに書いてあるので一部紹介すると、たとえば他惑星への移民を目的とした宇宙船をめぐる物語とか──ので、本作一冊を読むだけで、SFの多様なテーマを楽しむことができるだろう。

ちなみに、今の時代にパンデミックSFと聞くと新型コロナウイルス騒動を受けて書かれた作品だと思うだろうが、本作は構想もその執筆の大部分もコロナ前に書かれたものなのだという。だからなんだというわけではないが、先見性のある作家であるとはいえるのかもしれない。次の作品が楽しみな、良い作家だ。