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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

「科学する人生」とは何か──『右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る』

科学ノンフィクション

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -

著者であるマイケル・S・ガザニガは書名にも入っているように認知神経科学を創りあげた(名付けた)人間である。右脳と左脳がそれぞれ役割を分担しながら別個に働く現象を発見し、以後分離脳研究を中心として驚くべき成果を次々と生み出してきた。

本書はそんな輝かしい人生を送り、現在70半ばを超えた著者が語る自伝/回顧録である。自伝と一言でいってもいろいろあるが、本書では家族や生い立ちの話はそこそこに、「科学する人生」とは何かを一貫して問いかけた読み物として成立している。

その一つの答えとして、『科学の実験の合間には、科学者の送る生活に左右されて多くの紆余曲折が生じるものだ。科学は、このうえなく社会的な過程から生まれるものなのだ。』と語っているように、自分の人生の要所要所を振り返り、多くの人間と交流を持ち、次々と行動を起こすことで化学反応を起こしていく様の描写は自伝/回顧録という形式をとっているがゆえに描ける「科学する人生」の見本といえる。

分離脳研究とは何か

著者らが行ってきた分離脳研究とはどのようなものなのか、ということを簡単に紹介しておこう。これはてんかん発作を抑えるためにかつて行われていた右半球と左半球をつなぐ脳梁を切断した分離脳患者を対象とした実験がわかりやすい。つなぐものがなくなってしまうので情報のやりとりが行われず右半球と左半球が別々に機能するためにそれぞれがどのような得意分野と苦手分野を持っているのかがわかるのだ。

たとえば分離脳患者に目隠しをして右手に物を持たせ、「何を持っていますか」と質問すると、常に正確に答えられる(言語を司る左半球に情報が送られるため)。しかし物を左手に置き換え、同じ質問をすると言語を司る側ではない右半球に情報が送られるため患者たちは名前を答えられなかった。右半球側に絵をみせたりして視覚情報を送っても、言葉で「何をみたのか」を正確に答えることができない。

とはいえこれも奥が深くて、患者は見かけ上「統合されているように見せかける」技術を習得していく。たとえば右半球側に「赤」をみせているのに分離されているため推測で「緑」と答えるという間違いを数回繰り返していくと、「みど……」と言いかけた段階でやめて「赤」と正しく答える、といったことが行えるようになっていく。

これは左半球が推測して発したみど……といった間違った答えを自身の聴覚でとらえた後、右半球からの指令でうなずいたり肩をすくめたりといった「まちがってますよ」合図を出すことで「別の正解色に乗りかえる」技術を習得してしているのだ。脳が機能を損傷しても別のやり方で元の機能を復活させる可塑性は近年研究が進んでいるが、この事例は「技術によって直ったようにみせかけている」(それも患者本人はそうとは意識していない)わけで、依然としておもしろい事例だ。

科学する人生

興味深い事例をあげていったらキリがないので終わりにするが、面白いのは著者がその人生の中で多くの人間と関わって、研究に活かされていく過程そのものである。

たとえば、著者がウィルスの研究でサルの個体識別をする必要にかられ、どの個体なのかを知らせる電波信号装置を作成しようとしている時にあのリチャード・ファインマンがやってきて「もっと簡単な方法がある、サルの体重にばらつきをつくればいい」といってすぐ去っていった話は個人的にお気に入りのエピソードだ。

「なるほどファインマンさすがだな」と読み進めたら、その後著者の師であるスペリーがやってくる。著者が雑談の中でファインマンのアイディアを伝えるといったん立ち去った後にすぐに戻ってきて「サルは物をつかんで逃げまわったり、ズルを必ずするから体重を正確にはかれない、だからうまくいかない」と言ってまたすぐに立ち去ってしまう。結局やり方は一切変わらなかったわけで、研究に直接役に立っていないエピソードなのだが、こうした何気ない日常のワンシーンには「科学の実験が日常的に行われている現場の空気」が端的に現れているように思う。

もちろん本書の核となるのは科学だが、科学のあらゆることが始まったとき、私はこうした豊かで活気にあふれ、いろいろなものが混ざり合った世界に住んでいた。家族からも、カルテックの比類ない神秘的な雰囲気から、カルテックの人々から、ロサンゼルスとその周辺の町に住む人々から、さらには地球上でもっとも魅力的な人間を研究する機会を与えられた信じがたい幸運から、さまざまな影響を受けた。

と著者自身が語っているように、ここにあるのは迷いなく研究人生に邁進してきた一直線の人生などではなく、ウロウロと寄り道をしながら、周囲の環境や人間関係から大きな影響を受け、時に失敗をし時にたとえようのない幸運にめぐまれた、「迷い、常に周囲からの影響を受けながら進む、人間としての科学者」の姿だ。

こうした寄り道的な部分というのは要約が不可能だからこそ価値があるともいえる。そうした普通の科学ノンフィクションを書くときには省かれてしまう、しかし重要な部分を描いてこそ、「科学者であること」を伝えることができるのかもしれない。

どんなときでも、私たちはおおいに興奮した。どんな現役の科学者や学者も、さらに言えばどんな探偵でも、何かを発見したときの感情の高まりを知っている。自然界の秘密がもうひとつ明らかになった。しかも自分がその場に、最前列に座っている。わくわくする瞬間だった。

と、まあこんな感じで本書は、分離脳研究の総括としておもしろいのはもちろん、科学する人生を歩むことの苦悩と喜びが敷き詰められている一冊だ。科学者の自伝/回顧録ってその要約不可能性ゆえにおもしろさを記事では伝えにくいんだけど、読むとその密度がよくわかるはずだ。

数学が常に底流にある「ザ・シンプソンズ」──『数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち』

科学ノンフィクション

数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

サイモン・シンの新刊翻訳といえばそれだけで買わないわけがないのだが、主に理系テーマを扱ってきた彼の、新作の題材が「ザ・シンプソンズ」というのは驚いた。でも読んでみると(というかタイトルに入っているけど)、本書は題材がアニメであっても、そこへ数学者/作品の数学的背景という切り口で迫る理系テーマの一冊なのだ。

というのも、「ザ・シンプソンズ」には脚本家として数学的バックグラウンドを持つ者が多数参戦しており、脚本には数学ネタが大量に盛り込まれているのだという。作品で扱われた数学ネタを1個1個取り上げながら、その数学的な背景を解説したり、なぜシンプソンズの脚本に理系が集まっているのだろう? と制作陣に直接といかけたりといった形で、「数学的側面からザ・シンプソンズを解剖」し、同時に「数学のおもしろさへと興味を向けさせてくれる」のが本書のおもしろさである。

それにしても

「ザ・シンプソンズ」について「見たことがある」人はどれぐらいいるだろうか? 少なくとも僕は日本では見たことがない。ただ、オーストラリアに留学しとある家庭にホームステイしていた時、その家族は毎日シンプソンズを観ていて(毎日テレビで放送していたんだと思う)必然的に僕も観ることになった。話はあんまり覚えていないがあの黄色いキャラクタらが気持ち悪かったことをよく覚えている。

一家の息子であり、その時高校生だったマイケル(名前忘れたから適当)は「僕の好きなアニメはひぐらしのなく頃にとエルフェンリートなんだ。」とフランクに話しかけてきて僕は「グロいのばっかりじゃねえか。なんでそれでシンプソンズまで好きなんだ」とさらに謎が深まったものだ。とにかくその当時は「なにがおもしろいんだかわからん」と、そんな風にしか思っていなかったが本書を読むことで「ザ・シンプソンズおもしろいじゃん! 不気味に思って申し訳ない!」とちょっと反省したよ。

僕はたまたまオーストラリアでシンプソンズが日常と一体化して受容されている風景をみたけれども、英語圏のいくらかにおいてはシンプソンズというのは日本におけるドラえもんとかクレヨンしんちゃん、サザエさんと同じかそれ以上の存在なのだろうなと思うわけである。そんでもって本書において重要なのは、そんなアニメの脚本家に数学的バックグラウンドを持つ者が何人もいるという事実だ。デーヴィッド・S・コーエンは物理学の学士と、コンピュータ科学の修士を持っているし、他特に理系度の高い5人はみな数学や物理学で修士や博士までおさめている強者揃いである。

数学本としては異質なおもしろさ

そんな彼らが脚本に参加しているので、必然的に──というわけでもないはずだが作品内には数学ネタが埋め込まれていくことになる。

 たとえば《恐怖のツリーハウスⅣ》(1995)は、ハロウィンにちなむ三つの作品からなるが、その三つ目の作品〈ホーマーの三乗〉ひとつをとってみても、『ザ・シンプソンズ』で扱われる数学のレベルの高さは明らかだ。たったひとつの短編アニメに、数学史上もっとも美しい式への賛辞や、フェルマーの最終定理を知っている人にしかわからないジョークや、百万ドルの賞金のかかった問題などが登場する。それだけの要素が、高次元の複雑な幾何学世界を探っていくというストーリーの中に、ぎっしりと詰め込まれているのだ。

それを解説する本書は、通常ならば一般向けノンフィクションでは嫌われる要素である数式が大量につめ込まれている。シンプソンズの本だと思ってパラパラとめくってみると「これは一体何の本なんだ」とちょっとびっくりするかもしれない。本書の末尾には「笑えることでポイントになる」高度なjoke試験が難易度別にわかれている(たとえば博士程度、とか)。僕はぜんっぜん笑えなかった(二重の意味で笑えない)。

扱われているネタは実際の理論を使ったものもあれば、「もし宇宙がこんなふうだったらどうだろう?」というような架空の状況やまったく新しい理論を想定したものもあって「フィクションだからこその自由さ」がそこにはある。ただそのどれもが基本はコメディ・アニメに使われているネタであり、ようは「理解できなくてもおもしろいもの」だ。笑いを基調にして数学的背景へとうつっていくので「抜群にわかりやすい=好奇心からの導入が完璧」なのが数学本としても異質におもしろい。

なぜ数学的な素養のある脚本家が集められてくるのか

さて、それではいくつか実例をご紹介しよう──といきたいところなのだが、ネタの前提(シチュエーションの説明)とその数学的背景まで(しかも、単純に理解できるような簡単なものはあんまりない)を説明すると非常に厄介だしわかりづらいのでそこはやめておく。その代わり、個人的に気になっていた部分について触れておこう。それは「シンプソンズに理系の脚本家が集まっているのは、意図的にそうしたのか?」という疑問だったが、理系脚本家はまるで磁石のように引き寄せられたのだという。

そこで、サイモン・シンは脚本家らに「なぜ磁石のように引き寄せられるのか」と、問いを投げかけいくのだが、それに対する答えや「数学系の脚本家とそれ以外の脚本家の違い」の話などがなかなかおもしろかった。たとえばある人は理系が引き寄せられてくるのは『この作品の脚本は本質的にパズルであって、複雑なストーリーラインが『脳みそに負荷をかける』からだろう』、またある人は『数学的な証明のプロセスは、コメディーの脚本を書くプロセスと似たところがある。目的地にたどり着けるという保証がないところも似ているね』とそれぞれ答えている。

実写ドラマは撮影されたシーンを繋げ作品にするしかないために実験科学に似ており、アニメはセリフから映像までをすべてコントロールできるために『アニメは数学者の宇宙なんだ』という発言などは、「そう言われればそうだろうなあ」と思う他ない。実際にはデーヴィッド・S・コーエンのような中心的な脚本家がバリバリの理系だったから意気投合したりして自然に集まってきた、というのも大きいのだろう。

おわりに

全17章を通して、大体1章につき数学ネタ──フェルマーの最終定理だったり、πや無限をめぐる議論だったり、ベースボールを統計で出し抜けるかという「元祖・マネーボール」をやった回だったりが1つ解説されていく。中には数学は関係ないというか、「シンプソンズの登場人物はみな片指が4本で両手で8本しかないのに「十進法を採用しているんだろう?」」と作品考察みたいなことをやる章もある。

『本書は、『ザ・シンプソンズ』のキャラクターを通して、数学世界を探検しようという本なのです。ですから数学が大好きというわけではない人も、これを機に自信を持って、いろいろな数学の本を手に取ってほしいですね。』*1と語られているように、基本はわからなくても笑えるコメディアニメの解説なので「数学はちょっと……」という人でも充分に満足できる(楽しめる)一冊だ。著者インタビューが現在HONZというサイトで読めるのでこっちを読むともっと雰囲気がよくわかるだろう。
honz.jp

人間と機械の境界を探る──『明日、機械がヒトになる ルポ最新科学』

SF 科学ノンフィクション 新書

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

SR(代替現実)、3Dプリンタ、アンドロイド、AI(人工知能)、ヒューマンビッグデータ、BMI、幸福学とテクノロジーに関連する諸分野の専門家へと小説家の海猫沢めろんさんが話を聞きに行ったインタビュー集である。

最先端の研究者は本を書く暇なんてないので「忙しく研究している人へと話を聞きに行く」本はありがたい。とはいえ2年前の取材も入っていてそれはもうルポ最新科学ではないのではと思いながら読んだら、確かに古いけれどもなかなか楽しませてもらった。わりと研究の本筋には関係ないというか研究者の素の部分みたいなのが現れているのもおもしろい。石黒浩さんが『僕も、従来の物質的な幸せや金銭的な幸せを超えて、ある程度人が納得するような精神的な幸せというものを伝えられるような気はしています。もしそれができたら、そのとき僕はね、宗教法人を立ち上げる。』とか「宗教法人を立ち上げるのか!!」と驚いたよ。

それぞれの章は20〜40ページほど。この分量(でしかもインタビュー)でその分野を大雑把にすら把握するのは困難なので、「だいたい今はこんなことができるよね」というのと、「今後どうなっていくんだろうね」あたりの話を中心に展開している。まあだいたい現状の一端に触れ、本書に登場する研究者らの著書に繋げたり各種最先端テクノロジーのニュースを追いかけるきっかけにするといいだろう。

明日、機械がヒトになる

「明日、機械がヒトになる」というタイトルは「人と機械がどう違うのか、わからなくなるような瞬間がある」という著者自身の疑問が出発点となって、「人間と機械の境界を探る」ことが目的であることからきている。たとえば「ロボットががんばっていたり、虐げられたりしていると感情が揺さぶられる」現象があるが、人はそこに心を感じているのではないか、だとしたら心とは内面的なものではなく「心があるようにふるまうこと」に本質があるのではないか、みたいな問題である。

人間とまったく同じようにふるまえるアンドロイドや人工知能ができたらそれはだいたい人間といってもいいだろうし、逆に人間が身体を置き換えていって機械になる未来も想定できるだろう。SRや3Dプリンタなどの各種技術の進展はそうした未来を起こし得る。ただ、あまり意味のない問いかけというか、境界があったとすることにできたとして、そんなのはただの言葉の定義の問題でしょうと思うな。

『生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来』では起きてネットに接続して情報を摂取し、外に出たら車を運転して目的地に行くんだったら「人間は機械と一体化した存在、生まれながらのサイボーグみたいなものでしょう」といっていて、結局どこに人間と機械の言葉の定義を置くのかという問題になっている。

もちろん問いかけをきっかけとして話が展開していくことに価値があるのであって、それでつまらない本になるわけではない。最終的には『人間が機械化することも、機械が人間化することも、すべては人の幸せのためなのだとすれば、もしいますぐ全人類が幸せになったら、技術は、機械は必要ないのでしょうか。』と問いかけ、「幸福学」という「人の幸せの定理を探る」ところにまでたどりついてしまう(7章)。

おわりに

個人的にはテクノロジーの進歩が向かっている先は「人間の幸福」よりは「人間の自由」に近いのではないかと思うが、流れというかストーリー性のあるインタビューなのもおもしろい。知らないこともけっこうあって、3Dプリンタの研究者が「3Dプリンタを生活に溶けこませるためには「消えてなくなる物質」をつくらなくてはならない」といっていてそれは確かにそうだなと思わせられた──というように、興味深いネタはいくつもあるが挙げているとキリがないのでここいらでやめておこう。

本書はcakesでの連載が元になっているが、取材後も技術の進展が各分野で起こっているので数年後にまたどんな進歩が起こったのかという内容でまた読みたいものだ。本書でも話に出ている、3次元に加え時間の概念を取り入れた4Dプリンタも開発に成功しているし。あるいは、東ロボくんプロジェクトや、人工知能による生成など具体的なプロジェクトを進めている人たちにさらに具体的に技術を掘り下げて聞くとか、SRはあってもVRにはまだいっていないしそっちも気になる。
www.digitaltrends.com

人間はどのように世界のことを知ろうとしてきたか──『この世界を知るための 人類と科学の400万年史』

歴史 科学ノンフィクション

この世界を知るための 人類と科学の400万年史

この世界を知るための 人類と科学の400万年史

つい先日『科学の発見』という、過去の科学者にたいして「科学的手法が用いられているか、いないとしたらなぜなのか」を問いかけることで現代の科学的手法がどのように形成されてきたのかを追った一冊を紹介した。それなのに本書『この世界を知るための 人類と科学の400万年史』もまた科学史本である。

その上、若干ネタがかぶっている! とはいえ別種の魅力があるので本書も紹介しておこう。本書は邦題が『この世界を知るための 人類と科学の400万年史』で、原題が『THE UPRIGHT THINKERS The Human Jurney from Living in Trees to Understanding the Cosmos』とあるように、基本的に「人間はどのようにこの世界のことを知ろうとしてきたか」という知的探究の歴史になっている。

アリストテレスの活躍した時代とニュートンが活躍した時代、さらには類人猿だった時代では「世界の探究の仕方」もまったく異なるわけで、本書はその時代ごとの違いを明確にして科学的手法の変遷を解き明かしていく一冊だ。それは真っ直ぐな歴史というよりかも、まがりくねって偶然に支配され、新たな科学手法や発見を揉み消そうとする世界の圧力との闘いの歴史である。

 我々は往々にして、科学は一連の発見によって進歩するものであって、並外れた明晰な洞察力を持った孤独な知の巨人の取り組みによって発見から発見へとつながっていくのだと考えがちだ。しかし、学問の歴史における偉大な発見者の洞察は、明晰というよりも混乱していることのほうが多く、彼らの功績は言い伝えや発見者本人の主張に反して、友人や同業者、そして幸運によるところが大きい。

時代ごとに異なる世界の探求方法

たとえばアリストテレスはもちろんいくつもの優れた洞察を残したが、現在に繋がる科学的手法とは完全に相反する態度をとっていた。たとえば、哲学を数学に変えようとする哲学者に対して激しく意義を唱えている。それはアリストテレスがバカだったり偏狭だったというよりは、根本的に興味がなかったのだと本書ではしている。

アリストテレスによると、この宇宙は調和して振る舞うよう設計された一つの大きな生態系のようなものであり、それゆえに自然は定量的な法則に従うという基本的な法則がどうとかよりもそもそも「なぜ物体がその法則に従うのか」に興味があったからだ。たしかにアリストテレスは落下する石がどのような法則に従っているのかよりも「なぜそんなことが起こっているのか」と問いかけて世界を理解しようとしている。今日の科学ではそのような考え方をしないので「方法」が相容れないのだ。

また、かなり下ってニュートンに注目してみよう。彼は科学史の中でははぶかれることも多いが聖書を信じ錬金術を試みた「オカルティスト」でもあった。結核にかかった際にはテレピン油やオリーブオイルからなる薬を飲んだし、ソロモン王の失われた寺院の間取り図には世界の終わりに関する手がかりが込められていると考えていた。

重力の法則を導くほどの天才が同時に神学や錬金術にも傾倒していたのは、その当時狂っていたからなのか──? といえばそうではなく、『この世界に関する真理を解き明かすという、一つの共通した目的によって結びついていたからだ』。目的によって結びついていたとはいえ、現代の科学からすれば道を踏み外していたのは確かで、本書ではそれを彼が自身の錬金術などの研究を秘匿し「孤立していたために」批判も受けることなく30年も錬金術を探究し続けてしまったのだとしている。『ニュートンは、自分の考えを「公の場で」議論して異議を唱えてもらうという、「科学の世界でもっとも重要な慣例」の一つを怠ったために、道を踏み外したのだ。』

本書はこうやって時代ごとに異なる「知的探究への取り組み方」と、失敗した場合にはその失敗要因について語っていくわけだが、おもしろいのはそれがはるか昔の「人類誕生」からはじまっていることだ。たとえば、「ホモ・サピエンスの脳には生まれた瞬間から世界への知的好奇心が備わっているのか?」という脳科学分野の領域にまで踏み込んでみせる。道具がつくられる前の知的探究法と、言葉が創られた後のち的探究法も違うように、そうした根本的なレベルから現代最先端の量子論の誕生までが語られる「科学の方法生成史」なのである。

学問的であると同時に文化的に規定されたその取り組みは、それを方向づけた個人的、心理的、歴史的、社会的状況を探ることによってもっともよく理解できる。

現代ではもはやダーウィンの進化論を支持しても裁判にかけられて殺されたりはしないしアリストテレスのようには考えないように、古代ギリシャの伝統や宗教的な疑問から科学は切り離されている。だが、それも簡単になしとげられたわけではなく文化的な変節や個々の葛藤(ダーウィン自身の信仰体系と矛盾する理論をどうしたらいいのか深い懊悩を抱えていた)があってこそで、本書はそこを丁寧に切り取っている。

おわりに

最初に書いたように科学理論がいかに成立してきたのかを追うという点について『科学の発見』とかぶりまくっているが、この本(科学の発見)がこれまでの科学者を現代の基準で批判的に検討してきたのと違い、本書はあくまでもその時の文化や社会状況の描写に軸足をおき、それぞれの時代の科学者が「どのように世界を探求してきたのか」に焦点を当てているので差別化は十分にできている。二冊読む物好きもなかなかいないかもしれないが、どちらもなかなかに良い本なので科学史について知りたい人は『科学の発見』の記事も僕は書いているので気になる方を読めばいいだろう。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

科学の発見

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千年の時をかけた義経の視点から振り返る義経記──『ギケイキ:千年の流転』

歴史

ギケイキ:千年の流転

ギケイキ:千年の流転

本書『ギケイキ:千年の流転』は町田康によって書かれた義経紀である。時代/伝奇小説である。といえば、町田康の作風を知る人からすれば内容も想像がつくだろう。

1000年近く生きた現代の義経が、過去を回想するかのようにして歴史を語り直していく特異なスタイルで、大河ドラマやらツイッタやら現代ネタをこれでもかとつめこんだたとえ話を駆使しながら義経紀を現代版に見事にアップデートしてみせた。

冒頭の一文から衝撃的な内容だ。『かつてハルク・ホーガンという人気レスラーが居たが私など、その名を聞くたびにハルク判官と瞬間的に頭の中で変換してしまう。というと、それはおまえが自分に執着しているからだろう。と言う人があるけど、そんなこたあ、ない。』かつて義経紀をハルク・ホーガンの話から始めた人が他にいただろうか。*1冒頭部は試し読みできるので気になったら読んでみるといい。
web.kawade.co.jp
最初に書いたようにこの語り手は1000年近く生きた義経その人である。生きたってなんだ、義経は死んでいるだろと僕も思う。だがよくわからんが公式サイトの登場人物紹介のところも『あり得ない早業を武器に、千年の時を生きる、本作の語り手であり主人公。ファッションフェチ。』と書いてあるのだから生きているんだろう。肉体的には死んでいるけど精神的には生きているとかそんな感じなのかもしれない。

義経がハルク・ホーガンを知っているのもツイッタを知っているのもそれで説明ができる。ようは現代人の感覚でもって「あー当時はこんな感じだったよね。覚えてる覚えてる」と回想を重ねていくのである。だからこんなノリも平然と許される。『実際の政治はそう単純ではないのだけれども敢えて単純化して言えば私の父を負かしたのは平清盛という人で、大河ドラマやなんかでみたことがある人も多いと思う。』

この現代の視点でもって歴史を語り直していくスタイルは別に町田康独自のものというわけではないが、とにかくわかりやすく、同時に中身はごくごく真っ当に牛若と呼ばれた幼年期から修行編、弁慶との出会いを経て絶対平氏スレイヤーとして覚醒していくさまを見事に描いていくのでまっとうに時代小説もしている。独自のものではないといっても、1000年近く生きた義経その人を語り手に据えてしまうのはかなり特異かもしれない。そこまで多くの事例を知っているわけではないけれども。

どこまで伝説や伝承を取り込むのか

個人的にこの手の時代/伝記小説を読む時に気になるのは、「どこまで伝説や伝承を取り込むのか」である。何しろ純粋な歴史ノンフィクションではなく、死後何百年か経ったあとに書かれた義経紀などが元になっているのであることないことくっついているし、そもそも当時は祈りやなんだが当たり前に信じられていた時代であるのでその区別をどうつけるのかに作家の作風がからんでくるのがおもしろいのである。

そういう意味で言えばこの『ギケイキ』はごくごく真っ当に義経伝説にのっかって、超常現象をそのまんま超常現象として描いていく。具体的にいうと義経は空中浮遊もするし人間とは思えない速度で移動する早業が使えるからまず誰にも負けないし場合によっては時を巻き戻すこともできる超越能力者である。だいたい1000年近く生きているんだからそこにツッコむのも野暮であるが、一応理屈もついている。

 なーんていうと現代の人間は、「はは。自信あるって言ってる割に神頼みですか」と揶揄するだろうがそれは誤りである。あの頃はいまと違って、神威・神徳というものが普通に存在していたし、祈祷やなんかははっきりと現実に影響を及ぼしていた。きちんと呪詛すれば人は芯出し、祈りによって天文気象をコントロールできた。あらゆることが祈りによってあやうい均衡を保ってやっと成立しているようなところもあった。

ただでさえ千本の刀を人を襲って集めている武蔵坊弁慶を叩きのめしたり八艘飛びをこなさなければならないのだから空中浮遊ぐらいできないと説得力がないというものだろう。ちなみに空中浮遊スキルは鬼一法眼が所有していた兵法書『六韜』を書き写し読み込むことで会得している。まるでRPGか何かのようだ。

おわりに

と、義経紀のあらすじを紹介してもしょーがないのでこの辺でやめておくが、注意しておきたいのはどうやらこれ、全4巻シリーズのようで僕も読み始める前は「義経紀が1巻で書けるのか??」と思っていたのだが、終わっていない。帯には一応書いてあるが、Amazonのサイトをみただけではわからないと思うのでご注意を。

今のところ真っ当に時代/伝奇小説しているようにみえるが、今後の展開であっと驚くようなことが起こっても全く不思議ではない違和感というか、懐の深さを感じる作品である(義経が実は2180年ぐらいの視点から語っていたとか)。新たな代表作と完結してもいないのに銘打っているだけのことはある。

*1:いるわけがないだろ

今まさに創られていく神話──『罪の終わり』

SF

罪の終わり

罪の終わり

文明崩壊後の食糧難によって人肉食が当たり前になり、牛の遺伝子に人間の遺伝子を混ぜた「食用牛」を開発することでようやく飢餓から解放され秩序が戻りつつあるという衝撃的な世界を描いた『ブラックライダー』、本書『罪の終わり』はその前日譚にあたる作品である。人間がいかにして食人を受け入れるような価値観へと転換していったのかを念入りに描いていく本書はある意味では食人を当たり前のようにしている人間を描いていた前作以上にエグく、ヘビイな作品だ。

というか、読み終えた今「食人を書いただけでも結構なものなのに、それを「普通の人が受け入れてしまう絶望的な状況と過程」をじっくりと丹念に描いていくなんてよく書こうと思ったしよく書きあげたよなあ……」と改めて愕然としている。

作品の形式やジャンルなど

本書は文明崩壊の端緒となった2173年の6月16日に起こったナイチンゲール小惑星の地球衝突から約20年後に発表された、冷酷な母殺しにも関わらず救世主として崇められ未だに奇跡が語り継がれる「黒騎士」と呼ばれる人物の生誕から死を追う「作中ノンフィクション」という体裁で文明崩壊前後の様子を描いていく。

第1部は黒騎士ことナサニエル・ヘイレンの誕生からナイチンゲール小惑星の地球衝突まで。第2部では激変してしまった世界で「黒騎士」と呼ばれる救世主が起こしたとされる数々の奇跡の実態と、人々が彼を神格化していったのはなぜなのかに結論をつけてみせる。ようするに未来における神話学というか、「なぜ人々は新たな神話を必要としたのか」というある種の文化論的な内容のノンフィクションなのだ。

また、『地上最後の刑事』など終末を目前として過ごす人々を描いた作品は文明崩壊後の世界を描いたポスト・アポカリプス物と対比してプリ・アポカリプス物と呼称するが、本書はどちらも書いているので両面を味わえる作品であるといえるだろう。

特に、ポスト・アポカリプス部分についていえば『ブラックライダー』と同じかそれ以上に悲惨な内容となっている。何しろつい最近まで普通に暮らしていたにも関わらず、突如として愛する者が目の前で餓死し、生きるためには人肉を食らわねばならず、罪の意識にさいなまれながらもそれでも神に愛されたいと願わずにはいられない極限状況にいる人間の有り様が描かれていくのだから。

虚構にして現実

だが、本書の特徴はこれが作中作として描かれていく部分にある。この形式が採用されたのも、我々読者からすれば「虚構」で同時に作中世界の「現実」でもあるという神話の「現実にして虚構」の矛盾した二重性を描くためという理由が大きいだろう。

作中作の著者ネイサン・バラードの狙いは、この世界の読者は知っているであろう崩壊した世界そのものを描くことではなく、こんな世界でいったいなぜこのような神話が生まれたのか? を描くことである。それを解き明かしていく過程はまるで、「現在進行形で創りあげられていく神話」をまのあたりにしていくようで、単なるポスト/プリアポカリプス物でもなければ、神話そのものでもなく、虚構と現実が入り混じって構築されていくような味わったことがない特異な読後感へと繋がっていく。

その神話が「なぜ必要とされたのか」という部分に、食人を受け入れなければ死ぬほかなかった人々の強烈な葛藤が関わっていて──と、まあストーリーがどうとかよりもこの受け入れられないものを受け入れるという圧倒的な矛盾の表現がとてつもなく素晴らしいので、ここについてはもう読んでもらうほかない。

ヴァイア・ブレインウェーブと西部劇

なにげに重要なSF設定がヴァイア・ブレインウェーブ(以下VB)と呼ばれる技術。

これは目ん玉をえぐり出して、そこに機械を入れ脳波経由でニューラルネットワークの情報を取得する技術のことで、道行く人の個人情報を取得したり、アプリによっては敵の行動予測から自身の最適な行動指示まで行ってくれる。ナサニエル・ヘイレンは母親の意向によってVBを埋め込まれ、このアプリも入れている。

「な?」グイド・アレンは素晴らしい歯並びを見せて笑った。「回避座標も教えてくれる。おれはそのとおりに体を動かすだけでいいんだ。VBを入れてないおまえの攻撃は、おれには脅威でもなんでもない。しかもおまえは九十二パーセントの確率でそのナイフを使わないってことまで教えてくれるんだぜ」

ナサニエル・ヘイレンの一行は道行く先で白聖書派の殺し屋たちに狙われることもあるのだが、もし相手もこのアプリを入れていた場合の闘い/銃撃戦は相互に最適解を一瞬で判断し行動予測をしてしまうので、反射神経勝負となる。その殺し合いの場面は荒廃した世界の風景とあいまって、まるで未来の西部劇のようだ。

おわりに

この神なき世界にいったいどのような神話が生まれえるのか、それは読んで確かめてみてもらいたい。前日譚にあたるので本書から読んでもいいし、文庫化されている『ブラックライダー』から読んでもいいだろう。とっつきやすいのは277ページと短いのもあって本書の方かな。

余談だがこの一瞬洋書かと思ってしまうような表紙デザインは本書も『ブラックライダー』も素晴らしい。書店でみた時も「おっ」と思わせられたが書影でみても惚れ惚れするような格好良さだ。

ブラックライダー(上) (新潮文庫)

ブラックライダー(上) (新潮文庫)

ブラックライダー(下) (新潮文庫)

ブラックライダー(下) (新潮文庫)

暇と退屈の仕事論──『働くことの哲学』

その他のノンフィクション

働くことの哲学

働くことの哲学

僕自身は働くということについて思い悩んだことはなく、「金は稼がなあかんのやから働かなあかんやろ。技術が蓄積できて賃金が上がっていってそこまで忙しくないのであれば楽しかろうが楽しくなかろうがなんでもええわ」と思ってここまでやってきた。そんなわけで、特に本書に惹かれるところはなかったのだが、読んでみるとこれが包括的に「働くこと」について語っていて「はあ〜そんな考えもあるんな〜」と普段想像したこともない仕事の側面に触れているのがおもしろかった。

哲学というとやたらと小難しいイメージがついてくるが、本書では哲学はもちろんかつて狩猟採集民族はどのように働いていたのかという歴史学や社会学的な観点も取り入れつつ、仕事に関するさまざまな側面──仕事はどのような変遷を経て今の在り方になっていったのか、仕事とレジャー、管理されること、労働と賃金の関係性についてなどなどについて個別に思索をめぐらせていく。

たとえば仕事とレジャーの章では「仕事はレジャー、あるいはレジャーは仕事になりえるのか。暇を恐れて必死に遊びすぎることによって、仕事以上に疲弊しているのではないか」と問いかける。「給料をもらうこと」の章では、自分の稼いだ額が多いことよりも「ほかのひとと比べた時に自分の稼いだ額が多い」ことが評価に繋がることなどの観点から賃金と労働の関係性を語る。本書は2008年に書かれたものを、グローバリゼーションや仕事の自動化が進む様相を盛り込んだ2015年の改訂版となるので「仕事の未来」についての記述も取り込まれているのがなかなかうれしい。

手段と目的

言っていることは非常にもっともというか、仕事がどのような意味ないし意義を持つのかという実際的な語りが多い。たとえば、もっともシンプルにいえば仕事とは『生活必需品を獲得するために外界に変化をもたらす行為を意味する』し、同時に『ときに娯楽や個人的成長といった内面にかかわる財をつくりだすことにも関係する』

前者は仕事を金を稼ぐための手段としてだけ見ている考え方で、後者はようは仕事がつくりだす社会的な立場や尊敬、楽しさ、自己満足を得るため、仕事それ自体を目的とみなすような考え方と大雑把に分けるとわかりやすいだろう。たとえば人と会った時に「お仕事は何をされているのですか」と訊かれたり、仕事を請け負う時も肩書を記載することが多いが、仕事はその人を形作り位置付けるものでもある。

現代では前者よりも特に後者として仕事を考える機会が多いのではないだろうか。個人主義が広まった結果、人生のうち大きな時間を占める仕事についても「あなたらしくあれる仕事につくべきだ」という天職幻想が広まったが、実際は天職なんてものがあったとしてそれにうまくマッチングできるかどうかはまったく別問題である。給与も尊敬も待遇もと仕事に対して求めるものが多すぎる、期待が高過ぎると結果的に「その期待は絶対に満たされないよ」と幻を追い求めることになりかねない。

本書は仕事について特定の主張を擁護するものではない(君たちは好きなことを仕事にして生きていくべきだみたいなことは書いていない)が、あえて主張をまとめてしまえば『仕事とはあるひとにとっては災いのもとであり、別のひとにとっては祝福をもたらすものであり、大半のひとにとってはこのいずれでもある。』というどっちづかずの、何かを言っているようで何も言ってない言葉に集約されるだろう。

自分なりの言葉で言い換えてしまえば、まあ「好きなことで生きていく」とかいって天職幻想に生きるのも、金を稼ぐ手段でしかないと仕事をツールとして割りきって生きるのもどっちでもいいけど、大半のひとにとっては「自己実現や仕事それ自体は目的」であり、同時に「金を稼ぐ手段」なのであって、その配分をどうするのかは人によって違うよねという感じだろうか。たとえば僕は本業は別につまらなかろうが楽しかろうがどうでもよく金さえもらえればいいが、時折依頼されるライター系の仕事は楽しくてやっているので別にそこまで金を求めていない。

働き過ぎて身体を壊す人や、非人道的な言動や労働時間を強制されたりする事例が溢れているが、「どこまでは許容して、どこからは許容しないのか」はよくよく考えておいたほうが良いだろう。僕も本業はWebプログラマという非人道的な労働環境の蔓延する職種だが、基本的に残業しないし残業を強制されたりまともとは思えない言動を受けたら「なら辞めますわ」といってあっという間にやめてしまう。所詮Webプログラマという職は僕にとっては効率よく金を稼ぐための手段にすぎない。

そこに絶対の答えはなく、人それぞれの配分があるわけだが──本書はさまざまな側面からその配分について考えなおすきっかけを教えてくれるだろう。

おわりに

帯に『暇と退屈の倫理学』の國分功一郎さんが『生きがい、意味、人生、実存。この本は暇と退屈に向き合うことを運命付けられた人間存在の諸問題に、〈働くこと〉という実に身近な観点から取り組んでいる。』と文章をよせている。

仕事は大変っちゃ大変だけどそれがなくなってしまった時に発生するであろう暇と退屈も苦痛となりえる。大規模調査の結果や著者自身の考えとしても「ほとんどのひとがこれ以上働かなくても人生を締めくくるのに十分なだけのお金を得たあとであっても、働きつづけたいと述べている」といっているし。とはいえ僕は金があるんだったら一秒も働きたくないし、それは「仕事以外にやりたいことがたくさんある」からであって、仕事からいったん目を話して考えてみるとやっぱり「人生でやりたいことがある」ことが仕事にも関係してくるんだろうなと思う。

仕事についていろいろと考えていくのと同時に、あくまでも仕事は人生の一部分でしかないということも教えてくれる一冊だ。