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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

SFマガジン2016年10月号 海外ドラマ特集号

SF お仕事告知

SFマガジン 2016年 10 月号 [雑誌]

SFマガジン 2016年 10 月号 [雑誌]

SFマガジン2016年の10月号が出ました。ゆるっと告知がてら紹介でも。

僕は連載で6〜7月に出た海外SFレビューを10作2pで、連載外でグレアム・ジョイスの『人生の真実』について1pレビューを書いております。今回は海外SF欄で紹介した10作中7冊がシリーズ物、もしくは3部作の途中/完結巻である。マラソンの中間地点みたいだな。完結巻としてはソローキンの『23000』が特に好き。

人生の真実 (創元海外SF叢書)

人生の真実 (創元海外SF叢書)

『人生の真実』は要約が難しい話だけれども、第二次世界大戦直後のイギリスを舞台に、コヴェントリーの町が復興していく過程と、ひとつの家族(8人の女性たちと、その女性たちの間を転々としながら育てられる少年)が変化していく過程を通して、人生に不可避的に現れる死や誕生、出会いや破局を丹念に描いていく長篇。

農家、アナキストのコミューン、神秘主義者の中で少年が生活し、成長していく過程を通して、著者のジョイスは見事に、戦後のイギリスにおける労働者階級の多様な側面と、伝統と革新が渾然一体となって「新しい物事がはじまっていく熱狂」を鮮明に描き出していく。SF要素というか幻想要素は、特別なものというよりかはマジックリアリズム的に「当たり前のもの」として挿入され、それによって死と生、過去と未来が現在の枠の中で凝縮したかのように体験できるのも見事。

まさに「人生の真実」というタイトルがふさわしい、濃密な一冊だ。

本書がおもしろかった人は同じく東京創元社の『モッキンバードの娘たち』なんかもオススメ。さて、以下では本誌をざっと読んだ感想をだらだらと。

海外ドラマ特集

今回は海外ドラマ特集 「スター・トレック」50週年記念特集号ということでAmazonプライムでも動画がはじまってしまったし、「そろそろ海外ドラマでもみるかなぁ」と思っていた僕には嬉しい特集であった。完結したやつから観るかな……とまず「最新版・海外SFドラマガイド」というガイドをみたら、2005年以後という縛りはあれど、全39本のうち、完結済みは5作品しかない……。

物語は「きっちり」終わるべきところで終わって欲しいので、人気が出る限りつづけて人気がなくなったらだらっと終わるというアメリカン・スタイルは本当に嫌いなんだけれども(だから『ブレイキング・バッド』は観た。)、とはいえシーズン制の力により、マンネリ化したら主人公さえもガンガン切り替えていくことでどの作品も(シーズン毎に)まとまっていて魅力があるんだろうなと(紹介を読んでいて)思った。堺三保さんの打ち切りドラマ総括も光あれば影もあるみたいな感じで悲哀が感じられる。

ざっと紹介を読んだ感じ、特に目を引かれたのは(特集以前からの評判もあるけど)『ドクター・フー』、『ゲーム・オブ・スローンズ』、『ストレイン 沈黙のエクリプス』、『アウトランダー』、『センス8』、『プリーチャー』あたりか(これ全部観たら何百時間かかるんだ……)。『ゲーム・オブ・スローンズ』は江波光則さんのレビューが相変わらずよい。いやー、さすがに『ゲーム・オブ・スローンズ』ぐらいは観ておかないとダメだよなあと思わされた。

浅倉ヴァンス爆誕

酒井昭伸さんによるエッセイ「浅倉ヴァンス爆誕」が素晴らしい。7ページにわたり浅倉久志翻訳がいかに凄いのか、その基礎が語られる。浅倉訳に存在するボサノバ的なリズム、『そもそもが名文なので読みだしたらたちまち批評的な見かたは消えてしまう、という要素を差っ引いても、原文と浅倉訳とをつきあわせた人間は、「うん、たしかに原文にはこう書いてある」と納得するはずだ。』というように、ものっすごく読みやすく、それでいて原文との意味的誤差が小さいのだと。

エッセイの後半ではそうした基礎的な部分をとらえたあとに、ヴァンスの『竜を駆る種族』を題材として、原文に存在する訳的な跳躍が必要とされる単語の、日本語訳との対応表を作って、そこでいかなる翻訳的創造が行われたのかを検証しており、読み終えた時にはいやあ、これは本当に良いものを読ませてもらったなと思った(特にこのエッセイが良かったから記事まで書こうと思ったのだ。)

ケリー・リンク以降 不思議を描く作家たち

ケリー・リンク以降として、ジャンル越境的に活躍している作家の紹介と、4作品の短篇が翻訳されている。チャールズ・ユウの掌編「OPEN」は男が家へ帰ると部屋に「door」が浮いていて(ドアが浮いているんじゃなくて、doorという単語が浮いている)──と、思わず「あれ、これは円城塔作品じゃなくて翻訳だよな??(訳は円城塔)」と考えてしまうぐらいに冒頭は円城作品で、不思議な味わいのある作品だ。

他はユーン・ハ・リー「弓弦をひらいて」、メガン・マキャロン「魔法使いの家」、ジュリア・エリオット「ワイルド家の人たち」と詩的な幻想譚から胡散臭い魔法使いと弟子とのラブストーリーまで俄には捉えがたい作品が並んでいる。個人的にはユーン・ハ・リーの作品は4ページながらも世界の特異性を打ち出していて作家として興味深かったなあ。下記は作中に出てくる迷路語というものの説明分。

世界が聞く、語られた言葉にはどれも一つずつ、一つだけ真逆があり、それは反対語であることはめったになく、同一言語である必要もない。正逆の言葉の組み合わせは完全無欠な静謐のときをもたらし、それは宇宙を誕生せしめた虚空への回帰となる。われらの聖域の外で一つの言葉が語られると、迷路はその逆を吐き、それは書き留められるまで谺しつづけるのだ。

なんかこうぐっとくる描写ではなかろうか? 著者は2016年にデビュー長篇「Ninefox Gambit」を出しており、数学を愛する人のためのミリタリSFみたいな興味深い評もネットのレビューに上がっていてので気になっている。

おわりに

というわけでSFマガジン2016年10月号をよろしくおねがいします。僕はスター・トレック未見なので触れられなかったけどスター・トレック50周年特集もあるよ。あ、ついでにSFドラマでなくてもいいので「この海外ドラマがおもしろい!」と一押しがあったら教えて下さい。実在した麻薬王を描いたという『ナルコス』っていうのはおもしろそうなんで大変期待している。時間はない。

幻想と現実を解きほぐす奇想ミステリ──『ラスト・ウェイ・アウト』

SF ミステリー

ラスト・ウェイ・アウト (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ラスト・ウェイ・アウト (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ハヤカワ・ミステリ文庫からの刊行だが、南米発の"奇書"という謳い文句通りに、SF好き/奇想小説ファンも好きそうな一冊だ。奇書というとややこしい印象があるかもしれないが、筋は見事に通っているし、入り組んだ糸を解きほぐしていくような爽快感のあるスマートなエンターテイメント小説である(本格的なミステリ読みではないので、ミステリとして出来が良いのかどうかはいまいち判断がつかないが)。

簡単なあらすじ

物語は急転直下で幕を開ける。何しろ最初の一文からこうだ。『テッド・マッケイが自分のこめかみに弾丸を撃ち込もうとしたそのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。』呼び鈴が鳴ったあと、テッド・マッケイが訝しみながらドアを開けたてみればそこにいる見知らぬ男はなぜかテッドが自殺しようとしていることを知っていた──。

家へと入ってきた男はスマートにペラペラペラペラと自分のこと、組織のことを語り始める。何でも彼が所属する組織では、社会のシステムを愚弄した者たちと、正当な理由があれば命を投げ出す覚悟のある人たち(自殺志願者)たちを結びつける業務を行う「物語の善玉」であるという。テッド・マッケイはその話を聴き、自分の命を犠牲にしたとしても悪へと鉄槌を下す正義の使者となることを決意するのだ。

「そんな依頼、受けないだろ」と思うだろうが、物語はそうした疑問をスルーして前へ進む。いったいなぜ、彼はそんな依頼を受けてしまったのか? 殺害に赴いた先で起こることとは? 下記から、おもしろさを削ぐわけではないと個人的に判断した部分まで踏み込んで内容を紹介してしまうので、「迷宮的な」作品が好きな人、そのスタート地点から十全に迷いたい人は引き返し、買ってしまうことをオススメする。

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死刑にかわる新たな刑罰──『刑罰0号』

SF

刑罰0号 (文芸書)

刑罰0号 (文芸書)

著者の西條奈加さんは日本ファンタジーノベル大賞でデビューし、その後は主に時代小説で活躍されてきた方である。そちらの作品は興味範囲からズレていたのでこれまで読む機会がなかったのだが、今回の『刑罰0号』は元々2008年に「SF Japan」に第一回が掲載され、その後6年の断絶後「読楽」で連載を再開し、完結したSF作品である。SFということもあって読んでみたのだが、これがかなりおもしろい。

ざっとした感想だけ最初に書いておくと、シンプルなSF的ワンアイディアから、「もしそれが可能だったら、どんなことができるだろうか」を幾つもの側面から描いていき、最終的に全世界規模の騒乱にまで到達してみせる王道的な展開である。一冊という限られた分量の中でテンポよくスケールの広がりを感じさせてくれる作品だ。

刑罰0号とは何か

SF的ワンアイディアとは何かと言えば、書名である「刑罰0号」と関わってくる。

日本では今も死刑が行われているが、「刑罰0号」とはその執行を減らせないか、あるいは死刑を廃止するにはどうしたらいいのかという議論へのひとつの答えだ。現状、死刑をめぐる問題は無数にあるが、大きいのは「加害者の意識を変えるのは難しい(罪の意識を覚えていない人間に罪の意識を感じさせるのは難しい)」、それ故「単純に死刑を廃止しても、被害者側の気持ちが晴れることはない」という点だろう。

死刑でなければ数十年で生きて出てこれてしまう無期懲役ということになり、その間にある罰の差があまりに大きいのもある。しかし、本書の世界では「死んだ人間の脳から記憶にかかわる部分をとり出して、再合成する。」技術によって、亡くなった人の記憶を、まるで映画のように視覚と音で他人が追体験できるようになっている。

この技術を用いて、たとえば罪の意識を感じていない加害者に対して被害者の状況をまるっと再現させれば、自分のこととして罪を引き受け、心の底からの悔いを引き出すこともできるだう。本書開始時点ではそれが実際に法として執行されるところまではいっておらず、「この技術がそういう目的で使えるかなあ」という実験の段階である。つまりシンプルに実態だけ抜き出してしまえば、「記憶追体験装置」なのだ。

まるで連作短篇集のように

本書ではこの装置を実際に使用することで巻き起こる問題や可能性を、連載作品ということもありまるで連作短篇集のように切り取っていく。たとえば過去のトラウマとなった記憶を再構成し、幸せな記憶へと書き換え追体験させることでPTSDの治療に役立てられるケースや、他人の記憶へのハッキング、あるいは他人へ記憶を強制的に上書きしたり──といった犯罪のケースなど善用から悪用までさまざまである。

メインプロットに絡んでくるのは、記憶中枢分野での権威佐田洋介が、自分の父親である行雄を事実上殺害した少年へと、私怨によって無許可で0号を使用してしまう事件だ。佐田洋介によって0号を適用された少年は死ぬ直前の2ヶ月間を佐田行雄として過ごすことによって、戻ってきた時には自分自身は佐田行雄だと信じこむほどになってしまっている──など、この事件をきっかけとして興味深い状況が次々と発生し、関係者が一つの大きな流れへと接続されていく。

小説手法としておもしろいのは、特定の人物に寄り添う形、たとえば愛する女の子と一緒に日々を過ごしながら、彼女につきまとうストーカーを追う……話だと思って話を読んでいくと、最後の最後に「ストーカーは俺で、0号を適用して記憶を追体験させられていたんだ!」と叙述トリック的な(と表現するのが正しいかよくわからんが)驚きがもたらされることで、「これは記憶を追体験しているのか? それとも作中における本物の現実なのか?」とわりと読んでいる時に緊張感がある。

もちろんこのような飛び道具だけで話が展開していくわけではなく、そうした一つ一つの話が最終的には折り重なって、広島で被爆した佐田行雄やその息子にして記憶移植システムの開発者佐田洋介を中心として、核やテロをめぐる世界規模の騒動へと発展していく。何しろ最終章は「グラウンド・ゼロ」で、そのひとつ前の章題は「聖戦」なのだ。最初に見た時は「いったい何が始まるんです?」って感じだったわ。

おわりに

それがいったいどのような展開なのか──こればっかりは詳しく説明するわけにはいかないので、ぜひ自力でたどりついてもらいたい。紹介としては尻切れトンボ感があるが、なにぶん説明してしまうと台無しになってしまうのでスマンな。記憶を他者に追体験させられるシンプルなギミックはこうも発展させることができるのか──という思いがけないシチュエーションを「追体験」させてくれる逸品だ。

同じく記憶を題材にした作品では小林泰三さんの、全人類が同時に記憶障害に陥ったら──という状況を描いた『失われた過去と未来の犯罪』があるのでオススメ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
余談ではあるが、DNAへのmemories recordに成功というタイムリーな話題があったので本書のようなテクノロジーは近いうちに実現しそうだなあと思った。
www.rt.com

サヴァンの能力を結集し究極の英知を創り上げる──『叫びの館(上・下)』

SF ミステリー

叫びの館〈上〉 (創元推理文庫)

叫びの館〈上〉 (創元推理文庫)

『叫びの館』という書名と、表紙のイメージからして「純ホラー作品なのかなあ」と思って若干敬遠しかけたが──これが読みはじめてみればSFとしても、ホラーとしても、サスペンスとしても一級品。あらゆる描写は専門家ならではの緻密/迫真さで、著者が持つ無数の引き出しにつかまってあっという間に読み終わってしまった。

あらすじとか

物語はプロローグこそ純ホラーのように展開する。1953年、街では若い学生を対象にした、局部が切り刻まれナイフで刺殺される連続殺人事件が発生していた。自分の娘がその犯人なのだと知ってしまった父親は、狂った(と自分が思い込んでいる)娘を死ぬまで自宅の地下に幽閉。そのドアを固く閉ざした後、自身も老化で死ぬことによりその事件は迷宮入りとなって忘れかけられたかのように思われた──。

そこから40年以上経った現在(原書刊行は1997年)。同じ街を舞台に、『コンピュータによって増強された随伴現象を通じての知能の増強』などを研究するウェスリー博士を中心とした、知的障害などがありながらも特定分野で特別な能力を発揮する、いわゆるサヴァンを集めたとある研究を行うためのプロジェクトが発足する。

サヴァンの緻密な描写

サヴァンと一言でいっても、みながみな同じような欠点を抱えているわけではない。強迫症的に物を整頓しなければ発狂しかねない者もいれば、意思の疎通が困難な者、怒りという感情が失われている者など様々だ。能力も500ピースのパズルを悩むことなくノータイムで完成させられる者もいれば、音楽やある種の計算能力(たとえばある年の2月20日が何曜日であるかを瞬時に答えられる)を持つ者もいる。

本書でまずおもしろいのは、こうした実験のために集められてくる一人一人のサヴァンの背景を緻密に描きこんでいくことだ。幼少時代はどのように過ごしてきたのか? 知的障害やサヴァンの能力はいかにして発見されたのか? 親との関係は? 能力は、具体的にどのレベル/種類のものなのか? たとえば優れた語彙能力を持つ人物が出てくるが、下記のように出来ることと限界を細かく具体的に描いていく。

 スニがユーの語彙能力を調べていくと、首尾一貫していないことがわかってきた。たとえば"good"に対応する類義語を問われると、ユーは"benevolent"や"virtuous"という単語を返してくる。ところが、"good"の反義語を問われると、ごくあたりまえの"bad"という単語すら答えられない。それにまた、単語を定義することもできなかった。キーワードと意味の似た単語を見つけることに、彼の能力は限定されていたのだ。

あまりにも描写が真に迫っており、かつおもしろかったので「な、なぜこんな描写ができるんだ?」と途中で著者プロフィールを見てみたが、著者のジェイムズ・F・デイヴィッドは作家だけでなく心理学者なのだ。英語で検索してみてもWikipediaすら引っかからないので超心理学系、サヴァン症候群が専門であるかどうかまではわからなかったが、何にせよ心理実験について素人ではないということで腑に落ちた。

サヴァン達を統合し、究極の英知をつくりあげる

しかし、こうしたサヴァンたちを集めてウェスリー博士は究極的には何をしようとしているのか? というのが本書の中心ギミックとなっている。

それは、いわば「サヴァン達の得意分野の統合」だ。その方法を簡略化して説明すると各ドナーの脳波をモニターで観察しながら得意分野ごとに信号を選び出し、基礎人物へと重ねあわせ統合するイメージ。実際に本書で行われる説明はより詳しく、計算能力は左半球の言語能力が土台になっているはずだがサヴァンのような特別な能力持ちの場合は違うかもしれない──うんぬん、と脳科学的な側面での描写もサヴァン達に負けず劣らず書き込まれていくのがSF好きにはたまらないところである。

「ここにいるサヴァンたちはみな、心のひとつの部分については天才だ。(…)まるで、わたしたちには推しはかれないほど偉大なひとつの知性があり、その天才の能力がおおぜいのひとびとのあいだに撒き散らされたかのような感じじゃないか。もしその偉大な心を──その超意識を──再構築したとすれば、それはどれほどの数の思考の道筋を持つだろう?(…)」

身体を寄せ集めてつくられたフランケンシュタインになぞらえて、フランキーと名付けられた統合人格は実際にサヴァン達の類まれな能力を統合した存在であったが──とここから先も緻密な描写は終わらない。フランキーに人格があるとはどうすれば定義できるのか? 性別はどう決定されるのか? 単なる「超知性」をつくって終わりではなく、それをどう「定義」するのかまでみっちりと描いてくれる。

錯綜する案件

ここまで読むと「完全にSFやんけ」って感じだが、話はここで終わらない。

実はこの実験チームには、サヴァンではないものの思念暗示によって人の行動をある程度操ることのできる超能力者が紛れ込んでいるのだ。こいつは思念暗示が使えるために気に喰わない奴、自分の正体に気づきそうなやつを人知れず自殺や事故に見せかけて殺してきた危険人物であるが、ウェスリー博士の存在を論文から知り、自身の能力をさらに増強させる手がかりを求めこの街へとやってきた。

サヴァン、統合人格フランキー、思念暗示の殺人者、とヤバイ奴等が集まってきたこの街で、40年前に起きた事件を連想させる「学生の性器が切断され、刺殺される」殺人事件が連続して発生する。警察は当然この怪しげな実験を行っている人々を疑うが──。という感じで、え、え、この別々の事案に見える3つが過去と現在の連続殺人にどう関わってくるんだ?? と途中から気になって読むのがやめられなくなる。

物語も後半に至ると、超能力者の存在に気がついた人類と超能力者との戦いにも発展し──とこっちは多くは明かせないが、サヴァンらの描写と負けず劣らずの分析が展開されていく。たとえば、思念暗示が使えるとしてそれはどのように作用しているのか? 連続して使用できるのか? 射程距離は? 速度は? を考え、作戦を練っていくので能力バトル物的なワクワク感が生まれるのだ。

おわりに

サヴァンも統合人格も能力バトルも、どれか一つの要素だけでも立派に長篇として成立させられそうな本書だが、それを全部ぶち込んで、違和感なく統合してジャンル混合型のエンターテイメントとして成立させている。表紙と書名からホラー好き以外はなかなか手に取らなそうだが、スルーするにはもったいない出来だぞ。

叫びの館〈下〉 (創元推理文庫)

叫びの館〈下〉 (創元推理文庫)

見せかけの繁栄に潜む空前絶後の社会矛盾──『「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄』

新書

「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄 (文春新書)

「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄 (文春新書)

本書は著者である顔伯鈞さんの当局から逃げ続ける逃亡記を元に、編訳者である安田峰俊さんが日本の読者用に編集しなおした特殊な形式の新書である。

著者は元々中国体制内のエリートであり、北京工商大学の副教授だ。しかしある時「公盟」と呼称される、体制民主化などの実現を目指す社会改革団体に参加し、活動を続けるうちに国家から追われる身となってしまう。そこまで危険な組織活動を行っていたのかといえば少なくともはたから観ている限りはそんなことはない。公盟の主な活動は全国各地で参加者を集め、社会問題を話し合う食事会を開き、体制における自由化を目指すデモを行う法律に則った比較的に穏健な組織である。

ところが、中国ではそうした活動さえも許されない状況が本書では明かされていく。著者は討論会を開催したりするうちに当局の注意を引き、支持者たちで「党官僚の財産公開」を求めて街頭に出るようになるとついに仲間もろともしょっぴかれかけてしまう。そこから家族に別れを告げ、水滸伝か何かの如く反体制の好漢たちの間を渡り歩きながら、香港からミャンマーまでを転々とする白熱の逃亡譚がはじまるのだ。

まるで小説のような逃亡譚

本書は逃亡譚に内容を絞っているので思想的な面での語りはあまりないが、読めば現代中国においてどれほどまでに言論的/思想的な自由が妨げられているのか、中国にひそむ社会矛盾をより深く理解することができるだろう。

それとは別に、逃亡者を逃がしやすいように隠し通路で繋げられた家など時代劇のギミックのようなものが出てきたり、当局に知られた番号で探知されないためSIMカードを捨てながら逃げ続けたり、一目でいいから家族に会いたいと北京に戻ってきてみれば1年経っても家が何ら変わらず厳重に監視されていたり──という状況の一つ一つが、不謹慎ながらも現代のスパイ/武侠小説でも読んでいるようにおもしろい。

副題に逮捕、拷問とあるように家族を人質にとられるなどして実際に一度ならず捕まってしまうのだが、その時も起訴できるほどの罪状があるわけではない(何しろ、実質デモをしたぐらいだから)。それにも関わらず、冷水をぶっかけながら何日もぶっ続けで仲間の居場所などを尋問される、1ヶ月間凶悪犯とともに拘禁される、また別のある時はホテルの一室に見張りつきで監禁されるもののザル警備で隙をついて脱獄する──などなど本当に今は21世紀だよなと思うような事態が頻出する。

私たちの活動はもとより中国の現行法のもとで許された合法的なものであり、また時代の要請にもとづくものだった。わが国の憲法35条には、デモや言論の自由がちゃんと謳われているではないか。合法的な行為について「罪」を認める理由はなかった。

まるで小説のようだとはいえこれは実際に中国で起こっていることであり、現実だと思うとだいぶ気分が重くなってくる。しかしそんな状況にあっても、彼を支援し助けようとする市民ネットワークがあるのはひとつの救いなのかもしれない。危機を察知し各地を転々としていく中、彼を助けようとする人は滅多に絶えることがないのだ(著者の手腕と人柄によるところも大きいだろうが)

おわりに

本書はあくまでも個人の視点を通した逃亡記であり、この視点から見えてくるものをすべて正しいとするわけにはいかないが──『だが、中国が見せかけの繁栄の影で膨れ上がらせた空前絶後の規模の社会矛盾の存在をあぶり出すうえで、ひとつの窓口になれたのではないかと自負している』という部分については正しいだろう。ひとりの視点でしかないが、それゆえに狭く/深く状況を切り取っている一冊だ。

アメリカSF界におけるレジェンド作家の饒舌な短篇集──『死の鳥』

SF

死の鳥 (ハヤカワ文庫SF)

死の鳥 (ハヤカワ文庫SF)

なんとも饒舌な短篇集である。

著者のハーラン・エリスンについては帯にでっかく「華麗なるSF界のレジェンド再臨!」と書いてあり、最初凄い煽るなあと思ったが実際その名に恥じぬ実績(作家としてのパフォーマンス、作品の受賞歴/質、武勇伝)を持っている作家である。

なんてわかったように書いているが、僕はそうした、エリスンをレジェンドだ! と当然のように認識していた読者の熱狂を体験しているわけではない。現時点で他に唯一の単独訳書である『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読んだときも、レジェンドだとはまったく知らずに読んでいた。今回あらためて彼の作品や、刊行と同時に沸き起こってきたエリスンの思い出話や本国での受容のされ方などを読んだことでなるほどたしかにレジェンドなのだろうなあとぼんやり思った次第である。

本書収録作品全10篇の初出の多くは60-70年代、最新でも87年と古い物が多い。レジェンドとはいえ今読んでつまらないのであれば「昔すごかった人ね」とそこで話は終わってしまうものだが、これが人は選ぶだろうが問題なくおもしろい。作品は寓話的であったり幻想的/神話的なものが多く時の劣化をあまり受けていないし、饒舌な語り口と同時に達成される緻密な構成、壮絶なイメージを喚起する短篇の数々は、一度読んだ直後にもう一度読み直したくなるほどの密度がある(実際読みなおした)。

日本で既訳のものを集めた、オリジナルの傑作選であることも手伝っているのだろうが、時を経ても伝説は伝説ということか。以下簡単に作品を紹介していく。

以下簡単に作品紹介

「「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった」はチクタクマンと呼ばれる「人間の時間を抹消する権力を持った男」+絶対に遅刻を許さない管理社会と、どうしても遅刻してしまうがゆえに生来的に叛逆をせざるをえない特性を背負わされた遅刻魔の対決である。ふしぎの国のアリスだなあと思っていたらそのままずばりアリスというキャラクタが出てくるなど、寓話性とSF性のごった煮感がたまらん。

エリスン版異世界転生ファンタジーである「竜討つ者にまごろしを」で主人公を殺すのは転生トラックではなくビルを取りこわすための真っ黒い巨大な"ヘッドエイク・ボール"である。無残に、情け容赦なく主人公を叩き潰すシーンからして迫真かつ綿密な描写であるがその後にやってくるのは異型のクリーチャーどもと繰り広げられる剣と魔法のファンタジィであった……。ぱっと見死後転生にみえるが、構造的には死後転生というわけではないのがおもしろいところだ。

「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は超越知性となったAIが人類を皆殺しにし、最後の五人をコンピュータにとりこんでおもちゃにする様を描いた凄惨な短篇で、死ぬことも狂うこともできない永遠ともいえる時間をこれでもかと描きこんでいく。「プリティ・マギー・マネー・アイズ」はスロットに宿った怨霊の女性の力を借りて、男がジャックポットを引き当て続ける話だが、こちらはこちらで男がフルスロットルで女とスロットにのめり込んでいくエリスンの描写力が炸裂している。

怨霊の女は元々スロットをすっからかんにしてやろうと挑んで死んだのだがその時の描写が次のもの。『一瞬まえ、彼女はスロットマシンのレバーをにぎり、その全存在を、いままで彼女が寝たすべての豚野郎へのありったけの憎悪を、体内のあらゆる繊維の、あらゆる細胞の、あらゆる染色体をマシンにふりむけ、マシンの臓腑にこもる銀の蒸気の一息一息を残らずしぼりとろうとするように思念を向けた。』この異様なまでに反復を繰り返して強調していくスタイル(余談だけど、今読むとまるで西尾維新みたいだなと思った)、その凄まじさの一端はこれで伝わるだろう。

抜群にかっこいいタイトルの「世界の縁にたつ都市をさまよう者」は世界的に有名な連続殺人鬼がとある理由から3077年の未来にタイムスリップさせられる短篇。類まれなる描写力によって、「おれには〜」とはまた別側面の凄惨さ──「縦横無尽に大量の人間が死に、解体されていくさま」が描かれていくのが愉快痛快大喝采である。

表題作「死の鳥」はこの短篇集の中でも一番の傑作といえる。創世記の一節を別観点から語り直し、25万年の眠りから覚め地球に終焉を告げるネイサン・スタックを通して人類起源から終末までを一気に語りきらんとする壮絶な短篇だ。途中「この物語の善玉、悪玉はだれだ?」という論述問題やある作家の書いたエッセイがメタ的に挿入されるが、これが作品の終着点とテーマに結びついていく構成含めただただ凄い。

おわりに

全体的に人が解体され人類は皆殺しにされ狂気に接近し──とさまざまな形で凄惨だったり悲惨な場面が描かれていくものの、「死の鳥」のラストにおける絶望的ながらも信じがたい美しさのように、それが妙に美しく象徴的な絵面で浮かび上がってくるのがたまらん。とはいえ、饒舌な/執拗な/冗長ともいえる描写については「簡潔にすませればいい場所を、ひたすら冗長に描いている」ともいえる。

そのへん「カッコいいと思える人にはカッコいいし、ダメな人はダメ」としか言いようがないが、先の引用部などを「カッコいい!」と思えるなら大丈夫だろう。

あと、死を願いながらも不死ゆえに叶えられぬ男を描いた「ランゲルハンス島沖を漂流中」、5歳から成長することのないジェフティとその友人を通してありえたかもしれない過去/現在を郷愁と共に描く「ジェフティは五つ」など抑制がきいた、静かに死を想う文体/ヴィジョンも素晴らしく、全体的にバランスのとれた短篇集なので好きになれる作品は必ずあると思う。

これでエリスンにハマっても他に手に入るエリスン本が少ないのが残念だが、今冬には国書刊行会からクライム・ストーリー系を中心にした『愛なんてセックスの書き間違い』が出るようだ。本書『死の鳥』は発売即重版が決まったというし*1、流れができてまだ既訳で本にまとまってないもの以外も含めてそのうち読めるといいなあ。コードウェイナー・スミスの全短篇も重版しているし、海外SF刊行が過去のレジェンド作家ばかりになってもそれはそれで困るが楽しみに待ちたいところである。

歴史が失われた国で立ち上がる新たな神話──『イエスの幼子時代』

SF

イエスの幼子時代

イエスの幼子時代

意外なことに本書が一種の近未来ディストピア小説であるという評を目にして読んでみたが、これはなかなか捉えがたい作品だ。捉えがたいを別の表現でいえば寓話的で無数の解釈が可能ともいえるし、逆にぼかし過ぎて最後まで読んでも何がなんだかよくわからん作品だともいえる。とりあえず個人的にはおもしろかった。

世界観とか

物語の舞台となるのはノビージャという町だ。人々は作中では明かされることのない何らかの理由によってこの町にやってきて、過去を捨て(記憶を捨てて)、新たな名前を与えられここで新しい人生をはじめている。メインで描かれる初老の男シモンと5歳(ということにされた)の男の子ダビードは血のつながりこそないものの道中で出会い、シモンはダビードが行っている母親探しを一緒に手助けを行うことにする。

この二人の会話も曖昧にぼかされており、要領を得ない。なぜノビーニャにやってきて、滞在しなければならないのか、お母さんが見つかった後はどうすればいいのかとダビードが問いかけてもシモンは「他のみんなと同じ理由でここにいるわけだ。わたしたちは生きるチャンスを与えられ、そのチャンスを受け入れた」とか、「ここ以外にどこがあるんだ? ここではないどこかなどないんだよ。」と答えるばかり。

これは子供に言い聞かせているだけともいえるが、その通りの意味なのかもしれない。たとえば他の場所は汚染なりなんなりで住めなくなり、ノビーニャでやり直すことを一部の者だけは許可されている、などの理由がいくつか思いつく。その場合はたしかに近未来(かどうかはともかく)ディストピア小説であるともいえるだろう。

あらすじとか

母親を探すのだと二人は言う。しかし問題は名前もわからず写真も持っておらず、顔もわからないことだ。それでもシモンは「理由は説明できないが、見ればわかるという確信があるんだ」といい切って強引に推し進める。正直、見ず知らずの子供を助けるために粉骨砕身し見ればわかるんだ俺はと喚き散らす様はほとんど狂人である。

おかしなのはシモンだけではない。町の住人はやってきたシモンに対して空腹感をおさえろ、内なる犬を飢えさせろという。君の欲望をおさえるのだと。

「この国に来てなにがいちばん驚いたかわかるか?」(…)「まるで生気がないことだ。会う人会う人、みんな実にきちんとしていて親切で、善意にふあれている。悪態をついたりカッとなったりする者もいない。酔っ払いもいない。声を荒らげる者すらいない。パンと水とビーンズペーストだけの食事で生活し、充足していると言う。人間という生き物として、そんなことありえるか? きっときみたちは自分にも嘘をついているんだろう?」

ダビードを養うため船場の荷役の仕事についたシモンは、この街に存在する奇妙な認識と齟齬をおこしていく。船場の同僚たちも、妙にインテリで議論も筋道だっているのだが話がまったく咬み合わない。シモンが「我々はこれをなぜ運んでいるんだ? どんな全体図の中にある仕事なんだ?」と問いかけても、同僚は「仕事が無いとすることもなく公共のベンチに座って時間を潰さにゃならんし、そもそも生きていくために必要だろ」と「仕事をする意味」については答えても「なぜ」を問わない。

歴史のない世界

これに対してシモンは、全体像を見据え現在の作業を能率よくすることで、無駄をなくすべきだと主張するが彼の同僚は俺たちの仕事がなくなってしまうじゃないかと反論する。シモンが「お前たちは歴史を捨てたのか」と問えば、彼らは歴史は現実に感じられるような顕現を持たぬものであり、「過ぎ去ったものの中にわれわれが見るパターンに過ぎない」(だから歴史は実在しない)と無茶な理屈を言い張る。

「十年後も、今日とまったく同じ方法で荷降ろしをしていたら、歴史は実在しないと認めるかい?」
「いいとも」彼は答える。そのときは現実の力にひれ伏すよ。歴史の評決に従うと言ったらいいかな。

ようはこのノビージャを含む「過去を捨てた国」は同時に歴史を捨てた国であり、現在が絶え間なく続く一種の「ユートピア」のようなものなのだ。対してよそ者であるシモンとダビードはなぜかそうした状況に馴染めず、だんだんとこの世界の人々とのズレを実感することになる。現実であればシモンらの意見が正しいが、この世界では彼らは圧倒的な異分子だ。果たしてこの世界は本当に変化も歴史もない世界なのか? それは永遠に回り続ける「ユートピア」なのだろうか?

噛み合わない会話は喜劇的であるし、同じ人間であっても認識の異なる人々が同じ世界で同居しているという意味では悲劇的というかホラー的でもある。このあたりのクッツェーの描写はさすがのもの。

よくわからないことだらけ

しかし物語はいろんなことがよくわからないまま進んでいく。それが実際の「新たな」聖書やら神話やらを読んでいるようでおもしろくもあるし、もどかしくもある。

シモンがここまでダビードに固執する意味もわからないし、途中シモンが出会い真の母親だと確信するイネスは不自然にあっさりとダビードを引き受けることを決意するしと疑問が次々と湧くが、本書が「イエスの幼子時代」という書名で、作中人物の名前が軒並み聖書モチーフであることを考えるとこれも当然のような気がしてくる。

ダビードはイエスでありダビデであり、均質性が異常に高まった世界に「波乱」をもたらす存在であることは明らかであり、周囲の人間に直観をさせ付き従わせるぐらいのことは普通にやってのけそうである。物語の後半、異分子であることが決定づけられた家族は社会からの逃走をこころみるが、そこまでいくとダビードの特異性は明らかになっており──という感じで物語は「実に気になる」ところで終わっている。

この逃走/旅を経ることで、イエスが従えたような従者や、多くの考えに触れこの世界に何らかの革命をもたらすのだろう。そうなると違和感を憶えた部分にも納得がいきそうな感じはあるが、このあとは続篇の『イエスの学校時代』へと続くようだ。

おわりに

異なる世界認識を持つもの同士のちぐはぐな会話、人々の「世間」に受け入れられぬ者が自身の認識を守るため旅に出るという構図は愉快かつ悲劇的でおもしろいし、ダビードの教育方針をめぐって母親と父親が言い争う場面なんかは子育てをしている/してきた人にはぐっとくるかもしれない(嫌気がさすかもしれないが)。何より次への「期待」は持てるので、それも含めてたのしんでもらいたい。