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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

訓練がどのくらい重要かをきちんと説明する──『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?──アスリートの科学』

スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?──アスリートの科学 (ハヤカワ・ノンフクション文庫)

スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?──アスリートの科学 (ハヤカワ・ノンフクション文庫)

この本『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?──アスリートの科学』は2014年に単行本が出たものの文庫版である。当時読み逃していたので、約2年で文庫化してくれたのはありがたい(科学ノンフィクションは鮮度が命なところもあるし)。で、これが読んでみたら案の定おもしろい。早く読んでおけばよかったな。

本書は書名通りに遺伝子がスポーツの成績にどのような影響をあたえるのかを広範囲にわたって分析した一冊である。僕は年始に駅伝を観ていると黒人がすごい勢いで走って差を詰めて(あるいは引き離して)おり、「黒人にゃ敵わんよなあ」と当たり前のように受け入れてしまっているが、実際男女に差があるように「人間は生まれながらにして機能に差がある」のである。かといってイチローに対して「お前は一切努力しなくても才能があったからその記録が出せたのだ」という人もいないだろう。

才能に関わらず、練習量が1万時間を超えたあたりで多くの人がプロレベルに達するというよく知られた法則もあるが、これも今では否定的な根拠が無数に上がっており、中でもスポーツには当てはまらない部分が多い(当てはまる分野もなくはない)。

わかりやすい例をあげると、本書が書かれた時点で歴史上17人のアメリカ人選手と14人のイギリスの選手がマラソンで2時間10分を切っているが、ケニアのカレンジン族は1年の期間で72人の選手が2時間10分を切っている。2013年にシカゴマラソンを驚異的なレコードで制したのは数年前まで農業に専念していてろくに走ったことなどないこの部族の男であることを考えると、訓練は成績に影響しないわけではないが、ことマラソンにおいては身体的な特性が重要であることがわかる。

もちろん訓練による伸びしろは誰にでもあるのであって、重要なのは「生まれか育ちか」と二極の議論をすることではなく「どのような割合で生まれと訓練がスポーツの成績に関与しているのか」などの複雑な過程を解きほぐすことにある。

たとえば、とある実験では、同じウェイトトレーニングを行い大腿筋繊維が50%成長したグループ、25%成長したグループ、まったく成長しなかったグループがそれぞれ存在した。このうち最大級に筋肉が増えたグループは、活性化して筋肉を成長させるのを待っている衛星細胞を大腿四頭筋に一番多く持っていた。彼らは、「トレーニングの効果がより多く得られる初期設定」を持っていた人たちということになる。

自身の適性を把握し、より有利な場所に移動して咲きなさい

この結果を受けて、「その初期設定を持っていない人間にとってはウェイトトレーニングは無意味だ」と悲観的になることもできるが、人によって適した筋肉強化ポイントは違うのだと楽観的に捉えることもできるだろう。

たとえば、あるカヤックの代表選手は肩の筋肉の90%以上が遅筋線維であったが、それが判明したのち戦略的により長い距離のレースに変更することで世界でも有数の選手となった。ここから教訓を得るとしたら「置かれた場所で咲きなさい」ではなく、「自身の適性を把握し、より有利な場所に移動して咲きなさい」になるだろう。

著者あとがきでは、本書を発表後に受けたさまざまな批判への反論が述べられている。その批判の中には、科学的な反論ではなく「社会的メッセージにそぐわない」といっているものがある。ようは、「誰もが努力で花開く世界であるとしておかないと、努力をしなくなってしまうではないか」ということである。これはもちろん真実の可能性もあるが(やる気のなくなる人もいないわけではなかろう)、本書のメッセージの一つである『最高のパフォーマンスを発揮するためにはそれぞれの才能に合った努力の道すじを見つけることが決定的に重要である』というのもまた真実だろう。

「スポーツ」だからそう考えられるところもあるが、才能とはいっても所詮トッププロの話でもある。マラソンを2時間10分で走るには特別な才能が必要かもしれないが、プロとして競い合わず、時間をかければ誰でも完走することはできる(足がなくとも車いすを使えばいい)。車を使えばもっと早く走れるし、仮に自身の酸素供給量などの能力がプロと比べて劣っていると出たところで、「才能がない」と競技やスポーツに熱中することを諦める理由は、ほとんどの人にとってはないように思う。

おわりに

この記事では少ししか触れられていないが、本書で検証されていく無数の要素はどれも興味深い。高地トレーニングは本当に効果的なのか? トレーニングを行うのに遅すぎるということはないのか? 身長はどう決まっているのか? 負傷リスクに遺伝子は関係あるのか? などなどどれも相当な分量を割いて考察してくれるので、スポーツと遺伝子について考えるためには現状本書が何よりも適しているだろう。

無情で凄惨なSF異能バトル──『筺底のエルピス』

SF ライトノベル

筺底のエルピス (ガガガ文庫)

筺底のエルピス (ガガガ文庫)

著者のオキシタケヒコさんは第3回創元SF短編賞にて優秀賞を受賞した作家である。そのまま創元で何か出すのかと思いきや、最初の著書はこのガガガ文庫から出た《筺底のエルピス》シリーズ第一巻。その後早川から連作短篇集である『波の手紙が響くとき』を出し、とあちこちで活躍しているわけであるが、とりわけこの《筺底のエルピス》シリーズは凄いでっせ(巻数が出ているかわかりやすいともいえる)。

分類としてはSF異能バトルということになるのだろうが、これが主人公だといわんばかりに山盛りの設定/世界観が魅力的である。ワームホールに異星人文明、何もかもを切断する停時フィールドを数々の能力者が独自に発現させ使いこなしてみせる。倒すべき敵は日本では鬼と呼ばれ、物によっては5千万人以上の人間を死滅させる凶悪な存在であり、それを討伐すべき停時フィールド使いは世界中で3組織に分かれお互いに殺しあっていて──ともう世界はしっちゃかめっちゃかである。

ごった煮異能バトル

ワームホールだの異星人文明だのはSF的な意匠であるし、鬼だの死魔なんだのは和風異能バトルのおもむきがある。世界で戦う3組織はそれぞれ「日本側」「バチカン」「謎の組織」にわかれており、最後のやつは明かすわけにはいかないが意匠的にも思想的にも宗教からオカルト、陰謀論までなんでも取り込まれている。

世に異能バトル物は数あれど、本シリーズの特徴/魅力を挙げるならば、この何もかもをぶち込んで見事に統合した上で、「人類滅亡」レベルにまで物語をスケールアップさせ、その大きな渦、流れの中で敵も味方も含めたあらゆる登場人物がまるでゴミのように死滅していく無情で凄惨なところであろう。

その無情さを支えているのはほとんど一撃必殺の即死攻撃能力である停時フィールドという設定だ。これはそのまんま時間の停まったフィールドのことで、異性知性体からもたらされたこのテクノロジーによって幾人もの人間が独自の使い方を発現させている。これが能力バトルとしておもしろいのは、使い手によって大きさと形状、展開有効距離、遠隔固定機能、展開持続時間とそれぞれの項目について能力が異なること。その違いで、人によってまったく別の即死能力として発現することである。

たとえば物体が時間の動いている場と止まっている場で分かれた場合、原子同士は結びつきを失い結合は解かれる。そのため停時フィールド使いは事実上全員が「即死能力持ち」といえるのだ。刀の形に展開しなんでも切断できる能力者も居れば、3秒という限定がつくものの300メートル以内ならどこにでも展開できるスナイパーのような能力者も、自身の身体全体に張り巡らし即死アタックができるやつもいる。

誰もが即死兵器を持っている戦闘なので必然的に能力者同士の勝負は長引かず、どちらかの即死、場合によっては不意をつかれる/トラップにかけられる/射程外から攻撃されることで接敵したと認識する前に一撃で殺され幕を閉じることが多い。

筺底のエルピス 2 -夏の終わり- (ガガガ文庫)

筺底のエルピス 2 -夏の終わり- (ガガガ文庫)

2巻の表紙とかをみると「夏だ! 水着だ! ハーレムだ!」という感じであるが騙されてはいけない。これは一瞬物語にあらわれた青春のきらめきであって、儚い夢である。主要登場人物にとってもそうだし、人類にとっても「最後の夏」といえるような……。男子が女子高生二人と同居したり、好きだのなんだのというラブコメパートもあるが、すぐに腕が吹き飛んだり死んだりするので虚しいばかりである。

1巻以上の絶望が2巻では訪れ、それ以上の惨劇が3巻と、とりわけ4巻では繰り広げられる。4巻まで読んだ場合は「お前(オキシタケヒコ)は鬼かよお!?」と叫びたくなるような「ただ、人類が追いつめられる」以上に凄惨な状況が現出するので、ぜひ僕と共に地獄に付き合ってもらいたいもんである。

設定の原理原則

おもしろいのが設定の緻密さ──というよりかは、「そこまでやるんかい」とツッコミを入れたくなるほど、設定した世界観を「そういう設定であるならば、こんなこともできる」と深堀していくところにある。この点は全編を通して驚きっぱなしなのですべてを書くわけにはいかないが世界観の紹介がてら簡単に説明してみよう。

まず中心となっている「鬼」の設定だが、プログラムのような原理原則が仕組まれているのでルールがわかりやすい。第一に鬼は『自分が憑依する宿主の同族を駆逐する』という基本命令を持った、別次元から送り込まれた駆除プログラムのようなものだと推察される。人間に憑依した鬼は人間を駆逐するようになり、それだけならまだしも鬼は自身を殺した者に寄生するので殺せないようにみえる。

ただこれは基本命令をよく読めば解決できる。たとえば、「宿主を殺した者に宿る」のだから、宿主が自死すれば解決できる。討伐機関は基本的に鬼を殺した後薬物によっていったん自死し、その後蘇生されるという手順を踏む。しかし高レベルなものは因果を辿る力が強く(自死以前に無理矢理因果を見い出す)、この手段が使えない。

その場合にとられる最後の手段が、異性知性体が残したワームホールと停時フィールドを組み合わせた「1万年の時間転移」である。1万年後には人類はとうに滅亡しており、故に絶対的なルールである「自分が憑依する宿主の同族」が存在せず鬼のプログラムは停止し、自壊する。この世界には3つの鬼討伐機関が存在すると書いたが、それはこの特別なワームホールが世界に3つしか存在していないからだ。

物語の主人公サイドは3つある鬼討伐機関のうち日本を縄張りとする門部だが、思想的な違い、鬼の討伐方法の違いなどから争いは激化し、4巻までいたると3組織入り混じってHxHにおけるグリードアイランド篇みたいな、「基本原則をいかに相手が予想しない形で裏切るか。それによっていかに相手の裏をつくか」というゲーマー垂涎のやり取りが展開していくのが「そこまでやるか」感があって抜群におもしろい。

おわりに

即死級の能力をお互いに撃ちあって簡潔かつロジカルに殺し合いが完結するので異能バトル好きには断然オススメだし、設定の裏をひたすらについてくるやり方はゲーマーにもオススメで、設定の緻密さ、掘り方の深さはSF的にオススメできる。現時点で4巻とは思えない高密度な物語だ。しかし5巻はどうすんだろうなあ…。

筺底のエルピス 3 -狩人のサーカス- (ガガガ文庫)

筺底のエルピス 3 -狩人のサーカス- (ガガガ文庫)

筺底のエルピス 4 -廃棄未来- (ガガガ文庫)

筺底のエルピス 4 -廃棄未来- (ガガガ文庫)

映画の売り方──『ジブリの仲間たち』

新書

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんが今まで「どのようにして映画を売ってきたのか」をわりと率直に語っている聞き書き本(喋った内容を元に構成されている本)だ。ジブリは制作部門を解散したし、鈴木敏夫さんも忙しい日々が終わって抜け殻のようになっているんじゃないかと最初は思っていたが、こうして本を出したりガルムに関わったりと忙しい日々を送っているようである。

「ジブリの仲間たち」と書名にあったので、思い出語りなのかと思っていたのだが、内容はほぼジブリ作品の宣伝をどのようにやってきたのかに集約されている。作品の内容にはあまり文章を割かず、ジブリの話でありながらも宮﨑駿や高畑勲といった代表的な両監督はあくまでも一登場人物のような形だ。その代わりに、あまり表に出ることはない博報堂や電通、各映画の時にタイアップした企業の担当者、主題歌担当者、コピーライター──といった面々を含めた「仲間たち」の物語になっている。

あまりプロデューサーサイドの話を読まないので、知らないことばかりでおもしろい話が多かった。良い作品をつくるのはもちろん重要で難しいことだが、映画館を用意する「配給・興行」、来て貰えそうな人々に呼びかける「宣伝・広告」はそれぞれまったく別の種類の苦闘がある。それもプロデューサーとはいっても電通なら電通、ジブリならジブリで自分達の利益を守らなければならないので、作品を客に届ける前段階、内部でのごたごたの段階でどのように主導権を握るのかという難しさもある。

たとえば、毎回映画のコピーやフレーズが配給やタイアップ先で問題になる。「風の谷のナウシカ」では最初「人間はもういらないのか?」というキャッチが提案されるし、タイトルも「風の谷じゃ意味がわからないから『風の戦士ナウシカ』のほうがいい」という意見が出てきたりもする。もののけ姫では『東宝では、新聞広告第一弾の「人はかつて、森の神を殺した。」というフレーズが問題になった。宣伝プロデューサーの矢部ちゃんは、「東宝の映画の宣伝で"殺す"という言葉は使ったことがない」と反対していました』などとどうでもいいことで(個人の見解)議論になっている。

ジブリサイドのプロデューサーとしては、そうした宣伝のために行われる無粋な意見や関係各所のジレンマから作品を守らねばならない。とはいえ、ジブリサイドとしてもひとりでやれるわけがなく、莫大な費用がかかる劇場映画作品製作において毎度「もう一度映画がつくれるだけの資金」を収入として稼ぎ出す必要もある。そこで鈴木敏夫さんなりの「もう一度映画をつくるための売り方」が現れてくる。

そのやり方には特徴が──というよりかは、お決まりのパターンがある。まず作品を徹底的に分析し、同時に映画が公開される時代との接点、いったいどんな層に観て欲しいのかを考える。それが決定できたら、そうした層へと向け、また作品の内容を的確に現したキャッチコピーをつくる。そこまで出来てしまったら、あとはタイアップするなり広告を打つなり、各地の映画館を回ってイベントをやったり、どのようなポスターをつくるのかを考えたりといった個別具体的な事例へと移行していく。

プロデューサーの仕事というのは探偵業と同じなんだ。その作家が何をしようとしているのかを探る。一方で、現代というのはどういう時代なのかを探る。それをもとにどう宣伝するかを考えなきゃいけない。映画というのはストーリーを売るんじゃない。哲学を売るんだ

この「探った」あとには無数のパターンがあって、ここが読んでいておもしろいところでもある。たとえば『ハウルの動く城』では「宣伝しない宣伝」といってあまり作品の内容をオープンにしない形での宣伝を展開するし、『もののけ姫』では最初から当時は類例のほとんどない60億円の配給収入を目標に掲げゴリゴリの宣伝で押し切ろうとするなど、一作ごとにすべて違った「売り方」で展開していく。

単純には「売りにくい」作品もある。『風立ちぬ』は「お客さんが宮﨑駿に求めるものとは違う」、ただつくるべき価値のある映画であった。『かぐや姫の物語』もアニメーション作品としての出来とは別に、題材からして現代のお客さんが興味を持つかというと難しい。そういう二つの「企画段階からして客を呼ぶのが難しい作品の宣伝」として「同時公開」を考えだしたというのも、「無粋/下衆だなあ」と思う一方で売り方としてはたしかにものすごいことをやっているなと感心してしまう。

宣伝のやり方は一つではないし、時代に合わせて新しい手法も、新しい仕組みもあらわれてどんどん変わっていく。そこには作品をつくるのとはまったく別種の苦悩が現れてくるからこそおもしろい(結局同時上映は失敗してしまうわけだが)。

おわりに

そもそも鈴木敏夫さんは作品内容、企画段階から関わっていることが多いのと、「映画があたることを考える」ことよりも「高畑さんや宮さんがいい映画を作れる環境を整えること」を考え続けてきた人だ。一般的なプロデューサーとはまた視点が異なるのだろうが、一人の映画を売ってきた男の記録として大変興味深く読んだ。

因習や伝統を打破してゆく幻想武侠譚──『蒲公英王朝記 巻ノ一: 諸王の誉れ/巻ノ二: 囚われの王狼』

SF ファンタジー

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ一: 諸王の誉れ (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ一: 諸王の誉れ (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

ケン・リュウによる『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ一: 諸王の誉れ』に続いて第一部後篇となる『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ二: 囚われの王狼』が出た。巻ノ一が出た時記事を書いており、前提が変わっているわけではないので、以下は巻ノ二まで読んだ際の感想を加えて、改めて未読者向けへ記事を再構成している。

前置きとか概要とか

日本オリジナル短篇集であるケン・リュウ『紙の動物園』は『SFが読みたい 2016年版』でBEST SF 2015[海外篇]1位をとり、好評で受け入れられている。そんな著者の最新翻訳作である本書はSFから離れて幻想武侠譚。それも三部作にわたって書き継がれる大長篇である。短篇は名手だけど長篇は──という作家もいることを考えると、読む前には「おもしろいのかなあ」と不安があったのも事実。

それがいざ読んでみればこれがもうとんでもなくおもしろい。「架空の多島海」を舞台とし、「架空の技術発展(これは後述する)」を遂げた魅力的な世界を描きながら、そこで描かれていく荒くれ者どもの生活と、すぐに叛乱が起こって大勢の人間が死んでクズ共が成り上がりをかけてしのぎを削る有り様は何度となく中国史でみられる血みどろの(だからこそおもしろい)、歴史そのものである。

「長篇を書けるのか」と心配していたのがバカバカしくなるぐらいにしっかりとしたデカイ構造と構想の一端を冒頭からみせ、「巨大な歴史のうねりに翻弄されていく個人」の姿を描き出していく。中国史を下敷きにしながらも、あくまでも架空の世界であるがゆえに可能な「西洋や東洋の歴史的な経緯から切り離された、オリジナルな歴史観」を展開する。めちゃくちゃおもしろい、骨太な幻想武侠譚だ。

楚漢戦争

物語の下敷きにされているのは楚漢戦争、いわゆる項羽と劉邦である。読んでいくと「これは四面楚歌だな」とか「ここは背水の陣だな」とわかるような展開がやってくるが、それぞれプロット(歴史だが)をまったくそのまま借用してくるのではなく、再創造ともいえる独特のアレンジメントが加えられている。元となる話を多少知っていれば「そう来たのか」と楽しめるし、知らなければ普通に楽しんで読めるだろう。

巻ノ一を読んだ時は三部作を通して楚漢戦争をやるのかとも思ったがどうやらそういうわけではないようなので、ある種の「中国史再創造の旅」が第二部、第三部では行われるのかもしれない(第二部はまだ原書も出ていないのでこれは予想というか、そうなったらそれはそれでおもしろいなというほのかな期待のようなものである)。

世界観とか

先に書いたように架空の島々──通称ダラ諸島を舞台にしている。はるか昔に入植してきた祖先らは、7カ国にわかれ千年以上共存してきたが、ザナに生まれたとある暴君によってこれがついに統一されてしまう。国々はみな独自の言語や度量衡を定めてきたが全て統一され、皇帝を頂点とする新しい国家が成立してしまった。

傑物によってその一大事業が為されたとしても、命は有限でその後継ぎ(多くは血縁)が有能だとは限らない──むしろ権力に溺れた無能な暴君であることが多い。一度は統一されたこの世界も、それを成し遂げたマビデレ皇帝の死後、各地で叛乱が乱立し中央政府は統率がまったくとれない、大乱世へと突入していくことになる。

簡単なあらすじ

主人公の一人で「蒲公英」にあたる男、クニ・ガルはまあ項羽と劉邦でいえば劉邦、三国志で言えば劉備ですな。ろくに仕事もせず酒を飲み歩き、「立派な野望ってものがあるんだ」とか「おれの創造性は役人仕事に閉じこめられるわけがない」といってはばからないクズである。それでも教養もあれば物を見る目もあり、何より誠実な男で人望があった。皇帝が死に、乱世へと投入する7カ国を前に、彼は山賊の身分にまで落ち込み最底辺の暮らしを経て、自分の使命を自覚していくことになる。

シルクパンク

クニ・ガルは当然山賊のままで終わるはずがなく、国の統治をめぐる戦いをめぐってその頭角を現していくのだが、それとは別に本書の中で特異性をはなっているのが「シルクパンク」の部分だ。作者の造語であり、訳者あとがきにて作者の言葉を借りますといって翻訳されている文章から引用させてもらうと以下のようになる。

シルクパンクは、現実には辿らなかったテクノロジーに対する強い関心をスチームパンクと共有していますが、特徴的なのは、中国の木版画に触発された視覚表現と、歴史的に東アジアにとって重要だった素材──絹や竹、牛の腱、紙、筆──および、ココヤシや鯨の骨、魚の鱗、珊瑚などといった海洋文化で利用された有機素材に重点を置いているところです。

有機素材を使うことで、特別なテクノロジーが発展した状況を描いているのである。物語中に突如としてこの設定とそれに伴う特異という他ないテクノロジーの数々が出てきた時は、何かまったく新しい、見たこともない有機的な手触りの物語が立ち上がってきたぞーーー!! とめちゃくちゃ興奮してしまった。

巻ノ二の読みどころ

巻ノ二の読みどころはなんといっても魅力的な女性たち。大勢の女性が出てくるけれども、一人一人の女性が自分自身の運命を選択する主体であることを自覚し、積極的に行動していく様がえらくかっこいい。現代ではそうした価値観は当たり前のモノに近くなったが、異世界とはいえ何しろ楚漢戦争が下敷きになっている古い世界なので、そうした要素を入れ込んだだけでまったく新しい物語のように感じられる。

たとえばクニ・ガルの嫁として共に立つジアは、もともと気丈で非常に頭の良い人間であるが、それはあくまでも普通人としてであって、作中では政治家の嫁、特別な立場にある者として大きく成長していく。『「そうしたことを決める人間はクニで、わたしじゃない」「自分が剣を振るったり、鎧を着たりしていないからといって、起こった結果の責任を免れられると信じているのかい?」』

クニが巻ノ二ではじめて出会う特別なスキル持ちのリサナは『煙職人としての母の信条は、こういうもの──楽しませ、導く』という教えを胸にクニの善き先導役となる。生まれもはっきりとせず、盗賊としてろくでもない人生を送ってきた女性、ギンは優れた人材を探しているクニの目に止まり大抜擢を受け──とこうした魅力的な女性らと一緒になってクニも自身の考えや方針を大きく転換していく。

その物語的な魅力は、「女性が活躍すること」にあるというよりかは「因習や伝統を打破していく」快感に支えられている。軍の在り方や統治の在り方、人材登用の在り方の一つ一つを疑い、より実のある方向へと進むことで、クニ・ガルは自身と対立するマタ・ジンドゥとの戦いを進めていくのだ。そのおかげで楚漢戦争における有名なあのシーンもあのシーンもまるで印象の違ったものになっているのがおもしろい。

おわりに

第二部、第三部をとおして、おそらくもっと予想外の方向から因習や伝統にとらわれない、新しい形でのファンタジー(的な中国史)の姿をみせてくれるだろう。ジャンルは大きく違うだけに、『紙の動物園』を読んで好きだった人間に無条件に薦められるものではないのかもしれないが──表面的な語りなどはともかくとして、そのコアの部分、読んでいる時の手触りは通底している。本記事を読んでおもしろそう! と思った人は、ぜひ読んでみてもらいたい逸品だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

『赤目姫の潮解』に解説を書きましたとか告知いろいろ

お仕事告知

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)

告知ですが、本日発売した森博嗣先生の『赤目姫の潮解』文庫版に解説を書きました。『女王の百年密室』『迷宮百年の睡魔』につづいて出された百年シリーズの最終作となりますが、登場人物は連続していないし、時系列もわからないしで独立性の高い作品になっているので本書から読んでも楽しめるでしょう。全森小説作品の中で、もっとも自由な一冊である──というようなことを解説では書いています。

はじめて文庫解説を書いたもので間違いがあっちゃいけねえと編集の方に「解説って何を書いたらいいんですか?」とバカみたいな質問もしてしまったけれども(好きなように書いてくれと言われた*1。)わけがわからないと言われることの多い本書を「何度でも読み返す」一つのきっかけになれたらいいなと思っております。

それにしても、解説を依頼される前から何回も読み返し、その度に凄さに打ち震えてしまう大好きな作品だったのと、依頼はこのブログが読まれ、それなりに評価してもらっていたからこそのものだったので、依頼された時はさすがに嬉しかったですね。誰かに認められたいとか、報われたいと思ってブログを書いていたわけではないけれども、「もういつこのブログを終わらせてもいいな」と思ってしまったぐらいに。

他告知ゾーン

あまり最近はブログに仕事の告知を上げていないので、他の仕事も告知しておくと先月はいつもどおりSFマガジン2016年8月号に書いています。1ページレビューではアトランティス大陸やナチの隠された秘密超兵器といったオカルティックな現象と最先端科学描写を見事に融合させ人類滅亡、人類の起源を探る──とめちゃくちゃに風呂敷を広げてみせた『第二進化』について。連載の2ページレビューの方では4月、5月に出た海外SFをまとめてレビューしております。

SFマガジン 2016年 08 月号 [雑誌]

SFマガジン 2016年 08 月号 [雑誌]

あと特集の銀背総解説では平井和正『虎は目覚める』とレックス・ゴードン『宇宙人フライデイ』についてそれぞれ340文字で短く解説を書いています。書いた後に知ったんですけど、「本総解説を読んでみて実際に読みたくなったハヤカワ・SF・シリーズ作品」に投票をする「SFシリーズ発掘総選挙」をやっているので(投票者は単に電子書籍化してほしい作品を選びそうだけど)そっちも是非。

投票方法は下記参照
cakes.mu
ノンフィクションの方では月2回、5日と25日でHONZというサイトで更新している他、先日は時事通信社へモリー・グプティル・マニング『戦地の図書館』の書評を寄稿しています。仕組みがわからないので間違っているかもだけど、どこかの地方紙に載っているかもしれません(載らないというパターンもあるのかもしれない)。

おわりに

自分ではこのブログに柱があるとすれば、SFとノンフィクションと森博嗣作品だと思っているけれど、その3つが3つ全部それなりに評価されて依頼をもらえるようになったというのは、単純に嬉しいですね。無理に人目を引いたりせずに、一つ一つ中身のある良い記事を書こうとして、他には何も考えていなかったのが結果としては良かったんでしょう。来年でこの「基本読書」を書き始めてから10年にもなり、私生活もどんどん暇になっていくということもないし僕もいつまでブログを書き続けられるもんかなと思うことが最近あるけれど、まだまだ続くのでよろしくお願い致します。ほんと、休止していく他所様のブログをみていると僕もいつまでできるもんかなあ……と考えてしまうんですよね。

*1:もちろんその上で具体的なアドバイスをもらえました

高層住宅で発生する壮絶な階間闘争──『ハイ・ライズ』

SF

ハイ・ライズ (創元SF文庫)

ハイ・ライズ (創元SF文庫)

バラードの代表作の一つと言われるこの『ハイ・ライズ』。

もともとは早川で出ていたものが、本書を原作とした映画が8月に日本で上映されることもあって創元SF文庫から解説も新たに付して出し直された。訳は多少の手が入れられてはいるものの、作品内容に関わる大きな修正点はないとのこと。

舞台となるのは1000戸が入居する40階建てのマンションだ。内部には小学校もレストランもマーケットも存在し、生活が完結できるほどの実験的な巨大住宅であるが──ある時高層住民の犬がプールで溺死させられ、その後連鎖的に階層間で暴力沙汰が頻発するようになり──とマンションは混沌極まりない状況へと陥っていく。

40階建ての巨大住宅は本書刊行の1975年当時は珍しいか、SF的な事象であったであろう。それも現代では珍しいものではなくなったわけで、今読むとどうなんだろうなあと不安に思っていたが、これが杞憂というかなんというか。たしかに設定的には40階の巨大住宅なのだが、それは「設定」であって、バラードはほとんど「混沌化した、異世界そのもの」のように禍々しい筆致でこの場所を描いていくから、現実と同一視して読むのは困難である。バラードの他作品と同様、時代を経ることによる劣化が感じられない浮き上がった作品であることを再認識させられた。

あらすじとか

冒頭からこのマンションに漂う緊張感が次々と描写されていく。住民たちの多くは不眠を訴え、上層と中層と下層にわかれてほのかに存在している「階間闘争」の存在が明かされ、家庭間では結婚していようがいなかろうがありとあまるほどセックスがある──。なんとも陰気な空間と関係性が示された後、冒頭30ページで数々の事件の契機となるアフガンハウンドの溺死体が発見されてしまう。

マンションには50匹ほどの犬がいるが、ほとんどみな上層10階の住人の飼い犬で、50人の子供の大半が下層10階に住んでいるのとは対照的だ。最初に死んだのは人ではなく犬ではあるが──それは上層と下層における不和が明確に視覚化された最初の事象であり、いったん決壊してしまった堰はその後しばらく戻ることはない。

 犬の飼い主と、幼児を持つ親との対抗意識は、ある意味ですでにマンションを分極化していた。上層階と下層階のあいだ、およそ十階から三十階までの中層部は、いわば緩衝地帯のようなものになっていた。犬が死んだあとのみじかい空白期間中、マンション中層部には一種したりげな平穏があった──中層部住人たちはすでに、建物内に起こりつつあることに気づいているかのように。

この、徐々に不穏な空気が広まっていく描写が素晴らしい。ちなみにこのマンションがどのように階層化されているのかといえば、10階のショッピングモールを明確な境界とし、映画技術者やスチュワーデスなどの住む9階までは下層とされている。プールやレストランなどのある35階までが医師や弁護士、会計士などの専門職の人々からなる中層部。そこから40階までが実業家などからなる上流階級である。

人間社会の極端な縮図

ここまではっきりと階層化されているとそりゃあ息もつまるだろう。階層間の軋轢から発生したマンション内での犬殺しは、連鎖的に人殺しに発展し──と単体で完結した夢のような高層住宅は最終的には制御もきかなくなって、お互いがお互いにためらいなく暴力を振るう魔境と化していく。本書ではそれぞれの階層に中心人物を置き、ここから発生する本格的な「階間闘争」を違った立場から体験していくことになる。

プロット的なおもしろさが魅力というよりかは、子供の声や犬のわめき声が気になる、生活をしていく上で常に階層差が目に入る、果ては空調の些細な音さえも気になるといったいらだちが積み重なり、狂気へと落ち込んでいく住民一人一人の描写そのものが見事である。マンションからどこにも出でる必要がないほど完結してしまっている閉鎖空間だからこそ、その内部は凝縮された人間社会そのものの縮図となり、人間が他の人間へと抱く混沌とした感情がこれでもかというほど溢れ出してくる。

マンションの上層を目指し登っていく人物の描写はそこがマンションであることも忘れるほどの幻想的/神話的な光景であるし、施設が破壊されゴミが周辺に巻き散らかされ荒廃していく光景はディストピア世界のようだ。本書は読み進めれば読み進めるほど異世界を描いたファンタジーか神話、それか文明崩壊後のSFを読んでいるとしか思えない気分になってくるのもあまりに独特な読み心地に繋がっている。

おわりに

そうした「不穏な空気」とか、「退廃的な光景の美しさ」みたいなものはやはり描写それ自体を読んでもらう以外には伝えにくいところなのでこのぐらいでやめておく。この『ハイ・ライズ』はバラード作品の中でも特に好きな一品なので、こうして改めて読めるようになったのは本当にうれしいですね。あと映画も(事前に見た人の評判によるとめっちゃ良いらしいので)楽しみだ。

精読とは異なる文学読解──『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』

その他のノンフィクション

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦

遠読とは聞いたことのない言葉だが、原題は「Distant Reading」である。一冊の本を丹念に読み通す「精読」とは異なり、何千冊もの書籍のタイトルから見えてくる時代ごとの傾向をさぐったり、人物間の関係性をネットワーク図として描き出し、アイディアが後の作品へとどのように受け継がれ/枝分かれしていくのかを分析し──と「一冊の本から距離をとって分析する」ことから遠読の概念がきているようだ。

遠読──繰り返させてもらうなら、そこでは距離こそが知識をえる条件なのだ。それさえあれば、テクストよりずっと小さく、ずっと大きい単位に焦点を合わせることができるようになる。技巧、テーマ、文彩──あるいはジャンルやシステムについて。

近年グーグル・ブックスにて電子化された膨大な電子書籍データ(数百年分の書籍データが検索で簡単に単語の出現頻度分析ができる)を用いて歴史上の変化を定量的に示したりする研究手法「カルチャロミクス」が話題である。本書にもその方面での文学研究の目がさめるような成果を期待していたのだが、「まだその程度のことしかできていないのかぁ」と読み終えてみればちと期待はずれな面もある。とはいえ成果は成果であり、なかなかおもしろいことをやっているなというところか。
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著者のフランコ・モレッティはイタリア生まれで現在スタンフォード大学教授。アメリカを代表する批評家の一人といわれている。本書はモレッティが90年代から2010年代にかけて発表してきた論文10篇を収録しているが、内容は基本的に「遠読」に関するもので統制がとれている。前半部は世界文学を分析しようとする時に「なぜ遠読的読み方が必要なのか」とモレッティが考えるにいたる過程、それを世に問うた後に寄せられた批判への応答がメインである。

時代によるタイトル語数の減少

で、実際後半部(と一部は前半部)でモレッティが何をやっているのかだが、いろいろやっている。たとえば先に触れたが、7000タイトル(1740年から1850年の英国小説)の分析である。なぜタイトルなのかといえば、便利なタイトルリストがあって簡単に集められたからというらしい。正直、グーグルブックスの分析がすでに行われている現状、そんなことやるのか*1と最初に思ったが分析は分析である。

面白いのが、年代ごとのタイトルの語数に明確な変化があるところである。そこに存在する変化は端的にいえば「2世紀かけて、タイトルは短くなった」ということだ。最初の4半世紀には中央値は10語と20語のあいだで揺れていたのが、その後6語にまで減って、19世紀半ばまでこの傾向が続いていく。これはなぜなのだろうか?

その理由について本書では、同時期に出版された英国小説の刊行数が、タイトルの語数減少と相関するように増加していることとあわせて、『タイトルは内容について詳細に説明する仕事から「解放」されたのだ。』と説明をしている。書評も出るようになったし、本の紹介される場が増えることで、諸機能の分業化が進んで「タイトルに内容紹介の要素は必要とされなくなった」ということなのだろう。

その後「では、短いタイトルは何百ページもの内容を表現できるのか? 可能だとしたら、それは何を意味するのか?」と問いかけを続け、「短いく内容を表現するために用いられた手法」を形容詞と固有名詞などをタイトルの要素ごとに分解して比率を割り出し調査していく。どれもなかなか興味深い仮説だが、疑問も湧く

たとえば日本のライトノベル分野では現在タイトルが長いものが多いが、(長いものが時代を経るごとに(平均的に)増えていっているかどうかは下記の記事を参照すると一考の余地がある)これをどう説明したら良いんだろうなということだったり。
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「出版点数が多いほど短い期間を通して棚を奪い合うのだから、必然的にタイトルは内容を要約する方向へ向かうのではないか(書店で他と差別化できないため)」という仮説も出せるだろう。本屋数の増加やらなんやら他の無数に関係する要因を洗い出して比較検証しない限り、「市場が拡大するにつれて、タイトルは縮小する」という本書の仮説には、説得力はあんまりないなあとも思う。ただ、データの解釈は分かれるにしても、データ自体は確かなものであるから手法自体は使えるだろう。

他いろいろな分析

他にも進化論モデルを用いた探偵小説の分析や、『ハムレット』をメインに登場人物と登場人物間のやりとり以外を捨象したネットワーク図、それを用いたプロット分析など興味深い理論が多い。それらのモデルは主人公の内面やシェイクスピアの言葉に一切触れず、ハムレットは『十六の登場人物に対して一の距離であり、他は二の距離。ネットワークのすべての頂点に対する隔たりの平均値は一・四五である』と客観的なデータを挙げていくからこそ、複雑な対象を支える構造が見えるようになる。

関係性/人物間ネットワークが数値化/視覚化されたからなんなんだと思うかもしれないが、たとえばネットワークの中心に位置し複数のクラスターを結びつけている「ハムレット」自身をその図から取り除いたらどうなるのかという実験が容易く行えるようになる。その結果クラスタはどう分裂するのか、ハムレット以外で「クラスタ間を結びつける役目を担っている重要人物は誰なのか」が明確な形で明らかになる。

おわりに

まだまだ始まったばかりの分野と試作であり、最初に書いたように目覚ましいほどの成果というわけではないが、それでも他に試みられている例を見ないだけにその結果は興味深いものである。今後、この分野の発展があるともっとおもしろくなるだろう。日本文学への視点など読んでいて「それはどうなんだ」と思うところもけっこうあったが、訳者あとがきで批判すべきところとして拾い上げられているのも好印象。

*1:本書の出版は2013年