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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

きっと宇宙にまで連れて行く──『ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥』

歴史

ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥

ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥

地球上には200億羽以上のニワトリが生息していて、猫と犬と豚と牛の数を合計してもニワトリの方が多い。NASAはニワトリが火星旅行を生き延びられるかどうかを研究しているし、実際問題容易に増え何でも食べて、サイズが小さく卵をやたらと産む重要なタンパク源のニワトリを連れて行かないという選択肢はありそうにない。

 ニワトリが必要とする土地、水、投入エネルギーはブタやウシよりも少ない。二ポンド(約九〇〇グラム)足らずの飼料で一ポンド(約四五〇グラム)の肉を作り出すのだから、ほかの動物が必要とする分量と比べればごく少量で、これよりも飼料効率がいいのは養殖のサケだけだ。

本書はそんな「スゴイ、便利なお肉だなあ」としかいいようがないニワトリの歴史を辿り、闘鶏から神話や儀式での役割、現在のニワトリにとっては「絶滅したほうがマシ」なレベルの過酷な生産体制についてまで包括的に追った一冊になる。

たとえば古代エジプトのツタンカーメン王の墓には、ニワトリの絵が描かれている。これはだいたい紀元前1300年前後から1100年の間ぐらいのことだと想定されており、この当時から家畜化されていた可能性もある。ゾロアスター教では「雄鶏は悪霊と魔術師に対峙させるために創造された」と言い伝えられているし、日本では天照大神が洞窟に隠れた時に誘い出すことのできた動物として鶏が出てくる。

絶滅よりも悪い運命

古代エジプトのツタンカーメン王の墓にニワトリの絵が描かれていた(紀元前1300〜同1100年ぐらい)とか、ゾロアスター教では「雄鶏は悪霊と魔術師に対峙させるために創造された」と言い伝えられているなど人間とニワトリの長きに渡る関係の話はどれもおもしろいが、現在ニワトリが陥っている「苦境」は読んでいて暗い気持ちになるパートだ。たとえば1950年頃のニワトリは、1400グラムに達するまでに70日、体重450グラムあたり1350グラムの飼料を必要とした。これが2010年には、47日間で2590グラムに育ち、必要な飼料は900グラム足らずで済むようになった。

これはニワトリの病気を徹底的に解明し、死亡率が半減したこと、栄養状態の改善、ニワトリへの遺伝子操作など様々な要因がからんでいるが、つまるところニワトリはより効率的に肉として搾取されるようになったのだ。あまりに速く肉をつけるようになったので、骨格の成長がおいつかず脚や腰の病気が引き起こされ、大勢の鳥が慢性的な痛みを抱え満足に歩けもしない。イスラエルの研究チームは加工コスト削減のため羽のないニワトリを開発したが、これは世界中に激しい怒りを引き起こした。

羽のないニワトリは残酷だが、慢性的に痛みを抱えながら満足に歩けないほど不自然に肉をつけられたニワトリが、工場で消費者の目に触れずに機械的に処理される現在の事態も充分残酷だろう。残酷だったらやめればいいかといえば当然そんな単純な話でもない。世界から猫が消えても国際経済や国際政治に与える影響はたいしたもんでもないが*1、ニワトリが消えた/減ったら栄養的にも政治的にも大変なことになる。2012年メキシコで何百万羽ものニワトリが病気で処分された時は、卵の価格が急騰しデモ隊が街頭にくりだし「重大なる卵危機」と呼ばれる混乱に繋がった。

個人ができることについても、いきなり鶏肉を食べるのをやめたからといって効果があるもんでもないし、なかなか難儀な話である。ただ、動物福祉の観点から動いている人は世界中に大勢いるし、供給側についても通常より2倍、3倍の時間と手間をかけてよりよい肉を(その分ニワトリにとっても幾分マシなように人間からはみえる)提供する人たちがいる。「産業用ニワトリ派」か「菜食主義派」の大雑把な二択の間に、無数の代案があったほうが良いことは確かである。

おわりに

現在では、鶏肉のような豆腐や、味を似せた代替品としてのキノコなどが出てきており『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』じみた世界が到来しているが、ニワトリと人類の関係も新たな関係性を構築するフェイズを迎えつつあるのかもしれない。本書はそのためにも、ニワトリと人間の関係を捉え直すきっかけとなる一冊だ。

*1:鼠が増え生態系が崩れるかもしれない

移民政策の是非を問う──『移民の経済学』

HONZ掲載 経済ノンフィクション

移民の経済学

移民の経済学

  • 作者: ベンジャミンパウエル,Benjamin Powell,薮下史郎,佐藤綾野,鈴木久美,中田勇人
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2016/10/28
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
トランプ次期大統領が犯罪歴のある不法移民を強制送還する、メキシコとの間に壁をつくると発言していることもあって、今移民をめぐる問題が熱い(もともとアメリカではずっと熱いが)。しかし、実際のところ「移民はどのような影響を国(の政治や治安、労働環境)に与えている」のだろうか。アメリカの不法移民は1100万人にものぼるとされているが、仮に彼らを全員強制送還したとして経済にはどのような影響が(不利益にしろ利益にしろ)存在するのか──など疑問は尽きない。

そうした疑問に応えるように、本書はテキサス工科大学経済学教授のベンジャミン・パウエルを編者とした総勢11人もの執筆陣で、移民の影響、移民政策はどうあるべきかを詳細なデータを元に論じていく。基本的にはアメリカのデータを用い、アメリカの移民政策はどうあるべきかを論ずる「アメリカの移民政策論」だ。とはいえ、少子高齢化が極端に進み移民促進の検討も視野に入る日本も一つのモデルケースとして参考にできる部分が多々含まれている。ぶっちゃけ、得なのか、損なのか??

移民はアメリカ人労働者の賃金に影響をあたえるのか?

同化政策や財政への影響など章ごとにテーマを区切って議論されていくが、気になるのはまず移民の経済効果である。国際労働移動の障壁を撤廃すると、比較優位の原理に基づき『グローバルな富は世界全体のGDPの50〜150%も増加する』と試算する研究もあるが、犯罪が増えたり、移民の受け入れで移民先の国の住人の雇用が減る、賃金が減るなどのマイナスがあるのなら個人の立場からは反発が起こるだろう。

現状すでにアメリカでは移民を受け入れているわけだが、それによって、アメリカ人労働者の賃金が下がり職は奪われといったことはあるのだろうか? 調査方法、対象グループによって違いが出てくるが、過去50年間に発表された10件の代表的研究から導かれる結果は明確なパターンを示している。賃金への影響についてはほとんどが「効果認められず」あるいは「高校中退アメリカ人の賃金を1〜1.3程減少させる」。雇用への影響も「効果認められず」か「0.23%減少させる」で、ゼロに近い。

これは移民の英語力がアメリカ人よりも大きく劣っていることが多く、両者が不完全代替となっているなどの理由が考えられるが、なんにせよ経済面での不利益はあるとしても極端に少ないと考えていいだろう。逆に利益については、悲観的な推定値を示している研究であっても毎年50億〜100億ドルの効率性の向上をもたらすとしており、こちらも移民を否定するものではない。『生産要素の自由移動によって比較優位の原理がより活かされるようになり、これらの生産要素が流入する国の経済、したがってそれらの国で生まれた住民にも便益をもたらすことになる。』

また移民出身国への影響については、(移民出身国に残った)労働者の賃金は上昇し、仕事には就きやすくなることがわかっている。これはつまるところ賃金上昇分の負担を資本所有者が担うことと同義であるが、重要なのは移民からは出身国への送金/技術の転移があることで、『本国に残った住民に対する移民の影響はかなりの程度厚生水準を向上させる』とする楽観的な結果が出ているようである。移民先についても移民元についても比較的良い結果が出るのならば、良いことしかないともいえる。

とはいえ、検討すべきことはまだまだある。大規模な移民──たとえば無制限の移民解放が、社会制度や自国内で築き上げられた文化制度を破壊するのであればこうした便益はたやすく消え去ってしまうだろう。少なくとも、帰化率や英語力などの同化に関する基本的指標については、一世紀前の移民に比べて現在の移民の方が適応が速いことを示しているが、この問題についてはまだまだ研究が進んでいるとは言い難い。本書でも同化の適応速度については著者間で意見が割れているところがある。

ズレがある部分もあるが、編者(と執筆者)の結論/主張は、「移民はアメリカにとって有用」であり、「移民政策は(国際的にも)数量制限のない方向へと向かうべきだ」に概ねズレることなく集約される。現状わかっているデータからいえば、移民拡大は世界の所得を増加させ、移住した人たちの生活水準を向上させ、移民先の国で生まれた人たちも少しはその恩恵に預かる。移民先の国の財政に与える影響はそれほど大きくはなく、少なくともアメリカでは移民の同化は進み、移民の犯罪率は高くない。

 移民の大量増加によって「鍵穴的解決策」では対処できないほどの悪影響が引き起こされている証拠が得られるまでは、国際的な移民は数量制限のない世界に向かって進むべきであり、またそれも急ぐべきであると、と私は考えている。

出生率の問題など

その結論に至る議論は納得のいくものだが、もう少し論じてほしかったところもある。たとえば現在アフリカの一部地域を除いて全世界的に人口統計上の過渡期が終了した。アメリカに多数の移民を送り込んだメキシコも出生率は過去30年間で劇的に低下し、アメリカと同水準まで急低下している。世界銀行はメキシコの2000年代前半の人口成長率は1950年からの50年とくらべて4分の1になり、過去4半世紀を通した一人あたりGDP成長率はアメリカの2倍と試算した。つまり現在/今後もメキシコからアメリカへと移住するインセンティブは著しく下がっていると考えられる。

人口が過剰な途上国から不足気味な先進国への労働移動が起こるというのがこれまでの一つの移民の傾向だったが、世界的に人口成長率の低下が続き自国内労働者が少なくなれば就労機会をめぐる競争も緩和され、国を移動する必要がなくなる可能性が高い。そうなれば、移民の制限をいくら緩和しようが意味はないし、(特にメキシコの)不法移民をめぐるアメリカの問題も放っておけば時間が解決してくれるものかもしれない(壁もいらない)。というあたりは、本書では何度か話題にのぼることはあっても本格的にデータを上げて議論されていくわけではないので、残念ではある。

おわりに

文化的/経済的な側面、犯罪率との相関など、移民をめぐる問題は多岐に渡るため一冊で全ての議論され尽くしているわけではないが、本書は移民についての基礎的な知識を得、感情論ではなくデータに基づいた議論をするためにはまず読んでおいたほうが良いといえる内容に仕上がっている。複数人の著者によっていくつかの点で意見が分かれるのも、移民問題については良いバランスとなって現れているように思う。

神を殺す銃──『ゴッド・ガン』

SF

ゴッド・ガン (ハヤカワ文庫 SF ヘ)

ゴッド・ガン (ハヤカワ文庫 SF ヘ)

2016年に『カエアンの聖衣』が新訳、『時間衝突』が新版で出たばかりのベイリーだがそれに続けて日本オリジナルの短篇集である本書『ゴッド・ガン』まで出てしまった。そこそこ売れたからなのかどうかはともかく、ベイリーの短篇はどれも今読んでもおもしろい上に、破天荒で奇妙な作品が小説でも映像でも増えてきた近年だからこそ、ようやく受け入れられる土壌が世間に育ってきたといえるのかもしれない。

作品選定は訳者の一人でもある大森望さんが行い、全10篇のうち2篇は本書のために新訳が起こされている。神を殺せる銃をつくって撃ったらどうなるの? を短篇にしてしまった「ゴッド・ガン」のようにらしい作品もあれば、エルフやドワーフが出てくるファンタジー作品「災厄の船」、文字通りに脳みその競争を描いた「ブレイン・レース」、数百万年規模の時間スケールでの不死争奪戦を描いた「邪悪の種子」など、ベイリーの魅力が様々な面から堪能できる短篇が取り揃えられている。

10篇の紹介は大変なのでお気に入りの作品を幾つかピックアップして紹介しよう。

ゴッド・ガン

ベイリーといえば『禅銃(ゼンガン)』という人も多くいるだろうが、こっちは「神銃(ゴッドガン)」である。神のように全能な銃なわけではなく、「もし神が実在するなら、どうすれば神と接触し、さらには傷つけることができるのか」と問いかけたキチガイ科学者が「もし神がわれわれを創造できたのなら、われわれが神にやり返すなんらかの方法があるはずだ。神を殺すことさえできるだろう」と宣言してみせる。

さて、いったい神を殺す銃とはどうやってでき、どんな仕組みなんだろうか──というのが当然気になるところだが、ベイリーお得意のかっ飛ばし方で「神が物質を創造するために使った道具は光だった」というところから謎理論を展開し、あっという間に神を殺すスゴイ銃をつくりあげてみせる。そしてそれをいざ撃ったとき、果たして神は殺せるのか、神が死んだ世界はどうなってしまうのか──!? わずか15ページの短篇でここまで壮大な話を描ききってみせるのはあまりにスゴイ。どこへ行くのかと聞かれた男が『「神を殺しに」』と端的に宣言するのも抜群にカッコいい。

大きな音

宇宙で一番大きい音はなんだ? と問いかけそれを追求したキチガイの物語(またキチガイなのか)。特別なオーケストラを収集し、何もない平野に陣取り、とにかく凄まじい音を、音を超越した音を出そうとするのだが、この描写がまたふるっている。

 まず第一に、室内交響楽のように統制がとれていた。が、さらに重要なのは、オーケストラが生み出す音が、通常の音楽の限度を超えるほどの容量を持つということだった。それこそは超音響、超音楽だった。その巨大な音楽を聞くことは、まさしく超越的な体験だった。耳が聞くことのできる範囲を超えた大きさだったから、それを理解できるのは心だけだった。

心でしか理解できない音楽! ベイリーがここで終わるはずがなく、光速の概念さえも超越した驚異的な音楽的/宇宙的コミュニケーションを実現してみせる。

災厄の船

この短篇集では唯一のファンタジィ。災厄を糧にして走る〈災厄の船〉のエルフ一団と、彼らが奴隷として拾った人間との対話で物語が進んでいく。自らの力で自己創造に至ったと信じているエルフ達、ドワーフとの戦争、穀物が凶作でもうじき飢えに直面するという危機的な状況などなどが明かされ、最終的にはこの地球(地球だったんかい。重要な情報でないから書いているわけだが)の終末的な状況が提示される。ファンタジーなのに惑星の生死の問題になってしまうのはやはりベイリーか。

邪悪の種子

100万歳と主張する不死の異星種族がある時地球にやってくる。外科医のジュリアンはその不死者を分析し、不死を我が物にしようと画策するが──。不死争奪戦ともいえるが、中心になって描かれていくのは「不死を願ってしまう終わりなき欲望、その力強さ」だ。ジュリアンは冷凍睡眠までもを駆使して、不死を狙うが、そのおかげで作中の時間経過がサクサク進んでいくのが心地よい。『ロンドンは崩壊し、ふたたび興隆した。千年が過ぎ去り、地形さえ変わったが、湖にとって代わられた一時期をのぞいて、ロンドンのあったところには、つねに都市が立っていた。』というように。本短篇集の中ではいちばん好きな作品(「ゴッド・ガン」は評価不能)。

おわりに

ぶっ飛んだ問いかけを細かい理屈はどうでもええわいみたいなところまで推し進めてしまう短篇もあれば、見事にコントロールしてオチに収束させてみせる短篇も、なんだかよくわからんうちに終わってしまう短篇もあるが、その振れ幅の広さもまた魅力的だ。そんなわけで、ベイリーまだ読んだことない人にも、入門編として薦められる短篇集に仕上がっている(ただ、なんだこりゃ! と思っても責任はとりません)。

おっと、これだけは書いておかなくては。めちゃくちゃに表紙がカッコいいので、それだけでも本を買う価値がある。書影よりも圧倒的に実物がカッコいいぞ。

なんでもない日に潜む恐怖を描く異色短篇集──『くじ』

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

1964年に刊行された、シャーリイ・ジャクスンによる『くじ』、2006年に再度単行本で刊行され、今回はその文庫化ということになる。最初の刊行から50年以上が経っているが、本短篇集でメインに描かれていく日常──お隣に変な一家が引っ越してきたり、結婚を約束した男が現れなかったり、歯医者に行ったり──が変わるわけではないので、描写はともかく感情の部分については古びた感じはまったくない。

元々は〈異色作家短篇集〉のうちの一冊だが、訳者解説にもあるように『元版が出て以来の四十余年のあいだに、わが国の翻訳出版をとりまく状況はずいぶん変わりました。なにより、この〈異色作家短篇集〉におさめられるような作家・作品が、とくに"異色"でも、"奇妙な味でもなく、ごく普通の小説として受け止められる土壌が出てきています"』今では"異色"というほどではないのかもしれない(とはいえ、まだまだ奇妙な味だと思うけど)。それはシャーリイ・ジャクスンの作品が今年だけでも『日時計』、『絞首人』、本書『くじ』、『鳥の巣』と刊行されていることからもわかる。少なくとも"出しておきたい作家だ"と考える人が幾人もいるということだろう。

いくつかの短篇の紹介

本書には22篇の短篇がおさめられている。作品の多くは誰の身にも起こり得る「なんでもない日」を扱っており、それを淡々と描写していくだけにも関わらず、「何かヤバイことが起こっている/これから起こるのではないか」と心の底からの恐怖が湧いてきて、同じような日常を過ごす自分は大丈夫なのだろうかと心配になってくる。

たとえば「歯」はクララが歯が痛くなったので歯医者にいって治療してもらう、ただそれだけの話なのだが、突如として『まずなによりも先に、すべてがおそろしく遠くへ行ってしまったこと、これを覚えておくことね、と彼女はぼんやり考えた。それからこの、全体についてまわる金属音と、金属の味も覚えておくこと。そしてこの暴虐。』などと恐ろしい描写が入る。麻酔を打たれて抜歯が始まっただけなのだが、物凄い拷問を受けているような気分になってくる。歯医者はたとえどれだけ丁寧に治療してくれても拷問のようなものだといえばそれはそうだともいえる(暴虐だ)。

個人的にお気に入りなのは「もちろん」という短篇。いつも通りの一日を送っていたタイラー夫人は、隣に越してきたハリス夫人と両者の子供たちとで立ち話をはじめるが、ハリス夫人は夫の方針で「映画」は知的に遅れているから家族揃って映画にはいかせないし、ラジオも聞かないし(我慢できないから)──と奇妙な、まあいてもおかしくはないかという線の家庭内ルールを明かしてくる。タイラー夫人も、お隣さんなので、ラジオが嫌いなひとも大勢いますからねとかなんとかいって柔らかく応対するのだが、だんだん「こいつはやべえ……」と不安に打ち震えてくる。

 ここでようやくタイラー夫人は、さいぜんから気になっていたかすかな不安の正体に思いあたった。それは、なんらかの剣呑な、手に負えない事態に巻きこまれて、進退きわまったときに感じる不安だった──たとえば、凍結した道路にうっかり車を乗り入れてしまったときとか、ヴァージニアのローラースケートを履いてみたときとか……

越してくる「隣人」というのは日常的な出来事の一つではあるが、言われてみれば非常に怖い。具体的にどう、と例をあげるわけじゃあないが、「ヤバい奴」が隣にきたら、自分の生活の質は一気に悪くなってしまう。社交場の相手であれば無視すればいいだけだが、隣人となればそうはいかない。「映画もみねえラジオも聞かねえっててめえは北極にでも行け」と言えればいいが、いえるはずもない。この、「だんだん不安が増幅されていく」描写が、シャーリイ・ジャクスンは抜群にうまいのだ。

他にも、ニューヨークに旅行で来た女性が、あまりに多い人混みと車に困惑し、信号が変わっても道路を渡れなくなってしまう恐怖(車の恐怖以上に、あいつは何をやっているんだ、馬鹿なんじゃないのかという人の目線がまた怖い)を描き出す「塩の柱」などを読んでいると、普段自分が当たり前に過ごしている「なんでもない日」はなんて恐ろしいものなんだろうと実感させられる。歯医者も都会も怖いものだ。

おわりに。他いろいろ

幼稚園に通う息子がしきりと問題児だと報告してくるチャールズ、息子の両親がチャールズの母親をPTA会合で探しに行ってみたら実は──という「チャールズ」や、表題作にあたる「くじ」あたりはオチも秀逸だし、何より道中一度たりとも「何が起こっているんだ/これから何が起こるんだ」とページをめくる手を止めさせない。

何しろ歯医者にいくだけの話をめちゃくちゃおもしろく仕立て上げられてしまうシャーリイ・ジャクスンだから、全体的に今読んでも秀逸な短篇が揃っている。

奇妙な味のSF短篇集──『うどん キツネつきの』

SF

うどん キツネつきの (創元SF文庫)

うどん キツネつきの (創元SF文庫)

「うどん キツネつきの」とは不思議なタイトルだ。最初ぱっと読んだ時、何が何なのかさっぱりわからない。キツネ憑きのうどんなのかなと推測し、それはつまりキツネうどんなのでは? と思ったりもする。本書は「うどん キツネつきの」で創元SF短篇賞の佳作をとった高山羽根子さんのデビュー作/SF短篇集だが、全篇を通してこのタイトルを読んだ時のような、ふわっとした奇妙な味が充実している。

「佳作」というと一歩劣ったイメージになるが、解説の大野万紀さん曰く*1、選考会では大いに作品として評価されながらもSF味は薄く、「SF」を冠する賞に果たしてふさわしいのかという議論の末の佳作になったそうだ。つまり、SFかどうかなどという*2どうでもいいことを除けば、抜群におもしろい短篇なのである。本書には他4篇が収録されているが、作風の幅も広く、長年書き続けた果てのような円熟した技量を感じさせる読み味を残してくれる。端的にいって素晴らしい内容だ。

「描写のおもしろさ」が占めるウェイトが高く、簡単にはその良さが伝えられるとは思えないのだが、以下、5篇なのでひとつひとつ紹介していってみよう。

うどん キツネつきの

和江と美佐の姉妹は外で、発砲スチロールに閉じ込められながらゴリラのように大きな声で鳴く「4つの足を持つ肉塊」を発見する。同じような生物は他に3体いたが死んでおり、姉妹は生き残った1匹を育て始める──という導入で、「この奇っ怪な生物はなんなのか」が解き明かされていくのかと思いきや、この生物は犬ということになり以降淡々と和江ら三姉妹と犬(うどん)や他のペットとの生活が綴られていく。

7日め、4年め、7年め、11年めと時間を淡々と飛ばしながら、姉妹の変化(結婚、進学、一人暮らし)を丁寧に描いていくのだが、これが地味ながらも大変におもしろい。たとえば11年めには、一人暮らしの和江とワンルームで飼っている沢蟹の話が入る。和江は一人暮らし後最初にスーパーに行った際に1パック8匹入りの沢蟹を買い、まだ動いている半分をペットボトルに入れて飼い始める。彼女が家にかえってくると、時折沢蟹は脱走している日常。その探し方の描写にびっくりしてしまった。

 和江のほうも慣れたもので、居ないとわかればまず電気という電気を消し、冷蔵庫のプラグを抜く。蛍光灯や冷蔵庫の微かな電子音さえも無い状態で耳を澄ましていると、大抵前後左右のどこかからカサリと音がするので、そのほうに寄ってまたじっとしていると、同じように音がする。こうして部屋を二分の一、四分の一、八分の一と追い詰めていくと、その頃には和江の目も暗闇に慣れ、かなりの高確率で短時間に脱走者を発見することができるのだ。

この描写/想像力の精度の高さよ。実際これで見つかるのかはわからないが、「著者は沢蟹を飼って脱走されたことがあって、こうやって探したことがあるに違いない、そうでないとこんな風に書けるはずがない」と確信させる凄さがある。

「うどんは何なのか」に繋がる情報も明かされるが、最終的に結実していくのは「なぜペットを飼い、育てるのか」という理由である。その理由を、安易に感情を説明して終わらせるのではなく(たとえば、沢蟹を飼い始めるのを「一人暮らしの寂しさから」とは書かない)あくまでも日々の生活を淡々と描写として積み上げていくことで、「人がペットと共に生きる意味」を浮かび上がらせてみせるのだ。

シキ零レイ零 ミドリ荘

宇宙ヒコーシだったんだなどと適当なことばかり言う指が二本ない謎のおっさん、母親に放置されぎみなキイ坊、片言の日本語で喋るグェンさん、タニムラ青年、独特な日本語で喋るエノキ氏、中国人の王さんなどなどコミュニケーションが容易には通じない面々が揃っているミドリ荘を舞台にした、コミュニケーションテーマの短篇だ。

古代文字、手話、人文字、片言言語、ほら吹きなど様々な言語/コミュニケーション手段が描かれていく。完璧な言語能力があったとしても相手に意図が正しく伝わるとは限らないし、その逆もまた然りである。表現されるのは人間の言語コミュニケーションの不完全性である──ともいえるし、『「意味、完全に解ってる言葉しか使っちゃいけねえなんて、誰が決めたんだよ」』という作中の言葉通りに意味の分からない言葉であっても使ってもいいし、意味がわからなくても意味を強引に読み取ってしまう、人間の融通力の高さ/節操のなさみたいなものである。

母のいる島

16人もの子供を産んだ母と、16人姉妹の物語。16人目が産まれたこともあって、1人を除く14人の姉妹が島に集結するのだがそこでアクシデントが──という流れだが、この16人姉妹の会話の描き方がスゴイ。姦しさもそうだが、友情とも違う価値観で繋がった「特殊部隊」感が会話の端々から出てきていて、その理由も後半「母はなぜ身の危険も顧みず16人も子供を産もうと思ったのか」の理由と共に明かされていく。うどん〜の方もそうだけど、高山さんの描く姉妹/家族がとても好きだ。

おやすみラジオ

小学4年生のタケシが、ブログで「大きくなっていく」ラジオを発見したと書き始める。たまたまそのブログを発見した比奈子は、タケシのいる町が自分の知っている場所だと気づき、ラジオの謎に関わっていくが──。彼女の他にも別ルートからタケシの物語に気がついた人々が参入してきて、「日常の謎」的にスモールスタートした物語は壮大な地点にまで辿り着いてみせる。短い中に「人を駆動させる物語」「自由意志と本能」など無数の要素を作品内に取り込んだ、ぎゅっと詰まったSF短篇だ。

巨きなものの還る場所

出雲国に伝わる国引神話を題材に取ったねぶた、〈修復者〉という謎の人々、「人が身の丈に合わないでかいものを作って置いたまま古くなると、命を持つ」伝承、「学天則(金色のロボット。実在する)」など無数の土地の神話が合わせながら、過去と未来の様々な人の思いまでも繋げながら突き抜けてみせる幻想譚。構成は本短篇集の中で最も複雑だが、最後の「巨きなもの」の出現に全てが見事に収束していく。

おわりに

「うどん キツネつきの」からして抜群にうまい、は最初に語った通りだが、その後に書かれた短篇はより構成的な複雑さを増し、世界を広げながらもうどん〜と遜色ないコントロール能力でまとめあげてみせている。最初の短編集でこのレベルなら、一体この先どんなことになってしまうのか──と末恐ろしさを感じさせる一冊だ。

*1:大野さんが選考会に参加していたわけではなく、『原色の想像力』巻末の選考座談会の様子を読んでの内容になる

*2:ほとんどの読者にとっては

脳は受け取る情報を支配する──『触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか』

科学ノンフィクション

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか

触れること、触れられることというのは日々の生活に密接に関与してくるものだが、あまりに当たり前すぎて意識にのぼる/疑問に思うことも少ないものだ、と本書を読んではじめて理解した。たとえば親しい相手との身体的接触は心地よいものだが、知らない人間との身体的接触は極端なほど不愉快であるのはなぜなのか。

夢中になって何かをやっている時(スポーツとか)、身体が怪我をしていても気が付かない時があるのも不思議だ。生殖器とそれ以外で感じ方に大きな差があるのは脳科学/神経科学的にはどのように説明付られるのか。痒みと痛みはどう違うのか、なぜ痒い部分をがりがり掻くと、一時的にしろ痒みが和らぐのか。内蔵が痛むことがあるのに内臓が痒くなることがないのはなぜなのか──あまりに当たり前すぎて問いかけることもないが、たしかにあらためて言われてみれば不思議な話である。

神経科学者である著者デイヴィッド・J・リンデンはそうした各種事例について、神経科学や脳科学的な観点からその理屈を丁寧に説明していってくれる。そのほとんどが学術的な興味を満たしてくれるのはもちろん、触覚という身近なテーマなだけに実生活で役に立つ部分も多い。たとえば子供の発達における触覚の研究では、触れ合いの機会が減ることで発育不足や嘔吐の多さ、免疫の不全など様々な発達障害を発現することがわかっている。触れ合いの機会が少ないとは保育器の中に隔離されたような極端なケースのことではあるが、触れられることがいかに重要なのかはよくわかる。

生殖器についての神経科学

また、多くの人が(おおやけにはしないかもしれないが)興味があるであろう研究は性器やセックスをめぐる触覚、神経科学的な側面ではなかろうか。たとえば性感や性的嗜好の個人差はどこからきているのか。毎日バイオリンの練習をしている人は脳の感覚地図の中で指が拡大するが、アナルセックスを繰り返していると肛門部分の感覚地図が拡大するのだろうか(←これはかなり気になるがまだ解明されていないようだ)。

個人的におもしろかったのは生殖器の反応についての実験。たいていの男性は性的な刺激に対して「興奮を覚えました」と回答した場合のみに実際の反応が現れるのに対して、女性はとくに興奮しないと回答した場合でも性的に反応し膣液が分泌されることがあるとしており、「意識的な興奮の有無」と「身体的な興奮の有無」の間にわかりやすく男女差が存在している。これは「女性の嫌がるそぶりを無視してもいい」といっているわけではなく(犯罪だぞ)、歴史的に女性に対しては挿入が急激だったり合意なしに行われることが多かったことから残った機能なのかもしれない。

痛みについての神経科学

最初に「夢中で何かをやっている時に怪我をしても気が付かないことがある」と書いたが、これは「痛みの知覚が認知的、感情的因子によって鈍ったり鋭敏化したりする」からである。なぜそんなことが起こるのかといえば、脳は主観によって受け取る情報を支配/コントロールしているからで、正確には、計算をさせるなどして痛みの刺激から主観を引き離すと、1次身体性感覚野と島皮質の活動の低下が起こる。

たとえば「この痛みはいつまで続くのか」「また痛み始めるのか」「どの程度危険なのか」が判断できない状態では、前頭皮質が痛みについて考え続けるプロセスが走り、痛みの度合いも不快さも強くなる。精神安定剤が痛みの知覚に関与するわけではないが慢性の疼痛治療では有効なのはこのためである(不安を鎮め、痛みについて考えつづけることでさらに痛くなり不快度がますという悪循環が断ち切れる)。

「じゃあ、どうやって(精神安定剤を使わずに、もっと気軽に)考え続けるのをやめたらいいんだ」と疑問に思うだろうが、本書ではその一例として瞑想が紹介されている(いや、瞑想もいいんだけど、もっとほかになんかないのだろうか……)。

おわりに

と、こんな感じでおもしろ事例を紹介し続けたらキリがないのでこんなところで終わりにしておくが、包括的かつ基礎的で、なかなかおもしろい一冊である。

《叛逆航路》三部作完結篇──『星群艦隊』

SF

星群艦隊 (創元SF文庫)

星群艦隊 (創元SF文庫)

脅威の全世界12冠を達成した『叛逆航路』から始まる三部作が、本書『星群艦隊』でついに完結!(第二部は『亡霊星域』) ストーリーをざっと紹介すると、少し特殊な文化を持つ星間国家ラドチを舞台にし、数千体もの身体を持つ皇帝アナーンダ・ミアナーイを抹殺しようともくろむブレクを中心に3巻通して描いてきた。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
正直な所、1巻を読んだ時に沸き起こってきた「うおおおどうやって数千体も身体を持つ銀河支配者を抹殺するんだー!?!?!?」という興奮と期待に答える完結篇ではなかったと言う他ないのだが、でもこういう終わり方になるのはちっとも話が前に進まない第2巻を読んだ時点で、もしくは今思うと1巻からわかっていたことではある。たとえば、本書の表紙と書名をみると、完結編に相応しい星の数ほどの艦隊がドンパチをやらかすのか!? という感じだが、そんな話ではまったくないのである。

そうはいっても、この3部作は確かにおもしろい。いわゆる「スペースオペラ」的なドンパチからは大いに背を向けて、ありったけのページ数とキャラクタを使ってSFならではのアイデンティティの問題、階級や差別をめぐる問題、「人」とは何か、その定義をめぐる問題であったりを取り扱ってみせる。この3巻に至ってもそれは変わらず、延々と話と調整作業を続け、途中人類とまったく異なる価値観を持つ異種族が現れると人間とのディスコミュニケーションが喜劇的に描写されていったりする。

戦争は描写のメインではなく、上記のようなコミュニケーション描写やアイデンティティの分裂・統合が描かれていくことを考えると、読み味としては入念に作り上げられたスペースオペラ的世界を舞台にして行われる「SF日常物」に近いように思う。

自己の分裂・あるいは統合

たとえば、三部作の主人公といえるブレクは元艦船であり、巨大な兵員母艦と数多の属躰を使役するAIだった。無数の属躰は「ブレク」として統合されていたが、個体がそれぞれの経験を経ていくうちに分裂してしまい、最後にブレクは人間の体ひとつのみを有する個体になってしまう。つまりブレクはもともと複数体だったが故に、1つになってしまった寂しさと違和感を抱えながら日々を過ごしていくのだ。

一方でその宿敵となっているアナーンダ・ミアナーイは、こっちはこっちで支配のために数千体に分裂したことによってアイデンティティの問題を抱えている。数千体の自己間で分裂後に不和が発生し自分で自分を攻撃しはじめ、各地で自分との戦争がはじまってしまっている。そのせいで作中ではミアナーイが「攻撃的な奴」「そんなに攻撃的じゃなさそうな奴」とか無数の意味を持った個体になってしまっており、やたらと情報が飲み込みにくいが、それもまた本シリーズを読むことの楽しみだろう。

階級問題、差別意識、「一歩」を丁寧に描くこと

もう少し広い、多数の人間が関わる問題に目を向けるとよりややこしくなっている。たとえばブレクが艦隊司令官として新たな赴任地にやってくると、そこでは先住民とのいざこざがあり、宗教、人種差別の問題がどっしりと横たわっている。《叛逆航路》三部作は、こうした単純な解決が不可能な問題を延々とやっていくのである。

現地民とのいざこざだけでなく、3巻ではブレクの副官にして相棒のセイヴァーデンが生まれついての貴族であるがために下層民に対して意識しないままに見下した態度をとり、それがコミュニケーション上の問題に繋がっていくさまが描かれていく。この辺、あまりにジメジメとしていて宇宙にきてまでやることかよと思う面もあるけれど、わざわざ広い宇宙でそんな些細なことを仰々しくやるのがおもしろくもある。

「"地方出身"は侮蔑の言葉なのに、わたしに対しては誉め言葉になる?」セイヴァーデンはうろたえて返事ができない。「あなたがこの言葉を使うたび、下層のアクセントだの、垢抜けない語彙がどうのこうのというたび、わたしは自分が田舎者、下層階級だって言われている気がする。わたしのアクセントも語彙も、ただ見栄をはっているだけだと。アマートが茶葉を洗うのを見てあなたは笑うけど、安物の団茶はわたしにとって"家庭の味"。きみを誉めたんだよ、きみはそんなんじゃないよ、とあなたがいうたび、わたしは自分が場違いなところにいるのだと思う。ちょっとしたこと、些細なこと。だけど毎日感じること」

人間が宇宙へと広がっていっても、生物学的に人である限り(能力が変わらない限り)差別はある。引用部にあるように、些細な行き違いであっても、毎日感じる場合には重大な問題に感じられたりもする。ブレクはこうしたちょっとした行き違いの調整役になることが多いが、それが恐ろしく地味なのに(艦員が掃除をサボるのを怒って規律を立て直していく話もあったりする)着実に、"おもしろく"描かれていくのが凄い。

先程「SF日常物」と書いたが、もちろんこの世界では各勢力が入り乱れ戦争状況が各地で発生している「非日常」が状態化した状況でもある。しかし、だからこそブレクが強固に日常的な問題──昇進や訓練についての話や、些細な意見の行き違い、差別の問題について語り合うことにこだわって、「非日常的な状況下で日常を回復させようとすること」がおもしろくなっているのかもしれない。

"人"とは何なのか

とはいえ差別問題や階級意識やアイデンティティ問題ばっかり3巻になってもやっているわけではなく、区切りがつくことはつく。その一つの鍵になるのが人類以外の異星種族であり、その通訳士がブレクらの元にやってくるのだが、こいつがまたイカれている。そもそも人間に「種類(個体差)」があることを曖昧にしか理解しておらず、セリフも意味がわからない、狂ったように魚醤を求めるという「雑な萌えキャラか」とツッコミを入れたくなるピーキーなキャラで、出てくる場面は基本ギャグである。

ただし、人間の個体認識の曖昧さ、圧倒的な能力を持ちながらも「意義ある存在(人類)」と認めた相手とは条約(平和的なもの)を結び、攻撃はしてこないという設定が後々物語では大きな意味を持ってくる。それは要するに「人とはどこからどこまでが人なのか」「AIは人、あるいは意義ある存在なのか」という問いかけである。

おわりに

ずっしりとした艦隊戦、アクションばりばりのスペースオペラが好きな人には特にオススメしないが、好きな人はかなりハマるのではないだろうか。前、前々回の記事でさんざん説明したのであらためてはしていないが、ラドチ語では性の区別をしないのでみな「彼女」と表記されるのも想像が広がっていい(このカップルは生物学的な性別はどっちなんだろうな……?とか)。全体的に少女漫画的な面白さがあると思う。