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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

トマ・ピケティ絶賛の"長篇小説"──『貧困の発明 経済学者の哀れな生活』

経済ノンフィクション その他のノンフィクション

ピケティ絶賛と煽り文句のついている「貧困の発明」って本、おもしろそうな経済ノンフィクションだな〜〜と思ってよくみたら"長篇小説"であった。とはいえピケティが帯でファンタジィを絶賛することもないだろうから──と読んでみたら、本書は確かに経済に関連する小説作品ではあり、これがなかなかおもしろかった。

端的に紹介すれば、国連のプロジェクトにも関わる現役の経済学者が、貧困撲滅事業や国家的経済プロジェクトがいかにぐだぐだで、嘘と欲望にまみれ適当に運営されているのかを暴き出すブラック・ユーモアに満ちた風刺小説である。あくまでも"フィクション"であるとはいえ、著者の経歴を考えれば見聞きしてきたことが大いに反映されているのは間違いない。いわゆる普通の小説の楽しみ方とは異なるものの、経済エリートの悲哀みたいなものもじっくりと描き出されてなかなかな良いのだ。

著者はニューカレドニアの生まれで経済学者にして小説家。普段はパリの持続可能開発および国際協力研究所でグローバル・ガバナンス・プログラム(わけがわからん)を指揮しているらしい。具体的には農業開発援助を専門として、世界銀行やEUが出資するプロジェクトに関わっているようで、小説はたまたま1冊だけ書いてみたのかな? と思いきや本書が4冊目。小説作品として読んだ場合、プロット・構成に関してはグダグダの極みだと思うがそれなりにしっかりとした文章を書いている。

簡単なあらすじとか

物語の中心となるのは国連事務総長の特別顧問、経済学者のロドニーである。彼が専門とするのは貧困問題で、中でも主に貧困撲滅プロジェクトに邁進してきた。先程プロットはグダグダの極みと書いたが、本書のメインはこのロドニー氏がプロジェクトの遂行中に知り合った18才のベトナム人美女ヴィッキーと結婚し、あまりに価値観の違う彼女に振り回されて人生が滅茶苦茶になりつつ詐欺じみた"貧困の発明"を行うという、"エリート経済学者の日常物"的な物なのでぐだぐだなのが正解ともいえる。

ロドニー氏はヴィッキーにぞっこん惚れ込んで結婚したわけだが、二人の間には問題しかない。パーティからいなくなったヴィッキーをロドニーが探しに行ってみれば、彼に対してこっそりやっちゃいましょうよと誘いをかけてくる(が、ロドニーは暗に断る)。ロドニーは朝や夜も積極的にヤるよりも睡眠時間の確保や仕事を優先するので、ヴィッキーはどんどん不満がたまっていく。ヴィッキーはロドニーが帰ってくると毎晩家から出ていって泥酔し、ドラッグでハイになるしで生活は噛み合わない。

貧困の発明

ロドニーはそんな彼女を都会的な生活に馴染ませようと奮闘するが、同時に進行するのが彼の本業"貧困の撲滅"である。貧困者に対して集められた公的資金が投入されればプロジェクトの運営者には金が回るから、それが彼らのビジネスになる。ところが、本当に貧困が撲滅されてしまったら民間企業から1ドルだって金は集まらない。つまり、貧困の撲滅を掲げる人々は本当に貧困が撲滅されてしまったら困るのだ。

「貧しい人々がもっと必要なんだよ、ロドニー。絶対的貧困層が消滅したら、アメリカの貧困層がその代わりになる。だが、アレックスはそれを望んでいない。共和党も同じだ。アメリカに援助される貧しい人々はほかの国にいなければならないんだ」

貧しい人々を作りだせば作りだすほど貧困支援をビジネスにしている人間は裕福になる。その裕福さを維持し、増大させる為にさらなる貧しい人々を生み出す必要にかられることになる。まあ、虚業というか、虚しい仕事ではある。ロドニーがヴィッキーと結婚し、彼女の生活を支援するのも、心の痛みへの治療薬としての側面がある。

しかし、どうやって貧しい人々をつくりだすのか? 戦争でも起こすのか? といえばこれがそう難しいことではない。現在、世界的に貧困は明らかに減っているとの結果が出ているが、これは何で出ているのかといえば"とある統計"だ。つまり、"貧しい人々が増えるようなとある統計"を新たに構築すればいいだけの話である。

「一日に一ドル以下で暮らしている人は、購買力平価で貧しいということだ。仮に典型的な貧しい国の通貨をルピオテとしよう。為替市場で一ドルが一ルピオテだと想像してほしい。その国では一日一ルピオテで難なく暮らすことができる。ルピオテの購買力は、アメリカにおける相応額のドルの購買力よりはるかに高いからね。通貨の購買力を考えるなら、一ルピオテは一ドルに値しない。一・二あるいは一・四ドル。まあ年によって変わる。つまり通貨間の購買力平価を見直すことで、貧しい人々をつくることも、反対に消滅させることもできる。(……)」

ロドニーの悲劇は、こうした事態を簡単には割り切れないところにあるのだろう。貧困者は単なる金を引き出すための実験用ラットだと割り切れていれば心も痛まない。が、ロドニーは貧困を撲滅したい、人々を救いたいという確かな善といえる気持ちがある。それでもやっていることは適当な数値をでっちあげて貧困をつくりあげること、偉い人達への根回し、接待の連続で心はただひたすらに疲弊していく。

おわりに

本書の副題には「経済学者の哀れな生活」とあるが、まさにこの副題の通りに1冊まるっとかけて、多くの金を稼ぎ、名声を得ながらもまったく幸福になることができず、虚栄に落ちていく哀れな経済学者の姿を描き出していくのだ。読み終えて心が暖かくなるという感じの小説では全然なく、どちらかといえばきっとあまり大差のない現実を思いがっくりとくるが、それこそが本書のおもしろさ/価値といえるだろう。

生命の再定義──『私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback?』

SF 森博嗣全シリーズレビュー

森博嗣さんによるWシリーズ、その5巻目となる。これまでシリーズの魅力は各巻の記事でたっぷり書いてきたので未読の人間はそっちをまず読んでもらって、この記事ではつらつらと感想を書いていきたいと思う。相変わらずめちゃおもしろいのだ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
この世界、人間は細胞を入れ替えることで寿命を飛躍的に延ばした代わりに子供が生まれなくなり、アートルーパーと呼ばれる人工生命が存在している。そんな世界では当然ながら生は引き延ばされ、同時にどこか死は遠いもの──幻想のように実感されるだろう。そんな世界では生の在り方がすっかり変わってしまっているわけで、そうなると必要になってくるのは価値の軽重を含めた「生命の再定義」だ。

自分たちで引き延ばすにしろ創造するにせよ、明確な操作が行うことができなければ「生命」は変わらない=再定義は必要ないし、逆にその在り方を操作できるようになってくればどこからどこまでが生命なのかを決める必要が出てくる──とまあ、そのあたりは今巻では主題の一つとはいえこれまで繰り返されてきた問いであり、あまり発展する議論でもない(明確な線を引くことにあまり意味のある議題ではない)。

物語として興味深いのは、そうした世界でどのような価値観/考え方が蔓延しているのかだ。必然、生への執着は薄れ死への忌避感が薄れてゆくことになる。長く続く生は「なぜ生きるのか」という問いを生み、エネルギー効率の観点から仮想世界への移住も視野に入ってくる。仮想世界への移住は今巻でガッツリ描かれている部分だが、これはSF的には珍しい状況ではない。物理法則に縛られた現実は摩擦が多いし、仮想世界なら無駄まで含め自由にデザインできるのだから移行は自然な発想である。

珍しい状況でないのに今巻がめちゃおもしろいのは、その移行期をきちんと描いているからかなと思う。価値観的にまだ許容される時代ではないから、治外法権の場所でやるしかない。デジタル上での完全な人格再現が行えているわけでもないから脳の維持は必要で、その管理者が必要であるが、その管理者に生殺与奪権を握られるわけでそのリスクはどの程度なのか。また現実世界での"環境"を維持するための資金をどう集めるのか、などなどのディティールの描き方がやたらとおもしろい。

プロット的には、外部との通信が遮断された仮想世界に閉じ込められた際、どのように外部との連絡をとるのか──というアクロバティックな展開に合わせてトランスファのデボラの演算能力と人の発想能力の差異が表現されているのが素晴らしい。トランスファ、便利すぎるだけに非常にリスキィですね。今はハギリくんに有用性があるのでデボラと協調関係が結べているけれども、なくなった時にどうなることやら…。

おわりに

ここまで移動⇛襲撃にあう、という展開が続いていただけに仮想世界への幽閉とそこからの脱出はまた違ったパターンが楽しめてたいへん素晴らしい巻だったかと。またデボラのキャラクタ性がとんでもなくいいし、最後のやりとりまで持って行かれてしまってウグイさん大丈夫かと思いつつ次巻を楽しみに待ちたいところであります。

あ、あと講談社タイガで本書と同時発売のオキシタケヒコさんの『おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱』も大変おもしろい怪奇SFだったのでオススメ。特に『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』好きな人は好きそう。ネタバレなしでおもしろくかける気がせず、記事としてはたぶんあげないのでここで宣伝でした。ではでは

おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱 (講談社タイガ)

おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱 (講談社タイガ)

huyukiitoichi.hatenadiary.jp
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才能との向き合い方──『りゅうおうのおしごと!』

ライトノベル

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)

この『りゅうおうのおしごと!』は農業高校の学生生活を描く『のうりん』シリーズなどで知られる白鳥士郎さんの現在進行系のシリーズである。先日5巻が出たところで第一部完ともいうべき展開をみせ、この時点までで充分にひとまとまりの作品として優れていることから一度レビューを書いておきたい気持ちが湧いてきた。

将棋物として真正面から真摯に向き合っているだけでなく、才能を持つものと持たざるものめぐる物語として、また才能を持ってしまったからこその順風満帆とは言い難い道のりを描いていく。また、『のうりん』でも農業高校や現実の農業問題への丹念な調査とその物語への落とし込み、きわどいところまで踏み込むギャグ、テンポの良さとバランス感覚の見事さを発揮していたが、それは本シリーズでも変わらない。

まあ、将棋フィクションはこの世に数多く、そのどの作品も綿密な取材と監修に基づいて棋士の生き様を描こうとする熱量に溢れている。だからこそ、その将棋への"熱意"や取材の密度といったものは、本シリーズで特別なものとはいえないだろう。

簡単なあらすじとか

物語のあらすじはシンプルなものだ(設定自体は小説、特にライトノベルだから盛り盛りだが、何しろ将棋界のことだから前例が多くあったりする)。主人公は16歳の若さで「竜王」のタイトルを獲得した天才・九頭竜八一。才能は疑いなく一級のものとはいえ、自身の将棋を研究しつくされタイトル獲得後の対局では負けが続く。

そんなある日、彼の将棋を見て将棋をはじめた小学生女子雛鶴あいが彼の元へ押しかけ、内弟子になることを希望する。自身もまだ若く負けがこんでいることから断ろうとする八一くんだったが、あいの圧倒的な才能を前にして一転、弟子として受け入れることを決意するのであった……。そうして9才のあいと16才の八一くんの奇妙な同居生活がはじまり、最初の「竜王」防衛戦までが1〜5巻の物語となる。

将棋ドラマとして

コメディとしては小学生の女児と暮らす男子のドタバタ、また彼の周りにあつまってくる小学生女児に対して周囲の人々から八一くんが「ロリコン」呼ばわりされるというパターンが繰り返され特段その質が(自由度の高かったのうりんと比べると)高いとは思わないが、何しろ将棋の場面、またそれに伴うドラマの演出が素晴らしい。

漫画だと"現状の盤面"を逐一コマ上に配置して棋譜までしっかりみせていく演出方法もあるが本シリーズではその方法はほとんどとらず、主に序盤の攻め手、守り手がどのような形をとっているのか、またそれがどのような流れ(劣勢/優勢)を生み出しているのかを逐次解説していく。また、実際のプロの対局でもプロや識者の解説・実況がつくものだが、本シリーズでもそれを模した/あるいは解説・実況を作中で取り込む形での臨場感のある"対局"の解説がよく行われる。この手法の良いところは、ガヤガヤと盛り上がる周囲の人々の熱気まで描写として取り入れられるところだろう。

1巻では連敗続きの主人公の復活と弟子・あいとの出会いが描かれ、2巻ではあいちゃんに新たな同年代のライバルが現れ、弟子も増える。3巻では新たな八一くんは新たな戦法を得るため修行し、一方で研修会の年齢制限に引っかかりそうな女性の桂香を中心とした"才能がものを言う世界"の過酷な戦いが描かれる。

才能の呪い

この3巻はシリーズ中でも特異なおもしろさで、また将棋を題材に描く以上避けては通れない題材を扱っている。この世の中、全ての人間は平等であると綺麗事がぬかされることもあるが"絶対的な才能"はある。奨励会には飛び抜けた才能のある子供たちが集まるが、その中からプロに成れるものは一握りである。それ以外のものは努力が不足していたのか? といえばそうではない。ただ、弱ければ勝てないのだ。

「奨励会は生き地獄だ。みんな命懸けで将棋を指してる。そんな中で自分だけが他人より努力してるなんて考えは、傲慢だと思わないか?」

才能がないのであれば仕方がないと諦めることができれば、大きな問題はないともいえる。将棋が好きなら、将棋と関わる人生なんかいくらでもあるわけだ。アマチュアとして好きに指してもよければ、周縁で仕事をしてもいい。解説や記者の仕事だってあるかもしれない。だが"勝負の世界"に行こうと思うのであれば、勝たなければ仕方がない。そこにこだわるしかない生き方をしてきてしまった人たちからすれば、自分の才能のなさとどうしようもなく過ぎていく時間は強烈な呪いとなって機能する。

それは言うまでもなくとてつもなく苦しいもので──、3巻ではその苦しみを無数の角度から描いている。才能がなくともあくまでも勝負の世界に泥臭くこだわるもの。周縁の世界での関わり方を模索するもの。才能がなければどうしたらいいのかを考え続け、誰よりも克己することで一流の才能と渡り合ってきたもの。才能がないものはその不在に苦しみ、才能のあるものはその力の制御にまた苦しむことになる。才能との付き合い方は、作品にこの後も引き続き流れ続けるテーマのひとつだ。

盤面からキャラクタが浮かび上がる

4巻は5巻への布石のような巻で(他にもいろいろあるけれど)、5巻では初の防衛戦が描かかれる。明確なモデルはいないとはいえ少ない描写やその佇まいは羽生善治さんを思い起こさせる、永世七冠がかかった竜王戦に挑む"名人"と、明らかに負けることを期待されている周囲のムードの中、戦わねばならぬ若干17才の八一くんの死闘。

"将棋は完全なゲームではない"とする冒頭の言葉からはじまり、途中で訪れるルールの穴をつく展開もさることながら、キャラクターが命のライトノベルでありながらもこれまで描写を徹底的に抑制されてきた"名人"の描き方が凄い。本シリーズにおいても名人以外は(元より将棋界には多い)奇抜なキャラクタが目白押しだが、名人は一環して雲の上の存在、超常的な存在として遠巻きに、どこか淡白に描かれてきた。

それは防衛戦がはじまっても変わることはない。主に焦点が当たるのはお互いの打ち筋。意外な手をうってくれば(名人以外の人々が)驚き、奇跡としか言いようがない手が現れれば(名人以外ry)賞賛し、対峙する八一くんはしょっちゅう追い詰められ、ただひたすらにゲロを吐きそうになる。だが、その勝負の一瞬の隙間で、ふっと名人の佇まいが描写される瞬間がある。名人は特別な造形のキャラクタではない、いわばただの歳をとったおっさんである。特徴的な語尾で喋るわけでもなければ何か名言を残すわけでもない──しかし──言ってしまえばひたすらに将棋へと立ち向かう、ただそれだけの姿勢が、淡々とした描写の中に浮かび上がり、壮絶に格好良く映る。

ある意味では"直接的に書かない"ことでキャラクタを引き出した──ただ将棋における盤面を進行させ、奇跡のような将棋の対話を描くことで逆説的に"それを打つことのできる"キャラクタの在り方を読者の中に浮かび上がらせてみせたからこそ、"佇まい"を描くだけでそのキャラクタが見事成立しえたのだろう。5巻には読みどころはいくらでもあるのだが、特にこの点については心底震え上がった。

シチュエーション的にもキャラクタの格としてもこれ以上のものがなかなか想定しづらいだけに、5巻以降をどう続けていくのか恐くもあり楽しみでもあるが、いまいちばん続刊を楽しみなライトノベル作品であるのは間違いない(枠をSFまで広げると他にいろいろはいってきてしまうので限定しておく)。

りゅうおうのおしごと! 5 小冊子付き限定版 (GA文庫)

りゅうおうのおしごと! 5 小冊子付き限定版 (GA文庫)

膨張し続ける地球、東京⇔大阪間5000キロ──『重力アルケミック』

SF

重力アルケミック (星海社FICTIONS)

重力アルケミック (星海社FICTIONS)

『横浜駅SF』で鮮烈なデビューを果たした柞刈湯葉さんの2作目である。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
読者としては、デビュー作がおもしろければおもしろいほどに2作目にドキドキしてしまうものだ。一発だけなら誤射かもしれない。全てを詰め込んだのが第1作で、後はその抜け殻かもしれない。そんな心配がある中、本書はまた前作とは随分違う方向性で同じぐらい楽しませてくれたので、安堵しながら賞賛した。これは本物だ。

さて、そんなわけで『重力アルケミック』である。前作のあとがきなどにより、地球が膨張してとにかく地面が余っている世界の話だとは知っていたので、最初こそ前作同様何らかの理由をつけて、そんな土地をだらだら旅をするおんなじような構造の話になるのかと思いきや、これがなんと大学生小説である。ぐうたらで金はなく、バイトをしたり女の子とどうやったら出会えるのかをぐだぐだ考える理系男子の話だ。

世界観とか

とはいえ、舞台は普通の地球ではないわけだから当然ただの大学生小説ではない。

会津若松市生まれの主人公である湯川くんが東京の大学に行こうとする場面から物語は始まるが、何しろ東京↔大阪間が5000キロもあるから気軽にいってきまーすかえりまーすという距離では全然ない。バスで何日もかかる。東京内部も膨張によって区画が分かれ、区と区の間にはなにもない荒野が広がっているらしい。きっと満員電車もないだろうから都市労働者のストレスはかなり軽減されていることだろう。

また、地球が膨張を続け距離が広がっている以外にいくつも我々の知る地球との相違点がある。まずこの重力アルケミック世界には重素*1と呼ばれる重力に関係する物質があり、航空機などは基本的にこれを使って飛んでいる。それゆえ、揚力を使って飛ぶ飛行機は可能性を確認されてはいるものの、実用可能な物は存在しないという段階である。そりゃ重素を用いれば確実に飛べるし、ずっと浮かばせられもするのだからそのほうがいいし、他の可能性が発展しなかったのもわかる。

また頻繁に膨張するためリレー波で情報を受け渡さなければならない。結果として東京から会津若松まで20分とかの通信時間がかかり、コンピュータこそ存在するもののパーソナルコンピュータはほぼ存在していないようだ。そのため作中のほんわかとした恋愛チックなやりとりはどこか昭和のような雰囲気で、これはこれで愉快な設定のひとつである(送った恥ずかしいメールが相手に届くまで30分かかるからその時間メールよ頼む消えてくれと悶え苦しんだりする)。

あらすじとか

とまあそんな世界で湯川くんは東京に行きたい一心で勉強をし、東京の大学──学科は重素工学科へと無事入学。入学した先でメガネ女子である宮原さん(学科に4人しか女子がいないから貴重な女子である)、ハーフ風の顔立ちでイケメン、後の親友篠崎らと出会い、割の良いバイトを探したり、音楽サークルの皮をかぶった政治系サークルに入ってみたり、夏休みには自転車で浜松まで行ってみようと冒険に出たりする。

東京で浜松ならそんな冒険でもないだろと思うかもしれないが何しろ膨張しているので彼らがいる豊島区からだと約3000キロもある。自転車でいくのはかなり無茶なような気がするが実際無茶なのでチャレンジして滅茶苦茶な目にあったりする。重素専門の学生でもあるから、この世界における重素の役割、その化学的な性質の描写なども合間合間に入り込み、この架空科学/化学、またその設定の導入によって世界の風景が一変してしまっている描写はSF好きとしてたまらないものだ。

 東京スカイツリーは、反重盤を使って上空1634メートルに浮遊している巨大な浮遊アンテナだ。2012年に打ち上げられて以来、都内の通信事情が劇的に改善されたらしい。通信衛星よりも地上に近いぶん通信料が大きく、何よりも地上と有線で接続されているというのが強い。近い将来にはネットでの映像配信さえも予定されているという。これでますます地方との情報格差が進むというわけだ。

国家間の行き来はもちろん都市間の行き来もどんどん減っており、パーソナルなコンピュータがないことも関係しているかもしれないが社会はひどく牧歌的だ。ただでさえ牧歌的な大学生活とあいまって(理系はそうでもないだろうが、重素工学科は比較的暇な部類である)、なんだかここで描かれていく日々はとても心地よくうつる。

ものづくり小説

そんなこの世界ならではの大学生活を書き連ねていくのかと思いきや、後半部で湯川くんは、親友の大出世、ほのかな恋、かつて構想された幻の理論書『飛行機理論』との出会いなどなどがきっかけとなって、この世界には未だ存在しない、エンジンで飛ぶ"飛行機"をつくろうと決意する。非効率は非効率。無謀も無謀。しかし"飛行機にはロマンがある"──その上、この世界においては実用性も大いにありえるのである。

流体シュミレータを駆使し、自分たちが入手可能な材料は何なのかを考え、エンジンを調達し、開発を進めていく中で細長いほどよい揚力を受けられると気がつき──と、泥臭く地道な実験の日々。しかしその泥臭さこそが研究といえるのだ。それまで誰も創ったことがない、ひょっとしたら世間をあっといわせられるかもしれない物がまさに今目の前で出来上がってくる感覚が、後半部では実によく表現されている。

おわりに

彼らが一生懸命つくっているものが、我々からすれば非常に原始的な飛行機なことにもおかしみを覚えるが、また独特な手触り(レトロなのに未知)に繋がっていて良い。理系男子の生態が現役生物学研究者の手によって描かれる大学生小説として、ものづくり(飛行機)小説として、また架空の現象によって変化した地球の描き込みっぷりはSF小説として素晴らしいので、琴線に触れる部分がある人にはオススメしたい。

*1:ちなみに第二次世界大戦中の重素の過剰摂取で地球の膨張ははじまったらしい。

2016年のベストSF──『SFが読みたい! 2017年版』

SFが読みたい! 2017年版

SFが読みたい! 2017年版

2016年のベストSFランキング本であるSFが読みたい2017年版が出た。海外篇も日本篇の結果も傾向がみてとれておもしろい結果なんじゃないかな。たとえば日本篇でいうと、なんとトップ10の中に早川書房の物が一冊も入っていない。これは大森さんいわく1998年以来の出来事だというけれども、状況は大きく違いますね。

日本篇の結果について

これは僕も出ている2010年代前期総括座談会の大森さんの発言の引用になるけれど、『九八年の「ベストSF」国内篇は、早川書房の本どころか、SFと謳って出た本が一冊もなかったけど、一六年は、『夢見る葦笛』『スペース金融道』『カメリ』みたいなど真ん中のSFが出てるし、《創元SF日本叢書》みたいな専門叢書もある。SFを出す会社が増えて、早川書房が特別な存在じゃなくなったという感じ』*1

というのがそのまんまだろうなあと。一方で単純に早川の本が入ってこなかったのは他所で出ていたものよりつまらないからってわけでもないと思うんだけれどもね(SFコンテスト受賞作の『ユートロニカのこちら側』や芝村裕吏さんの《セルフ・クラフト・ワールド》など個人的に10位以内に入っていても良かったんじゃないかなと思うし)。結果的だけみると、強い作家(上田早夕里さんや宮内悠介さん、円城塔さんとかとか)の他社からの刊行が続いた年だったとはいえるのかもしれない。

一位の上田早夕里『夢みる葦笛』はクォリティを考えれば納得の一位だが、それにしても長篇が強いランキングで短篇集が一位をとるのはすごい(海外篇一位もエリスン『死の鳥』なので長篇よりも短篇集の方が人気なのかと錯覚してしまいそうですらある)。個人的に一位と予測していた『スペース金融道』は二位で、奥泉光さんの『ビビビ・ビ・バップ』は三位ときた。これは読んでいなかったのでいま慌てて読んでいるのだけれども、たいへんおもしろいです。

SFを書く新人作家も(ランキング上位には入ってこなかったが)毎年SFコンテストのおかげで供給がある上に、大量にデビューするライトノベル勢に加え、今は小説家になろう、カクヨムなどのWeb媒体も強いことを考えるとやたらと豊富である。横浜駅SFは2017年のランキングでどこまで食い込むのか──などなど、楽しみな感じ。

海外篇の結果について

海外篇でいうと、『死の鳥』の1位を筆頭にティプトリー、ヴァンス、スラデック、とレジェンド級作家の名前が揃っている。2015年から続く、新訳、復刊、新版で作品を蘇らせるハヤカワ文庫補完計画の流れが続いているのもあるが、単純にそれ以外でもやたらと古くからある作品をあらためて訳そうという動きが続いている。

理由はよくわからないけれど、まあ名前のしれた作家の新訳、初訳はそこまで数が出るわけではないけれど安定して売れるのと、新しく掘り出した作家がなかなか売れないせいもあるのかな。実際今年も去年も本邦初紹介の作家は多くいるのに、どうにも人気は伸びない。ま、クォリティ的な問題も大きいけど(そこまでおもしろくないし、そもそも同傾向で日本の方が出来の良い作品が揃っていたりする)。

このまま新人作家の発掘が後手後手にまわっていって新訳、復刊、旧作の初訳ばっかりになっていったらそれはそれで厳しいものがあるよなと思うものの、その辺はまあ大丈夫でしょう(大丈夫だと思いたい)。ま、2016年もアン・レッキーやピーター・トライアスが出てきたので2017年も新旧合わせて楽しみにしたいところだ。なんといっても今年は幻の『ブルー・マーズ』も出るらしいし……。

このSFを読んで欲しい!

毎年楽しみなのだが、今年も楽しかった。

早川からは佐藤大輔の新刊が出ると聞いて、最初原稿を入手する能力持ちの編集者でもいるのかなと思ったら依頼から20年だという。そんだけ経っても書いてくれるというのが凄い。カルロ・ゼンさんの登場予定もすごい(こっちはそもそも依頼したのが偉い!)イーガン『シルトの梯子』、ケン・リュウ第二短篇集も楽しみ。

河出書房からはダグラス・アダムスの代表作のひとつ《ダーク・ジェントリー探偵事務所》シリーズが出るとか。うーん楽しみだな。ソローキンの長篇『テルリア』、アルジェリアの作家によるディストピア長篇など紹介されている作品すべてがおもしろそう。東京創元社からは巨大ロボットプロジェクトSF『眠れる星の巨人』、脳科学SF『アフターパーティ』、『無限の書』あたりは特に気になる。

今年は個人の予定ものせていて、2017年は神林長平先生の連載終了作が2つ本になるらしいのでそれだけで生きていける──がその上SFマガジンで久しぶりに火星を舞台にした新連載を構想中とかでこれまた素晴らしい。

おわりに

インフル直りたてて長い文章を書くだけの体力が回復していないので、まあこんなところで。2016年も面白い作品が大量に出たけれど、2017年はそれを上回りかねないよなあ……と思うのであった。

*1:そういえば実際に座談会のような形で大森さんと喋ってみると、文字起こししてそのまま原稿にできそうな感じで理路整然と語るのでただただ凄いなあと感動しました

若手作家見本市──『伊藤計劃トリビュート2』

SF

伊藤計劃トリビュート2 (ハヤカワ文庫JA)

伊藤計劃トリビュート2 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者: 草野原々,ぼくのりりっくのぼうよみ,柴田勝家,黒石迩守,伏見完,小川哲
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2017/01/24
  • メディア: 文庫
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『虐殺器官』、『ハーモニー』で名を轟かす伊藤計劃、その名を冠したアンソロジー第二弾である。ベテラン作家や新人作家、様々な年代の作家が混在していた伊藤計劃トリビュート1と比べ、今回の特色は(執筆時点では)全員が20代以下(ぼくのりりっくのぼうよみさんは10代)で若手新人作家が取り揃えられているところだろう。

テーマは引き続き"「テクノロジーが人間をどう変えていくか」という問いを内包したSFであること"。伊藤計劃を意識して書かれていない作品も多く(SFコンテスト特別賞を受賞した「最後にして最初のアイドル」、新作長篇の抜粋「ゲームの王国」など。これがなんと全ページ数の半分を占める)、相変わらず歪な構成のラインナップだが、単に"世代"で括れない多様なおもしろさを内包した作品集になっている。

今回、作品の発表経緯はともかく"伊藤計劃っぽさ"を期待して読んでも僕は大丈夫だと思ったが(要素が共通しているというか、伊藤計劃氏が好みそう/書きそうな要素が詰まっている)それを抜きにしても新人作家見本市としてそれぞれの魅力的な部分が抜き出されている。そいでは6篇しかないので1つ1つ紹介してみよう。

最後にして最初のアイドル/草野原々

第4回SFコンテストで特別賞を受賞した作品。著者コメントで「プロジェクトはプロジェクトでもスクールアイドルプロジェクトの方に大きな影響を受けている。」と書いているように、元々はラブライブ! の二次創作小説*1だった異色作だ。

一人の少女が最高のアイドルになるまでを描く話──といって間違いではない。冒頭こそ真っ当に生後六ヶ月でアイドルオタクとなった少女・古月みかが挫折も経験しながらアイドル目指して成長していく過程を描いていくが、挫折から立ち直れずに飛び降りで死亡してしまう。しかし、そこでアイドル道は終わりではなかった! 

死亡した古月みかの脳みそを、その狂信的な友人である新園眞織が回収。彼女は、いつか発展したテクノロジーによって古月みかを復活させる日がくると信じて脳を保存するのであった……。というところまで読むと(最初からかもしれないが)「め、滅茶苦茶だな……」と感想が湧いてくるがこんなものはまだまだ序の口である。

太陽の地場活動が急速に活発化し、なんやかやあって地球は壊滅的な状況に。地球文明がいかにして崩壊していったか、またそれに人類がどう抵抗したかを科学描写たっぷり盛り込んで軽やかに描きながら、古月みかは肉屋の廃棄物のようなグロテスクな形状で復活を果たす。抵抗むなしく消滅していく人類、人としての形を失ってもバージョンアップを重ねながら変化しあくまでも最高のアイドルを目指す古月みか。

最終的に物語は数千年の時を超え、宇宙の果て、他宇宙までを舞台とし、意識とは、知性とは、生命創造とは──と怒涛の語りと理屈をこねて成立させてみせる。元二次創作だろうがなんだろうがSFとして評価しないとあかんでしょと思わせるパワーのある作品だが、本書を立ち読みした人は本をそっと棚に戻してしまいそうだ。

最後にして最初のアイドル

最後にして最初のアイドル

guilty/ぼくのりりっくのぼうよみ

ラッパー、ボーカリストのぼくのりりっくのぼうよみさんによる初小説。小説として評価できるかといえば厳しく、抜き身のプロットと設定をそのまんま書いた/あるいは膨らませた歌詞みたいな内容。少なくとも終末的な世界の寂寂感は伝わってくるし、小説家というわけでもない著者の出自を考えるとこれはこれでいいのだろう。

雲南省スー族におけるVR技術の使用例/柴田勝家

民間信仰研究を行っている著者の背景を活かした、一生を仮想のVR世界で生きる中国南部の少数民族を中心においた文化人類学SFだ。果たしてこの少数民族は、一生を過ごすVR世界で何をみているのか。そもそも生活は(生身の身体はあるから、飯も睡眠もとらなくてはならない。食物はどこからきて、子供はどうやってつくるのか)成り立っているのかなどを調査レポートのような体裁で淡々と書き連ねていく。

最初は説得力を持ってフィクションとして描き出すのは無茶ではと思っていたが、精神世界についてや、精神医学的な解釈など細かいところまでつっこんで描写していく事で、架空の民族が立体的に浮かび上がってくる。本領発揮の一作といえる。

くすんだ言語/黒石迩守

ちゃんと本書のために書き下ろされた短篇にして、著者にとっては受賞後第一作目の作品。デビュー長篇は個人的に大ヒットしたし、大褒めだったけれども、この短篇を読んでこれはやっぱり本物だったぞ! とあらためて確信/安心した。
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脳の言語野に接続することで、異なる言葉を使う者同士でも普遍的な意思伝達を可能にする《コミュニケーター》。作中ではまだテスト段階だが、物語はその開発者を中心として、実験過程で出てきた不具合と、それがもたらす悲劇を描いていく。

 シリコン繊維のメッシュ上に並列化されたナノコンのクラスタを、電算する疑似神経として脳に注入し、デバイス化する。両耳の後ろにインプラントされた直径一ミリほどの譚舞うが、アクセサリ型のウェアラブルコンピュータと脳活動の情報を送受信し、有機的なコンピュータである脳と、機械的なノイマン型コンピュータを結線する装置。それが《ニューロワーアード》だ。

と、ハードウェア的な描写もきっちりとこなしてみせ、『中間言語は《コミュニケーター》開発の当初から想定されていた副作用だ。習得していない言語を理解するという不自然な脳の作用が、母語と外国語の間を埋めるために作りだす抽象化された言語。』といった架空の現象の理屈も設定マニア的にはワクワクさせられる。オチ、またそこにいたる経路(ここは多少強引だが)まで含めスマートな一作で大満足!

あるいは呼吸する墓標/伏見完

体内医療環境が充実し、自発呼吸がとまろうが心臓がとまろうが、分子機械が補い、死を引き延ばしてくれる未来。それがもたらすのは、無限の生のような輝かしいものではなく、生と死の中間地帯のような、重く苦しいものだ。「死んでいるわけではない」というに過ぎない状態と、人はどう向き合っていくべきなのか。

その虚しさと共に描かれるのは、体内で機能するAReNAというシステムへの必然的な問い──機能の欠損を補っていってくれるというのであれば、脳は、意識の欠損はどうなのか。著者は前巻にも寄稿していたが、こちらの方がぐっと迫力が増しているように思う。「有限の資源とどう向き合っていくべきか」と、その計算資源の在処を問うている点については、前巻掲載短篇との繋がりも色濃い。

ゲームの王国/小川哲

本書全体の約半分(200p)を占める、長篇の冒頭(だか一部抜粋)である。

著者は『ユートロニカのこちら側』からして第一作とは思えない高い完成度を誇っていたけれども、この中篇は十何年か書き続けた後の渾身の一作のような密度と凄みでたまげてしまった。主に舞台となるのはカンボジア内戦前夜からカンボジア内戦。警察は平然と事実を捻じ曲げ、自分たちの好き勝手なな結論を導き出す。郵便物は郵便局員によって開封され、賄賂が横行し、国からはルール/秩序が失われている。

現実は複雑で、理不尽で、ゲームのようにすっきりと整理されたルールなんか存在しないのだ──。それをがっつり体験させるかのように、陰惨なカンボジアを共産党員、無実の嫌疑で拷問を受ける人々など無数の人間を通して描写しながら、真実を見抜くことができるポル・ポトの娘、極度に理性的な突然変異の男児ムイタッタを主軸とし"ルールそのものをひっくり返す/つくりかえる"革命の物語を描きだしていく。

3月に刊行を予定している長篇版をめちゃくちゃ楽しみにさせる出来だ*2

おわりに

それぞれ違った方向の短篇で、今後が楽しみになる作家ばかり。6人中5人がSFコンテストからの発掘であることを考えると、コンテストが仮に復活していなかったら今の日本SFシーンは大きく違った、少し寂しいものになっていただろうなあ。
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*1:受賞した作品はその改稿版

*2:編集氏によると、掲載分にはほぼみあたらなかったSF要素も今後出るらしい⇛https://twitter.com/kokumurak/status/820959440253767682

自然そのものの概念をもたらした男──『フンボルトの冒険―自然という<生命の網>の発明』

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フンボルトの冒険―自然という<生命の網>の発明

フンボルトの冒険―自然という<生命の網>の発明

本書は19世紀前半を代表する科学者フンボルトの伝記である。

偉大な科学者として讃えられ、「新世界の発見者」、「科学会のシェイクスピア」、「大洪水以来の偉人」、「ダーウィン以前のダーウィン主義者」などさまざまな栄光ある呼び名が存在する。ナポレオンに次いで有名と言われ、幾人もの同時代人──ゲーテもダーウィンも深く尊敬を表明している、一種の偉人/超人といえる。

実際、読み始めてみればその偉大さは疑うべくもない。彼がすべてが関連し合った、ひとつながりの「自然」を発見した。彼以前には植生帯や気候帯という概念すら存在しなかった。天気図に描かれている等温線を考案し、磁気赤道を発見した。人間による森林伐採などが大気に影響を与える影響を指摘したはじめての科学者だった。

彼が南北アメリカへの冒険で集めた標本のうち、2千種はヨーロッパの植物学者にとって未知のものだった(それまでに知られていた種は6千である)。そうした単純な実績からいってもそうだし、衰えることのない知的好奇心に執筆欲、研究欲、冒険心。破天荒な行動など、その行動のすべてがやたらと破天荒で魅力的だ。

フンボルトによる自然観への革命は後の科学者たちの発想の元となり、後世への影響も途方もなく大きい。ダーウィンに至っては彼の本を読まなかったらビーグル号の旅に出ることはなく、『種の起源』を書くこともなかっただろうといっているのだ。

なぜ偉大な科学者は忘れ去られてしまったのか

しかし、それほどの名声を残しながらも、フンボルトが実際に何を行ったかまでは詳しく知らなかった人もいるのではないだろうか(実は僕もそうである)。知名度はともかく、その業績が忘れられているのは英語圏でも同様のようで、エピローグは『アレクサンダー・フォン・フンボルトは、英語圏ではほぼ忘れ去られている。』という書き出しで始まるぐらい。なぜ、偉大な科学者は忘れ去られてしまったのだろうか?

その仮説として本書があげているもののひとつには、芸術、歴史、詩、科学データとさまざまな分野の情報や手法を統合し論を構築していく彼の方法論が、当時の流れとあわなかったこと。また気候や生物といったすべての物が関連しあって一つの自然をつくりあげているとする、今では当たり前となった自然観こそを彼が切り開いたために、その偉大さがわからなくなってしまっていることなどをあげている。

まあ、たしかに我々にとって自然とは自然であり、地球温暖化だなんだといってどこかで起こった行動や変化が地球全体の自然に影響をあたえることは当たり前となってしまって、わざわざそれを論じる際にフンボルトの名前を出したりはしない。進化論と違って、フンボルトの自然観などと呼びはしないのだ。本書はそんな忘れられてしまったフンボルトを再評価するようにして、丁寧にぞの功績を辿り直してみせる。

彼に続くもの達の功績

フンボルトの功績は自身が達成したものに加えて、彼の功績の後に続いた人々によっても測られるべきだろう。なぜなら、彼の後に多くの者が続くことができたのも、彼が自然絵で精確な情報を残し、客観的なデータを集め、気温や温度の関連を調べたりといった当時誰も試していなかった手法を用いていたことに関連しているのだから。

 この科学的情報の多彩さ、豊かさ、そして単純さは前例がなかった。フンボルト以前にこのようなデータを可視化した人は誰一人いなかったのだ。それは自然が各大陸に分布する気候帯を持つ地球規模の力であることをはじめて示した。フンボルトは「多様性に一体性」を見たのだ。植物を分類学上のカテゴリーに分類するのではなく、植生を気候と位置というレンズをとおして見たのである。このいたって斬新なアイデアが、こんにちの私たちの生態系に対する理解をかたちづくってきたのだ。

おわりに

そうした成果のひとつひとつを単純におっていくだけでも抜群におもしろい本書だが、なにしろフンボルト自身がいかしている。自然を相対的なものとして、力と相互作用のネットワークとして理解したいという衝動には終わりと限界がない。あらゆる場所のあらゆるものの情報が必要となるし、若き頃のフンボルトはまるで暴走機関車のごとく各地へと突撃し、必要なら自分の身体を実験体とするのもためらわない。

多くの偉人にその傾向があるとはいえ、フィクションの登場人物のような異常性である。科学者の伝記好きにはもちろん(この趣味の人はそんなに多くなさそうだけど……)、「自然」観の来歴を辿るノンフィクションとしてもオススメできる一冊である。訳のレベルも高いし装丁も素晴らしくて本としての完成度が高いのも良い。