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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

地球、消滅──『23000: 氷三部作3』

SF

23000: 氷三部作3 (氷三部作 3)

23000: 氷三部作3 (氷三部作 3)

現代ロシアのポストモダン文学を代表するウラジミール・ソローキンによる氷三部作が『氷』『ブロの道』に続く本書『23000』で無事に完結した。宇宙創世から世界をまるごと創造し、世界の終わりまでを描き切ろうとした、壮大な野心を持った三部作だ。SFといえばSFだし、陰謀/宗教/テロ小説・現代小説とジャンル混合型の海外作品として、個人的にはこの数年でもっとも楽しませてもらった作品である。

世界観とかあらすじとか

三部作を通して描かれるのは革命期から現代に至る20世紀のソ連・ロシアを中心とした世界中。時代や状況はおおむね現代と同じように推移しているが、しかしこの世界には一部の人間が強烈に信仰する特異な宗教/神話が存在しているのが特徴だ。

その神話によれば、2万3千の原初の光によって宇宙が産み出され、次いであらゆる恒星や惑星を産んだ。この光はその後惑星地球の生物へとやどり、人間へと進化することになる。つまり、光の兄弟たちの数はきっかり2万3千人。彼らは自身が光である自覚もないまま世界中に散らばり、再び全員が集合することを奥底では渇望している。それが成された時には即地球は消滅し、彼らは再び原初の光に戻ることになる。

自覚なく眠っている彼らは(死んだら光はまた別の人間に宿る)ツングース隕石の氷を用いて心臓を叩くことで、心臓(ルビ:こころ)で眠っている光が目を覚まし、多幸感、使命感、他の兄弟たちとの仲間意識が突如として溢れてくることになる。第一部となる『ブロの道』ではツングース隕石の調査から最初の覚醒者が生まれ、次第に彼らが組織化されていく過程が。第二部『氷』では時代を現代に移し、ハンマーで人々の心臓を破壊し(非破壊では兄弟かどうか確かめられないので、兄弟でなかったら普通は死ぬ)仲間を増やしていく過程が描かれる。すべては再び光に戻るために。

この三部作で描かれていく、覚醒者たちの「歓喜」の描写がもう素晴らしいわけですよ。何しろ心の奥底からただ単に沸き起こってくる歓喜の衝動なのだから、そこに根拠なんてものは存在しない。本来なら伝わりようのない、その無根拠な衝動それ自体を、文体、文章表現を新たに作り上げることで完璧に練り上げていく。感覚をここまで本質的に描写へと移し替えることができるのかと驚く他ない圧巻の力技だ。

 私の強い心臓が燃え上がる。〈家〉の厳格な規律が乱れる。私たちは心臓で語り合う。待つ時間があまりにも長過ぎた。裏切られた期待は数知れない。だが今回も、〈家〉の全住人はただ信じているだけだ。けれども私は知っている! なぜなら、私がそれを欲したのだから! 私はひどく知りたかった──今回ですべてが実現し、すべてがあるべき場所に収まり、すべてが正しい形をとり、すべてが集まり、一体となり、一つに溶け合うことを。肉の幕が開き、残りの者たちが見出され、大いなる円環が閉じられることを。そして心臓が輝き出す。そして筋繊維が崩れる。そして骨が折れる。そして苦の連鎖が断ち切られる。そして御光が宇宙に原子の塵を撒き散らす。

覚醒したものは自分たち以外の人間を「肉機械」と呼ぶようになり、言葉によって世界の認識が一変してしまうのが文章表現としては強烈。

第三部の話

そして第三部『23000』では他人の心臓を手当たり次第にハンマーで叩き潰しながら同士を見出してきた兄弟団が、無数の策と地道な捜査がみのってついにすべての同士を見つけ出すことになる。果たして兄弟団により地球は消滅してしまうのか、はたまた別の力が働いて志半ばで諦めることになってしまうのか!?

これについてはちょっと予想とは違うところに着地してみせたなというのが正直なとところだ。第一部『氷』、第二部『ブロの道』で示されたヴィジョンは、先に書いたように23000人の兄弟らを中心として「到達点」へと至ろうとする言語的な理屈を超えた「衝動」に焦点が当たっていたが、第三部に至ると一般人の目線が取り入れられ、一部と二部で起きた流れを外から俯瞰して眺めるような距離が生まれている。

三部作で一つの作品としてみるとこの完結篇はどこか焦点が定まりづらく、迷いながら書いたような印象も受ける。そのどこかブレたような感じは、巻末の訳者あとがきとそこに引用されている著者の発言を読むと、書き継いでいくうちに意見が変転していった結果として説明ができそうである。それは悪い方向に左右されているというよりかは、理屈で説明のつかない「兄弟団」という存在を象徴するようにより複雑さを増し、簡単には解釈できない違和感となって残る良さに結実している面もある。

エンタメとしての『23000』

それ以前に、三部作の中で本書は飛浩隆さんの帯文にあるように「超エンタメ」しているのが良い。ジャンルフィクション要素のごった煮/要所要所の展開のおもしろさも然ることながら、たとえばキャラクターについていえば、この三部作で中心となる「23000人は心臓を氷のハンマーで打たれると覚醒する」設定は非常におもしろいのだが、一方で覚醒してしまうと悟りを得たような状態になり、「キャラクター」としての個性が死んでしまう/または死に近い状態になってしまう弱点があった。

本書では23000人以外の人物、氷のハンマーによって胸を殴打され、なんとか生き延びた人々らの復讐譚が描かれていく。それゆえに彼らは真っ当な人間として迷い、苦しみ、精神的/肉体的な冒険をすることになり、この奇っ怪な世界観にあってシンプルなプロット上の起伏とキャラクタの幅の広さを提供してくれる。ただ、三部作を通してすべてのキャラが弱い/問題なわけではなく、それを回避するため「氷のハンマーで打たれる前のキャラ描写をトリッキー/綿密にする」という技も用いられているので実はキャラ自体は三部作を通して全部異常性が際立っているとも言える。

特にこの第三部では、23000人中の最後の3人は最後だけあって捕らえがたい奇怪な特性を与えられている。土中を徘徊する奇々怪々な土竜人間や、日本でギャルを相手に援交し耳に射精をするのが趣味の殺し屋、おかしくなった頭でぴょんぴょん跳ねまわっている頭ぴょんぴょん丸など異常な人々がみっちりと描かれていくので異常性が際立つ。国際ブッカー賞最終候補に残るなど世界的な評価の高まっている作家であるが、よくもそんなこと書くよなという部分まで作品に取り込んでみせるのが良いね。

おわりに

他では味わえない特異な小説だけどもそれだけに人を選びもするので、興味を持った人にはオススメしておく。本国での刊行順にならって日本でも第二部の『氷』、第一部の『ブロの道』、第三部『23000』という順番で刊行されているので、参考にどうぞ。時系列順でもいいと思うが、『氷』は当初単発の作品として予定されていただけあって独立性の高い作品でもあるので、試金石としてはちょうどいいのかな。

ブロの道: 氷三部作1 (氷三部作 1)

ブロの道: 氷三部作1 (氷三部作 1)

氷: 氷三部作2 (氷三部作 2)

氷: 氷三部作2 (氷三部作 2)

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世界に名を馳せる英雄になれなくてもいい──『血と霧 無名の英雄』

SF ファンタジー

血と霧1 常闇の王子 (ハヤカワ文庫JA)

血と霧1 常闇の王子 (ハヤカワ文庫JA)

血と霧 2 無名の英雄 (ハヤカワ文庫JA)

血と霧 2 無名の英雄 (ハヤカワ文庫JA)

『血と霧 常闇の王子』につづいて2巻が発売されたが、これが素晴らしい。

本書で第1部完結、ということで行方不明になった娘を探すロイスと、特別な力を持つ王子であるがゆえに道具として狙われるルークの、「親子」の物語は終幕となる。2巻を通して、《血と霧》世界の膨大な背景をにおわせ、断片的に関与させながら主軸であるロイスとルークに話をしぼる洗練されたプロットに、大仰な描写/演出を採用せず、霧が満ち血をすする人々の世界を抑制のきいた美しい描写で彩っていく。
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前提となる世界観などの紹介は前記事で行っているが、クリックするのもめんどうな人のために本記事でも2巻の読みどころを含めて簡単にまとめておこう。

前提となる世界観、風景など

物語の舞台は地下に築きあげられた都市国家ライコスである。ここは階級制度の世界で、えらい人たちから上層に住まうが、そのランクは「血」で決まる。それは血統という意味ではなく、血の強度が明度、彩度、色相の三種類で総合的に判断され、血の強度が高いものはより強い能力を持ち、下位の者への支配権があるのである。神経汚染で相手を操るものもいれば、肉体強化などその能力もさまざま。

都市を駆動するのは血製石炭を燃料とする蒸気炉だ。もっともランクの低い者が集う下層は、重機が響き、製鉄所は唸りをあげ、蒸気が霧と交じり合い数歩先さえ見通すことのできない陰鬱な世界。主人公であるロイスはそんな場所で血液専門の探索業を営みながら、行方不明の娘、ミリアムを探している。1巻のあらすじをざっくり紹介すると、ロイスは王家の王子であるルークを探す依頼を受け、事件を解決していくうちに擬似的な親子関係を構築するにいたる──といったところだ。

無名の英雄

2巻ではロイスが奥さんと結婚し、彼女が今では失われてしまうにいたった一連の経緯、ルークがどのようにして「自分の道」を決めるのか、そしてついにはミリアムは行方不明になったあとどこにいたのかまでが描かれていく。つまりロイスとルークの物語としては2巻の時点で綺麗に落ちており、1巻は世界観の説明なども多かったが、2巻はこの2人を含んだ「無名の英雄」の物語として綺麗にまとまっている。

「それに本物の英雄は、市井の中にいるのだと思う。損得勘定なしに困っている者に手を差し伸べ、当たり前のように誰かを助けられる者こそ、真の英雄なのだと思う」

引用部の発言はロイスの物だが、ルークに「貴様もそう(英雄)だ」と言われ、自分は誰も助けられなかったのだからそうではないのだと(心のなかで)反論してみせる、なかなかにウェットな男である。相当にネガティブな主人公だと思うが、何しろ愛した相手を立て続けに(嫁と行方不明になった娘)失っているのだからそれも仕方がない。それにロイスのネガティブさは、この蒸気満ちる霧の世界とはよくあっている。

血の強さがすべてを決めるこの世界は徹底的に不合理だ。血の力が強い人間は弱い人間よりも価値がある。血に価値がなければ自由はないが、かといって血に価値があればその力に縛られる。ロイスとルークはそんな不条理な世界において、「血に縛られぬ自由」を得ようと自分なりの闘いを開始し、「限定的な達成」を得る。血との闘いとはいえ、それはほとんど、宿命付けられた運命そのものとの闘いだ。

ネガティブながらも芯のしっかりとした心優しき男が、少しずつではあるものの前向きに、矜持と人生を取り戻していく──そんなささやかな物語が、霧と重機の音に満ちた下層の風景とあいまって、実に美しく刺さる。血がすべてを支配する世界だからこそ、血によらない人間同士の関係性、血を超えた献身が、よりぐっとくるのだ。

3巻以後について

10以上存在するライコス以外の都市国家、国家間に存在する緊張関係、ロイスが夢みた「血に左右されず、誰もが自由な人生が送ることのできる世界」、人が生きるには過酷ながらも、どの国にも所属しない大地が広がっている外の世界──などまだ描かれていない部分が多く残っている。シーズン2にあたる話を、ぜひ読みたいもんだ。

訓練がどのくらい重要かをきちんと説明する──『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?──アスリートの科学』

スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?──アスリートの科学 (ハヤカワ・ノンフクション文庫)

スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?──アスリートの科学 (ハヤカワ・ノンフクション文庫)

この本『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?──アスリートの科学』は2014年に単行本が出たものの文庫版である。当時読み逃していたので、約2年で文庫化してくれたのはありがたい(科学ノンフィクションは鮮度が命なところもあるし)。翌日追記。よく考えたらリオ五輪があるから合わせて文庫化したのか……すっかり忘れてたな。で、これが読んでみたら案の定おもしろい。早く読んでおけばよかったな。

本書は書名通りに遺伝子がスポーツの成績にどのような影響をあたえるのかを広範囲にわたって分析した一冊である。僕は年始に駅伝を観ていると黒人がすごい勢いで走って差を詰めて(あるいは引き離して)おり、「黒人にゃ敵わんよなあ」と当たり前のように受け入れてしまっているが、実際男女に差があるように「人間は生まれながらにして機能に差がある」のである。かといってイチローに対して「お前は一切努力しなくても才能があったからその記録が出せたのだ」という人もいないだろう。

才能に関わらず、練習量が1万時間を超えたあたりで多くの人がプロレベルに達するというよく知られた法則もあるが、これも今では否定的な根拠が無数に上がっており、中でもスポーツには当てはまらない部分が多い(当てはまる分野もなくはない)。

わかりやすい例をあげると、本書が書かれた時点で歴史上17人のアメリカ人選手と14人のイギリスの選手がマラソンで2時間10分を切っているが、ケニアのカレンジン族は"1年間"で72人の選手が2時間10分を切っている。2013年にシカゴマラソンを驚異的なレコードで制したのは数年前まで農業に専念していてろくに走ったことなどないこの部族の男であることを考えると、訓練は成績に影響しないわけではないが、ことマラソンにおいては身体的な特性が重要であることがわかる。

これは極端な例かもしれないが、ここで重要なのは「生まれか育ちか」と二極の議論をすることではなく「どのような割合で生まれと訓練がスポーツの成績に関与しているのか」などの複雑な過程を解きほぐすことにある。

たとえば、とある実験では、同じウェイトトレーニングを行い大腿筋繊維が50%成長したグループ、25%成長したグループ、まったく成長しなかったグループがそれぞれ存在した。このうち最大級に筋肉が増えたグループは、活性化して筋肉を成長させるのを待っている衛星細胞を大腿四頭筋に一番多く持っていた。彼らは、「トレーニングの効果がより多く得られる初期設定」を持っていた人たちということになる。

自身の適性を把握し、より有利な場所に移動して咲きなさい

この結果を受けて、「その初期設定を持っていない人間にとってはウェイトトレーニングは無意味だ」と悲観的になることもできるが、人によって適した筋肉強化ポイントは違うのだと楽観的に捉えることもできるだろう。

たとえば、あるカヤックの代表選手は肩の筋肉の90%以上が遅筋線維であったが、それが判明したのち戦略的により長い距離のレースに変更することで世界でも有数の選手となった。ここから教訓を得るとしたら「置かれた場所で咲きなさい」ではなく、「自身の適性を把握し、より有利な場所に移動して咲きなさい」になるだろう。

著者あとがきでは、本書を発表後に受けたさまざまな批判への反論が述べられている。その批判の中には、科学的な反論ではなく「社会的メッセージにそぐわない」といっているものがある。ようは、「誰もが努力で花開く世界であるとしておかないと、努力をしなくなってしまうではないか」ということである。これはもちろん真実の可能性もあるが(やる気のなくなる人もいないわけではなかろう)、本書のメッセージの一つである『最高のパフォーマンスを発揮するためにはそれぞれの才能に合った努力の道すじを見つけることが決定的に重要である』というのもまた真実だろう。

「スポーツ」だからそう考えられるところもあるが、才能とはいっても所詮トッププロの話でもある。マラソンを2時間10分で走るには特別な才能が必要かもしれないが、プロとして競い合わず、時間をかければ誰でも完走することはできる(足がなくとも車いすを使えばいい)。車を使えばもっと早く走れるし、仮に自身の酸素供給量などの能力がプロと比べて劣っていると出たところで、「才能がない」と競技やスポーツに熱中することを諦める理由は、ほとんどの人にとってはないように思う。

おわりに

この記事では少ししか触れられていないが、本書で検証されていく無数の要素はどれも興味深い。高地トレーニングは本当に効果的なのか? トレーニングを行うのに遅すぎるということはないのか? 身長はどう決まっているのか? 負傷リスクに遺伝子は関係あるのか? などなどどれも相当な分量を割いて考察してくれるので、スポーツと遺伝子について考えるためには現状本書が何よりも適しているだろう。

無情で凄惨なSF異能バトル──『筺底のエルピス』

SF ライトノベル

筺底のエルピス (ガガガ文庫)

筺底のエルピス (ガガガ文庫)

著者のオキシタケヒコさんは第3回創元SF短編賞にて優秀賞を受賞した作家である。そのまま創元で何か出すのかと思いきや、最初の著書はこのガガガ文庫から出た《筺底のエルピス》シリーズ第一巻。その後早川から連作短篇集である『波の手紙が響くとき』を出し、とあちこちで活躍しているわけであるが、とりわけこの《筺底のエルピス》シリーズは凄いでっせ(巻数が出ているかわかりやすいともいえる)。

分類としてはSF異能バトルということになるのだろうが、これが主人公だといわんばかりに山盛りの設定/世界観が魅力的である。ワームホールに異星人文明、何もかもを切断する停時フィールドを数々の能力者が独自に発現させ使いこなしてみせる。倒すべき敵は日本では鬼と呼ばれ、物によっては5千万人以上の人間を死滅させる凶悪な存在であり、それを討伐すべき停時フィールド使いは世界中で3組織に分かれお互いに殺しあっていて──ともう世界はしっちゃかめっちゃかである。

ごった煮異能バトル

ワームホールだの異星人文明だのはSF的な意匠であるし、鬼だの死魔なんだのは和風異能バトルのおもむきがある。世界で戦う3組織はそれぞれ「日本側」「バチカン」「謎の組織」にわかれており、最後のやつは明かすわけにはいかないが意匠的にも思想的にも宗教からオカルト、陰謀論までなんでも取り込まれている。

世に異能バトル物は数あれど、本シリーズの特徴/魅力を挙げるならば、この何もかもをぶち込んで見事に統合した上で、「人類滅亡」レベルにまで物語をスケールアップさせ、その大きな渦、流れの中で敵も味方も含めたあらゆる登場人物がまるでゴミのように死滅していく無情で凄惨なところであろう。

その無情さを支えているのはほとんど一撃必殺の即死攻撃能力である停時フィールドという設定だ。これはそのまんま時間の停まったフィールドのことで、異性知性体からもたらされたこのテクノロジーによって幾人もの人間が独自の使い方を発現させている。これが能力バトルとしておもしろいのは、使い手によって大きさと形状、展開有効距離、遠隔固定機能、展開持続時間とそれぞれの項目について能力が異なること。その違いで、人によってまったく別の即死能力として発現することである。

たとえば物体が時間の動いている場と止まっている場で分かれた場合、原子同士は結びつきを失い結合は解かれる。そのため停時フィールド使いは事実上全員が「即死能力持ち」といえるのだ。刀の形に展開しなんでも切断できる能力者も居れば、3秒という限定がつくものの300メートル以内ならどこにでも展開できるスナイパーのような能力者も、自身の身体全体に張り巡らし即死アタックができるやつもいる。

誰もが即死兵器を持っている戦闘なので必然的に能力者同士の勝負は長引かず、どちらかの即死、場合によっては不意をつかれる/トラップにかけられる/射程外から攻撃されることで接敵したと認識する前に一撃で殺され幕を閉じることが多い。

筺底のエルピス 2 -夏の終わり- (ガガガ文庫)

筺底のエルピス 2 -夏の終わり- (ガガガ文庫)

2巻の表紙とかをみると「夏だ! 水着だ! ハーレムだ!」という感じであるが騙されてはいけない。これは一瞬物語にあらわれた青春のきらめきであって、儚い夢である。主要登場人物にとってもそうだし、人類にとっても「最後の夏」といえるような……。男子が女子高生二人と同居したり、好きだのなんだのというラブコメパートもあるが、すぐに腕が吹き飛んだり死んだりするので虚しいばかりである。

1巻以上の絶望が2巻では訪れ、それ以上の惨劇が3巻と、とりわけ4巻では繰り広げられる。4巻まで読んだ場合は「お前(オキシタケヒコ)は鬼かよお!?」と叫びたくなるような「ただ、人類が追いつめられる」以上に凄惨な状況が現出するので、ぜひ僕と共に地獄に付き合ってもらいたいもんである。

設定の原理原則

おもしろいのが設定の緻密さ──というよりかは、「そこまでやるんかい」とツッコミを入れたくなるほど、設定した世界観を「そういう設定であるならば、こんなこともできる」と深堀していくところにある。この点は全編を通して驚きっぱなしなのですべてを書くわけにはいかないが世界観の紹介がてら簡単に説明してみよう。

まず中心となっている「鬼」の設定だが、プログラムのような原理原則が仕組まれているのでルールがわかりやすい。第一に鬼は『自分が憑依する宿主の同族を駆逐する』という基本命令を持った、別次元から送り込まれた駆除プログラムのようなものだと推察される。人間に憑依した鬼は人間を駆逐するようになり、それだけならまだしも鬼は自身を殺した者に寄生するので殺せないようにみえる。

ただこれは基本命令をよく読めば解決できる。たとえば、「宿主を殺した者に宿る」のだから、宿主が自死すれば解決できる。討伐機関は基本的に鬼を殺した後薬物によっていったん自死し、その後蘇生されるという手順を踏む。しかし高レベルなものは因果を辿る力が強く(自死以前に無理矢理因果を見い出す)、この手段が使えない。

その場合にとられる最後の手段が、異性知性体が残したワームホールと停時フィールドを組み合わせた「1万年の時間転移」である。1万年後には人類はとうに滅亡しており、故に絶対的なルールである「自分が憑依する宿主の同族」が存在せず鬼のプログラムは停止し、自壊する。この世界には3つの鬼討伐機関が存在すると書いたが、それはこの特別なワームホールが世界に3つしか存在していないからだ。

物語の主人公サイドは3つある鬼討伐機関のうち日本を縄張りとする門部だが、思想的な違い、鬼の討伐方法の違いなどから争いは激化し、4巻までいたると3組織入り混じってHxHにおけるグリードアイランド篇みたいな、「基本原則をいかに相手が予想しない形で裏切るか。それによっていかに相手の裏をつくか」というゲーマー垂涎のやり取りが展開していくのが「そこまでやるか」感があって抜群におもしろい。

おわりに

即死級の能力をお互いに撃ちあって簡潔かつロジカルに殺し合いが完結するので異能バトル好きには断然オススメだし、設定の裏をひたすらについてくるやり方はゲーマーにもオススメで、設定の緻密さ、掘り方の深さはSF的にオススメできる。現時点で4巻とは思えない高密度な物語だ。しかし5巻はどうすんだろうなあ…。

筺底のエルピス 3 -狩人のサーカス- (ガガガ文庫)

筺底のエルピス 3 -狩人のサーカス- (ガガガ文庫)

筺底のエルピス 4 -廃棄未来- (ガガガ文庫)

筺底のエルピス 4 -廃棄未来- (ガガガ文庫)

映画の売り方──『ジブリの仲間たち』

新書

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんが今まで「どのようにして映画を売ってきたのか」をわりと率直に語っている聞き書き本(喋った内容を元に構成されている本)だ。ジブリは制作部門を解散したし、鈴木敏夫さんも忙しい日々が終わって抜け殻のようになっているんじゃないかと最初は思っていたが、こうして本を出したりガルムに関わったりと忙しい日々を送っているようである。

「ジブリの仲間たち」と書名にあったので、思い出語りなのかと思っていたのだが、内容はほぼジブリ作品の宣伝をどのようにやってきたのかに集約されている。作品の内容にはあまり文章を割かず、ジブリの話でありながらも宮﨑駿や高畑勲といった代表的な両監督はあくまでも一登場人物のような形だ。その代わりに、あまり表に出ることはない博報堂や電通、各映画の時にタイアップした企業の担当者、主題歌担当者、コピーライター──といった面々を含めた「仲間たち」の物語になっている。

あまりプロデューサーサイドの話を読まないので、知らないことばかりでおもしろい話が多かった。良い作品をつくるのはもちろん重要で難しいことだが、映画館を用意する「配給・興行」、来て貰えそうな人々に呼びかける「宣伝・広告」はそれぞれまったく別の種類の苦闘がある。それもプロデューサーとはいっても電通なら電通、ジブリならジブリで自分達の利益を守らなければならないので、作品を客に届ける前段階、内部でのごたごたの段階でどのように主導権を握るのかという難しさもある。

たとえば、毎回映画のコピーやフレーズが配給やタイアップ先で問題になる。「風の谷のナウシカ」では最初「人間はもういらないのか?」というキャッチが提案されるし、タイトルも「風の谷じゃ意味がわからないから『風の戦士ナウシカ』のほうがいい」という意見が出てきたりもする。もののけ姫では『東宝では、新聞広告第一弾の「人はかつて、森の神を殺した。」というフレーズが問題になった。宣伝プロデューサーの矢部ちゃんは、「東宝の映画の宣伝で"殺す"という言葉は使ったことがない」と反対していました』などとどうでもいいことで(個人の見解)議論になっている。

ジブリサイドのプロデューサーとしては、そうした宣伝のために行われる無粋な意見や関係各所のジレンマから作品を守らねばならない。とはいえ、ジブリサイドとしてもひとりでやれるわけがなく、莫大な費用がかかる劇場映画作品製作において毎度「もう一度映画がつくれるだけの資金」を収入として稼ぎ出す必要もある。そこで鈴木敏夫さんなりの「もう一度映画をつくるための売り方」が現れてくる。

そのやり方には特徴が──というよりかは、お決まりのパターンがある。まず作品を徹底的に分析し、同時に映画が公開される時代との接点、いったいどんな層に観て欲しいのかを考える。それが決定できたら、そうした層へと向け、また作品の内容を的確に現したキャッチコピーをつくる。そこまで出来てしまったら、あとはタイアップするなり広告を打つなり、各地の映画館を回ってイベントをやったり、どのようなポスターをつくるのかを考えたりといった個別具体的な事例へと移行していく。

プロデューサーの仕事というのは探偵業と同じなんだ。その作家が何をしようとしているのかを探る。一方で、現代というのはどういう時代なのかを探る。それをもとにどう宣伝するかを考えなきゃいけない。映画というのはストーリーを売るんじゃない。哲学を売るんだ

この「探った」あとには無数のパターンがあって、ここが読んでいておもしろいところでもある。たとえば『ハウルの動く城』では「宣伝しない宣伝」といってあまり作品の内容をオープンにしない形での宣伝を展開するし、『もののけ姫』では最初から当時は類例のほとんどない60億円の配給収入を目標に掲げゴリゴリの宣伝で押し切ろうとするなど、一作ごとにすべて違った「売り方」で展開していく。

単純には「売りにくい」作品もある。『風立ちぬ』は「お客さんが宮﨑駿に求めるものとは違う」、ただつくるべき価値のある映画であった。『かぐや姫の物語』もアニメーション作品としての出来とは別に、題材からして現代のお客さんが興味を持つかというと難しい。そういう二つの「企画段階からして客を呼ぶのが難しい作品の宣伝」として「同時公開」を考えだしたというのも、「無粋/下衆だなあ」と思う一方で売り方としてはたしかにものすごいことをやっているなと感心してしまう。

宣伝のやり方は一つではないし、時代に合わせて新しい手法も、新しい仕組みもあらわれてどんどん変わっていく。そこには作品をつくるのとはまったく別種の苦悩が現れてくるからこそおもしろい(結局同時上映は失敗してしまうわけだが)。

おわりに

そもそも鈴木敏夫さんは作品内容、企画段階から関わっていることが多いのと、「映画があたることを考える」ことよりも「高畑さんや宮さんがいい映画を作れる環境を整えること」を考え続けてきた人だ。一般的なプロデューサーとはまた視点が異なるのだろうが、一人の映画を売ってきた男の記録として大変興味深く読んだ。

因習や伝統を打破してゆく幻想武侠譚──『蒲公英王朝記 巻ノ一: 諸王の誉れ/巻ノ二: 囚われの王狼』

SF ファンタジー

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ一: 諸王の誉れ (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ一: 諸王の誉れ (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

ケン・リュウによる『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ一: 諸王の誉れ』に続いて第一部後篇となる『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼』が出た。巻ノ一が出た時記事を書いており、前提が変わっているわけではないので、以下は巻ノ二まで読んだ際の感想を加えて、改めて未読者向けへ記事を再構成している。

前置きとか概要とか

日本オリジナル短篇集であるケン・リュウ『紙の動物園』は『SFが読みたい 2016年版』でBEST SF 2015[海外篇]1位をとり、好評で受け入れられている。そんな著者の最新翻訳作である本書はSFから離れて幻想武侠譚。それも三部作にわたって書き継がれる大長篇である。短篇は名手だけど長篇は──という作家もいることを考えると、読む前には「おもしろいのかなあ」と不安があったのも事実。

それがいざ読んでみればこれがもうとんでもなくおもしろい。「架空の多島海」を舞台とし、「架空の技術発展(これは後述する)」を遂げた魅力的な世界を描きながら、そこで描かれていく荒くれ者どもの生活と、すぐに叛乱が起こって大勢の人間が死んでクズ共が成り上がりをかけてしのぎを削る有り様は何度となく中国史でみられる血みどろの(だからこそおもしろい)、歴史そのものである。

「長篇を書けるのか」と心配していたのがバカバカしくなるぐらいにしっかりとしたデカイ構造と構想の一端を冒頭からみせ、「巨大な歴史のうねりに翻弄されていく個人」の姿を描き出していく。中国史を下敷きにしながらも、あくまでも架空の世界であるがゆえに可能な「西洋や東洋の歴史的な経緯から切り離された、オリジナルな歴史観」を展開する。めちゃくちゃおもしろい、骨太な幻想武侠譚だ。

楚漢戦争

物語の下敷きにされているのは楚漢戦争、いわゆる項羽と劉邦である。読んでいくと「これは四面楚歌だな」とか「ここは背水の陣だな」とわかるような展開がやってくるが、それぞれプロット(歴史だが)をまったくそのまま借用してくるのではなく、再創造ともいえる独特のアレンジメントが加えられている。元となる話を多少知っていれば「そう来たのか」と楽しめるし、知らなければ普通に楽しんで読めるだろう。

巻ノ一を読んだ時は三部作を通して楚漢戦争をやるのかとも思ったがどうやらそういうわけではないようなので、ある種の「中国史再創造の旅」が第二部、第三部では行われるのかもしれない(第二部はまだ原書も出ていないのでこれは予想というか、そうなったらそれはそれでおもしろいなというほのかな期待のようなものである)。

世界観とか

先に書いたように架空の島々──通称ダラ諸島を舞台にしている。はるか昔に入植してきた祖先らは、7カ国にわかれ千年以上共存してきたが、ザナに生まれたとある暴君によってこれがついに統一されてしまう。国々はみな独自の言語や度量衡を定めてきたが全て統一され、皇帝を頂点とする新しい国家が成立してしまった。

傑物によってその一大事業が為されたとしても、命は有限でその後継ぎ(多くは血縁)が有能だとは限らない──むしろ権力に溺れた無能な暴君であることが多い。一度は統一されたこの世界も、それを成し遂げたマビデレ皇帝の死後、各地で叛乱が乱立し中央政府は統率がまったくとれない、大乱世へと突入していくことになる。

簡単なあらすじ

主人公の一人で「蒲公英」にあたる男、クニ・ガルはまあ項羽と劉邦でいえば劉邦、三国志で言えば劉備ですな。ろくに仕事もせず酒を飲み歩き、「立派な野望ってものがあるんだ」とか「おれの創造性は役人仕事に閉じこめられるわけがない」といってはばからないクズである。それでも教養もあれば物を見る目もあり、何より誠実な男で人望があった。皇帝が死に、乱世へと投入する7カ国を前に、彼は山賊の身分にまで落ち込み最底辺の暮らしを経て、自分の使命を自覚していくことになる。

シルクパンク

クニ・ガルは当然山賊のままで終わるはずがなく、国の統治をめぐる戦いをめぐってその頭角を現していくのだが、それとは別に本書の中で特異性をはなっているのが「シルクパンク」の部分だ。作者の造語であり、訳者あとがきにて作者の言葉を借りますといって翻訳されている文章から引用させてもらうと以下のようになる。

シルクパンクは、現実には辿らなかったテクノロジーに対する強い関心をスチームパンクと共有していますが、特徴的なのは、中国の木版画に触発された視覚表現と、歴史的に東アジアにとって重要だった素材──絹や竹、牛の腱、紙、筆──および、ココヤシや鯨の骨、魚の鱗、珊瑚などといった海洋文化で利用された有機素材に重点を置いているところです。

有機素材を使うことで、特別なテクノロジーが発展した状況を描いているのである。物語中に突如としてこの設定とそれに伴う特異という他ないテクノロジーの数々が出てきた時は、何かまったく新しい、見たこともない有機的な手触りの物語が立ち上がってきたぞーーー!! とめちゃくちゃ興奮してしまった。

巻ノ二の読みどころ

巻ノ二の読みどころはなんといっても魅力的な女性たち。大勢の女性が出てくるけれども、一人一人の女性が自分自身の運命を選択する主体であることを自覚し、積極的に行動していく様がえらくかっこいい。現代ではそうした価値観は当たり前のモノに近くなったが、異世界とはいえ何しろ楚漢戦争が下敷きになっている古い世界なので、そうした要素を入れ込んだだけでまったく新しい物語のように感じられる。

たとえばクニ・ガルの嫁として共に立つジアは、もともと気丈で非常に頭の良い人間であるが、それはあくまでも普通人としてであって、作中では政治家の嫁、特別な立場にある者として大きく成長していく。『「そうしたことを決める人間はクニで、わたしじゃない」「自分が剣を振るったり、鎧を着たりしていないからといって、起こった結果の責任を免れられると信じているのかい?」』

クニが巻ノ二ではじめて出会う特別なスキル持ちのリサナは『煙職人としての母の信条は、こういうもの──楽しませ、導く』という教えを胸にクニの善き先導役となる。生まれもはっきりとせず、盗賊としてろくでもない人生を送ってきた女性、ギンは優れた人材を探しているクニの目に止まり大抜擢を受け──とこうした魅力的な女性らと一緒になってクニも自身の考えや方針を大きく転換していく。

その物語的な魅力は、「女性が活躍すること」にあるというよりかは「因習や伝統を打破していく」快感に支えられている。軍の在り方や統治の在り方、人材登用の在り方の一つ一つを疑い、より実のある方向へと進むことで、クニ・ガルは自身と対立するマタ・ジンドゥとの戦いを進めていくのだ。そのおかげで楚漢戦争における有名なあのシーンもあのシーンもまるで印象の違ったものになっているのがおもしろい。

おわりに

第二部、第三部をとおして、おそらくもっと予想外の方向から因習や伝統にとらわれない、新しい形でのファンタジー(的な中国史)の姿をみせてくれるだろう。ジャンルは大きく違うだけに、『紙の動物園』を読んで好きだった人間に無条件に薦められるものではないのかもしれないが──表面的な語りなどはともかくとして、そのコアの部分、読んでいる時の手触りは通底している。本記事を読んでおもしろそう! と思った人は、ぜひ読んでみてもらいたい逸品だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

『赤目姫の潮解』に解説を書きましたとか告知いろいろ

お仕事告知

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)

告知ですが、本日発売した森博嗣先生の『赤目姫の潮解』文庫版に解説を書きました。『女王の百年密室』『迷宮百年の睡魔』につづいて出された百年シリーズの最終作となりますが、登場人物は連続していないし、時系列もわからないしで独立性の高い作品になっているので本書から読んでも楽しめるでしょう。全森小説作品の中で、もっとも自由な一冊である──というようなことを解説では書いています。

はじめて文庫解説を書いたもので間違いがあっちゃいけねえと編集の方に「解説って何を書いたらいいんですか?」とバカみたいな質問もしてしまったけれども(好きなように書いてくれと言われた*1。)わけがわからないと言われることの多い本書を「何度でも読み返す」一つのきっかけになれたらいいなと思っております。

それにしても、解説を依頼される前から何回も読み返し、その度に凄さに打ち震えてしまう大好きな作品だったのと、依頼はこのブログが読まれ、それなりに評価してもらっていたからこそのものだったので、依頼された時はさすがに嬉しかったですね。誰かに認められたいとか、報われたいと思ってブログを書いていたわけではないけれども、「もういつこのブログを終わらせてもいいな」と思ってしまったぐらいに。

他告知ゾーン

あまり最近はブログに仕事の告知を上げていないので、他の仕事も告知しておくと先月はいつもどおりSFマガジン2016年8月号に書いています。1ページレビューではアトランティス大陸やナチの隠された秘密超兵器といったオカルティックな現象と最先端科学描写を見事に融合させ人類滅亡、人類の起源を探る──とめちゃくちゃに風呂敷を広げてみせた『第二進化』について。連載の2ページレビューの方では4月、5月に出た海外SFをまとめてレビューしております。

SFマガジン 2016年 08 月号 [雑誌]

SFマガジン 2016年 08 月号 [雑誌]

あと特集の銀背総解説では平井和正『虎は目覚める』とレックス・ゴードン『宇宙人フライデイ』についてそれぞれ340文字で短く解説を書いています。書いた後に知ったんですけど、「本総解説を読んでみて実際に読みたくなったハヤカワ・SF・シリーズ作品」に投票をする「SFシリーズ発掘総選挙」をやっているので(投票者は単に電子書籍化してほしい作品を選びそうだけど)そっちも是非。

投票方法は下記参照
cakes.mu
ノンフィクションの方では月2回、5日と25日でHONZというサイトで更新している他、先日は時事通信社へモリー・グプティル・マニング『戦地の図書館』の書評を寄稿しています。仕組みがわからないので間違っているかもだけど、どこかの地方紙に載っているかもしれません(載らないというパターンもあるのかもしれない)。

おわりに

自分ではこのブログに柱があるとすれば、SFとノンフィクションと森博嗣作品だと思っているけれど、その3つが3つ全部それなりに評価されて依頼をもらえるようになったというのは、単純に嬉しいですね。無理に人目を引いたりせずに、一つ一つ中身のある良い記事を書こうとして、他には何も考えていなかったのが結果としては良かったんでしょう。来年でこの「基本読書」を書き始めてから10年にもなり、私生活もどんどん暇になっていくということもないし僕もいつまでブログを書き続けられるもんかなと思うことが最近あるけれど、まだまだ続くのでよろしくお願い致します。ほんと、休止していく他所様のブログをみていると僕もいつまでできるもんかなあ……と考えてしまうんですよね。

*1:もちろんその上で具体的なアドバイスをもらえました