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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ライフスキルとしての批評──『みんなではじめるデザイン批評―目的達成のためのコラボレーション&コミュニケーション改善ガイド』

その他のノンフィクション

みんなではじめるデザイン批評―目的達成のためのコラボレーション&コミュニケーション改善ガイド

みんなではじめるデザイン批評―目的達成のためのコラボレーション&コミュニケーション改善ガイド

  • 作者: アーロン・イリザリー,アダム・コナー,長谷川恭久,安藤貴子
  • 出版社/メーカー: ビー・エヌ・エヌ新社
  • 発売日: 2016/05/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「デザイン批評」と書名に入っているが、副題をみればわかるように実際は広義の、目的達成のためのディスカッション手法の本だ。原題は『DISCUSSING DESIGN Improving Communication & Collaboration Through Crtique』となっている。

よりよい目的達成のために、お互いの成果を批評しあってフィードバックを与える。言うのは簡単だし、実際しょっちゅう会議や打ち合わせという名目で同じようなことは行われるが、うまく行われている例は実体験からいっても少ない。曖昧模糊とした指摘がきたり、そもそも何を言っているのかわからなかったり、何のために言っているのかよくわからなかったり、あまりに主観的であったりする。

 批評は有益なものであるはずだ。何が機能していて何が機能していないのか、目標達成に向けて正しい方向に進んでいるかの理解を促す分析でなければならない。しかし、多くのチームが行っている批評やフィードバックはその役割を果たしていない。

『批評を分析・定義し、与える側と受ける側、それぞれの観点から見た批評のよいやりかたや悪いやりかた、そして難しい側面について検討していく。』と本書の目的が冒頭で語られているが、確かに批評にはよいやりかたと悪いやりかたがある。僕はプログラマなので必要性のわからない会議/ある種の批評の場には多く出てきたが、今後同様の場ではデザイナか否かに関わらず全員この本を読んでもらいたいぐらいだ。

目的は何か?

本書は批評にまつわる技術的な内容が網羅されていくので、全体を要約するつもりはないのだがいくつか重要なポイントだけピックアップしてみよう。たとえば、批評(およびディスカッション)を行う上でおさえておくべきなのは、まず「目的は何か?」と問いかけることだ。デザインであれば、そのデザインはどのような目的のもと決定されているのか? という問いに答えられなければならない。

それがチーム間で共有できてはじめて、「このデザインは目的にかなっているのか/かなっていないのか」「デザインが目的にかなっている/かなっていないのだとしたらそれはなぜなのか」という議論ができるようになる。逆に、この目的がチーム間で共有されていないと全員バラバラの目的に向かって意見を言っているわけなので、始まる前からまとまるはずがないことがわかってしまう(これはかなりあるある)。

「目的は何か」が明確にされると、やっていいことと悪いこともはっきりしてくる。たとえば、悪いパターンだと「批評を与える側の好みでフィードバックする(好みじゃなくてちゃんと目的に合っているかどうかを考えてフィードバックしろボケカス」とか。あなたの考えがどうであろうと、フィードバックを頼まれたわけでもない限り自分の分析を相手に伝えるもんでもないぞとか「そんなん当たり前だろ笑」って感じもあるのだけどかなり基本的なところから詰めてくれるのがありがたい。

「やっていいこと」の方については、『優れた批評は、意見の表明というよりかは質問といった方がいい』というのは卓見だなと思った。「これはよくないと思う」と意見を言うのではなく、「[具体的な特徴または要素]の目的について、もう少し詳しく教えてくれますか?」とか、「[特徴/要素]について他のどんな候補を考えていました?」と質問を投げかけていくことで、「あるべき形」を模索していくのも批評であるということだろう。意見がくると「うっ」と詰まってしまうが、質問が具体的であれば答えやすいし、答えを引き出すことで情報は増え会話は前に進んでいく。

仮にこれはあんまりよくないんじゃないかと思う部分があっても、それを直接言ってしまうよりかは質問を重ねていって相手の意見も出し、自身に気づかせ、自然な合意としてそこに到達できたほうがより納得感の高い話し合いになるだろう。

ライフスキルとしての批評

とまあ、こんな感じで他にも「扱いにくい人に対処する方法」「やっかいな状況に対処する方法」「準備、批評を取り入れる方法、やってみる」などなどディスカッションをしていく上で問題になりそうな部分を網羅的に記載されていく。通しで読まなくても買っておいて必要なときに必要な部分を読むのでも役に立つだろう。

そんなことを知っても、結局一緒にやっている人やあるいは積極的に導入できる立場にある人が本書を読まなければ意味がないではないかと思うかもしれないが、個人でも役に立つ部分が多い。会議や打ち合わせの場で効率的な進め方を知っているのは有利である。「この会議には共有の目的が欠けているな」と思ったら、積極的に目的を共有できるように働きかけることもできるし、少なくとも自分が批評する側にたった時には本書で述べられているノウハウは有益である。

そもそもここで述べられている批評とは、目的を念頭におきながら何かをデザインしていくこと全般(生活、仕事、趣味)なのだから、デザインや仕事、会議や打ち合わせでしか役に立たない物というよりかは、『アーロンと私は大胆にもこう考えている。批評は単なるデザインスキルではなく、ライフスキル』なのだ。

本書では、ちょっと昼飯でも食べながら意見を聞きたい、といった「雑談」みたいな物も批評のうちに含めている。友人との会話で人生方針におけるフィードバックをもらうのも意味があることだろうし、人と人が目的達成のためにコミュニケーションをとるため全般に使える、けっこう応用範囲が広い本である。

人類社会と昆虫の多様な関係──『昆虫の哲学』

エッセイ

昆虫の哲学

昆虫の哲学

昆虫の哲学と言われてもいったいなんの事なのかよくわからないが、著者によれば次のように説明される。『「昆虫の哲学」とは、さまざまな昆虫の哲学ではない。それは、私たちが当たり前のように口にする、「法の哲学」、「芸術の哲学」、「科学の哲学」、「自然の哲学」などと同じ意味での「昆虫の哲学」なのだ。』

そう言われてもよくわからんなあと思いながら読み進めていったのだが、分類学、社会学などなど、人類史における昆虫の扱われ方について幅広く問いなおしていく内容で、哲学といえば哲学だし、広義の昆虫エッセイともいえるだろう。たとえば昆虫やダニやクモ類の命が、哺乳類に比べると軽くみなされるのはなぜか? という問いかけも、あらためて問いかけなおしてみると確かに不思議である。

実際、小型の陸生節足動物と自分を同一視することはかなり難しいし、一方で科学的な根拠としては昆虫らは苦痛を感じていないのも確かなので「まあ別に脚がもげようが残酷に殺されていようが別にいいか」と思うのも無理はない。とはいえある動物に対する扱いが道徳的に非難されるか否かが、その動物に苦痛を感じる能力があるか否かに依拠するのかといえばそうとも言えまい──とかなり単純な問いかけであっても厳密に考えていくとずいぶん厄介な生命倫理の問題に繋がってくる。

普段の生活ではあまり昆虫との関わりは(特に大人は)持っていないことが多いと思うが、概念的には非常に身近な存在でもある。アリは常に2割働かないやつがいるという実験結果が出ればあの感情移入しようがない生物と共通点もないくせに人間は「人間の社会も同じだ!」とか言い出してみせる。人間の社会と昆虫の社会はあまりにも違っているが、それでもどこか均一性を持つと仮定しているかのようだ。

カマキリのメスは交尾が終わった後オスを食うとかめちゃくちゃなことをするように、昆虫は哺乳類ほど我々人類に近くはなく、植物ほどには離れていない。たしかにアリやハチは社会を築くが、それはやっぱり哺乳類の物とはまったく種類が違うし、その違いこそが比較対象的に物を考えるときには価値となる。本書をエッセイと最初に表現してしまったが、そんな人類から距離のある昆虫を入り口にしていろいろ考えてみた哲学の本といったほうがしっくりくるかな。

ユクスキュルの環境世界論、デリダの動物論、生物/昆虫学者としてはダーウィンからファーブルまで古今東西の昆虫哲学を総まとめ的に語り尽くしており、「昆虫哲学総集編」みたいな雰囲気もある。なかなかおもしろい一冊だ。

可能性の世界──『僕が愛したすべての君へ/君を愛したひとりの僕へ』

ライトノベル SF

『僕が愛したすべての君へ』と『君を愛したひとりの僕へ』でそれぞれ独立した話なのだが、両方読むとそのリンクが浮かび上がってくる凝った構成の並行世界SFである。斬新極まりない並行世界物というわけではないけれど、魅せ方が新鮮だ。

どちらから読むべきか?

どっちから読んでもいいようだったので、とりあえず表紙をみて「朝から夕方に移行するほうが自然かな」と『僕が愛したすべての君へ』から読んだのだが──、どっちから読んでも良いなあこれは。『僕が愛したすべての君へ』から読んだ場合は「いったいぜんたいあれは何だったんだ??」と疑問に思ってすぐに『君が愛したひとりの僕へ』を読みたくなるだろうし、こっちを先に読んだ人は「た、たのむーー!!」と思いながら『僕が愛したすべての君へ』を読んでみたくなるだろう。

大雑把に分けてしまえば『僕が愛したすべての君へ』は喜劇で、『君を愛したひとりの僕へ』は悲劇といったところか。これ以後あんまりネタバレしないように世界観など多少紹介するが、「どっちから読もうかなあ」という人は参考にされたし。「どっちかだけまず読んでみる」ということなら『僕が愛したすべての君へ』を推奨。

世界観とかあらすじとか

舞台は平行世界の存在が実証されている世界。

人間は日常的に、無自覚に平行世界を移動していることがある日判明する。身体が移動するのではなく、意識のみが(時間は常に現在の自分と同じ歳である)並行世界へと入れ替わってしまうのだ。多くの場合、近くの並行世界へと移動するだけで違いは朝食が米だったかパンだったかぐらいしか存在しない上に、基本的には放っておけば元に戻るようなので、この現象は発見されるまでにはかなりの時間が必要とされた。

しかし最終的には発覚し、専門の機関によって並行世界移動現象への研究が進むことで「自分がゼロ(生まれた時の世界)からどれだけ離れた世界にいるのかを測定する装置」、通称IPが作り出され、世界移動は日常の一部になっている。主人公は二冊とも共通して高崎暦だが、少年時に発生した両親の離婚で、父親と一緒に暮らすか母親と一緒に暮らすかの選択をすることで作品ごとにルートが(付き合う相手も変わってしまうので、なんだかエロ/ギャルゲー的な趣がある)大きく分岐していく。

『僕が愛したすべての君へ』で高崎くんは母親と暮らしている。ある日クラスメイトの滝川和音とあることをきっかけに恋に落ち仲を深めていくが、この独特な並行世界設定ならではの問題が多々発生する。たとえば、「僕は君が好きだ」とはいっても相手は日によって時間線がちょっとズレた相手である可能性が存在してしまう。1とか2だったらたいしたズレではないが、それでもたとえばいわゆる初体験の日とかだとどうだろうか? あるいは、結婚式の日に起こっていたらかなり気まずいだろう。

10のズレが存在し、一人称が僕から俺へと変わっている自分も自分なのだろうか?とかいう複雑な問題にいくつも直面しながらも、『僕が愛したすべての君へ』では書名がそのまま象徴しているように(「すべての君へ!」)可能性の広がりをあくまでも肯定するようにして描かれていく。逆に『君を愛したひとりの僕へ』では、そのマイナスとしての側面が主に描かれる。可能性が体験も可能なものとして開けている。

しかしそれが肯定的に語れるのは、「ゼロ世界の自分が他世界と見比べてみても、特別に幸せなパターン」であって他所により幸福な人生があることを知ってしまったらゼロ世界=自分の実人生を肯定するのは難しい。たとえば、愛する人が亡くなってしまった世界で──並行世界では幸せなその人が生きていたら、並行世界を体験できない我々の世界にいる時よりも、さらに受け入れがたいはずだ。

たとえ99%幸せな人生であったとしてもそこには1%の悲劇が紛れ込んでいる。可能性の世界を描くのであれば、そういう部分までを描く必要があったということなのだろう。本書は二作を別々に物語ることでその「1%の重み」の違いを相互補完的/相互干渉的に描いていくのが並行世界物として新鮮で、非常におもしろく感じた。

おわりに

あと、ループ物とは言いがたいのだが、ループ物のような読み心地がある。それは本書が無数の可能性にたいしてどのように対抗するのか/受け入れるのかと、決定してしまった可能性に対していかにして対抗するのか/受け入れるのかを描いていくという意味で、「可能性との向き合い方」が一貫して描かれているからかもしれない。

近年の並行世界物としては『クォンタム・ファミリーズ』あたりもオススメ。

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)

老いゆくすべての人へ──『死すべき定め――死にゆく人に何ができるか』

科学ノンフィクション オススメ!

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか

この世には避けられぬことというのがいくつもあり、そのうちの一つは死である。今のところ誰もが死をまぬがれえないが、ほとんどの場合死にたくないし、親しい相手にも死んでほしくない。普段はそうした葛藤は思考にものぼらないかもしれないが、しかしそれだけに目の前に現れると不意打ちを喰らったような気分になる。「そんなのってありかよ」という。そこに至ってはじめて、「生きていたい/生きていてほしいが、それは絶対に不可能である」という強烈なジレンマが発生することになる。

私にとってショックだったのは、医療が人を引き戻せない場面を見たからである。理論的には両親も死ぬということをもちろん私も知っている。しかし、実際の場面ではまるで規則違反のように見えた。試合のルールが破られたかのようだった。いったいどんな試合を戦っているのか考えていないのに、いつも私たち医師が勝つことになっていた。

その葛藤にたいして、何の打つ手もないのであれば話は簡単であったかもしれない。だが現代の場合は色々できてしまう。致命的な腫瘍であっても、外科的な手術、あるいは投薬/放射線による延命は可能だ。自分自身で呼吸ができなくなったとしても、人工呼吸器から何からなにまで総動員することで避けられぬ死を、少なくとも遠ざけることが可能である。しかしそれはあくまでも「遠ざけている」だけのこと。

我々は死を遠ざけることができるのだとして、どこまで遠ざけるべきなのか? どこで死と折り合いをつけるべきなのか? 死との折り合いをつけられることなんて可能なんだろうか? 僕も自分自身がいざどうしようもない状態になってしまったら、いたずらに延命をするよりかはその時にできるかぎりの「良い人生を」おくれるようにして死に向かいたいと思うが、実際に直面したらどれだけ確率が低くてもあらゆる治療をやってくれと言い出すかもしれない。両親に対しても同様だ。

本書『死すべき定め――死にゆく人に何ができるか』は現役の外科医であるアトゥール・ガワンデによる、そんな避けられぬ死についての考察を重ねた一冊である。

この本は、死すべき定めについての現代の経緯を取り扱う。衰え死ぬべき生物であることが何を意味するのか、医学が死という経験のどこをどう変え、どこは変えていないのか、そして人の有限性の扱い方のどこを間違えて、現実の取り違えを起こしてしまったのかを考える。

この手の問題は正解のない問いかけだけに難しい。どのタイミングを持って生を諦めるのか? チューブに繋がれ自発的な呼吸ができなくなったら──と簡単にはパターンを分けられない。認知に問題が出るパターン、回復は難しいが、ある治療法を用いた場合ほんの僅かだが生存できる可能性があるパターンなどなど。「ひょっとしたら治るかもしれませんよ」と言われたら、それに抗うのは難しいだろう。

医学は「治す」ものだという思い込みがある。たとえ何か致命的な病名を告げられたとしても、まず聞くのは「どうすれば治りますか?」だろう。実際、医師の側も「もうこれ以上何もできません」というのは稀になってきている。そうすることで、とてつもなくよいことがいつか起こるかもしれないんだから。死というものが曖昧になったおかげで、死について考えることもあやふやに──極端な話、直近の死が避けられなくなった時でもそれが受け入れられなくなってしまっているといえるだろう。

弱っていく両親や近親者の介護にしても、より「善く生きてほしい」とは思うのはほとんどの場合当たり前だ。しかし現実的に考えれば介護者にもそれ以外の生活があり、介護を必要とする相手へすべての時間を注ぎこむわけにはいかない。死を受け入れなければならない当人も困難と直面しているが、介護者にとっても「やってあげたいことが、どうしても満足にはできない」というジレンマがそこでは常に発生する。

本書では、著者自身が医師として勤務する中で出会ってきた無数の末期患者らとの体験、最後には自身の父の死を受け入れていく過程を通してこの問題を多角的に検討していく。老人病院は、入居者の幸せを第一義に考えているだろうか? どこまでも「治そう」とする医療は本当に正しいのだろうか?『私たちは不治の病の患者に対して全力を尽くして治療しながら、これは患者が望めばいつでもすぐに降りられる列車だと説明している──いつ降りたいかだけを言ってくれればいい。』

楽観的にもなりすぎず、悲観的にもなりすぎないこと。限界を延ばすのもいいが、限界を設定してその中で最善を尽くすこと。最終的には、限界を延ばすことを諦める葛藤を自分が乗り越えられたらいいと思う。両親や近しい人の場合は、その葛藤を乗り越える手助けができたらと思う。ずっしりと重い、だが誰にとっても一度じっくりと考えてみるべき重要な問いかけが含まれた一冊だ。

被創造物が創造者となる時──『風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?』

SF 森博嗣全シリーズレビュー

風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake? (講談社タイガ)

風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake? (講談社タイガ)

森博嗣さんによるWシリーズの三作目である。

もともとSFとしては非常にマイナーな、細かな領域をついてきているこのWシリーズだが、三作目はそこをさらに緻密にしてみせた感じで、ずいぶんと盛り上がる。

「これまで見えていた、当たり前の世界」がある新しい知識・世界観の導入によって「まったく違う景色となる」ことが世の中にはある。SFでたとえるなら、まわりの友人らが人間だと思っていたら実は皆プログラムに制御された機械だった──というような感じだ。変わっていないのに、景色が変わる。本シリーズはそんな「知識の導入によって、世界の見え方がガラッと切り替わる瞬間」を丹念にすくい取っている。

世界観の簡単な説明

時代はおそらく23世紀頃、この世界では人間の寿命は細胞を刷新することで飛躍的にのびており、ウォーカロンと呼ばれる人工細胞でつくられた生命体が広く行き渡っている。人間が滅多に死ななくなったのはいいが、それと相関するようになぜか子供が生まれなくなってしまう。「それはなぜなのか?」が明かされたのが第一作『彼女は一人で歩くのか?』であり、その結果を受け、それでもこの世界に子供が生まれている一部の状況が描かれたのが第二作『魔法の色を知っているか?』であった。

物語の中心となるハギリという研究者は、人間と簡単には見分けがつかないウォーカロンを判別できるようにする研究をしており、その結果として一作目と二作目では事件に巻き込まれる羽目になった。本書ではハギリはこの研究において子供のデータが足りず精度の甘かった子供たちの測定を行い、精度を高めていくのと同時にウォーカロンに関する新たな情報を得ることでさらなる研究の応用可能性に気がつくが──。

というあたりがあらすじということになるか。「なぜ子供が生まれなくなってしまったのか」が明かされた際には「そうきたか!」と純粋に驚いたけれども、今回はそれ以上の衝撃だ。いっけんしたところすごく地味な話ではあるが、世界の各地で起こっているテロの理屈になりえる部分であったり、「この世界の背景」に関する理屈が多く開示された重要巻だったように思う。世界の見方が変わる──というよりかは、世界がより広かった、限界だと思っていた部分にさらに先があった、という感じか。

非破壊でウォーカロンと人間を区別できるハギリの技術は、最初正直いって(SF的には)地味な部分だなと思っていたのが(地味なのを詳細に詰めて描いていくのがおもしろかったのだけど)、真相が明らかになるにつれ世界の行く末を左右しかねないほどに重要性を増していくのが、物語の進め方としておもしろい。

彼らだって、自分を作りたくなるのではないかな

個人的に今作で浮かび上がってきた、今後に大いに期待が持てる/繋がる興味深い問いかけの一つは、「ウォーカロンは、自分を作るのか?」だ。『「それに……」ヴォッシュは髭を指で撫でた。「考えてもみたまえ。人間は人間を作ろうとしたんだ。ウォーカロンが人間に近づけば、彼らだって、自分を作りたくなるのではないかな」』

ウォーカロンは現状、自由な存在とは言いがたい。既存の文化への反発は許されない──と教育されている。人間側からしても、自分たちが作った存在だという自負があるから、それを許さないだろう。しかし、人類は年老いている。ウォーカロンは若く、子供を産むように設計することさえできるだろう。僕がこの問いかけが重要に思えるのは、ウォーカロンに対して、創造者である人間からの「セーフティネット」が存在するとして──ウォーカロン自身が人間に予想もつかない「創造」をはじめた時に、その時はじめてウォーカロンは人間から自由になるのではないかと思うからだ。

その時ウォーカロンはウォーカロンならではの道をゆくのか? それとも人間とウォーカロンの境界線はなくなり、両者は溶け合っていくのか? といえば、今はまだわからない(ウォーカロンは自分を作るのか、という問いかけも今後に繋がるかどうかはわからない)。まだまだ先がありそうだなと思わせる「世界の広げ方」がされた巻であっただけに、しばらくこのシリーズが続くのが嬉しくてたまらない!

以下、本書には過去作との関連がけっこう出てきたのでいったん整理してみる。他シリーズについても全般的にネタバレかも。僕も思い違いや記載漏れなど多いので気が付いたらコメントなりなんなりで指摘いただけたら確認して追記していきます。

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人類進化に関するまったく新しい疑問とアプローチ──『人類進化の謎を解き明かす』

科学ノンフィクション

人類進化の謎を解き明かす

人類進化の謎を解き明かす

考古学者は石器と化石の組み合わせや、発掘地の地質学によって「歴史」を浮き彫りにさせてきた。本書『人類進化の謎を解き明かす』の特徴は、そうした石と骨「だけ」に頼るやり方を捨てているところにある。もちろんまったく援用しないわけではなく、「考古学的記録を新たな目線で見つめること」に重点を置いているのだ。

著者のロビン・ダンバーは人間にとって平均約150人が安定して関係を持てる数であるというダンバー数の定式化を行った人物だが、その来歴を活かすように、本書では人類進化の社会的側面と認知基盤に光を当て人類の進化史を洗いなおしている。僕も専門家ではないからこのアプローチがどれだけ有効なのか疑問に思うが、いくつかの専門的な書評を読む限りではわりと好意的に受け入れられているようだ。*1

二つのアプローチ

で、その肝心のアプローチはなにかといえば二つある。

まず一つめは霊長類が主要な活動(食事、移動、休息など)にどう時間を割り振るかを見る時間収支仮説をメインにしたアプローチ方法。たとえば身体の大きさや脳の大きさから摂食に費やす時間はある程度推定できるし、身体が大きくなればなるほど食事に必要とする時間は増えるので移動や社会的交流などの他の活動に割く時間が減る。当時の気候などから総合的に判断し、一日のうちに「何の活動をできるのか」の、種族ごとの違いを見ることで、脳の大きさ/能力の変化との関連を探ることができる。

二つめのアプローチは社会脳仮説だ。霊長類における脳の進化が、集団生活に伴う社会関係の認知の必要性によって促されたとする説である。ようは霊長類が大きな脳を持つのは「大規模な集団」を構築する際に、順位関係や相手の心を読んで問題が起こらないようにコミュニケーションするためということで、この仮説をツールとして用いることで化石種から共同体の規模を定量的に予測することができるようになる。

一つめと二つめのアプローチを組み合わせることで問題は表面上単純になる。まず脳の大きさ(実際には新皮質の容量のこと)をみると、ある個体が維持できる関係の数が把握できる(現生人類なら150人)。そして、その関係を成立させるために必要な余剰時間も産出できる。脳の大きさを維持するために必要な食べ物の捜索時間も考えられるし、そうした全てが「時間収支内におさまっているのか」「収まっていないとしたらどんな手段で解決したのか」という問いかけに繋がってくる。

たとえば「この時期に脳と社会集団の規模が著しく大きくなっているが、この時代の気候とこれまで通りの摂食方法ではこの規模の社会集団を維持するための時間は生み出せない=時間収支の釣り合いがとれていない」となれば「火を使うなどの料理がはじまったのがこの時期で、それによって摂食時間が大幅に減り交流に時間が費やせるようになったのではないか」などの仮説が提示できるようになる。

本書ではこんな風に初期の方のヒト科であるアウストラロピテクス、初期ホモ属、旧人、現生人類、新石器革命と移行期を主に5つに区切って、それぞれの段階で脳の容量が増えていたり、あるいは「あまり増えていないにも関わらず変化が起こって」いたりするのは「なぜなのか」。またヒト科の覇権を極めていたネアンデルタール人が「なぜ滅亡してしまったのか」「なぜ知能が伸びなかったのか」といった派生してくる無数の問いかけについて先時間収支仮説と社会脳仮説を用いて分析していく。

中でも興味を惹くネアンデルタール人と現生人類の運命を分けた要因についてだが、彼らの時代と滞在地は冬には日が短く、夏でも日差しが弱く見通しも悪かったせいか、ネアンデルタール人の眼窩は現生人類とくらべて20パーセントも大きかったという。ネアンデルタール人の共同体規模は110人だが、これは視覚に特化してしまったため社会認知上重要な脳の前方領域がおろそかになった可能性がある。

おわりに

とまあ、ネアンデルタール人衰退一つとっても要因が一つだけなんてことはありえないわけで、無数の角度から人類進化にまつわる謎に仮説を投げ入れていく。笑いや音楽、言葉や祝祭、多婚と単婚が時間収支のバランスや共同体を維持するコミュニケーションに与えた影響(と、それによる脳の増大からみえてくる起源)など、今まであまり考えたことがない側面からの仮説が山盛りなので読み通す/咀嚼し受け入れるのにずいぶんと苦労したが、それだけ重要な視点からの一冊といえるだろう。

巨大人型アーマーを用いた宇宙空間チームバトル──『ストライクフォール』

SF ライトノベル

ストライクフォール (ガガガ文庫 は 5-1)

ストライクフォール (ガガガ文庫 は 5-1)

2014年に出た『My Humanity』で日本SF大賞を受賞した長谷敏司さんの2年ぶりの新刊となる。まずそれ自体が待ってました!! という感じでめでたいわけだが、ガガガ文庫からというのは意外であった。もともとスニーカー大賞で金賞を受賞してデビューしているのだから何もおかしくはないのだが、受賞後第一作は早川から何か出すものだと思っていたから。とはいえ作品はジャンル的にはSFである。

ゴリゴリのジャンルSFといった感じではないが、宇宙を舞台にした速度と軌道のスポーツであるロボット・バトル「ストライクフォール」を小説ならではの緻密さで描いている。さらに1巻の時点ではあまり前景化することはないが進行している世界の背景──宇宙大戦、各国の陰謀、技術背景──などなど深掘りしていくと無数に仕込んで有りそうで(何しろ『円環少女』の長谷敏司なのだ)、いやー本当におもしろい一冊だ。切実に三ヶ月に一冊ぐらい出してほしい。

簡単に世界背景など

そもそもロボット・バトル? と疑問に思うかもしれないので、まずは簡単な世界観説明を。この世界では《宇宙の王》を名乗る異邦人が万能の泥をもたらし、人類はそれを加工することで人工重力や強力なエネルギー遮蔽技術といった、原理を理解できない超技術を手に入れている。泥が宇宙空間から採取されたことから人類は宇宙へと進出し、度が過ぎた力は人類間に初の宇宙戦争を引き起こす──。

物語が展開するのは、そうした宇宙戦争がいったん和平に向かい、代替手段として「擬似戦争としての競技」が生まれた時代だ。その競技がロボット(作中ではアーマー表記)を使った「ストライクフォール」である。身長は大体6メートル、操縦方法は搭乗者の中枢神経の信号を読み取って、第二の肉体として機能させるスタイルだ。

15人でチームを組んで、リーダー機を破壊したほうが勝ちというシンプルなルールの競技ではあるが、銃も剣もレーザーも、あらゆる武器の使用が許可されている*1ので実質的な戦争である。何より特徴的なのは(まあ、全てが特徴的なのだが)これが宇宙で始まった競技なので、試合は広大な三次元空間で行われること。地球でのストライクフォールであれば重力の影響下で超高機動戦闘が行われる。物を言うのはお互いの相対速度であり、軌道の在り処──戦闘描写は見事の一言だ。

 だが、頭上をとった雄星には、英俊にはとれないオプションがとれる。
 重力と大気摩擦による減速で、ついに上昇が止まった。そして、雲中で自由落下がはじまる。
 雄星は覚悟を決める。両腕を広げて、落ちながら風を体に受けた。地球の大気を抱くように、練習機の巨人の体で受け止める。雄星の体が空を滑る。一トンの練習用アーマーが、それでもスカイダイビングのように予測位置を目指して落下してゆくのだ。重力が彼を導く。

ロボバトル版タッチ

主人公の鷹森雄星はこのストライクフォールでプロを目指す17歳だが、その弟である鷹森英俊は既にその実力を評価されプロの一軍入りが決定、間近にデビュー戦を控えたいわば「天才」である。雄星自身も高い/独特の能力を持っているのだが、それを遥かに超える弟──とくれば「タッチ」やら、「宇宙兄弟」がすぐに思い浮かぶ。その上、この兄弟には幼なじみの美少女がおり、実質的な恋敵状態でもある──となれば「それタッチで見たよ」というほかないが、何しろロボ・バトルだからな。

今巻でメインになるのはそんな兄弟をめぐる物語だ。この二人は幼なじみをめぐる対立だけでなく、地球を脱出しその実力を認められつつある英俊が「重力を振り切ること」を目指し、雄星は地球に残り幼なじみの女の子や育ててくれた家族と共にいることに価値を感じ「重力にとらわれている」という価値観上の対立が最初存在している。その対立は戦術を含む物語の多くに反映されているのが構図としておもしろい。

スラスターの加速と全身運動を連動させて空中で行う武術を使う技を、雄星に教えたのは武藤コーチだった。それはストライクフォールで遅れをとる地球選手たちが、宇宙のライバルに勝つため編み出した未完の技術だ。地球文化が育んだ武術を、重力がなく地面を踏むことも蹴ることもできない宇宙空間で使うのだ。

宇宙にいると重力がないように感じるとはいえ、この世界のどこにいてもほぼ全てに重力は左右している。地球の重力を振りきっても太陽が、太陽を振りきっても銀河系の重力が待ち構えているがゆえに、我々は常にどこかへ向かって「落ち続け」ている。であればこそ、個々人に可能なのは「軌道を変更すること」「重力を振り切ることによって、また別の重力にとらわれること」だけでしかないのかもしれない──。

果たして兄は最終的にプロ入りし、優れた弟を超える、あるいは同じチームでプレイすることができるのか、そして幼なじみは二人のうちのどちらが好きなのか──という話に終始するかと思いきや、物語は後半で大きな転換を迎える。スピーディに展開をすっ飛ばしてきたな──と思わせる怒涛の進行で白熱の宇宙アクションへと繋がり、本書を半ばまで読んだら止まらず一気に読み終えることができるだろう。

おわりに

全何巻構成なのかはわからないが、1巻の段階ではほのめかし程度にしか明かされていない設定がずいぶん気になる。たとえば今の太陽系は《宇宙の王》が遺したとされる物体から速度を奪う巨大な球体に包み込まれており、太陽系から1.6光年から遠くには進出できないが、「その先には何があるのか」──という問いかけは、明かされると物語の前提が一変してしまいそうな底しれなさがある。

ストライクフォールは人死にが出ないよう配慮されているが、この間まで宇宙戦争をやっていた人類であるからその関係の展開も広そう(再度宇宙戦争が起こるぐらいのことはやりそう)。何にせよ、新シリーズの幕開けとしては文句ないおもしろさ。

My Humanity (ハヤカワ文庫JA)

My Humanity (ハヤカワ文庫JA)

*1:大規模なダメージが発生すると衝撃吸収が行われるが、わりと死人も出る